「意見書」
第V章 ハンセン病患者の隔離収容される経緯とその意味
【要旨】戦前、日本の植民地は、天皇制の下で日本政府が統治し、政府が施策および施政を行なった。植民地下朝鮮のハンセン病施策・施行も同様である。一九三五年四月二〇日の「朝鮮癩予防令」の公布及び、この制令に基づいて制定された府令「朝鮮癩予防令施行規則」施行は「癩の根絶」の名のもとに、朝鮮のハンセン病患者を終生隔離するための絶対隔離政策の遂行を意図したものであった。そのことを、小鹿島更生園に関して、当時出された「行政資料」などで立証することを第V章、第W章は主目的とする。その際、日本国内で展開されていった「ハンセン病政策とその施行」とも関連させて叙述していこうと思う。
第一節 日本国内と植民地下朝鮮のハンセン病に関する諸施策
第一項 「朝鮮癩予防令」の公布と、この制令に基づいて府令「朝鮮癩予防令施行規則」
日本は朝鮮を植民地化した翌年の一九一一年三月二四日に、「朝鮮に施行すべき法令に関する法律」(法律第三〇号)を天皇の名と印、内閣総理大臣桂太郎の名の下に公布し、朝鮮にのみ適用される法令は制令によって定めることにした。
日本国内で一九三一年四月二日に制定された「癩予防令 法律第五十八号」と同じく、朝鮮でも、一九三五年四月二〇日に朝鮮総督・宇垣一成の名で「朝鮮癩予防令」が公布され、同年六月一日に施行された。この「制令」で公布・施行された法律は、一九一一年の「法律第三〇号」第一条及び第二条により勅裁を得て公布された法律に依拠している。日本国内の「癩予防法」が公布より四年間遅れて一九三五年四月に「朝鮮癩予防令」が公布・制定されたのは、朝鮮においてハンセン病患者の収容する施設ができていなかったからに過ぎない。この「制令」に基づいて朝鮮総督府は、「府令」として三五年四月二〇日に「朝鮮癩予防令施行規則」が定め、同年六月一日より施行された。「朝鮮癩予防令」も「同施行規則」も、日本国内のものと比較すると条文の上で若干の相違はあるが、基本的には同一趣旨の法律であり、ともに「国策としてハンセン病患者の絶対隔離終身収容」を意図した法律ということができよう。
朝鮮総督府によって、全羅南道小鹿島に慈恵医院がつくられるのは、一九一六年である(三四年に小鹿島更正園と改称)。ここ全羅南道小鹿島では、最大時では約六〇〇〇人のハンセン病患者を収容し、敗戦まで国立のハンセン病の療養所として存続していた。現在入所している七〇〇人余のうち、約一一〇人余が日本統治下で隔離収容された人々であり、いまなお国立小鹿島病院の施設で生活している。
第二項 朝鮮総督及び、皇太后節子侍医・西川義方の小鹿島の訪問
【その一】
朝鮮総督のうち、第三代総督・斉藤実(一九二二年一一月小鹿島を訪問)、第六代総督・宇垣一成(一九三五年六月小鹿島訪問)、第七代総督・南次郎の三提督は、朝鮮ハンセン病療養所のある小鹿島を訪問している。朝鮮総督・南次郎が、小鹿島更生園を訪問したのは、一九三八年八月一五・一六の両日のことである。その時の様子を小鹿島更生園『昭和十三年年報』は「南朝鮮総督ノ来園」として、つぎのように書いている。
「自動車にて病舎地帯の視察に入り‥‥患者売店等を順次視察し、中央運動場に到着、同所に集合せる患者三千七百余名に対し園長の紹介に次で左記趣旨の訓示ありたり。
『園長より紹介の南大将である、(中略)総督も園長も悉く 天皇陛下の赤子である、此処にならんで居る諸子も我等も等しく 天皇陛下の赤子である故に総督も諸子も日本臣民たることに差別なし従つて諸子の病気については 陛下
におかせられても我等も我等の兄弟姉妹が病気になったと同じく同情する、今回の事変について諸子が表はしたる赤誠、たとへば戦地の兵士より多くのものを食することはいかぬと一日六合を五合五勺に減らすことを願出たる如きその表はれである、又何か御国のために尽したいと貯金を出し労力を以て灯台を作りたることは日本国民精神の表はれである、(中略)諸子も亦日本臣民たることを精神上の目標として喜びとして更生園の指導に従へ、』」。
(小鹿島更生園『昭和十三年年年報』より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、三頁。資料一、九頁に収録)。
【その二】
皇太后節子の侍医・西川義方は、一九四〇年九月、小鹿島において四千五百名の患者を前に、次のような訓話をしている。
「皆さん。皇国臣民として、御互に、茲に、相会ふことの出来ましたことは、私には、いつまでも忘れられない喜びであります。(中略)このよきところ、よき時に、皇国臣民としての幸福と栄誉とに浸りつゝ、心と心との誠を照し合せて〜」。
(西川義方著「朝鮮小鹿島更生園を通して観たる朝鮮の救癩事業」二二頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料八二、三三〇頁に収録)。
第三項 内務省が召集した「官公立癩療養所長会議」
内務省が召集した「官公立癩療養所長会議」(一九三六年一〇月一、二日に内務省会議室で開催)には、国内の官公立癩療養所長と共に、朝鮮小鹿島更生園長・周防正季、台湾楽生院長・上川豊、南洋庁サイパン医院長・藤井秀旭が出席し、内務省衛生局長も、これらの施設長からの意見聴取などを受けている。
(「所長会議々事録」、昭和十一年十月一、二日より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料六九、二六〇〜二七七頁を参照のこと)。
第四項 大阪府からの一九名ハンセン病患者の「小鹿島施設」へ転送
一九三八年六月二八日付けの『京城日報』や『東亜日報』は、同年の六月二六日朝、釜山港に入港した臨時連絡船で、大阪府から追放された「老若とりまぜ」た一九名の朝鮮人「癩病患者」が、護送付きで送還されたことを報じている。釜山水上警察署は、消毒その他大騒ぎののち、朝鮮汽船の所有船である豊南丸を借切って、署員四名が付き添い一九名全員を小鹿島に送ったという。
一九三八年六月二六日といえば、室戸台風で壊滅した第三区府県立外島保養院が岡山県の長島に光明園として開園している。開園式はその年の四月に挙行され、六月二〇日から「委託者」の帰園が始まっているのである。大阪で生活する在日朝鮮人のハンセン病を罹病した人たちであれば、当然、光明園に入所させられるのが、当時の原則であったはずである。それが何故に一九名の大阪在住の朝鮮人ハンセン病患者を大阪府当局は、護送付きで釜山港に送還させ、釜山港を経て小鹿島に送ったのだろうか。この疑問を解くため、わたしは現在の国立小鹿島病院の関係者に問い合わせたが、一九三八年六月二六日付けで一九名もの療養所入所者には書類や名簿などには書かれていないという。
一九三八年といえば、日中全面戦争の発端とまった廬溝橋事件が起きた翌年のことである。当時、ハンセン病療養所では国内及び植民地で唯一、小鹿島更生園のみが刑務所をもっていた。一九三五年一月一七日の『東亜日報』や『中央日報』の記述をみれば、「ムンドゥン病患者(ハンセン病患者=滝尾)専門の病棟刑務所新設」とか、「病棟刑務所新設、癩患者の楽園の小鹿島に」といった見出しが書かれている。この警務所の新建費三万七千五百円は、朝鮮癩予防協会が支出して延三九九坪余を建設し、総督府に寄附した上で、法務局は、これを光州刑務所小鹿島支所として設置している(滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料二四、二七八〜九頁に収録)。看守長一名、看守九名の職員を配置し、収容人員は五十名で、同年四月に起工している。
国内では、栗生楽泉園に重監房「特別病室」が設置されたのは、一九三八年一二月一一日である。一九三六年一〇月一日の「所長会議」に提出された「癩療養所監禁室調」によると、監禁室を設置しているのは、国内では、長島愛生園や星塚敬愛園など計六園で、これらの療養所には一棟の監禁室があり、一棟の坪数は十六〜
二十七坪程度である。「一網打尽にされた人たち」つまり、ハンセン病に罹病した一九名もの在日朝鮮人の収
容先は刑務所をもっていた小鹿島更生園だと、当局関係者は考えたに違いない。療養ではなく処罰収容である。(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、「解説」一〜二頁を参照のこと)。
ハンセン病政策における国内と植民地朝鮮との関連をこの事件にみるのは、著者の思い過ごしであろうか。「比較的軽症と認められる被疑者朴春道以下五人の身柄は、四月七日と三〇日の二回に分けて朝鮮釜山警察署へ引渡した。被疑者朴龍奉以下一〇人は、岡山県長島らい療養所へ、被疑者沈命元以下二二人は、朝鮮小鹿島らい療養所へそれぞれ送致収容した」と大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史』は記述されている。
小鹿島病院には、日本統治下に小鹿島へ隔離収容され、いまもこの島で生活している人が約一一〇名いる(二〇〇四年一月末現在)。「大阪から一九名小鹿島へ転送」された一九三八年六月以前から小鹿島へおられる老人は、約三〇名であるという(二〇〇二年一月二六日現在)。
「癩患十九名、大阪から押送(見出し)【釜山】廿六日朝入港の臨時関釜連絡船で大阪から十九名の癩病患者、四名のモヒ中毒の重症患者が護衛付で押送されて来た、殊に癩病患者は老若とりまぜ大部分がドロドロの者で病気を楯に強請、窃盗、掻払ひを常習としてゐた連中であるが突然の送還に面喰つた水上署では道衛生課から高田警部補も応援に駆けつけ消毒その他大騒ぎの後、朝鮮汽船の豊南丸を借切つて署員四名が付き添ひ全南小鹿島の療養所へ向け午前十一時出発させた」(一九三八年六月二八日付け『京城日報』より。滝尾英二編『資料集成』第5巻・新聞資料編、二七七頁に収録)。
「大阪在住の労働者のうち癩患者の一団を送還、釜山水上署小鹿島に転送(見出し)【釜山】去る二十六日朝、釜山に入港した臨時連絡船により、癩病患者十九人とモルヒネ中毒患者四人など二十三人が、大阪府から追放の厳命を受けて、釜山水上警察署に送還されてきた。彼らは他人があまり近づきたがらない病気にかかっているうえ、窃盗・暴行などの凶悪な行動で大阪の町中を横行しているところを、先ころ一網打尽にされた人たちである。同釜山水上署では同日午前十一時半に、朝鮮汽船の所有汽船である豊南丸を借り、全員を癩患者の楽園である小鹿島に送った」(一九三八年六月二八日付け『東亜日報』より。滝尾英二編『資料集成』第5巻・新聞資料編、二七七頁に収録)。
この大阪府から追放された朝鮮人「癩病患者」が、護送付きで送還されたことについては、大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史』全三巻、大阪府警察本部発行(一九七〇年〜)にみも、詳述されている。その第2巻(一九七二年一一月発行)の七七〇〜七七七頁には、「七 らい患者窃盗団事件」という項があり、そのなかで、さきに述べた『「判決起訴猶予」された「らい患者」三九名中、二二名を朝鮮小鹿島療養所に収容、五名を朝鮮返還釜山水上署へ引渡、一〇名を岡山県長島療養所に収容』との記載がある。
『大阪府警察史』第2巻「七 らい患者窃盗団事件」の記述をもう少し詳しく、以下に紹介してみよう。この『大阪府警察史』の記載が、ハンセン病患者に対する予見と偏見に満ちたものであることを、充分に理解した上で読んでいただきたいと思う。
「らい患者を含む鄭石大ほか六三人は、昭和一一年一〇月ごろから大阪・京都・奈良・兵庫の各府県下において集団または単独で『更け』、『かっぱらい』などの窃盗を重ねてきた。その盗品は、賍物故買者松木松太郎ほか二七人に売却処分をしていた事件である。
発生日時 昭和一一年一〇月ごろから
発生場所 大阪・京都・奈良・兵庫の各府県下(中略)
検 挙 昭和一三年二月一五日から五月二二日
検挙場所 大阪市住吉区西住之江町七丁目二五三番地
大阪市西成区梅通六丁目二番地
(中略)
らい患者で窃盗を常習としている者には、前記患者のほか住吉署管内西住之江町七丁目大和川堤防下に居住する一味約三〇人の朝鮮人らい患者がいたが、このグループも前記高味博中一味と同様窃盗を重ねていた。(中略)所轄住吉署におけるらい被疑者の取扱い状況は、非現行犯事件を聞込んでもこれを検挙せず、たとえ現行犯を検挙した場合でもらい患者と判明すれば直ちに釈放していた。(中略)所轄住吉署では、いまこの機会を逸すれば、強盗・強かん・殺人など凶悪犯罪にまで発展する恐れがあるとして、本部刑事課の応援を得て一斉検挙にふみきった。(中略)
一三年二月一七日午前五時、検察隊三四人は予防衣・ゴム長靴・ゴム手袋を着用し、『マスク』を用いて住吉区西住之江町七丁目大山仙吉こと鄭責大以下二八人の一斉検挙を行なった。これとともに呉服反物、雑貨類および自転車など多数の賍品を押収した。(中略)今回は防疫施設を施し取調べが開始された。(応急施設のため二三日夜、被疑者崔朔仏以下一一人は仮留置場を破り逃走したが、直ちに非常警戒を行ない逮捕)。(中略)また、ハンストをする者も出たが、これに対しブドウ糖の注射をして取調べを続行したので、留置三〇日目ぐらいから彼らもようやく犯行の一部を自供しはじめた。(中略)
留置場および取調所における被疑者取扱いについては、衛生課から派遣された技術員に消毒方法の指示を受けた。取調官と看守は予防衣・ゴム長靴・ゴム手袋・「マスク」を用い、消毒薬には石炭酸を使い、取調べ前には被疑者の全身を消毒し、取調べ後は取調官の全身を消毒した。調書作成では、使用する筆、墨を被疑者用としてあつらえ、被疑者がつめ印を押す場合は、十分な消毒をしたあと押捺させるようにした。
また被疑者の排泄物は、生石灰を投入した石油あきかんを用い、さらに生石灰を投入して衛生組合人夫に廃棄させた。(中略)
被疑者大山こと鄭責大は、昭和二年四月内地に渡航、山口県下や福井県下で土夫をしているうち、八年一二月ごろ発病した。その後来阪して九年五月大阪市西淀川区にあった外島保養院に入院、つづいて一〇月以降岡山県の長島らい療養所や東京の目黒らい療養所に入所した。
一一年五月同所を出て来阪し、市内を徘徊するうち九月ごろから、店頭の自転車をかっぱらうことに興味を覚え、大和川堤防下に掘立小屋を建て、ここを本拠に窃盗を重ねるようになった。
鄭は朝鮮の知人に通信して、らい患者で仕事(窃盗)のできる者に来日するよう呼び寄せ、また訪れるらい患者を宿泊させるなどの方法で、被疑者沈命元以下二七人の窃盗集団を作っていたものである。(中略)
主犯と認められた鄭責大、朴小栄、韓径秀および高味博中の四名は、起訴意見をつけ送検することとし、他のらい患者窃盗被疑者は賍物故買犯処分の関係上、十分な取調べを行ない調書を作成のうえ書類送検すた。
また比較的軽症と認められる被疑者朴春道以下五人の身柄は、四月七日と三〇日の二回に分けて朝鮮釜山警察署へ引渡した。被疑者朴龍奉以下一〇人は、岡山県長島らい療養所へ、被疑者沈命元以下二二人は、朝鮮小鹿島らい療養所へそれぞれ送致収容した。(下略)」(『大阪府警察史』第二巻、七七〇〜七七六頁)。
なお同書には、「検挙らい患者および非らい患者処分結果表」と「付記」四項が掲載している。その内、
「付記」の第四項には「患者にして、らい病予防法施行細則第二条に掲ぐる業務に従事する者あるときは、禁止処分の手続をとること。」とある。ちなみに、「癩予防法施行規則」第二条には、「癩患者にして病毒伝播の虞あるもの云々」と書かれている。その患者の「業務に従事する者あるときは、禁止処分の手続をとること」を付記しているのである。
この事件については、ハンセン病小鹿島更生園補償請求弁護団編『旧日本統治下のハンセン病―ソロクト問題資料』(二〇〇四年二月)の中で、小鹿島更生園入所者請求人ら代理人である国宗直子弁護士が、厚生労働大臣・坂口力宛てた「小鹿島更生園入所者の補償金受給資格について(二〇〇四年一月三〇日付)」の中で、つぎのように述べている。
『一九三八年(昭和一三年)六月二八日付京城日報によれば、同年六月二六日に、大阪府から追放された一九名の朝鮮人「らい病患者」が護送付きで送還され、小鹿島更生園に収容されたことが認められるからである(滝尾・前掲書四巻一頁、五巻二七七頁)。
「旧らい予防法」第三条は、「癩予防上必要あるときは、国立療養所に入所せしむべし」と定めているのであるから、小鹿島更生園が同条にいう国立療養所でなければ、このような送還措置がなされるはずがないからである』(一三頁より)。
小鹿島更生園入所者請求人の代理人・国宗直子弁護士のこの見解は、適切であると筆者は考えている。
第五項 内鮮新興二国立癩療養所の開園を祝福す(長島愛生園長・光田健輔)
「朝鮮併合の始め衛生事業の未だ混沌たるときに於て已に癩療養所は光州、大邱、釜山に於て英米の宣教師によりて始められ、全羅南北道の患者は光州に慶尚南北道の患者は釜山・大邱に集中し、三個の療養所は各六百人内外の患者を収容するの外、其附近の収容に漏れたる患者は屯集して部落を形成するに至つた。此等の患者が市街に乞食し、見るに忍びざる状態に立ち至たるは内外の有志をして憂慮に堪へざらしめた事であつた。然るに総督府慈恵院は明治大帝の特別なる御下賜金により大正六年全羅南道小鹿島に創立せられたが始めは僅かに百人の収容規模を有するに過ぎなかつたが花井院長の努力により漸く七百五十人に達した。けれども朝鮮十三道の癩患者一万二千人のものに対しては余りにも貧弱なるものであつた。今回の拡張によりて充実するときは公私療養所を加へ五千八百名の癩者に衣食住を与へ得る役割にして、内地の療養所が二十七年を閲して漸く公私療養所合計五千八百名の収容力を有するに過ぎざるに比し大なる成功と謂はざるを得ない。朝鮮の成効を祝福すると同時に此れに導きたる西亀課長の功労を謝し、大正四年十土地撰定の任に與かりたる芳賀軍医監が朝鮮の南端気候温和にして水量豊富陸地に近かき本島に決定したる勇断を感謝し、隠れたる功労者として伊藤総監寺内総督の衛生顧問として癩の隔離を創唱したる故山根正次氏を追懐するを禁ずる能はず。爾来朝鮮の癩予防は被動的より能動的に回転し内地の予防事業と轡を并べて進むであらう、而して此の如き偉大なる進歩は上皇室の御仁慈の博大なる結果であると感謝するものである。」(「内鮮新興二国立癩療養所の開園を祝福す」、長島愛生園長・光田健輔、『愛生』一九三五年一〇月、二頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料五五、二〇七頁に収録)。
第六項 宮古南静園を「隔離収容の場とし、患者の自由を奪った」園長・多田景義の経歴
(多田景義宮古南静園長は、一九三五年一月十六日に朝鮮総督府癩療養所医官に任じられて、小鹿島更生園長・周防正季の下で働く「小鹿島更生園医務課長」だった。その間二年六ヶ月、小鹿島更生園に勤務し、一九三八年七月一八日付けで、宮古南静園長に配置替えになった。多田が小鹿島更生園に在任の時期は、第一期拡張工事が完結し、第二期拡張工事が始められていた。夫婦患者別居を改め、断種を条件を許可したのも、小鹿島キリスト教会の矢田文一郎牧師を園当局が追放したのもこの時期である。)
@ 昭和八年十一月二十二日
全羅南道済州医院長ヲ命ス 朝鮮道医院医官 多田景義
(『朝鮮総督府官報』第二〇六七号、昭和八年十一月二十九日による)。
A 昭和八年十二月三十一日 朝鮮道医院医官 多田景義 八級俸下賜
(『朝鮮総督府官報』号外、昭和八年十二月三十一日による)。
B 昭和十年一月十六日
任朝鮮総督府癩療養所医官
正七位
多田景義
叙高等官六等。八級俸下賜 朝鮮総督府癩療養所医官 多田景義
(『朝鮮総督府官報』第二四〇五号、昭和十年一月二十一日による)。
C 昭和十三年七月六日
正六位 多田景義 叙勲六等 授瑞宝章
(『朝鮮総督府官報』第三四五〇号、昭和十三年七月十八日による)。
D
昭和十三年七月十八日 任
地方技師 朝鮮総督府癩療養所医官
正六位勲六等
多田景義 高等官四等
(『朝鮮総督府官報』第三四五四号、昭和十三年七月二十二日による)。
小鹿島更生園医務課長・多田景義が、宮古南静園長に転勤するのは、一九三八年七月一八日である。(多田景義が園長として宮古に着任したのは、辞令より遅れて、同年八月二〇日である。)
国立療養所宮古南静園・宮古南静園自治会発行『宮古南静園開園五十周年記念誌』(一九八二年四月発行)によれば、多田景義が宮古南静園長として小鹿島更生園と同様に、患者に対して人権無視・非人間的行為をしたことの数々が書かれてある。(『三十周年誌』によれば、一九三九年七月には朴福順が小鹿島更生園から看護婦長として宮古南静園に就任している)。
『宮古南静園開園五十周年記念誌』の一〇〜一二ページには、つぎのような記述がなされている。
家坂所長の辞任に伴い、その後任として韓国ハンセン氏病療養所小鹿島更生園の医務課長多田景義が
昭和一三年八月二〇日所長に着任した。長身痩躯、けたはずれの長い顔が印象的な人であった。所長の渾名を馬づらと呼ぶ者もいたくらいである。新しい所長に対する入所者の期待は大きいものがあったが反面不安もあった。不安というのは小鹿島の患者を三等国民扱いにしたのと同じように、宮古療養所の患者に対しても官僚的な態度を示すかどうかという事であったが、入所者の危惧は不幸にも適中した。(中略)
多田園長は終戦直後の昭和二一年一月に退職するまでの七ヵ年間、「入園者をきびしく取締る」ことを鉄則として就任早々から「無断外出取締り」を強化した。またいろいろな問題が起った際、園長の命令には絶対服従を強制し、従わない者は処罰をするという方針をとった。(中略)かって家坂所長は、政府当局より「宮古療養所内にも監禁室を建てるように」との指示を受けたが、日頃「人の和」を信条とする家坂前所長は、「私の在任中、所内に鉄条網を張らず、監禁室も造らない」と主張してその通り実行した。
多田園長は家坂所長のとった方針を引継ぐどころか、「百害あって一利なし」と一笑に付し、園の境界線に鉄条網をめぐらし、その上頑丈な監禁室を造った。(瓦屋根鉄筋コンクリート二〇坪、昭和一七年完成)。この監禁室こそ南静園の残酷史の主役?ともいうべき存在である。
<注>監禁室ができるまでの間、処罰を受けた者は寮の空き部屋に手錠をかけられて放りこまれた。
(中略)入園者に対する取締りは戦争中に入って一段ときびしくなった。殊に昭和一八年から一九年ころにかけて、園外にいた長期帰省者や未収容者を軍部が強制収用したことにより、患者の出入が頻繁になって、園内の空気も一層緊迫し、一寸した事でも有無を言わせず監禁室に入れた。中には一年近くも入れられたまま空襲の最中にも出して貰えず、翌年二〇年二月に獄死した者もいた(特集記事参照)。入園者に対する多田園長の態度は冷酷で弾圧の手を少しも弛めず、むしろその事を楽しんでいるように思える程であった。
家坂前所長が手塩をかけて育てた甦生会に対しても公然と「キリスト教は日本の国体に合わない宗教である」と批判したり、西本願寺より一僧侶を「精神訓話」担当の職員として迎え、また葬儀の際に用いるようにと全入園者に死者を弔う経文を一冊ずつ配布するなど、甦生会に圧力をかけた。入園者を非人間扱いにし、園内における宗教の自由すいら認めないような発言をした園長に対する不満は頂点に達していた。
(家坂幸三郎は、光田健輔と同時代で二歳年下である。光田の絶対隔離論には正反対の立場をとる。メソジスト系のクリスチャン。初代の宮古南静園所長として在職中の四年一〇ヶ月間、療養所の周囲に鉄条網を張らず、監禁室を造らず、入所者からは慈父のように慕われたという=滝尾)
ハンセン病療養所小鹿島更生園医務課長の多田景義が宮古療養所長となり、同所で行なった行為は、まさに小鹿島更生園の状況を彷彿とさせる。植民地朝鮮下の「国立癩療養所・小鹿島更生園」でも「宮古療養所」と同様な収容患者に対する人権蹂躙の実態があり、あるいはそれを上回る過酷なものであった。日本統治下に植民地朝鮮下の国立癩療養所である小鹿島更生園に入所した人たちには、二〇〇一年六月に成立した「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給に関する法律」(以下『補償法』という)が、なにゆえ適用されないというのだろうか。
第W章 強制隔離収容の施策と施行 〜ハンセン病患者の小鹿島更生園への途〜
【要旨】植民地以前の朝鮮では、ハンセン病の患者は放置されていた。それを救ったのが朝鮮総督府であり、「日本の近代医学、医療である」という誤った認識をいまだに持つ者がいる。その代表的な冊子が友邦シリーズ・第九号『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』(一九六七年一〇月発行)である。
その冒頭には、「本題『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』は、その人間愛と規模の雄大さにおいて世界の視聴をあつめ、わが朝鮮統治の本質を表徴する善政として讃えられた、総督統治の誇るべき偉業である」という記述がある。本章は、この冊子の記述がいかに欺瞞的内容で誤ったものかを、具体的な歴史事実を通して明らかにするために書いたものである。
第一節
植民地下朝鮮のハンセン病患者数と総督府の患者の管理・支配
第一の問題点
朝鮮総督府警務局編・発行『朝鮮警察の概況』一九二六年八月の第二十五章・伝染病及地方病の章の「癩」項目には、つぎのように書いている(この資料は、滝尾英二編『〜資料集成』全8巻、不二出版発行には、未収録である。また、傍線は滝尾が付した)。
「癩 は朝鮮に於て特に掲くへき特殊伝染病にして而も該患者逐年増加の傾向を示し、現在其の数警察官の戸口調査其の他簡単なる調査に依る者のみにしても約一万五千人を以て数へられ、若し医学的調査を為さんか驚くへき数に達せんこと想像に難らす、然るに該患者療養の施設としては只僅かに全羅南道小鹿島の慈恵医院ありて目下百五十名内外の患者を収容するの外、外人経営に係る釜山、大邱、光州の各療養所を合して約一千人内外を収容するに限り、璽余の患者にして是等の地に来集する者多きも全部の収容を為すこと能はす、而も患者の多くは無産者にして療養の途なく転々各所を浮浪する状況にして予防上遺憾とする所なり、前記外人経営に係るものに対しては相当国庫より補助する等鋭意之か予防制遏に努めつゝあり」(一三七頁)。
ところが、同じ総督府警務局編・発行『朝鮮警察の概況』一九二九年十一月(滝尾英二編『〜資料集成』に、この資料は未収録である)の第二十一章・伝染病及地方病の章の「癩」項目では、つぎのように書かれてある。
「癩 は朝鮮で特に掲くべき特殊伝染病であつて、而も該患者は逐年増加の傾向を示して居り、現に警察官の戸口調査其の他簡単な調査を為しただけでも約七千人も居る状態でありまして、若し医学的調査を為したならば恐らくは驚くべき数に達するであらうと思はれます。然るに該患者療養の施設としては全羅南道小鹿島に慈恵医院があつて数次の収容増加を図り目下四百七十人内外の患者を収容して居ります外に、外国人の経営する釜山、大邱、光州の各療養所を合せて約一千九百人内外を収容して居りますだけで、璽余の患者は是等の地に蝟集して来ますが、到底全部の収容を為すことが出来ませぬ、殊に本患者の多くは無産者で療養の途なく、各所に転々浮浪する状況で予防上遺憾としますので更に昭和四年度に小鹿島慈恵医院を拡張して三百人の患者を増員収容することに致しました、又前記外国人の経営するものは毎年国庫から相当補助金と治療薬品とを交付して鋭意其の予防制遏に努めてゐる之状態であります」(一一五〜一一六頁)。
朝鮮総督府警務局編・発行の同じ『朝鮮警察の概況』ではあるが、一九二六年(大正十五年)と一九二九年(昭和四年)とでは、整合性のない記述となっている。つまり、@ 両者はともに該患者は逐年増加の傾向を示して居ることを認めていること、A 一九二九年の『朝鮮警察の概況』では「警察官の戸口調査其の他簡単な調査を為しただけでも約七千人も居る状態でありまして、若し医学的調査を為したならば恐らくは驚くべき数に達するであらうと思はれます」と述べていることである。にもかかわらず、『朝鮮警察の概況』の一九二六年(大正十五年)版では、約一万五千人を以て数へられると書かれている。つまり四年後の一九二九年(昭和四年)には、「約七千人も居る状態でありまして」などと書き、「該患者は逐年増加の傾向を示して居ることを認めている」のに、数字上では「約一万五千人を以て数へられ」から、「約七千人も居る状態」と少なくなっているという記述は明らかに矛盾である。総督府は、この時点ではハンセン病患者の実態数を正確には、把握していなかったといえよう。
第二の問題点
朝鮮総督府によるハンセン病患者の全国調査の実施と隔離収容計画をみると、
「一、一九三三年二月、朝鮮総督府は一斉調査を実施し、患者総数を一万二千二百六十九名」とした。
その内訳は、既収容患者を、小鹿島慈恵医院=七九六人、麗水ピーダーワルフ癩病院(私立)=七七五人、大邱癩病院(私立)=四六一人、釜山癩病院(私立)=五七八人、計=二六一〇人。未収容患者=九六五九人である。
「二、死亡数 未収容患者は二〇人に付一人、収容患者は二五人に付一人の割合にて死亡するものとせり」。
「三、新患者の発生数 未収容患者一〇〇人に付毎年約六人内外の感染新患者の発生を見込みたり。而して昭和八年より同十年迄に三千九十人を収容するものに付、感染新患者の発生数減少すべしと雖、本病の潜伏期間概ね三年乃至六年を見込み第七年目(昭和十四年)より漸次減少の計算とせり」。
「四、第一期新規増加収容 第一期計画として朝鮮癩病予防協会より収容設備の寄附を採納し、昭和八年四〇〇人(八年度の費用は朝鮮癩病予防協会負担)、昭和九年一六〇〇人、昭和十年一〇〇〇人を政府に於て新規増加収容するものとす。昭和八年新規増加収容四九〇人の内、九〇人は私立癩病院に於ける増加補充とす」。
「五、第二期新規増加収容計画 更に第八年目(昭和十五年)より三箇年継続して毎年一〇〇〇人宛、計三〇〇〇人を新規に増加収容するときは、第二十年目(昭和二十七年)に全部の患者を収容し得るものとす」。
「六、患者収容順序 患者の収容は病毒伝播の危険ある浮浪徘徊患者を先にし、無資産患者より順次資力ある患者に及ぶものとす」。
「七、本計画完成後に於ても、多少新患者発生を見るべきも、其の数極めて尠かるべく、且現在に於ける収容患者は陳旧者のみとなるを以て、死亡率は逐年漸増す。従て計画に依る収容完成十箇年後に於ては大部分消滅すべし」。
「癩患者調査表(昭和八年二月二十五日調)」として、道名、患者総数(内訳=官・私立療養所収容患者、未収容患者)、未収容患者内訳(資力ありて当分浮の虞なき者、無資産患者、浮浪患者)に分け更に、「重症、不自由、其の他」別に表記している。(朝鮮総督府「癩根絶計画に依る患者収容年次表」より。滝尾英二編『資料集成』第3巻、資料一九、一八六〜七頁に収録)。
一九三三年六月一六日『朝鮮通信』の記事
「癩患者六割増加、六年度調査八千三十一名・今春調査一万二千二百名(見出し)
朝鮮の癩病患者は昭和六年総督府衛生課の調査に依れば、官立又は私立病院に収容中の者まで合せ八千三十一名であつたが去る二月二十五日現在調査に依れば病院収容中の者二千六百十名其他の患者九千六百三十二名合計一万二千二百四十二名であつて約二年間に四千二百十一名の激増で、六割に近い増加で実に驚くべきことであるが、今回癩病予防協会が設立され癩患者を治療してやるといふ宣伝から従来隠れてをつた患者が新に現はれたのであらうとのことである。尚収容患者中財産ありて自費治療中の者は二千七百六十名であり財産なくして収容中の者四千四百三十八名、流離中の患者二千四百六十一名、各道別総患者数は左の如くである。
▲京畿四二▲忠北一六三▲忠南一六五▲全北四二三▲全南三五一六▲慶北三五〇八▲慶南四〇五三
▲黄海三▲平南五▲平北 一▲江原二七八▲威南四七▲威北二七▲合計一二二四三
尚協会に集つた寄附金は一百十一万七千七百四十余円で既に全南小鹿島に六十四万二千七百五十坪に三千五百三坪の建坪を有する本館に重軽患者の病室等を建てることになつてをる。尤も現金の収納されてたものは六十万一千一百四十九円であると〔朝日其他〕。(滝尾英二編『〜資料集成・第5巻』、新聞資料編、四八頁に収録)。
第二節 ハンセン病問題の新聞記事の事実と虚構、行政と報道機関の責任
【要旨】国内の新聞・雑誌が植民地朝鮮で販売され、過剰なハンセン病の恐怖や優生思想によるハンセン病患者の「断種」することを煽った記事を書いたことも、銘記すべきである。このことは、「第U章 小鹿島更生園入所者の被害事実(その二)、第二節 断種・堕胎と優生思想」のところで詳しく述べた通りである。
いずれの資料も過去の文献でも、残された写真や当人からの聞き取りなどでも「歴史を叙述する場合」、資料批判を経なければならないことは云うまでもない。特に新聞記事を使って過去の事実を語る場合は、そのことの必要を痛感する。
新聞記事でなにが「事実」を伝え、なにが「事実でないこと」を語っているのかを(そのこと自体が資料となるのであるが……)見極めることが大切となってくる。史・資料の批判・検討のことに関する原論や具体的例を示されての著書を、従来から多くの歴史家は『歴史研究法』として書いている。私も、これらの
本から多くのことを学んできた。これから書く内容は『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第4巻・第5巻に収録した一〇〇〇余の新聞記事を関して、この問題について書いておきたいと思う。
第一項 朝鮮総督の小鹿島訪問記事に関して
日本による朝鮮統治期に小鹿島に、三名の朝鮮総督が視察のため来島している。
一九二二年一一月二四日の『朝鮮朝日』は「斎藤総督 癩病院を視る」の見出しで、つぎのような記事を掲載している。「……二十二日午前十時駆逐艦楠にて小鹿島癩病院に赴き患者を慰問したが患者は孰れも涙を流して喜び総督は慰安設備費として金一封を贈つた。午後一時再び駆逐艦で慶南統営に向ひ出発した」という。一九二二年一一月二二日「午前十時駆逐艦楠にて小鹿島癩病院に赴」いたことは、事実であろう。しかし、「患者を慰問したが患者は孰れも涙を流して喜び」の記述には、疑問を持たざるを得ない。駆逐艦楠で小鹿島癩病院を訪問したのは、午前十時から午後一時の三時間に過ぎない。当時の患者数は、定員一〇〇名に対し現員は一七一名の過員、「小鹿島癩病院」では唯一の桟橋は島の東部にあり、島民約千名の居住する集落をとうって島の西部に病舎と診療所などの点在する建物のある患者地域に行かなければならない。昼飯を挟んでいる時間帯で桟橋から病院までの往復に要する時間を考えれば、斎藤総督が島にいた三時間の間の中で、新聞のいうように「患者を慰問したが患者は孰れも涙を流して喜び」という場面を、記者はどうして見たのかというのだろうか。疑わざるを得ない。この部分は「予定原稿」ではなかったのか。そのまま「事実」として記事を信じることは出来ない。(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞資料編、一一頁に収録)。
一九三五年六月二一日から二五日までの『京城日報』は、平記者が書いた「宇垣総督南鮮巡視に随伴して」を連載している(滝尾英二編『〜資料集成』第5巻、新聞資料編、一七四〜一七九頁に収録)。
「雨中を小鹿島に上陸 更生園を視察 周防園長の案内で―」の見出しで書かれた記事には「……二千数百名の各患者たちに総督が来訪されるといふので、屋外に出て迎へる準備をしてゐたが、豪雨のため果さず、皆屋内から敬意を表していた、それでも軽症者のうちには雨にぬれて軒下近く立つてゐるものもあり国旗を立てゝゐるものもあつた、如何に恵まれぬ彼等が心から喜んだかは、この一事でもわかる」と書かれている(一七四頁に収録)。
宇垣総督が雨中に小鹿島を視察中にしたことは(六月三日午前十時から午後二時までにしたことは)、新聞のいうように事実であろう。しかし、「国旗を立てゝゐるものもあつた、如何に恵まれぬ彼等が心から喜んだかは、この一事でもわかる」というのは、総督府の御用新聞たる『京城日報』随行記者の予見に満ちた短絡的な記事としか思えない。異民族の総督(権力者)に対して、国旗=日の丸を立てる朝鮮人の患者の状況を、日本人記者は「如何に恵まれぬ彼等が心から喜んだ」と書くこと自体、記者の植民地に対する誤った認識の問題であり、黙視できない。
一九三八年一〇月四日に『京城日報』は大津特派員の「小鹿島を観る―南総督視察に随行して―」を連載している(滝尾英二編『〜資料集成』第5巻の新聞資料編、二八四〜五頁に収録)。その中の一節を紹介しよう。
「……全島の患者四千七百名の内夫婦同居者は四百七十一組が楽しい生活を続けてゐる。……周防園長の英断で昭和十一年から夫婦同居を認められた、その代わりに不幸な子孫を残さないため男女の整形(精系=滝尾)手術を性生活の条件に加へた、初めはこの手術も一部患者の迷信から一時ゴタゴタしたが、その真相か判り、今では患者の方からどしどし注文を申込でゐる」。「……南総督は中央グランドに総督歓迎のため集まった男女三千五百名の患者に向つて『こゝに並んでいる諸子も総督も光栄ある日本臣民である』と開口一番気の毒な人々に皇国臣民の感激を与へ、さらに(中略)『今事変に尽した赤誠、殊に戦地勇士の食料不足を思ひ、諸子達が、自発的に減食を申出たことは 陛下の赤子である。醵金や労力で燈台を作つたことは日本臣民の現れである、諸子の赤誠には恐れ多くも皇太后陛下も深く御褒めになつた……』と胸を打つ様な愛情の深い言葉に女の患者などは顔を上げずに泣いてゐた、……四千七百名の患者は泣いてゐるのだ、崇高なシーンであつた」(二八五頁に収録)。
『京城日報』に大津特派員が「……胸を打つ様な愛情の深い言葉に女の患者などは顔を上げずに泣いてゐた、
……四千七百名の患者は泣いてゐるのだ、崇高なシーンであつた」と書いた記事は、虚偽・虚言に満ちたものである。しかし、そうした虚偽・虚言が『京城日報』の紙上に掲載されたことは、まぎれもなく植民地朝鮮における報道機関(マスコミ)の姿を示す貴重な資料だということができよう。
第二項 民衆のハンセン病患者に対する忌避感情を煽った報道機関の事実と責任
『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第4巻・第5巻に収録した一〇〇〇余の新聞記事を通読すると、「生膽を抜く癩患者の一団、星州方面を徘徊」(一九二八年六月一〇日・『京城日報』)とか「生膽を取るべく子供を菰で包み、逃げ行く癩病患者、危く救はれた四歳の男児」(一九二八年七月二八日・『朝鮮朝日』)といった「迷信療法」の被害情報が氾濫している。「癩病は、小児の生肝を食すれば全治す」という悪習を朝鮮人ハンセン病患者が持つとの警察当局の情報を、無批判に新聞に報道記事として掲載したものが、実に多い。そうした報道が、民衆のハンセン病患者に対する忌避感情を生み出していく。つぎに新聞記事に現われた例をいくつか取上げてみよう。
例@一九二八年三月三〇日付けの『朝鮮朝日』は、つぎのような大活字の見出しで事件を報じている。「滴る生血を啜る兇暴無残な殺人鬼、癩患治療の迷信から六歳の小児を惨殺す」。ところが説明記事を見ると、このようになっている。
「【釜山】朝鮮慶尚南道泗川郡泗川面陳基延(二十八)同朴春石(二十九)の両名は癩患治療の目的で川東朴某(六つ)の遊戯中を巧に誘惑し石で顔面を殴打して同女の生血を吸つた上その生膽を食はんとして殺害を企て果さず逮捕され目下取調中」。(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞資料編、六六頁に収録)。
このように現場の記者は、警察情報にもとづき「両名は癩患治療の目的で点で……生膽を食はんとして殺害を企て果さず逮捕され目下取調中」とデスクに伝達したが、デスクの「見出し」をつける段階で、担当者のハンセン病患者への忌避・恐怖心と、読者に癩病患者への恐怖心を煽るために、送られてきた「殺害を企て果さず逮捕」という内容と異り、「兇暴無残な殺人鬼、癩患治療の迷信から 六歳の小児を惨殺す」との見出しを付けたものと思われる。
例A一九三二年五月一〇日の『朝鮮朝日』は、「迷信による癩患者の犯行か、腹部から腎臓を抉る、松?洞の少女惨殺事件」との見出しで、つぎのような記事を載せている。
「【大邱】……八日早朝沖署長今川司法主任以下署員総出で大邱府外内塘洞東山病院附近に集団生活を営むレプラ二百余名および大邱を根城として府内を放浪する四百余名を虱潰しに調あげ同日午後有力な容疑者二名を逮捕し厳重取調べを進めてゐる」。さらに、翌六月一一日の『朝鮮朝日』は、見出しで「少女惨殺事件の有力な容疑者、レプラ患者二名を関係各地に指名手配捜索中」と書き、「……捜査本部では俄に活気づき内塘洞癩患者相助会その他を虱潰しに調べあげた結果」云々との記事を書いている。(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞資料編、一〇四〜五頁に収録)。
五月一五日の『朝鮮朝日』記事は、「怪奇を極めた癩患者の犯行、松?洞の少女惨殺事件、二、三日中に一切明白となるか」と見出しで、一一日には具体的名前まで挙げて指名手配した以外のふたりを容疑者として取り調べている。
ところが五月一九日になると、『朝鮮朝日』の見出しは「少女惨殺事件、迷宮に入る、大邱署の活動も空し」のように変わり、つぎのよう記事を書いている。
「【大邱】大邱府外松?洞の少女惨殺犯人は有力な容疑者として大邱署で検挙中の……の両名に対する証拠固めも署員必死の活動も空しく手がかりさへ得られない有様で殆ど絶望視されるに至つた、同署では更に十六日癩患者四十余名を検挙最終的取調べを行つてゐるが今のところ参考的な聞き込み一つさへ得られず全く迷宮状態を呈するに至つた」と滝尾英二編『〜資料集成・第4巻』、新聞資料編、二〇五頁に収録)。
大邱警察署は、予断と偏見でハンセン病患者の見込み捜査を大規模に行い、その捜査発表を鵜呑みにして
大々的に報道したマスコミ=大阪朝日新聞社(記者)の朝鮮人ハンセン病患者に対する「恐怖と忌避」の意識を読者に与えた犯罪的行為について、怒りを感じざるを得ない。
例B一九三三年五月一八日から六月九日の間に書かれた『朝鮮朝日』の記事は、これまたハンセン病患者に対する予断と偏見に満ちたものとなっている。
五月一八日の記事見出しで『朝鮮朝日』は「生首の胴体は何処に、西大門署の物々しい捜査陣」と書き、「【京城】……凄惨な生首事件については……犯行は既報の如く癩病、梅毒、肺病患者等の迷信的兇行と見られ」と書き、さらに続けての見出しで「癩患部落を焼き払つて追放、まだ判らぬ首と胴」と書き、つぎのよな記事を載せている。
「【亀浦−河村記者】京釜線亀浦駅附近で発生した女の轢死体の首と胴なし事件は奇怪な事件として世人の興味をあつめてゐるが亀浦駐在所では犯人が附近に巣くふ癩患によるものと認め十七日早朝松主任以下署員数名からなる遺骸の首と胴体および所持品の調査班を組織し附近の癩患者部落二ヶ所の厳重な捜査を行つたが証拠品を発見するに至らぬので引つづき捜査を続行する、なほ右の部落は同日中に焼き払つて癩患者を他に追放することになつた」(滝尾英二編『〜資料集成・第5巻』、新聞資料編、四二頁に所収)。
その後の「生首事件」の報道は、続いている。一九三三年六月九日の『朝鮮朝日』の見出しは、「生首事件の全貌遂に明るみへ、恐るべき迷信の罪 癲癇治したさから首を買う」となっている。ハンセン病患者の犯行ではなく、殺人事件でもない。共同墓地から埋葬した隣家の幼児の死体を発掘して頚部を切断し、依頼した癲癇病の知人へ提供した事件であった。この事件で、朝鮮のハンセン病患者が、集落を焼かれ、民衆のハンセン病患者への「恐怖と忌避」の意識をうえつけた当局と、朝日新聞社の責任は大きいといわざるを得ない。
例C 朝鮮日報社は「朝鮮癩病根絶研究会」を積極的に支援し、朝鮮民族の自尊と独立精神でハンセン病患者の救済とその予防事業を推進しようと主張していた。ところが朝鮮日報社すら、一九三二年一月二一日に出された社説のなかで、「強い伝染性の癩病菌の媒介者」としてソウルに居住する朝鮮人ハンセン病患者をえがき、彼等のソウルからの排除と麗水の収容所への隔離を主張している。これは前述した三例とは異なった意図の記事内容ではあるが、ハンセン病患者を「重大な威脅」の対象としていることには変わりない。それは一九三〇年にバンコック「国際連盟らい委員会報告」の精神にも違反している。『朝鮮日報』の社説だけに、見過ごし難い内容である。一九三二年一月二一日の「『卿等もレプラになるぞ!』京城癩病患者隔離問題」の題で主張する『朝鮮日報社説』の記述の一節を紹介しよう。
「……朝鮮の首都――一域文明の中軸地たる京城の文明都市に於いてさへ尚ほ七戸二十余人の癩病者が巣くふて居り、……強い伝染性の癩病菌の媒介者たると共に肩々相磨する四十万府民及び東西内朝鮮癩予防令「卿等もレプラになるぞ!」。京城四十万府民よ。「卿等もレプラになるぞ!」。斯く卿等も卿等の愛する子女等も、追追レプラとなるべき運命に陥りつゝあることに、卿等は関心を有たずや?」(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞資料編、一八六頁に収録)。
【注記=滝尾】朝鮮総督府編集・発行月刊誌『朝鮮』では、「衛生に関する風習竝迷信療法」を連載している(滝尾英二編『〜資料集成・第6巻』、資料一三〜一五、五六〜六二頁、八三〜八七頁に収録)。これは、総督府が各道警務部の調査にかかるものであって、事実に基づかない内容もあり、その上、ハンセン病患者に対する「恐怖心」や「忌避」を増幅させた行政責任は重い。
第二節 ハンセン病患者の従業禁止、浮浪し行き倒れた患者たち
本「意見書」中で、日本の植民地支配の実態を一番、明快に叙述できる節である。植民地支配による収奪は、民衆の生活といのちを脅かし、破壊してゆく。この間、ハンセン病患者は激増し、職業の自由を奪われ、差別と偏見が殖民者たちにより社会に宣伝されるなか、浮浪し行き倒れするハンセン病患者は増加していく。『朝鮮総督府官報』に記載された「癩患者」=ハンセン病患者は、一九二九年のとき前後して(経済恐慌と世界恐慌の結果、資源の収奪の結果、民衆の生活は破壊されて)「行路死亡者」はピィークとなる。総督府は、小鹿島の療養所の収容患者の施設・設備をはかるが、「行路死亡者」は減少しない。こうした背景の下として、総
督府は朝鮮癩予防協会の設置などを行なう。『朝鮮総督府官報』に記載された「行路死亡者」、とりわけ、ハンセン病患者のそのことについては、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島(ソロクト)』未來社発行(二〇〇一年、一〇九〜一三〇頁)に書いているので、参考にしていただきたい。
朝鮮総督・宇垣一成は、一九三五年四月二二日、制令第四号「朝鮮癩予防令」を公布。同年六月一日より、朝鮮総督府令第六十一号「朝鮮癩予防令施行規則」によって、それは施行されるのであるが、公布された「朝鮮癩予防令」第三条には、つぎのような内容が書かれている。
「第三条 行政官庁は癩予防上必要ありと認むるときは左の事項を行ふことを得
一 癩患者に対し業態上病毒伝播の虞ある職業に従事するを禁止すること
二 癩患者に対し市場、劇場其の他の多衆の集会する場所に出入するを禁止すること
三 古着、古蒲団、紙屑、襤褸、飲食物其の他の物件にして病毒に汚染し又は其の疑あるものの売買若は授受を制限し若は禁止し、其の物件の消毒若は廃業を為さしめ又は其の物件の消毒若は廃業を為すこと」。(滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料二二、二二二頁に収録)。
この「朝鮮癩予防令」第三条に基づき、各道知事は「道令」を制定してハンセン病患者の各種職従業を禁止していく。そのことを、『朝鮮総督府官報』(第二六〇六号、昭和十年九月十七日=一九三五年九月一七日付け)は「地方庁公文」に掲載されたつぎの「京畿道令」により見てゆくことにする。(この「京畿道令」は、滝尾英二編『〜資料集成』には未収録資料である)。
「朝鮮総督府京畿道令第十七号
癩患者の従業禁止に関する件左の通定む。
昭和十年九月六日 朝鮮総督府京畿道知事 富永 文一
癩患者は左の職業に従事することを得ず
一 旅館、下宿屋、寄宿舎、合宿所、其の他多衆の宿泊する場所竝に貸座敷、料理屋、飲食店、理髪店、興行場其の他客の来集を目的とする場所に於ける従業者及産婆、看護婦、按摩、鍼灸術営業者、芸妓、酌婦、女給、給仕其の他直接客に接する業務に従事する者
二 菓子、鮨、肉、乳其の他直に飲食に供し得べき物の製造、調理、販売又は取扱に直接従事する者
三 箸、楊枝其の他飲食器具(金属類、陶器類を除く)及玩具の調整、販売又は取扱に直接従事する者
四 貸蒲団、貸衣装、貸本、古着其の他之に類する物件の販売又は授受に直接従事する者
附 則
本令は発布の日より之を施行す」。
第三節 朝鮮癩病根絶策研究会運動の妨害、朝鮮癩予防協会の設置
第一項 朝鮮癩病根絶策研究会の設立と運動
大韓癩管理協会『韓国癩病史』(一九八八年)には、朝鮮癩病根絶策研究会の設立の経緯について、次のように述べている(八一〜八二頁)。
「この国の先覚者たちは、日帝の侵略に我慢強い抗争を続けながら、外国人の手により行われていた救癩事業に民族自尊の目をむけ、一九二八年四月六日、韓国最初の民間救癩団体である朝鮮癩病根絶策研究会を誕生させた。当時、麗水でウイルソンと共に救癩活動に身を投じていた崔興jは、わが国の癩患者は我々の手で面倒を見、救済しなければならないという覚醒により全国的な救癩機関の設立を推進しようと阿智上がったのである。
此れに発起した崔興jは、ウイルソンと共に京城(ソウル)に行き、指導級の人たちをすべて訪ね、この必要を説いた。(中略)このような崔興jの努力で糾合された同志三八名は、趣旨文を採択・公布し、朝鮮癩病根絶策研究会を発足させたが、朝鮮日報主筆安在鴻が起草したこのときの趣旨文は、民族自尊と独
立精神を含んでいる。
朝鮮癩患者救済趣意書
人類愛の至極な衝動において、および民族保健の懇切な要求に我々は朝鮮癩病患者の救済とその予防事業を確立することを熱烈に主張する。
医療と防疫が民衆保健の重要な一半部になることはいうまでもなく、癩病のようなものは、実に萬人を驚かす絶望的な病魔である。全世界の文明国が此れを根絶するために、すべての最善の労力をし、また、しつつあるところだが、朝鮮においても、しごく関心を持たざるを得ない重要問題である。
癩病は(いままで)不治の病であり、遺伝の病だといわれてきた。この病に一度罹った者は人生の光明を最後とし、家族全体まで追放者として人類に交わることができないがために、その悲惨さは天刑病の名にあたいするものだ。しかし、これに光明があるというのは、即ち近代科学が証明するところにより、癩病は遺伝病ではなく、伝染によって起こる。遺伝でないが故に癩病者の血統的禍厄はまぬがれ、伝染するが故に、その社会的隔離と病菌の蔓延を防止し、民衆保健の安全を図ることが絶対に必要になったのだ。癩病の絶対根絶が必要である以上、癩病を絶対隔離することは、一日も弛緩することのできない急務の問題である。
しかし、隔離するには、その安全と慰安および医療がなくてはならず、これには予防と救済の二つが欠かすことができない。
朝鮮の癩病患者は今日、一萬六千を数えている。三十年前、少数であったのに比べ、三十年後の今日、このように増加したのは驚くべき事実であり、三南〔忠清、全羅、慶尚の三道の総称=滝尾〕各地から北部朝鮮にまで拡がる病魔の跋扈は、実に全民族の生命をおびやかし、救済されない癩病者たちの限りない放浪は、社会風土と民衆保健上、なによりの威嚇になるのである。これを欧米の先進国でみた場合、欧州においては十三世紀には、すでに二萬を越える癩病院によってこれを根絶し、米国においては東方より伝染した癩病が、その完全な隔離島の施設以外には、ひとりの患者もなく、遠からず、根絶されるが、朝鮮においては外国宣教会および為政当局の施設への収容と救済が二千五百人に充たず、その治療と予防の不足は余りにも明白な事実である。
隔離の趣旨は他にあらず。交通と接触と媒介で病菌の繁殖を根絶しようというのが、唯一の目的であり、そのためには気候と物産が適当な隔離島の選択と農芸と工作でその生活を保障し、その慰安を与えるのが最も必要なことである。癩病者救済の事業はこれを実現することで、その趣旨を貫徹でき、このために内外各界のあらゆる支持と助力を必要とする。また、有識者と篤志家の公私各界の合作を期する次第である。人道の大義はすべての力を駆使できるだろう。天下の血誠ある士女たちは、誠と力を結集できないはずはない。民衆保健にできるあらゆる力量を集中しよう!
一九三一年十月 日
朝鮮癩患者救済会 」 (原文は朝鮮語)。
大韓癩管理協会『韓国癩病史』では、同研究会の創設を一九二八年四月六日としている。しかし、当時の『東亜日報』を見ると、一九三一年九月二四日に「社会有志の発起で朝鮮癩病根絶策研究会」がソウルの鐘路の基督教青年会館で開かれ(『東亜日報』一九三一年九月二四日付)、また、朝鮮癩患者救済委員会が同月二八日に開催され、執行委員長に尹致昊、常任委員に崔興jが選ばれたと書かれてあり、『韓国癩病史』の記述と異にしている(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞資料編、一五九頁を参照)。
翌三二年一月二六日の『東亜日報』には、「癩病根絶策会章程の趣旨・数万枚を印刷分布」の見出しで朝鮮癩病根絶策研究会の「根絶策研究会章程」と「根絶策研究会趣旨」を掲載している。
第二項 朝鮮癩予防協会の設立
こうした「民族自尊」の旗印を高くかかげて始められた運動に、敵対するかのように朝鮮総督府は、国内でも一九三一年一月二一日に癩病予防協会の設立総会、同年三月一八日、内相より財団法人の認可された癩病予防協会にならい朝鮮癩病予防協会設置を計画、朝鮮民族がうちたてた朝鮮癩病根絶策研究会に圧力を加え、つぶしにかかった。
一九三二年二月二七日の『朝鮮朝日』は「癩病予防協会設置に決定す、本部を総督府に各道に支部」という見出しで、次のような記事で、朝鮮癩病予防協会の設置を報道している。
「癩病予防協会の設置についてはかねて総督府衛生課で具体案の考究中であつたがこのほど成案を得たのでいよいよ設置することになり近く趣意書を一般に配布して会員の募集に着手することになつた、案の内容は協会本部を総督府内におき各道に支部を設け会長には政務総監、副会長には警務局長また支部長には各道知事 を推して全鮮から大々的に会員を募りこの会費によつて基金を造成し癩病予防設備をなす方針で各道との打ち合わせが済み次第発会式を挙げることになつてゐる。
なお朝鮮における癩病患者は、現在一万四千名の多数に上りこの中療養所に収容されてゐるものは僅か二千五百名にしか過ぎず他の一万千五百名の患者は全く放任のまゝでこのなかには各地を転々と放浪してゐる患者が二千名からをり衛生上ばかりでなく人道上の重大問題としてこれまでしばしば問題となつてゐたものである、予防協会では先つ第一期事業として放浪患者収容の療養所を新設して彼等を街頭から一掃し順次予防設備をして癩病の徹底的撲滅をはかる方針であるから現実の暁はこれまで顧みられなかつた朝鮮の癩患者の上にはじめて温かい救ひの手が延ばされるわけである」(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞資料編、一九五頁に収録)。
一九三二年一一月二三日付け『京城日報』は「癩患者の救世主 朝鮮癩予防協会に社会の援助を望む――西亀本府衛生課長語る――」という見出しで、西亀三圭衛生課長が財団法人朝鮮癩予防協会を設け「政府の事業を援助」することを要請している。一九三二年一一月二三日の『朝鮮朝日』は「悪病の駆逐を期し、癩予防協会成る、事業計画内容を発表」と見出しで「……同協会は事務所を総督府内に各道に支部を置き会長は政務総監、副会長は警務局長がこれに当」たると書かれている。
一九三三年四月一六日付け『東亜日報』には、朝鮮癩病予防協会評議員会が開催され、総督府の今井田清徳会長(政務総監)、池田清副会長・理事長(警務局長)が出席し、理事と監事八名が選出されたと報じている。朝鮮癩病予防協会も国内の癩病予防協会に倣い、形式的には民間の財団法人であったけど、実質は官自体がハンセン病患者の隔離収容事業とその運営を行なう団体に過ぎなかった。これもまた、国内の延長であった。
「朝鮮癩予防協会の設立――朝鮮に於ける癩患者は、最近の調査に依れば、其の数八千余人に上れるも、猶隠れたたる患者を加ふれば、実に一万を超過するであらう。然るに現在収容せらるゝ者は、官立療養所たる小鹿島慈恵医院に七百七十人、其の他の三私立療養所に千七百五十人、合計僅かに二千五百人を出でず、其の他の多数の患者は、依然として社会に容れられず、或は自宅に籠居し、或は各地を放浪し、殆んど医療を受くること能はず、空しく病勢の昂進に委し、煩悩の裡に悲惨極りなき生を終らんとするの実状に在るは、寔に同情に堪へざる所なるのみならず、これが為随所に病毒を伝播し、新しき犠牲者を続出せしむる因を為しつゝある。之れ患者の増加を来す所以にして、国民健康上洵に憂慮すべき重大問題である。故に之が救済機関の完成を図り、以て現に罹病せる患者の救療慰安の途を講ずると共に、本病の蔓延を防止し、之が根絶を期するは、最も緊要且つ焦眉の急務なりとす。(中略)
然れども、本病救済予防の如き社会的大事業は、全国民の理解を根底とし、官民一致協力するに非ざれば、克く其の目的を達する能はざるは、世界各国に於ける実情の示す所である。故に茲に有力なる団体を組織し、国庫竝に道地方費の補助と相俟つて、収容機関の拡張を図り、救療予防施設の実現を促進し、速に本病の根絶を期することの、最も緊要なるを痛感する。是れ本会を設立せんとする所以である。
(中略)
第二条 本会は事務所を朝鮮総督府構内に置き各道に支部を置く
(中略)
第十条 本会に左の役員を置く
一、会 長 一名
二、副会長 一名
三、理 事 若干名 内一名を理事長、一名を常務理事とす
四、監 事 若干名
五、評議員 若干名
会長は会務を総理す
副会長は会長を補佐し会長事故あるときは其の職務を代理す
理事長は本会を代表し一切の会務を処理す
第十一条 会長は朝鮮総督府政務総監の職に在る者を推す
副会長は朝鮮総督府警務局長の職に在る者を推す
理事は朝鮮総督府警務局長・朝鮮総督府警務局衛生課長・朝鮮総督府学務局社会課長の職に在る者及評議員会に於て会員中より選挙したる者を以て之に充て、理事長は警務局長の職に在る理事、常務理事は警務局衛生課長の職に在る理事を以て之に充つ
監事は評議員会に於て会員中おり之を選挙す
評議員は会員中より会長之を委嘱す
第十二条 本会の会務執行の為必要なる職員は理事長之を嘱託又は任免す」。
(朝鮮総督府総督官房編『朝鮮』朝鮮総督府発行、一九三三年一月号・第二百十二号、一九一〜一九六頁より。滝尾英二編『資料集成』第3巻、資料一三、九〇〜九四頁に収録)。
この朝鮮癩予防協会の事業資金に関して、崔晶基(チェチャンギ)著『碩士学位請求論文・日帝下朝鮮のらい(癩)患者統制に対する研究 ―癩患者管理組織を中心に―』(一九九四年二月)のなかで、つぎのように述べている。
朝鮮の癩患者統制に国家が本格的に介入しようとする最初の動きは、一九三二年、財団法人朝鮮癩予防協会の創設であらわれた。同協会は元来、官民合同を標榜していたが、組織の人的構成と設立過程をみた場合、それよりも官主導の団体あるいは、官そのものとみることができる。
日帝が同協会を設立した目的は、(中略)癩予防協会を前面に出し、癩患者を直接的に統制しながら、これを通じ、国家権力の正当性を強調し、社会的統合と秩序の維持を保障しようとし、浮浪患者を有用な労働力に転換しようとしたのである。(中略)朝鮮において、癩管理統制を主導するために組織された同協会が、まったく独自性を持たない国家機構の下部組織にほかならず、ただ、所要資金を集める機構であった。(四六〜四九頁に収録)。
癩予防協会の事業資金は、だいたい三つのかたちに分かれる。その一つは、日本ならびに朝鮮王室の下賜金であり、第二番目は、国庫ならびに地方費の補助金であり、第三には、このような趣旨に賛同した民間人たちの寄附金である。このなかで、癩患者の隔離収容が持つ社会的統制の意味と関連し、重要なのは民間人たちの寄附金であった。この場合、名目的は寄附金であったが、実際には官公吏たちの月給から、国民・学生に至るまで、ほとんど強制的に提出させ、各種社会団体ならびに宗教機関においtも、寄附行為が強要され、街頭募金まで実施され、そうとうな多くの資金が集められた。このような資金醸成の過程で、日帝は癩患者だけでなく、社会秩序自体を統制することが出来た。(中略)それはまず、国家機構が癩患者の隔離・統制を専門的に受持つことにおいて必要な財源を民間人たちの寄附金で充当しようとする意図であった。二番目は、日本が軍国主義化する過程で必要な社会的動員体制を構築し、それと関連した社会的統制を行使するためであった。」(五〇頁に収録)。
(日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集―第1輯―、一九九五年一一月、人権図書館・広島青丘文庫発行)。
(備考=滝尾)――日本国内=「内地」の場合、一九三一年一月一四日に設立された「財団法人・癩予防協会」は、事務所は内務省衛生局内におかれたが、会頭に清浦奎吾(元首相)、名誉会頭に内務大臣の山本達雄、副会頭・理事長に内務次官の潮恵之輔、また、副会頭に宮内次官の大谷正雄と窪田静太郎、常務理事に衛生局長の大島辰次郎、衛生局予防課長の高野六郎、理事に社会局社会部長、中央社会事業協会総務部長の原泰一が就任している。
しかし、朝鮮癩予防協会の主要役員は、ごく少数の総督府の高官によって独占されている。そのことは、朝鮮癩予防協会設立の主な目的が、ハンセン病患者の収容機関=小鹿島療養所の拡張を図るための必要とする莫大な財源を民間人の寄附金で充当しようとしたこと、及び、朝鮮の大陸兵站基地としての役割をすすめるための社会的動員体制=社会的統制を行使するために意図されてたことに起因していると思われる。それが、国内と植民地の「癩予防協会設立の趣旨」の相違であったと考えられよう。
第三節 未収容ハンセン病患者の全国調査の実施と隔離収容計画
第一項 志賀潔の『二十五年根絶計画癩患者収容計画』
一九三一年三月一九日の『朝鮮朝日』の紙面に掲載された内容、「志賀城大総長のレプラ根絶の計画、一千万円あれば可能」との内容は、日本国内で一九三〇年一二月二六日に発行された内務省衛生局『癩の根絶策』に基づくものであり、朝鮮ハンセン病患者数は、一九二九年現在の統計に拠っている。
志賀は、朝鮮総督府編集・発行『朝鮮』編集長より依嘱されて「癩の予防と撲滅とを期す」と題して論考を
よせている。そのなかで、志賀は、すべての患者をことごとく終身隔離し、患者自体を絶滅しようとする国(朝鮮総督府)のハンセン病施策が国の内外に共通して覗われるのである。「城大」とは京城帝国大学のことで、志賀潔は当時、この大学の総長の職にあり、『朝鮮』という月刊誌の一九三一年三月号に掲載された志賀の論文には、内務省の「癩の根絶計画(策)」(一九三〇年一二月)がはっきりと記述されている。
志賀の同論考のなかで、「朝鮮に於ける二十五年根絶策」の項で、次ぎのように書いている。
「朝鮮には癩患者総数 七七八六(癩病院収容人数=二四三一、浮浪者及浮浪の虞あるもの=二六八〇、資産あり浮浪の虞なきもの=二六七五)
故に将来計画すべき目標を浮浪者に取り、其二千六百八十人を隔離収容の方法である。又今日以後に朝鮮に於ても内地同様年一%づつ患者の減少するものと見て、内務省の立案に傚ひ計算すれば左の如くになる。
『二十五年根絶計画に依る癩患者収容年次表』 (略=滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料一一、八三〜八五頁を参照)
右の計画に依れば二十五年にして浮浪患者を全部収容し得るもので、即ち二十五年後に於ては所謂資産ありて浮浪の虞なき二千六百七十五人の患者と、癩療養所収容人員二千四百三十一人と残り、合計五千百六人は存在することゝなる。然しながら、浮浪患者として病毒を撒布するものを無くすれば、新患者が著しく減少すべく。且収容患者より伝染発病すること絶対に無き訳故、上記の資産ありて家族に住居する患者の取締を厳重にし、此方面に於ても亦新患者の発生を極度に減少し得ると看做せば、上記五千余人の患者は十年乃至二十年にして、自然に消滅すべしと考へらるゝのである。
猶右の外考慮に入るべきものは癩患者の死亡数と治癒数である。此数は明瞭に謂ふ能はざるも小鹿島慈恵医院に於ける過去十三年間の統計に観るに、其の十三年間に収容したる患者総数一〇五三人、内治癒退院二九人、軽快退院六八人、死亡一二二人となつてゐる。此計二百十九名で即十三年間に於て患者の約二割は治癒又は死亡転帰を取るものであると視てよからう。又今後治療の方法が進歩すれば更に治癒者の数を増すことは明かである。故に上記の根絶年限は大いに減少するものと考へてよい。然し之を現今に於て予想し又は計算することが出来ない。
(中略)
癩は容易に根絶すべく又之を達成するに確乎たる決心を持ち得るものである。故に私は上記根絶計画の実現を希望して止まぬのである。
上記の遞次的患者の減少は、主として癩患者隔離に依る伝染防止より見たのである。然し私は其他に亦癩伝染の減少が生活改善によりても来るものと信ずる。衛生上の改良及び食料営養状態の改善進歩が癩伝染の素質を減少し得るものと信ずるのである。果して然らば上記の二十五年根絶計画は予期以上に容易に達成し得るものと思ふ。」
(『朝鮮』朝鮮総督府発行、一九三一年三月、第百九十号。滝尾英二編『〜資料集成・第3巻』、資料一一、八三〜八七頁に収録)。
第二項 朝鮮癩予防協会の寄附募集など及び小鹿島買収決定の経緯
朝鮮癩予防協会第一回評議員会は、一九三三年四月十五日正午よりソウルの朝鮮ホテルで開催された。出席者は、同会々長の今井田清徳(朝鮮総督府政務総監)、副会長で理事長の池田清(総督府警務局長)、理事の西亀三圭(総督府警務局衛生課長)らを始め評議員八十六名である。その模様は、『朝鮮公論』一九三三年五月号に収録されている。当日、池田清理事長から「事業報告」が行われているので、その報告をつぎに紹介しよう。
「(イ)寄附募集の状況――客年十一月本会設立の義を発表しました所各位を始めとし、官民挙つて此の企画計画に賛助せられ、自ら率先して寄附の申込をせらるると共に親族知己を勧誘して続々申込せられ、或は歳末の寒空をも厭はず街頭に立つて、一般民間の同情に訴へて義損金を募集せられ、或は音楽会を開催せられて其の純益金を寄附せられ、或は基督教会に於ては多数の信者を勧誘して寄附金を集め、又小学校や普通学校の生徒達が各自に一銭二銭と云ふ零細な金でありますが之を集めて醵金したり、想像だもしなかつた刑務所に収容せられて居る人が、各自に之れ亦五銭十銭と言う金を醵金して寄附をして呉れました事実は全く涙なくしては御話の出来ない状況でありました。
斯様な有様で世の同情翕然として集りまして、本年三月三十一日迄の申込額は実に百十一万七千七百七
十余円と言ふ予想の数倍に達する巨額に上つたのであります。」
「(ロ)寄附金取扱の状況――三月三十一日迄の申込高百十一万七千七百七十九円でありますが之に 皇太后陛下よりの御下賜金三万円 李王殿下よりの御下賜金六万円、国庫補助十一万円道費補助十七万円を加ふるときは合計百四十八万七千七百七十九円に上る訳であります。右の内現金収納致しました高は六十九万千百四十九円でありまして本部に送金して参りましたものが五十四万六千二百六円で十四万四千九百四十三円は道支部に於て保管して居るのであります。本部に送金せられました五十四万六千余円中、小鹿島の土地買収等に要する差当りの経費として、三十万円を全羅南道支部に送金し、又本部の経費としては唯印刷費及通信運搬費として一千四百円を使用致しましたに過ぎません。」
「(ハ)小鹿島買収決定の経緯――療養所敷地の選定に付きましては、最も苦心した処でありまして己に以前から南鮮各地に於ける、島嶼や干拓地等に就き詳細調査を致して居たのでありますが、各種の必要な条件を具備せねばならないので仲々適当な場所が見付からなかつたのであります。併し今迄調査致しました中では小鹿島が最も其の条件に適応致して居りますので去る三月十三日本当島を療養所の敷地と決定した次第であります。
本島は全羅南道の南端高興郡道陽面鹿洞海岸より約四町を距てた、面積百四十八万余坪の(ママ、「に」?)して、木浦と麗水の中間に位する所にあります。一小島嶼であります本島の一郡(ママ、「部」?)三十四万坪の土地には既に大正五年以降、小鹿島慈恵医院と称する官立の癩療養所が設けられ、現在七百七十人の癩患者を救療して居るので今回其の残り百十余万坪の民有地を買収して全島を癩療養所に充てることゝなつたのであります。
本島内には現に民家が百四十二戸あり、之に九百人余の人が居住して居りますので之等の人々には誠に御気の毒ではありますが、勢ひ他に移転して貰はなければならぬのであります。移転に付きましては全羅南道当局に於て、家屋や土地の買上げ移転先の選定其の他に付出来得る限りの斡旋を為し、之に依て生活上の不安を来すことの無い様努める考で、島民と交渉を開始致しました処幸にも良く本事業の趣旨を諒解して、非常な犠牲的精神を以て何とも承諾して呉れた次第であります。」
「(ニ)小鹿島買収状況――四月四日先づ島内重立つた人々を招致して、評価決定の経過を詳細説明し直に売買契約を締結するに至り、引き続き全島民に対する契約を進めた処五日夕刻迄には殆んど全部の調印を了することが出来た次第であります。予て非常に憂慮して居りました買収問題が、斯く万事極めて順調円満なる解決を見るに至りましたることは、実に全羅南道当局の格段なる努力と島民の本事業に対する理解とに依るものでありまして、洵に感謝に堪へない次第であります。尚評価委員会に於て決定致しました額は二十六万四千八百八十七円でありますが、其の他にも墳墓碑石の移転料、農産物、漁船漁具等の買上補償等が残つて居りますので、尚相当経費を要する見込であります。」
「(ホ)今後の施設計画――然るに只今申上げました通、寄附金募集の成績は予想外良好でありました為に、本協会の総金額は当初予定の二倍以上に上りましたのと、更に此度患者の一斉調査を致しました結果に依りますと御手許に差上げてある表にあります通、総計一万二千二百四十二人に上り浮浪徘徊して居る患者丈でも二千四百六十一人に達すると、謂ふ状況で二千人収容致しましたのでは猶不足であるので、出来得れば今少し多数収容致し度いと考へて居る次第であります。
茲で一応皆様の御耳に入れて置き度いと考へますのは、収容所の新営設備に要する費用と収容後の経常費のことであります。
内地に於きましては、官立癩療養所たる岡山県下長島療養所は患者四百人収容に対し建築及設備費約百万円を費し、群馬県下草津療養所も一千人収容に対し百余万円の予算で只今建築中であります。猶内務省の三十年根絶計画には一人当建築費一千円設備費二百五十円計一万二千五百円を要することになつて居りますから、一千人の収容設備に対し百二十五万円を要する訳であります。
然るに朝鮮に於きましては、寄附募集の成績が良好であつたと申しましても七十万円足らずの金で三千人以上の収容設備を為さうと言ふのでありますから、其の設計及工事の能率に付ては非常な苦心を要するのであります。又経常経費に於ても内地に於ける療養所の経費は一人当三百円内外を要して居り、又内務省の三十年根絶計画には三百六十円を見積つて居ります。然るに朝鮮に於ては僅かに百二三十円で経理しやうと謂ふ計画でありますから、如何に困難であるか御想像を御願ひ致します。
で前申上げて置きました通、寄附金が多く集りましたから、当初の計画よりも更に一千人か又は一千五百人位多く収容する新営設備は出来得るのでありますが、併し収容に要する経常費、食費、治療費、等は政府より支出して貰はねばならないのでありますが、当初の計画の二千人収容の経常費に付きましては既に大体政府の内諾を得るのでありますが、新に増加せんとするものに付ては今後其の承諾を求めなければ
ならないのであります。
而して新営設備に要する経費に付きましては、仮に三千人収容することと致しまして計算致しますと、只今御手許に差上げてある概算書の通り六十四万二千七百五十円を要するのであります。」
(滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、朝鮮癩予防協会 第一回評議会開催、三五〜三九頁。資料一八、一七一〜一七五頁に収録。傍線は滝尾)。
(備考=滝尾)――@滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島(ソロクト)』未來社発行(二〇〇一年)に書いたように、「朝鮮癩予防協会が土地・家屋のすべての買収、各種の既得権の補償、立退きの交渉を僅か二十余日で終え、島民との契約を終了したことは、土地は市価の三倍を与え、墳墓一基に付き一五円乃至四〇円の移転料を支払い、家屋移転費二五円という比較的手厚い代価を与えたこともあった。同時に、一九一六年以来二度にわたる抵抗運動が失敗し、島民たちが永住希望を捨てた状態であり、総督府により脅迫と懐柔で住民たちが、自暴自棄の状態であったため、買収作業は外観上は比較的平穏な中で行なわれた」(一四六〜一四七ページ)。
しかし、一九三三年三月一八日の『東亜日報』が報じているように、総督府は、住民の万一を念慮して、百余名の警官の厳戒裡に小鹿島の土地・家屋買収が強行されたことは銘記されるべきである。
A総督府=朝鮮癩予防協会は、小鹿島療養所拡張計画当初から、「浮浪徘徊して居る患者」のみならず、在宅患者の小鹿島療養所への収容を考えていた。これは、ハンセン病患者の「強制隔離、終身収容」を意図するものであった。
B一九三〇年一二月に内務省衛生局が策定した絶対隔離撲滅計画である「癩の根絶策」は、前記の「池田清(総督府警務局長)」が述べているように、総督府は「内務省の三十年根絶計画」はよく了知し、且つ、参考としている。
第三項 周防正季の官立癩療養所長の就任と第一期拡張工事の開始
光田健輔(一八七六〜一九六四)は、何度か朝鮮を訪問し、朝鮮のハンセン病隔離収容計画について発言している。一九三三年七月二五日付けの『大邱日報』は「レプラ患者は隔離すれば減る、輸精管切断は自他とも幸福、来邱中の光田健輔氏談」との見出しで、朝鮮人ハンセン病患者の「隔離と断種」を主張している。これは、光田が長島愛生園長だった時に朝鮮ハンセン病事情を視察し(同年七月一六日〜二六日)、小鹿島にも立ち寄り、七月二二日にはソウルの総督府で警務局衛生課長の西亀三圭と会談をしている。話し合った内容は不明だが、おそらく『大邱日報』に報道された持論を、西亀警務局衛生課長に進言したものと私は推定している。長島に帰る前の二四日に大邱に立ち寄り、『大邱日報』記者に「隔離と断種」の談話をしているし、事実以後の朝鮮でのハンセン病患者に対して「隔離と断種」が強行されているのである。
その年の八月二六日に官立癩療養所・小鹿島慈恵医院長矢澤俊一郎が「依願免」で職を辞すと、京畿道衛生課長の周防正季(一八八五〜一九四二)が第四代医院長として小鹿島に赴任した。一九三三年九月三日の『朝鮮朝日新聞』の記事によると、「衛生警察の父と仰がる周防新任院長」(見出)で、「小鹿島国立慈恵医院長に決定した京畿道衛生課長周防正季氏は大正十年愛知県技師から京畿道衛生課長に転じ来り以来十三年間同課長として防疫衛生に力を注ぎ衛生警察の父といはれた人である」(滝尾英二編『〜資料集成』第5巻、新聞資料編、五八頁)という。
第四代の官立癩療養所長・周防正季によって、一九三三年九月以降、小鹿島療養所の第一期〜第三期の拡張工事が開始され官立癩療養所の運営が実行されたのである。
第四節 「朝鮮癩予防令」の公布と「朝鮮癩予防令施行規則」制定
一九三五年一月九日付けの『中央日報』は見出しで「癩病患者――強制収容・統制の癩防止令制定、警務当局で立案審議、発表は来四月頃」と報じている。
一九三五年二月二六日の『朝鮮朝日』は、「癩予防令は内地と大差ない西亀衛生課長語る」の見出しで、つぎのような報道をしている。
「東上中の総督府西亀衛生課長は二十三日朝釜山着同夜釜山発帰城したが近く公布される癩予防令につき語る。癩予防令は目下法制局に廻され審議中で施行細則も殆んどでき上つてゐるから遅くとも本年中には施行をみるはずで、その内容は内地のものと大差なく法令で患者の診察届出、予防消毒、収容隔離などを規定するものである、現在鮮内には約一万二千の患者がをり全南小鹿島に二千三百名、ミッションに約
千七百名収容してゐるが本年中に小鹿島に更に一千六百名を収容するから浮浪患者は殆んど跡を絶つであろう、その上に癩予防令が実施されたら取締りも万全を期することができる訳である。」(滝尾英二編『〜資料集成・第5巻』、新聞記事編、一四九頁に収録)。
また、同年二月二六日の『京城日報』は、「癩予防令は内地と同様のものだ、六千名を収容、絶滅が出来る、西亀さん釜山で語る」の見出しで、つぎのような報道をしている。
「【釜山電話】癩予防令打合せのため東上中の西亀本府衛生課長は廿二日朝釜山上陸、北行したが、鉄道会館に休憩中左の如く語つた。
朝鮮に施行される癩予防令は議会開催中で内務省その他が多忙のため意外に暇がかゝつたけれども、現地内地で実施されてゐる予防令と同様の内容をもつた朝鮮癩病予防令の実施をみることに決定した、今後は実行細則を決めればよいのである、朝鮮には現在癩病患者の数が一万二千名ゐる、その中全南の小鹿島に二千七百名その他外国人経営の私設病院に一千七百名収容してゐるが、当局は本年度中に更に一千六百名増加して、合計六千名を収容させる予定である、癩予防令が実施されるとなれば、強制隔離を実施するから、朝鮮の癩病患者は今後絶滅させることが出来るであらう」。
(滝尾英二編『〜資料集成・第5巻』、新聞記事編、一五六頁に収録。傍線は滝尾)。
一九三五年四月二一日の『東亜日報』は、「朝鮮癩病予防令、昭和十年四月廿日、制令第四号」を全文掲載している。これを見ると、同法は、国内では一九三一年四月二日公布された「癩予防法 法律第五十九号」のほぼその引き写しである。『東亞日報』も一九三五年四月二一日付けで「公衆場所出入を禁止◇全文十二条で構成◇朝鮮癩予令昨日発表」と見出しで報じている。
『京城日報』は、同日「朝鮮癩予防令公布、警務局長池田清談」として同法の解説をしている。そのなかで、池田警務局長は「……患者及家族に消毒其の他の予防方法を行はしめ、且一般公衆にも自衛的に予防の途を講せしめ病毒の伝播を防止し速かに本病の根絶を図らなければならぬのである」と述べ、また、同施行規則が六月一日から実施されることに言及している。(滝尾英二編『〜資料集成・第5巻』、新聞記事編、一六四頁に収録)。
国内で公布・施行された「癩予防法 法律五十八号(一九三一年四月改正)及び「癩予防法施行規則 内務省令第十六号(一九三一年七月十五日)」の内容は、山本俊一著『増補・日本らい史』東京大学出版会(一九九七年一二月)の巻末の所収資料(三三九〜三四〇頁)に依り、「制令第四号・朝鮮癩予防令」及び「朝鮮総督府令第六十二号・朝鮮癩予防令施行規則」は、『朝鮮総督府官報、第二千四百七十九号(昭和十年四月二十日)』に依りながら比較検討してみよう。
日本国内の場合、一九〇七年三月に成立した法律第十一号「癩予防ニ関スル件」を大幅に改正して、一九三一年四月に「癩予防法」として帝国議会に提出され、可決・成立している。それに対して、一九三五年四月に公布された「朝鮮癩予防令」は、朝鮮総督・宇垣一成が「明治四十四年法律第三十号第一条及第二条に依り勅許を得て公布」された「制令」である。この「制令」に基づき「朝鮮癩予防令施行規則」が定められた所謂「植民地法」である。
第二条(「朝鮮癩予防令」では第三条)には、行政官庁は癩予防上必要と認めたときは左の事項を行なうことを得」る項目として「朝鮮癩予防令」には、「二 癩患者に対し市場、劇場其の他の多衆の集合する場所に出入するを禁止すること」という内容があるが、国内の「癩予防法」のなかには、この項目がない。
国内の「癩予防法」は、その第三条で「行政官庁は癩予防上必要と認むるときは命令の定むる所に従ひ癩患者にして病毒伝播の虞あるものを国立癩療養所又は第四条の規定に依り設置する療養所に入所せしむべし」と書かれている。法律用語でいう「義務規定」となっている。一方、「朝鮮癩予防令」は、第五条に「行政官庁は癩予防上必要ありと認むるときは癩患者を朝鮮総督府癩療養所に入所せしむることを得」と述べられて、法律用語でいう「権限規定」となっている。
このような条文上の記載上の相違はあるものの、この法律が「絶対隔離絶滅政策」としてハンセン病患者の全員を隔離し、終身隔離により患者の絶滅をめざしていることは、国内でも、植民地でもいえることである。
では、なぜ朝鮮では「朝鮮癩予防令公布」が国内より四年も公布が遅れたのかというと、それは、絶対隔離・収容を可能とするハンセン病患者の収容施設が朝鮮ではなかったに過ぎない。一九三五年一〇月二二日の『京城日報』は「世界に誇る療養設備――小鹿島更生園(本館)けふ盛大な落成式 今井田総監はじめ多数列席」
といい、園長の周防正季も『京城日報』の同年一〇月二四日に「小鹿島更生園施設工事報告概要」を掲載している。第一期工事の完了である。そのことが、制令第四号「朝鮮癩予防令」の公布することを可能にしたのである。
国内の新聞・雑誌が植民地朝鮮で販売され、過剰なハンセン病の恐怖や優生思想によるハンセン病患者の「断種」することを煽ったことも、銘記すべきである。このことは、稿を改めて述べたいと思う。
第五節 収容患者数と収容率の激増
朝鮮のハンセン病患者は、一九三一年朝鮮総督府衛生課の調査に依れば、官立又は私立病院に収容中の者まで合せ八千三十一名であつた。その療養所別の内訳は、収容患者では官立小鹿慈恵医院が七三一人、私立療養所が一八二三人(麗水愛養園九〇九人、大邱愛楽園四七四人、釜山相愛園四四〇人)である。(朝鮮総督府学務局社会課『朝鮮の社会事業』、五六頁の「癩病患者療養」より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料三〇、九九頁に収録)。
さらに、一九三三年二月の鮮総督府衛生課のハンセン病患者の一斉調査によると、患者総数が一万二千二百六十九人である。その内訳は、収容患者では、官立小鹿島更生園が七九六人、私立療養所が一八一四人(麗水愛養園七七五人、大邱愛楽園四六一人、釜山相愛園五七八人)であり、収容患者数は合計二六一〇人であり、収容率は約二七%である。また、未収容患者数は九六五九人となっている。(朝鮮総督府「癩根計画に依る患者収容年次表」より。滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料一九、一七七〜一八三頁に収録)。
一九三八年度のハンセン病患者数を統計でみていくと、患者総数が一万四千百二十五人のうち、収容患者は、官立小鹿島更生園が五〇二五人、私立療養所が(麗水愛養園七〇四人、大邱愛楽園六六九人、釜山相愛園六一一人)計一九八四人で、収容患者数は合計で七〇〇九人である。未収容患者数は七二一六人であるから、収容率は五〇%に増加しており、それも、この七年間で官立小鹿島更生園の収容患者が、約七倍に激増している。(西川善方著『朝鮮小鹿島更生園を通して観たる朝鮮の救癩事業』、「昭和十三年度朝鮮癩患者数と其分布」より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料八二、三一三頁に収録)。
こうした官立療養所の収容患者数の激増と収容率の増加は、ハンセン病患者の収容を、患者全員を終生隔離するという絶対隔離へ向けた総督府の政策・施行に基づいたものだといえるであろう。
第六節 ハンセン病患者集落の焼却と破壊、取締りおよび「強制隔離」の強化
〜 朝鮮人ハンセン病患者の自主的集落の設立及び行政の支配・統制 〜
一九八六年八月一五日に朝鮮日報社から発行された安秉勲(編輯局長)編輯『朝鮮日報抗日記事索引(一九二〇〜一九四〇)』は、B5判・七〇六ページで、細かい活字で組まれており、わたしは、同じ朝鮮日報社から一九九五年三月五に発行された『朝鮮日報特輯記事索引(一九二〇〜一九四〇)』とともに、本書を編する上で重宝して利用している本である。
ところで、『朝鮮日報抗日記事索引(一九二〇〜一九四〇)』には、朝鮮ハンセン病に関してどのような項目が載っているかを調べてみた。衡平運動、新幹会、槿友会といった項目ほどには、「ナビョン」の索引項目はない。ハンセン病患者の中には社会主義者や民族主義者も少なく、目立つ運動も少なかったのかもしれない。(医療)の項に、一九三一年二月一〇日の「癩病者不安、慶北当局では、云々」と、一九三二年三月七日の「癩病患者処置に当局無誠意糾弾、全北道評議会」の二項目が目についただけである(四〇七ページ)。しかし、朝鮮総督府のハンセン病施策に対するハンセン病患者支配・統制に対し、自主的なハンセン病集落が設立され、行政への抵抗が行われていることを我々は忘れてはならない。この度、収録した「新聞記事」に見られる患者支配・統制と患者の抵抗についての記事をつぎに述べてみたい。
第一は、慶尚南道では東?郡西面戸谷里(そこを「赤崎半島」付近と日本人は呼んだ)に朝鮮人ハンセン病患者は集落を作り、相助会を組織した。相助会に付いて新聞はつぎのように書いている。
一九二六年一一月七日の『朝鮮朝日』は、「治療費の下附を陳情、癩病患者が」の見出しで「釜山郊外赤崎半島附近に集まる癩患百五十名は金教化を代表者として慶南道を通じて斎藤総督に対し一箇年間の治療費六
千四百余円の下附を陳情してゐるが彼等の欲求してゐる陳情書は悲惨な文字で綴られてあり道当局でも重大
な一社会問題とみてゐる。」(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞記事編、四一頁に収録)。
一九二六年一二月二日の『朝鮮朝日』は、「東?に巣喰ふ癩患者の群れ、相助会を組織し、共産的の生活をなす、補助金交付は却下さる」の見出しで、つぎのような記事を載せている。
「慶南東?郡西面戸谷里には二三年前から鮮人癩患者が部落をつくり年毎にその数を増して現在では百三十余名に上りそのは大部分が釜山府内に出て物貰ひをして歩くので府民の間ではいろいろな苦情を持ち出すものがあるが、彼等の間ではすでに昨年半ば頃、相助会を組織し二十戸の家屋さへ建築し一人前一箇月二十銭の会費を収めこれによつて重患者の食費および医薬料にあてるといふ共産村的の生活をやつてゐるとふが、この村長格の金敬化といふ男からこの程本府に対し年額六千四百円の補助を申請して来た……」(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞記事編、四二頁に収録)。
第二に、慶尚北道ではどうか。一九二三年一二月三一日の『東亜日報』は、見出しに「慶北達城(タルソン)に癩病患者の相助会◇病気の治療と伝染予防が目的、全朝鮮に患者が二万名以上◇」と書き、「……この癩病患者たちは、自分たち同士で団結し、生きる道を探すべく最近、大邱癩病患者相助会を設立したという。彼らはお金を寄せ合って共に治療を受けたり、互いを助けいたわり合うと同時に、他人に伝染しないよう努力していくという。(中略)現在、会長・総務・会計など五、六名の職員を有するが、この会の発展に従い将来は朝鮮各地に支部を設け、病気の治療及び伝染病の予防のため努力する計画であるという」(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞記事編、一七頁に収録)。
一九二七年三月八日の『朝鮮日報』は、【春きたれども春らしからず】のムンドゥン村訪問記の連載を行ない大邱のハンセン病患者集落のことを紹介している。第3回目の見出しは「三百人の大家族 共産を実施」云々と書き、つぎのような記事を冒頭に記述している。
「今は資本主義が極度に発達しているから、博愛の美しい看板を掲げるアメリカ宣教会が経営するこの大邱癩病院も、入院するには入院料として一年に百円という金銭が必要なのである。したがって、多少とも経済の余裕がある患者なら入院して治療を受けることは難しくない。しかし、この中でも金の余裕がない、現代語でいうところの「プロ」(プロレタリア=訳者)の患者たちは、そういった立派な治療を受けることもできず(中略)、大正十二年(一九二三年)十二月、……相助会というものを組織して、これら「プロ」の患者三百人あまりを集め、内塘洞にある西洋人経営の癩病院の裏に、「プロ」癩病村を設立し、以来四年間続いてきた……」。(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞記事編、五〇〜五三頁に収録)。
一九二四年三月二四日の『東亜日報』は、「癩病者相助会創設を聞いて」という題する統営海東病院・金尚用の論述を載せている。その一部で金尚用はつぎのように書いている。「……暗い天地に自分の不幸を嘆きつつ、ひどい病魔のみを恨んでいた諸君が、互いに団結して天賦の明るい幸福を求め希望の生涯を求めるため、治療と病毒の予防を目的とした自主的な相助会を組織したという。これは、患者二万人各自の慰安であり、復活の曙光である。満天下の有志は、諸君に同情の熱い涙を惜しまないであろう……」(滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞記事編、二〇〜二三頁に収録)。
しかし、多くの朝鮮植民者である日本人は、朝鮮人ハンセン病患者の自主的な村について、どのような眼差しと行為を実際に行なったのだろうか。
「癩患者の駆逐を講ず、釜山府の計画――【釜山】慶南警察部がこのほど釜山市内に蝟集する癩患百五十名を鮮内某々方面に送つて癩患追つ払ひの策を講じて以来市内を徘徊する患者はトミに姿をひそめたが当局ではさらに癩患八十名を狩集めて全南小鹿島療養所に送る手はずを進めてゐるが、本年中には輸送される見込みである、なほ当局では癩患の市内集団を防止するため所有する汚物は片つ端から焼却の方法をとつてゐるやうである」(『朝鮮朝日』一九二八年八月九日付け。滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞記事編、八一頁に収録)。
「大邱の癩患者五十余名を小鹿島に隔離――【大邱】当局の調査によると大邱附近にゐる癩病患者は約八
百名でうち四百名は外国人経営の癩病院に収容してゐるが残り四百名は府内外を横行して一般の迷惑危
険この上もないので警察では種々方法を講じてゐるも効果がないので府と交渉して最も重い患者五十名を全羅南道の小鹿島に隔離することとなり九月なかばに輸送するはず」(『朝鮮朝日』一九二八年八月一七日付け。滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞記事編、八二頁に収録)。
そうした中で一九二七年八月二九日には香椎釜山商業会議会頭ら役員六名が和田慶南道知事を訪問し、道内に放浪・徘徊するハンセン病患者の処置=朝鮮内の離れ島に患者の収容所を設置し、収容するように、長時間にわたり陳情している(一九二七年八月三一日『朝鮮朝日』、同日『朝鮮毎日』記事による。滝尾英二編『〜資料集成』第4巻、新聞記事編、六一頁に収録)。
朝鮮総督府慶務局衛生課長は、一九二八年五月一七日の『京城日報』記事によると、「伝染病予防令の改正に就いて」つぎのような談話をおこなっている。「……第三は伝染病患者に禁ぜられたる業務の関係であります」と述べ、諸種に職業に従事することを禁じ、多数の大衆が集合する場所に接する業務を禁止している。ここにいう伝染病患者は、ハンセン病患者をさすものはないが、この伝染病予防令が準用されたということは、諸種の例から推測できる。
そうした状況のなかで、警察や行政当局による「癩患者集落」の焼き払いを報じる記事が出てくる。
既に一九三三年五月一八日の『朝鮮朝日』が報じた「亀浦のハンセン病部落」の焼き払い事件は紹介したが、一九三一年一月二二日の『朝鮮朝日』の記事によると、慶尚南道固城郡でハンセン病患者を家諸とも焼き殺したという事件が発生している。一九三三年一〇月六日の『東亜日報』は、慶尚南道統営市民の脅威除去のためハンセン病患者の家々を焼却し、小鹿島へ六十名を送ったとあり、一九三五年一一月一九日の『朝鮮朝日』は、大邱署では大邱府外坪里洞、飛山洞および内塘洞に居住する百五十余戸にわたる患者部落を二八日に一斉に焼き払って、小鹿島行きか本籍地へ帰郷させたと報じている。滝尾英二編『〜資料集成・第5巻』、新聞記事資料に所収)。
大邱の「癩患者相助会」は、その後どのようになったのであろうか。
一九三五年一一月三〇日付けの『東亜日報』は、このことを報じてつぎのように記事を掲載している。
「大邱の名物癩病患者、今後は断然絶滅方針、小鹿島輸送と郷里への送還、癩患者相助会も解散」と見出しをして、「【大邱】大邸の名物となっていた癩患者が、これからは姿を消すだろうというので一万人の府民が歓声を上げる一方、同じ人間として病魔に呪われ、世間からあらゆる虐待を受けながら、結局穴蔵のようなすみかまで失い、絶海の孤島や冷たい扱いをする故郷の村に散らばって呪いの涙を流す癩患者たちの悲惨な状況を見ることになった。十五年前、朝鮮癩患者相助会が大邱で組織されて以来、道内数カ所に支部を置くなど集団的結成がなされるにしたがい、田舎から集まってくる乞食患者の数が格段に増え一時は数千人を数えるほどで、一般の衛生に莫大な影響を及ぼしてきた。昭和七年頃、朝鮮癩予防協会が発起してから、道内官民の寄付により、全南小鹿島に更生園を設置し、今年三月までに、前後四回にわたり慶北道内の患者五百人を輸送しており、五回目の今回が最後の輸送になるという」と報じている(滝尾英二編『〜資料集成』第5巻、新聞記事編、一九四頁に収録)。
一九三九年一〇月二八日の『朝鮮毎日』の報道記事には、つぎのようなことが報じられている。
「【釜山発】釜山府民の威脅とされてゐた同府大瀛里に集団居住する癩患者数百名は一人の残らず全南小鹿島の療養所に収容されることになつたが、釜山府はこの癩患者の居住した家屋は全部買上げの上焼却することに決定、十一月六日午後一時、府会を招集この経費三千余円の予算を附議することに決定した」という(滝尾英二編『〜資料集成』第5巻、新聞記事編、三〇八頁に収録)。
これはまるで、国内にける熊本市内であった一九四〇年七月の「本妙寺ハンセン病集落の消滅」事件と同じではないかと思った(拙稿「肥後本妙寺集落の消滅と「癩」集落の一掃」・『未來』一九九九年七月号・第三九四号を参照)。
本妙寺集落の消滅の問題は、日本ハンセン病政策・施行の非情さと非人間性を具現した事件である。しかし、この事件は多く論じられても、事件としては同じ内容をもつ事件が、その前年に日本植民地の朝鮮において起きている。行政権力等によって強行された、こうした植民地朝鮮で起きた事件を、日本でハンセン病関係者や朝鮮史研究者たちが、これまで問題視したことがあったのであろうか。
第七節 戦前・戦中の日本政府の加害責任、日本政府の戦後責任
第一項
日本国内のハンセン病患者隔離政策に関与し、同時に植民地朝鮮のハンセン病患者の隔離政策に携わった人物
日本国内のハンセン病患者隔離政策に関与し、同時に植民地朝鮮のハンセン病患者の隔離政策に携わった人物を、つぎにあげておきたい。
@ 山根正次(警視庁第三部長、代議士となり「癩予防ニ関スル件・法律第十一号」制定に関与、伊藤博文・曽弥荒助両総監、寺内正毅総督とも入魂の間柄で、朝鮮を併合した初期に朝鮮衛生顧問として活躍)。
A 光田健輔(第一区連合立府県全生病院長、国立癩療養所長島愛生園長、戦後の一九五一年に「文化勲章」を授与。正一位勲一等瑞宝賞を授与)。
B 高野六郎(内務省衛生局予防課長、厚生省予防局長、戦後は初代の藤楓協会理事長)。
C 皇太后節子(大正天皇の妻、大宮御所に朝鮮総督や癩官公立療養所長を呼び、ハンセン病施策やその実行を激励する。節子「下賜金」を与え、国内や植民地朝鮮の「癩予防協会」設立に寄与)。
D 西川義方(皇太后節子の侍医。皇太后に代わってハンセン病患者の隔離政策の必要を説き、皇室の御仁慈を語った。「皇室の御蔭で、癩事業も順調に遂行されて居る」とも書いている。)
E 関屋貞三郎(朝鮮総督府学務局長兼中枢院書記官長、静岡県知事、宮内次官)。
F 下村海南(本名・宏。官僚・新聞人。官界に入り、ついで朝日新聞社に入社。戦争中、一九四四年一二月二六日、勅令によって公布された「朝鮮及び台湾在住政治処遇調査会」のメンバーとなり、その後、鈴木貫太郎の国務相兼情報局総裁となっている。戦後は初代の藤楓協会会長を務めた)。
こうした人たちが、どのような発言や行動をとったかについて、つぎに紹介したい。
〔その一〕
朝鮮総督府嘱託として山根正次は、一九一三年十月三日に府郡書記講習会における講演会で、つぎのような講演をしている。
【例〇一】「癩病(大風瘡) 支那に於ては古来天刑病の第一として嫌忌畏怖せられつつあり(中略)千八百六十八年諾威のハンゼン氏に由つて癩菌を発見せられ後千八百七十一年同氏の確認報告あり又独逸のナイセル氏も伝染性菌の作用なることを確認公表せるありて遺伝病ならざることは証明せられたるも激烈なる伝染性を有するを以て其予防方法策は最も注意せさる可からす今より十六年前独逸に於ける患者数は僅僅三十八名にして之を人口七千万に比例せば到底東洋諸国に比較すへくもあらさるに拘はらず即ち千八百九十七年独逸に於て万国癩予防会議の開設せらるるありて欧州人は一般に頗る恐怖を以て迎へつつあり然るに印度及マダカスカル半島竝に日本の如きは実に世界に冠絶せる患者を有し朝鮮亦頗る多し豈に恐れても畏れさるへけんや
今其計数を示さむに(中略)(各道の実数示し=滝尾) 計 二二六五 内 内地人一四
右は警吏の報告する所に由る故に此外に隠匿せるもの又素人にては判明せさるもの等多数ありて実際は猶ほ頗る多きを想像するに難からす又内地に於ては毎年徴兵受験に際し約五百名の罹患者あるを常とせり是れは男子のみなるを以て女子にも同数ありとせは一千人となる此外に其年齢以上の者を想像加算せは蓋し多大の員数を得へし豈寒心の至りならすや(中略)
内地には既に法律も制定せられ隔離所も設備せられたれとも朝鮮にては費用の関係上等未た之に逮はさるを遺憾とす本病に就ては其治術も漸次進歩しつつあれとも恐るへき伝染性を有するを以て速に隔離療養等の方法に依り禍源の縮少に努めさるへからす二年後に至れは完全なる方法も制定せらるへきも先つ以て一定の集会所を設けて相当の職業を授くる位の事は焦眉の問題として講究せられたし且つ監獄等に在つては断然之を隔離し所謂別房に入るる事を為すべし
又鼠にも斯病あり而も人類の分と同種なりと北島博士の言へるあり鼠族に対して注意を要すへし」。
(山根正次「衛生講演」、『朝鮮総督府月報』第三巻第一二号、一九一三年一二月より。滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料三、二九〜三一頁に収録)。
この山根正次「衛生講演」内容が、国のハンセン病政策である「隔離療養等の方法に依り禍源の縮少に努め」
ること、ハンセン病は「激烈なる伝染性を有する」とか「恐るへき伝染性を有する」いう見解は、隔離限定にむかう当時の国際的・医学的知見・見解より逸脱したものであった。そして、患者の人権を無視した隔離方法と、ハンセン病は微弱な伝染力しかもたないという知見・認識ももたないものであった。しかし、総督府による植民地下朝鮮のハンセン病政策は、不幸なことにこの山根の見解の方向で推進されいく。山根の講演の三年後には、官立の小鹿島全羅南道慈恵医院が定員百名で、設立されたのである。この山根について、彼の没後十五周年の一九四〇年一〇月、光田健輔は『愛生』に追慕の記事を書いている。
【例〇二】「殿山山根正次先生を憶ふ 後進 光田健輔
山根先生は青山賀古森諸先生と同じく東大明治拾五年の卒業である。長州萩の出身であるから維新以来の先輩に知己が多かった。殊に山田顕義伯に抜擢せられて仏伊英瑞の法医学を研究し五年にして帰り、警視庁第三部長として帝都の衛生行政の衝に当り国民体位の向上急性伝染病花柳病結核病癩病の予防に就き貢献する所尠くなかった。後官をやめて郷里及東京市より選出せられ前後六回代議士となり議政壇上に衛生行政の不備を痛論し、花柳病癩及び結核予防法の発布に就ては大なる刺激を与へたるは当時の官民の等しく認むる処であつた。先生は伊藤曽弥の両総監、寺内総督とも昵近の間柄であつた。朝鮮の初期の衛生顧問として、明治の終りから大正五年迄朝鮮の衛生行政に貢献した。小鹿選択当時大正四年頃は先生から島か陸かの話をされ、実地検分に芳賀軍医監や佐藤氏などが向はれた事を聞いたが、今日内地でも朝鮮でも先生の関心事であつた癩予防の事業が、一大躍進を為した。先生在天の英霊は喜ばれる事であらう、京城に来りて先生を追憶する心が切なるを覚えた、先生は六十九歳で大正十四年八月二十九日東京落合で死なれてから、本年で丁度拾五周年となる。」(『愛生』一九四〇年一〇月号より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料八五、三五〇頁に所収)。
〔その二〕
光田健輔(第一区連合立府県全生病院長、国立癩療養所長島愛生園長)は、既に多く書かれているように、全生病院長時代には林文雄医師を、また、国立癩療養所長島愛生園長時代には田尻敢医師を小鹿島に視察・派遣さすとともに、光田自身も書記の宮川量を伴って、一九三三年七月には朝鮮を訪問。その間、小鹿島にも訪問している。(宮川量「光田園長朝鮮旅行日程」より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料三七、一二一〜一二二頁に収録)。光田はソウル滞在中、朝鮮総督府警務局衛生課を訪問し、衛生課長で朝鮮癩予防協会常務理事の西亀三圭と談合している。その後、七月二四日に大邱へ寄り記者会見して「レプラ患者は隔離すれば減る、輸精管断切は自他とも幸福」との人権無視の談話をしているのである。(滝尾英二編『〜資料集成』第5巻・新聞資料編、五四頁に収録)。
光田が再度、小鹿島を訪問しているのは一九四〇年九月四日に第十四回日本癩学会が小鹿島更生園を会場として開かれたときである。その時のことを光田健輔は『愛生』に「小鹿島更生園参観」と題して書いている。(『愛生』一九四〇年一〇月号より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料八四、三四九頁に収録)。
本「意見書」では、光田が国内との関連で、植民地朝鮮のハンセン病の問題情況をどのように書いているか二つの資料を挙げておきたい。
【例〇三】「癩予防の新捗(光田健輔) 私は只今御紹介を戴きました長島愛生園の光田と云ふ者であります、本県の知事閣下(鳥取県知事・立川清辰=滝尾)、熊野衛生課長は癩の権威者であらせられて、私共が長島に来ない前東京に居ました時に屡々御目にかゝつたのであります。(中略)
斯う云ふ状況にあります癩病を一日も早く此の鳥取県からなくしてしまう必要があると云ふので今回立川長官が思ひ付きになりまして、大奮発をされたのでありますが、県民の皆さん方も之に心を協せられまして、今日此の企を成就せられたのであります。立田知事は曽つて朝鮮に居られた時も、朝鮮の癩患者の為めに非常に御心配をされました。朝鮮にも以前総督府がやつておつたのは百七十人しか収容が出来ない病院であつたのであります、処が朝鮮では「イギリス」や「アメリカ」の宣教師の人が一千八百人程の癩患者を収容する病院を造つて其の治療をして居るのであります。此の一千八百人は三ヶ所に分け六百人宛収容されて居りましたが、其の療養所の周りには常に入院し度いと云ふ病人が方々から集まつて来ているのでありますが、それは病人を定員以上に収容しているから狭くて収容し切れないのでありまして遂には其の周囲に是等収容し切れない癩患者の村が出来たのであります。(中略)処が此処の病院には日本の人は二百人程しか入つて居りませんが兎も角「アメリカ」と「イギリス」とで一千八百人余りの人を容れるやうにして居つたのでありますが、昭和七年に 皇太后様の「癩を早く救へ」と云ふ御令旨に依つて朝
鮮でも総督府で非常に心配されて、それで朝鮮にも鳥取県にあるやうな癩予防協会が出来まして非常に完備されているのであります。今は四千人位の患者を容れるやうな立派な病院が出来て居ります。又最近之を拡張して五千人収容すると云ふやうなことになつて居りますが、さう云ふやうな働きを朝鮮でなさつた知事さんであります。
でありますから鳥取県に御出になつても癩病患者があるのを御覧になつて此の施設を思ひつかれたのであります。全国どの県に行つても今は癩患者収容の為に努力を払つて居るのであります。それで段々癩病が少なくなつて行く傾向でありますが、どうか皆様も立田長官の此の御企に御賛同下さいまして県民一致協力癩予防協会の趣旨に御協力なさつて速かに無癩県を実現される様祈つて已まない次第であります。」(「癩予防協会創立記念講演会『鳥取県の無癩運動概況』鳥取県癩予防協会、一九三八年八月より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料七五、二九四〜二九七頁に収録)。
(註・鳥取県知事の立田清辰は内務官僚。一九三三年度には朝鮮総督府警務局警務課長であり〔京城日報社・毎日申報社編纂『昭和九年度・朝鮮年鑑』一九三三年九月発行、五五六頁〕、一九三六年四月には鳥取県知事に就任している。総督府警務局勤務時代の立田清辰の上司は警務局長池田清であり、池田は朝鮮癩予防協会副会長兼理事長であった。一九三三年四月には小鹿島の民有地の全部を買収した年でもある=滝尾)。
【例〇四】「小鹿島更生園長周防博士の逝去を惜む 長島愛生園長・光田健輔
六月二十日午前八時朝鮮全羅南道小鹿島更生園の周防正季園長は月例報恩感謝行事を執行せんとするに当り、突然患者の列中より躍り出てたる患者李何某の為めに食刀を以て右肋骨部を刺され、九時半遂に逝去せられた、誠に遺憾千万の恨事である、犯人は生来凶暴で入園以来事を構へて数々口論暴行を敢てしたる不良の徒であつた。(中略)
回顧するに小鹿島療養所は日韓併合の際、畏くも 明治天皇陛下より朝鮮窮民救療の思召の御下賜金を基金として小鹿島の西端三十万坪を買収して百人の癩患者を収容したるに始まり蟻川、花井、矢澤の代々の院長により漸次に拡張が行はれ昭和七年末には七百九十二名の患者を収容するに至つた。然るに半島南部に於て浮浪癩は大邱、釜山、順天に於ける英米系宣教師設立の癩病院に殺到蝟集し、収容を得ざる為めに所々に乞丐し誠に日本の対面を汚がすものがあり、一方昭和五年十一月十日畏多くも 皇太后陛下より癩者給りたる御軫念に恐懼感激いたる宇垣総督以下幕僚により昭和七年十二月朝鮮癩予防協会の設立を見るに至り其資金により全島百四十八万七千六百坪を購入し、昭和八年九月周防園長となり着々として拡張の歩武を進め昭和九年十月には小鹿島更生園と買い改称し一躍二千百九十八名を収容し、昭和十年末には三千七百三十三名、昭和十二年末には四千七百八十三名、昭和十五年末に於ては六千百三十六名の患者を収容し、其規模の雄大なる事実に世界一の称を得た、此れは皆周防園長の計画が一々宜敷を得総督府当局の賢明なる努力の結果である、例之患者住居の如きは患者を使役して煉瓦を焼かしめ半島風土風俗に順応して「オンドル」式家屋を建築し比較的狭き室に多数を住ましめた、主として朝鮮全羅南北慶尚南北四道より来りたる患者は自箇従来住宅よりは清潔にして遥に衛生的なるにより皆満足した、煉瓦の如きは生産過剰なる場合外部に売り出すに至つたと云ふ、又食料中主食物は大部分半島より輸入せられたが、副食物には明太魚大口魚等其他新鮮なる魚獣肉を時々配給せられるの外、副食物の大部分を占むる野菜は各舎に一定の畑地を与へ此れに栽培したるものを自給的漬物として朝鮮独特の瓶に貯蔵せしむる等、其塁々として並列する様は恰も朝鮮の金持部落を通過する観がある、(中略)。
嘗て米国が世界一と誇つた「クリオン」癩療養所も患者住宅と云ひ、病室研究室事務室と云ひ其他電力電灯電話水道の施設ち云ひ殆ど比較にならぬ程更生園の方が優れて居つて恐らく世界一の癩療養設備と云ふても決して溢美の言ではない。此れが皆周防園長の血と汗の結晶である、伊藤公は朝鮮人の為めによく計られたが、終に「ハルピン」駅頭無知の凶漢安重根の為めに倒れた、周防園長も朝鮮の同胞を善処せしむる為めに渾身の努力を惜まなかつたが遂に園長の愛の精神を酌む事の出来なかつた一凶漢の為に一命を落した、誠に惜しみても余ある事である。」(「小鹿島更生園長周防博士の逝去を惜む」光田健輔、『愛生』一九四二年八月号より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料一〇〇、三九四〜五頁に収録。傍線は滝尾)。
光田健輔の【例〇四】の文中に傍線をつけた箇所からでも分かるように、光田は一貫して日本治世下にあるハンセン病患者の存在を「日本の対面を汚がすもの」として捉えて「民族浄化論」を主張している点である。また、本「意見書」の第T章・第U章で明らかにしたような小鹿島更生園収容患者の医療と生活の貧弱さ、人権無視の園の運営には目をそらし、もっぱら「恐らく世界一の癩療養設備と云ふても決して溢美の言ではない」
と規模の巨大さのみを賛美していることである。光田健輔の見解は、患者のいりょうと生活をみようとしない
医務官僚の見解であったといえよう。
ついでながら紹介すると、日本政府の大蔵省管理局が敗戦直後の一九四七年月に発行した『日本人の海外活動に関する歴史的調査(朝鮮編)第八章「衛生行政とその実績」の第五節の三には「癩の予防救療」の項があり(一二〇〜一二六頁)、そのなかで、つぎのように主張している。
【例〇五】「一九三四年(昭和九年)九月新に「朝鮮総督府癩療養所官制」が公布せられ、従来の小鹿島慈恵医院を廃止し総督府立癩療養所として小鹿島更生園と命名した。その後更に同協会(「朝鮮癩予防協会」=滝尾)の援助により二千人分の収容施設が拡張せられ、従来の能力を加え合計六千を収容し得る一大機関が完成し、こゝに多年の懸案であつた浮浪患者は素よりその他特に隔離を必要とする患者の殆ど全部を収容することゝなつた。従来世界各国の療養所中「フイリツピン」のリクオン癩療養所が患者約五千人を収容し最大のものであつたが、更生園が規模に於ても内容施設の充実に於ても世界中最も完備せるものとなつたのである。
更にこゝに附記すべき必要あることは患者の処遇である。癩は他の疾病と異なり極めて慢性の経過を辿り、一般社会から最も嫌悪せらるゝものであるから、患者の大部分は殆ど生涯療養所生活を営むことゝなるので、適当なる教養を与うると共に日常の生活を楽ましむる施設を最も必要とする。(中略)
往々此の種の療養所に見るが如き者は極めて少なく、克く自制して逃亡又は風俗上の問題を起すことも少なく、前途に希望と光明とを認めつゝ療養を受けつゝあるのである。
前に述べたる如く更生園が斯くも完備せる施設となつたのは主として朝鮮癩予防協会の努力に負うもので、同協会の癩事業が齎らしたる功績はまことに偉大なるものである。因に故周防園長(同協会理事)が建設に当り尽したる献身的努力に対し朝鮮文化功労賞を授けられたることや、曽つて宇垣総督が新聞記者の集りに際し、朝鮮が世界に誇るべき三名物があるがそれは何々かとの質問に対し記者等は第一は金剛山の勝景第二は興南の水力電気さて第三は首を傾けた際提督は破顔一笑小鹿島更生園の施設と云われたと云うヱピソートに見ても、此の事業が如何に大きい意義あるものであるかゞ窺われるのである。(中略)
『朝鮮癩予防令』の公布。
上述の如く本病予防上の必要条件たる患者の収容隔離機関が蓄して拡張されたので、一九三五年(昭和十年)四月二十日制令を以て『朝鮮癩予防令』を公布した。本令は癩患者の強制収容、消毒其の他予防上必要なる事項を規定したもので、同時に府令を以て発布せられた『施行規則』と共に同年六月一日より施行せられた。本令は患者の強制収容につき法の根拠を与えたものので、従来の不徹底を改め救療施設と相俟つて、本病の予防上に稗益すること大なるは云うを要しないところである。
癩救療事業に対する御下賜金及国庫補助。この事業に関し特に述べなくてはならぬことは 皇室の有難き御思召である。」(大蔵省管理局編・発行『日本人の海外活動に関する歴史的調査(朝鮮編)』第八章「衛生行政とその実績」一二二〜一二四頁。傍線は滝尾)。
この大蔵省管理局編・発行『日本人の海外活動に関する歴史的調査(朝鮮編)』(一九四七年)の記述は、光田健輔の見解と軌を一にしている。このことについて、先に私は自著のなかで、つぎのように述べておいた。(滝尾英二編著『日帝下朝鮮の「癩」政策と小鹿島に生きた人びと』(日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集〔第2輯〕、一九九五年一一月。人権図書館・広島青丘文庫発行を参照)。
【例〇六】「『朝鮮人と癩』についての光田証言(一九五一年十一月の参議院厚生委員会での「三証言」=滝尾)には、大きく分ければ二つの問題がある。一つは、『植民地時代に日本は韓国によいこともした』という江藤隆美総務庁長官発言にみられる『妄言』の系譜を、光田発言に感じる。二つ目は、『内地においては二千とか三千くらいまだ(在日朝鮮人の=滝尾)癩患者がある』(光田証言)が、その『朝鮮の癩患者が昔の日本の浮浪者の代りをしておつて、これが盛んに内地に伝播せしめておる』という証言内容である。
第一の問題であるが、それは四七年の『日本人の海外活動に関する歴史的調査(朝鮮編)』(一九四七年)の大蔵省官僚やそのブレーン学者の言い分、六七年の荻原彦三ら『友邦シリーズ』で『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』を書いた人たちの主張と同一線上にある。つまり、植民地時代の日本の『朝鮮統治の本質を表徴する善政』・『総督政治の誇るべき偉業』として、小鹿島更生園をとらえていることである。光田は戦前・戦中に朝鮮の癩と小鹿島更生園について、何編かの文章を書いている。光田証言は、戦前の主張をくり返している。
藤楓協会理事長濱野規矩雄が六四年十一月に愛生園で述べた『間違った日本のらいの行政が強力に行なわれ韓国人が迷惑された。謝りたいのです』といった反省の思いを光田健輔はまったく持っていない。そればかりか、光田証言は『日本の管理下にあるときには六千人充実いたしておりました‥‥小鹿島の状況なんかをよく観察して、そしてそこに日本の力を加えてやる、或いは国際連合の力を加えてやる、そうして元通りに復興さしてやるというようなことが必要』だといっている。
光田に問われるものは、小鹿島更生園のレンガ造りの建物や収容患者数の多いさではなく、収容された朝鮮人癩患者がどのような『保護・治療』を受けてきたか、を医師の目でたしかめることではなかったか。たとえ『救癩の旗印を掲げて隔離を最善と信じ、そこに生涯を賭けた人』(日本らい学会「らい予防法の廃止を求める」統一見解、一九九五年四月三月二十二日)であったとしても、小鹿島をはじめ朝鮮全土でくり拡げられた『無惨さを黙視』することは、植民地支配をしていた日本人として、許されることではない」(三八〜三九頁)。
滝尾英二編著『日帝下朝鮮の「癩」療養所と周防正季―「癩」に関わった朝鮮総督府の医務官僚たち―』(日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集〔第3輯・下〕一九九六年三月、人権図書館・広島青丘文庫発行)では、つぎのようにも書いている。
【例〇七】「周防を刺殺した李春相の裁判か光州地方法院で行われていた一九四二年の八月一日、『楓の蔭』第一三六号は『六千名の慈父と仰がれた周防小鹿島更生園長の殉職、世界一大療養所建設の功労者』の見出し記事のなかで、
『‥‥周防正季氏は去る六月二十日(中略)慶北星州県生れ李何某(二七)によつて致命傷を負はしめたもので園長は同日午前九時四十分遂に殉職死亡するに至つた。犯人は‥‥性来凶暴で入園以来しばしば事を構へて口論し、暴行を事とせる不良で同病者間においても憎悪せられ居つた者、従つて看護長より訓戒を受けたことも一再ならず、また本年二月帰郷を願ひ出たるも、その不良性に身持不修の故を以て許可せられなかつた‥‥』
と、朝鮮総督府石田局長の談をそのまま載せている。ついで、同誌の記事は、次のことばで括っている。
『今回の周防博士の遭難が一不良患者の偏見に因るとは申し乍ら朝鮮に於ける、癩療養所の救世主とも称すべき恩人であり嘗つては同園入園患者の手により二三年前に胸像が建設されたのを見ても園長の功績が偲ばれるのである。』
(参考=滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料九九に所収資料。また『楓の蔭』は、一九四二年八月一日より日本MTL(NIPON MISSION TO LEPERS)が名称を『楓の蔭』と改称し、機関誌名も改変したものである。)
事実を事実としてみない、現地にも行かず、行っても患者の声や生活・医療実態も知ろうともせず、ただひたすらに朝鮮総督府と園当局の出す資料のみで周防正季、また周防を刺殺した李春相を書けば『楓の蔭』のような記事になってしまうのだと〔反面教師〕の姿をみる思いで読む。それは今も昔(当時)も変りないことである。
『楓の蔭』第一三六号が出た同じ八月、長島愛生園長・光田健輔は、「小鹿島更生園長周防博士の逝去を惜む」と題する文を『愛生』第十二巻第八号に掲載した。
光田の論旨も同じく、周防を『愛の精神をもつ救癩者』、李春相を『凶暴な不良の徒』として記している。
【例〇八】「(中略)伊藤公〔伊藤博文〕は朝鮮人の為めによく計られたが、終に「ハルピン」駅頭無知の凶漢安重根の為めに倒れた、周防園長も朝鮮の同胞を善処せしむる為めに渾身の努力を惜まなかつたが遂に園長の愛の精神を酌む事の出来なかつた一凶漢の為に一命を落した」。
周防正季が伊藤博文なら、朝鮮人癩患者にとって李春相は安重根はである。光田のいう『朝鮮人の為めによく計られた』伊藤博文、『無知の凶漢』安重根という二人の形容詞は許し難いが、周防正季=伊藤博文、李春相=安重根の対比・構図の光田の意見には、私も同意し賛成である。
李春相が生命を賭して、周防を刺したのは何故か。法廷で何を訴え、何をいおうとしたのか。朝鮮総督府判事の書いた『死刑判決文』(参考=滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料一〇一〜一〇三に所収資料)という偏見に満ちた文章のなかになお窺える李春相のおもいを探っていきたいと思う」(八六〜八七頁)。
一九四三年三月五日付け『朝鮮総督府・官報』(第四千八百二十五号)によると、
【例〇九】「彙報○司法、警察及監獄」に記載された「死刑執行 慶尚南道釜山府瀛州町四百七十七番地星山
春相ハ大邱覆審法院ニ於テ殺人罪ニ依リ死刑ノ判決ヲ受ケ昭和十七年十二月七日上告棄却セラレタル処昭和十八日二月十九日大邱刑務所ニ於テ執行セラレタリ」という。
李春相が、周防正季園長を刺殺した一九四二年六月二〇日から僅か半年後に、処刑が執行されたのである
〔その三〕
高野六郎は、内務省衛生局予防課長を経て、厚生省予防局長となり、戦後、後述する皇太后節子の死去により、その遺金および国民から募金を集めて、それらの基金として一九五二年六月一三日に設立された財団法人・藤楓協会の初代の理事長となった。高野は、財団法人癩予防協会が一九三一年に設立したときの同協会の常務理事であり、戦前・戦中を通して、国内は勿論、日本が植民地におけるハンセン病政策の樹立とその実施中心的に深く関わってきた。とりわけ、朝鮮総督府警務局の西亀三圭衛生課長や第四代小鹿島更生園の周防正季園長とも密接な交流・連携があり、植民地朝鮮のハンセン病政策推進の指導的役割を担っている。つぎに資料によってその一端を伺ってみよう。
【例一〇】近頃私の最も遺憾とする所は星塚敬愛園の落成式に出席し得なかつたことである。当時私は朝鮮に居た。朝鮮も小鹿島更生園の落成式に臨席のためであつたのだから、之も癩のための旅行であつて、更に朝鮮にある三個の私立癩療養所をゆるゆる見学などしてるうちに、鹿児島まで行く時がなくなつてしまつた。従つて出来上つた敬愛園はまだ見ていない。」(高野六郎著「敬愛園の誕生」、林文雄編『星座・第一輯、建設篇・再版』一九三六年発行より引用)。
【例一一】此の時朝鮮癩予防協会が組織され官民協力して約百五拾万円の資金を作り、之によつて小鹿島全部を買収して全島を癩事業に使用し、四千人の患者を収容する計画が樹立された。即ち三千余人分の収容施設を一挙にして癩予防協会の手によつて新設し、之を政府に寄贈し、維持経営は政府に任せやうといふ計画である。尤も協会とは云ふものゝ其の実朝鮮総督府の池田警務局長や西亀衛生課長が中心となつて居るのだから、建設も経営も最初から政府でやつてるのと少しも差はない。只初から政府の予算を取つて拡張する代りに官民の義捐に訴へて設備を一息に作り上げ、有無を云はさず之を政府へ押しつけて経常費の支出は当然のやうに進行させた所が此の事業のやまである。此のやまは美事に当り寄附金は予想以上に集り計画は最初よりも拡大され、此の秋遂に四千人収容の癩島が完成し、十一月二十一日(一九三五年=滝尾)を期して落成式が行はれることになつた。朝鮮当局の満悦は察するに余りあるが、かくの如き立派な癩療養施設の出来上つたことは日本国民の保健衛生に関心を持つものゝ非常な歓喜である。又本邦衛生事業界に於ける近来の快打として礼賛される価値が十分あると思ふ。(『公衆衛生』第五巻第十一号より『愛生』一九三六年一月号に転載。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料六一に収録)。
〔その四〕
皇太后節子(大正天皇の妻)が、朝鮮ハンセン病患者の絶対隔離収容政策を激励・支援したことに関して、滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第7巻、不二出版(二〇〇三年七月)発行の「解説」の「ハンセン病患者の隔離・収容を推進した皇太后節子の政治的・社会的役割」なかで、つぎのように私は述べておいた。
【例一二】一九三三年四月の道知事会議に於いて朝鮮総督・宇垣一成は、次のような訓示を行なっている。「従来我が朝鮮の屡 皇室より優渥なる御沙汰を蒙り洪大なる 天恩に浴しましたことは、各位と共に平素只管感激致して居る所であります。(中略)皇太后よりは今般財団法人癩予防協会設立に際し、巨額の御 下賜金の御沙汰を拝したのであります。斯くの如く重ね重ね優渥る 天恩に浴しまして、寔に恐縮感激に禁へぬところであります。予は謹みて 聖旨 令旨を奉体し、夫れ夫れ適切なる実施計画を樹て之が処理の完璧を期して居る次第であります。各位に於いても一層部下を督励して慎重事に当り、畏き 聖旨 令旨に副ひ奉る上に萬遺憾なきを期せられ度」と述べている(第3巻所収資料一七=道知事会議に於ける総督訓示要旨)。 宇垣一成総督は一九三一年七月八日に、大宮御所に参向し皇太后節子と会い、「朝鮮の事情に関して御下問あり」(『宇垣一成日記』)、また、本『〜資料集成』の第3巻「解説」にも述べたように、一九三五年七月十三日にも宇垣は大宮御所に参向し、皇太后節子に「朝鮮の社会事情就中癩予防及び患者退治に関する状況」の説明を行っている。
さらに、朝鮮総督府『昭和六年小鹿島慈恵医院年報』には、「昭和五年十一月十日 皇太后陛下ノ御思召ニ
ヨリ内鮮各癩療養所ニ対シ患者慰安ノタメ御内帑金ノ御下賜アリ本院御下賜金二千五百円ハ院長 大宮御所ニ参内コレヲ拝受」とある。しかし、小鹿島更生園発行『年報』の各年版が冒頭に「皇室ノ御仁慈」として書かれ、皇太后節子のハンセン病についての事績を掲載し始めたのは、一九三八年版以降である(本『〜資料集成』第1巻、第2巻参照)。『昭和十三年年報』には、「昭和十三年五月十七日畏クモ 皇太后陛下ニ於カセラレテハ官公立癩療養所長会議ニ出張中ノ当園長ニ特ニ単独拝謁被仰付旨ノ有難キ御掟ヲ拝シタルニ依ル園長周防正季ハ同日大宮御所ニ伺候シ御座所ニ於テ一時間十分ノ長時間ニ亘リ独拝謁ヲ賜ハリ当園ノ現況及ビ鮮内ノ癩患者ニ関シ委曲言上シタルニ痛ク癩患者ノ身ノ上ヲ御軫念アラセラレ御優渥ナル御問及有難キ御言葉ヲ拝シ恐懼感激謹奉答」と書かれてある。
皇太后節子が、ハンセン病患者の強制隔離に果たした政治的・社会的役割は大きい。この節子の生涯を寸描してみよう。節子は一八八四年六月二十五日、東京錦一丁目において九条家の第四女として生れた。父親は道孝、母親はいく子で、その年の七月より施行された華族令に基づき公爵の礼を享けた。一八九九年の七月、十五歳で皇太子妃(後の大正天皇・嘉仁妃)に内定し、翌年の五月十日に結婚した。結婚当時の写真を見るとまだ、幼顔の少女である。結婚後ちょうど一年目に男子が誕生する。後の昭和天皇・裕仁である。
岩波書店『図書』六三八号(二〇〇二年六月号)に、「〔座談会〕天皇と王権を考える」が掲載されている。そのなかで、『大正天皇』(朝日選書、二〇〇〇年十一月)の著者・原
武史は、「皇后や皇太后についていえば、私は昭憲より貞明のほうが重要だと思います。あまり知られていないけれども、昭和天皇が戦後巡幸をやっていた同じ時期に、実は貞明皇后も巡啓をやっているのです。養蚕や絹織物の生産に強い関心を持って」と述べ、共同通信社の高橋 紘は「いろいろな方の日記に、皇太子殿下(昭和天皇)と大宮御所(皇太后)との関係をもっとよくすることが懸案として記されています。西園寺公望の記録(『西園寺公と政局』)をみると、貞明皇后があまり政治に口出しをするので、『女の方はあまり出さないほうがいい』とやんわりたしなめる話なども出てきます」と言っている」(五〜六頁)。
小鹿島へ行くと、島の中央部の旧「患者地域」の中央公会堂前には、島の入所者を睥睨するように巨大な「石碑」が建てられている。現在は、皇太后の歌文が印刻された碑文はコンクリートで塗りつぶされ、その上に『敬天愛人』の四文字が彫りこまれている。これがいまなお残る皇太后節子のかつての「歌碑」である。シム ジョンファン著『あゝ、七〇年―輝かしき悲しみの小鹿島』には、この「歌碑」建立の経過を、つぎのように書いている。
【例一三】「周防園長は、貞明皇后から御歌までもらった。畏れ多くも拝受した御歌だから、園当局は御歌碑を建立し、長く記念することの計画を進めた。島内には適当な石がないため、四方八方物色し、遠い十字峰(西生里)附近で発見し、運搬してきた岩に一首を刻んだ。
御歌碑文
つれづれの友となりても慰めよ
行くことかたきわれにかはりて 【註・「つれづれの〜」の歌は、一九三二年一一月一〇日、
「大宮御所御歌会御兼題 詠歌」での皇太后節子の作である。】
御歌碑は公会堂前面(現・敬天愛人碑の場所)に建てた。一一月中旬に挙行された除幕式には、総督府政務総監、全南道知事、警察署長、そしてウイルソン愛養園長、フレッチャー愛楽園長等か来賓として出席した」(二六〜二七頁)。
小鹿島更生園発行『昭和十四年年報』の冒頭には、「皇太后陛下御歌碑の建設」と題して、つぎのように書いている。「島内病舎地帯山林中に(中略)推定重量四千貫」、つまり小鹿島の西北に位置する島で最も嶮しい十字峰(西生里)附近で発見した推定重量一万五千キログラムの巨石を重症・不自由者を除く全患者を動員して、奉仕作業で行なわれ、ほぼ島の中ほどにある中央公会堂前まで運搬させたのである。岩石を運んでいる「患者作業の一部」を写した写真は、小鹿島更生園発行『昭和十五年年報』の巻頭ブラビアとして掲載されている。これが「皇太后陛下の御仁慈」(『年報』説明文)の実態である。
【例一四】「(前略)昭和十三年六月二十五日 皇太后陛下御誕辰日に際し患者一同の零細なる醵金に依りて相当の資を得ると共に爾来碑文を物色中の処幸に島内病舎地帯山林中に格好の石材を発見したるが推定重量四千貫ありて之が運搬に付ては特殊機械の装置に依るに非ざれば不可能なる為早急に着手し得ざりし処収容患者に於て『吾々多数患者の真心籠めたる一致団結の力を以てせば如何なる大石と雖運搬し得
べし』とて頻りに着工を促す所ありたるに依り研究の上神楽桟を利用して巻取ることとし職員と共に運搬に着手したる処重症、不自由を除き全患者出動協力一致之に当りたる為予想の進捗を見僅々数日を出でずして建設予定地たる中央公会堂前に搬入を了へたるが右運搬は碑文建設全行程中最も難事とする所にして職員の指導宜しきを得たると患者の赤誠を籠めたる団結の力に外ならず。
而して御歌の揮毫は豫て大谷皇太后宮太夫に依頼しありしを以て之に依り園内職工彫刻に当り基礎其の他の諸工事は職員指導の下に患者の奉仕作業を以て極めて順調に進捗し昭和十四年十月下旬全行程を完了し十一月二十五日完成式に際し多数官民有志参列の下に盛大なる除幕式を挙行したり。
石 碑 高さ 一丈三尺 (三メートル九〇センチ=滝尾)
幅 七尺 (二メートル一〇センチ=滝尾)
厚さ 二尺 (六〇センチ=滝尾)」。
(小鹿島更生園発行『昭和十四年年報』より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、資料二、一一九〜一二〇頁に収録)。
〔その五〕
皇太后節子の侍医西川義方は、皇太后に代わってハンセン病患者の隔離政策の必要を説き、各所で皇太后の「御仁慈」を語った。つぎに挙げるのは、一九四〇年九月四日、第十四回日本癩学会が小鹿島更生園で開催された際、この会に参加し、西川義方は周防園長、その他の職員に導かれて、志賀潔と共に、運道場の上の小高い丘から居並ぶ男女収容患者四千五百名に向かっての訓話である。通訳は呉淳在(創氏改名で呉堂淳次)である。皇太后節子の侍医・西方の訓話は、まさに同化政策の推進であり、また、朝鮮人を戦争に動員するための「国体明徴、内鮮一体」論であった。それが、かずかずの戦時下の収容患者への強制労働強化へと繋がる途であったことを、われわれは銘記しておく必要があろう。
【例一五】「今や、世界は、大動乱の真最中でありますが、我等の皇国は、時、恰も悠久二千六百年の記念すべく慶賀すべきよき年であります。朝鮮では、更に、始政三十年の記念すべく慶祝すべきよき年に当つてをります。(中略)
元来、幸といひ、不幸といひ、要するところ、それは凡そ、己れの心の裡、己れの心の底にあるものであります。私達は、皇国臣民としての幸福を、この心の底から、盛り上らせ涌きたぎらせるやうに、いよいよ、ますます、精進せねばならぬのであります。居は心を移す、と申しますが、静かな海に護まれた、この常安の島に、衣食住、全てに亘り、四季を通じて、何の心配もなく、その日その日を、満ち足らい送り得る、斯様な幸福を持つてゐる人は、世界いづこに、幾人ありませうぞ。
その上に、進歩した皇国日本の医学の恩澤を、遺憾なく受けてゐられる。このやうな幸福は、世界いずれの国の癩患者にありませうぞ。
更に畏多いことは、 皇太后陛下から、難有い御仁恵の御思召を、拝戴してゐることであります。而も、勿体ないことには、それが、数次にも渡つてゐるのであります。あの 御歌を拝しますと、「自分が行つて、じきに慰めたい心は、山々であるが、その行くといふことには、事情が許さない自分である。どうか、この自分にかはつて、徒然の友となつて、不幸な人達の心を、慰めてつかはせよ」と、まことをおこめ遊ばした 御心が、勿体なく仰がれるのであります。皇国以外、世界のいづこに、いつに、感激の有難涙抑へ得ない、そのやうな幸福を、享け得た人がありませうぞ。」(西川善方著「朝鮮小鹿島更生園を通して観たる朝鮮の救癩事業」より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料八二、三三〇〜三三一頁に収録)。
〔その六〕
つぎに、関屋貞三郎(朝鮮総督府学務局長兼中枢院書記官長、静岡県知事、宮内次官)について考えてみたい。関屋貞三郎が朝鮮総督府学務局長をしていたのは、一九一〇年一〇月から一九年八月までの約九年間である(『朝鮮総督府施政二十五年史』一九三五年一〇月発行)。その後、静岡県知事を経て宮内次官に就任した官僚畑けの人物である。(『昭和六年度事業成績報告書』財団法人癩予防協会、四八頁より)。その後も癩予防協会理事として、あるいは同会の「癩予防対策調査会委員長」として活動している(癩予防協会『癩の根本対策』一九四一年八月発行)。この癩予防対策調査会著『癩の根本対策要項』(一九四一年八月発行)のなかで関屋らは、【例一六】のように述べている。【例一七】は、関屋貞三郎が『皇太后陛下の御仁慈と癩予防事業』と題して述べてものであり、一九三四年四月に癩予防協会が発行したものの一部分からの引用である。
【注記】この資料は、滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料二一に収録。なお、藤野豊編『近現代日本ハンセン病問題資料集成〔戦前編〕第4巻』不二出版発行の資料六七で、同じく関屋貞三郎述『皇太后陛下の御仁慈と癩予防事業』が編集復刻版として収録されている。その奥付を見ると昭和十年六月に発行となっている。おそらくこれは癩予防協会が、初版を三四年四月に発行し、その一年二ヶ月後に再度出版したものであろう。藤野豊編『近現代日本ハンセン病問題資料集成M〔戦前編〕』では、再版されたものを収録したものであろう。内容は滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料二一と同じでも、初版よりも組版と発行年月日が異なっている)。
【例一六】「我国癩予防事業は本年七月より実施せられたる公立癩療養所の国立移管と共に茲に画期的飛躍を遂ぐるに至れり。斯の如きは一に、皇室の御恵澤に依るものにして畏くも皇太后陛下におかせられてはかねがね癩患者に対し篤き御仁慈を垂れ賜はせられ、数次の有難き御沙汰を辱うし特に救癩の資として屡々多額の御内帑金を御下賜遊ばされ、又「癩患者を慰めて」と題市して御歌を賜り、各療養所に御見舞御慰問或意は御所の楓の苗木を御下賜あらせられ今年は重ねて尊き御写真竝に菴羅樹(くわりん)の実生の苗木を各療養所に賜る等或は機会ある毎に親しく療養所長を召され御下問を賜り職員患者関係者は固より国民の等しく常に恐懼感激し奉る処にして、癩予防協会は実に昭和五年に賜りし多額の御下賜金を基本として設立せられたもの。
斯の如く我国癩予防事業の今日在るは偏に 陛下の御恵によるものと云ふべく、皇室の篤き御仁恵の下に患者は感謝と感激の裡に療養生活に精進しつつあるは、実に我国療養所の特色にして、洵に感激に堪へざる処なり。」
「海外に於ける癩の調査――我国に於ける癩予防事業は前述の如く尚将来の整備拡充をようすると認めらるる点尠少ならずと雖も既に其の基礎は確立せられ其の根絶は時日の問題なりと予想せらるるも、亜細亜特に東亜共栄圏内にある諸国は癩猖獗甚だしきものあり、内外交通も発展に伴ひ啻に我
国への病毒侵襲防遏に止まらず、其の根絶に就ては我国の東洋に於ける使命に鑑み極めて重要なる関係を有するものと謂ふべく現下の実状を詳かにせんが為海外各地の蔓延状況を調査し置くは喫緊の要務なりと認めらるるを以て速に専門家を以て組織しある調査圏を海外各地に派遣し(一〇、海外の癩調査要項参照)患者発生の状況及病型、既存の収容施設其の他救療状況、大風子等治療材料及将来の予防対策其の他に就き精密なる調査を開始せられんことを要望するものなり。以上」(癩予防対策調査会著『癩の根本対策要項』一九四一年八月発行一〜一〇頁に収録)。
【例一七】「癩予防事業に対して御下賜金――(中略・皇太后から=滝尾)癩予防事業に御下賜になると云ふ事になり、昭和五年十一月十日、当日の内務大臣安達謙蔵、拓殖大臣松田源治、此の両大臣を大宮御所に御呼びになりまして、御下賜金の御沙汰があつたのであります。第一は近く設立せらるべき癩予防団体、即ち只今の癩予防協会に対しての御下賜金、第二には日本の国内の私設の療養所に対しての御下賜金、即ち内地に六つ、朝鮮に三つ、台湾に一つ、丁度十ヶ所の私設の療養所に対して、年々御下賜金があると云ふ事になつたのであります。(中略)
「朝鮮に於ける癩予防協会――尚此の機会に癩予協会の事に就て申上げますと、内地はさう云ふものが出来ましたし、又朝鮮でも矢張り、此の御思召に依りまして、癩予防協会が出来たのでありあります。是は実に愉快な話でありまして、多分昨年か、一昨年内地の予防協会よりずつと遅いのでありますが、初め五、六十万円の金を募集しやうと計画したので御座いますが、忽ち其の倍額百二、三十万円の金が朝鮮で集つたのであります。而も其の金を出した人は、大部分朝鮮人の諸君で、こんな有難い事はないと喜んで、多額の金を出し、予想以上の成績を上げたのであります。
台湾にも癩予防協会が出来て只今募集しつゝありますが、是また寧ろ結核其の他の予防協会よりも、先んじて各方面に出来たと云ふ事は、全く 陛下の御仁慈の賜であると我々は深く信ずるのであります。」
「我国に於ける癩患者――(中略)元来癩病は遺伝であるか、伝染であるかと云ふ事に就ては、今日では殆ど議論がないので、全く伝染であると云ふ事になつて居るのでありますから、出来る丈け患者を療養所に収容致して、伝染の機会を与へない様にすれば、結局患者は絶滅すると云ふ事になる筈であります。それが今日政府の方針であつて、結局経費の問題で御座いますが、出来るだけ之をやつて行かうと云ふ事になつて居る次第であります。
次に朝鮮台湾の事を極くざつと申上げますが、朝鮮には患者約一万二千人、台湾の方は、千何百と云ふ数を示して居る相でありますが、是亦実際は二三倍の数に上るだらうと思います。朝鮮にしても、台湾にしても、出来るだけ療養所を造つて是に収容すると云ふ事の予防方針であります。」
「諸外国に於ける状況と比較――(中略)何れにせよ癩患者の多いのは、文化の後れて居る南米であるとか、或は亜弗利加であるとか、或は遺憾乍ら、東洋諸国、印度支那、日本等でありまして、比律賓又は南洋方面にも癩患者が非常に多いのであります。(中略)我が国も決して少ない方ではない。此の点に於て日本はどちらかと申しますと遺憾乍ら野蛮国に近いと云ふ状態にあるのであります。此点人道問題から申しましても、国の体面から申しましても、癩予防事業に対しては、我々も極力、力を竭すと云ふ事が必要になつて参つて居るのであります。さう云うふ訳で、政府に於ても収容所を段々増す事も必要でありますし、又只今申上げます通り、癩予防協会の如きも大いに活躍する必要があるのであります。」
(関屋貞三郎口述『皇太后陛下の御仁慈と癩予防事業』癩予防協会、一九三四年四月に発行より。滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料二一に収録、傍線は滝尾)。
〔その七〕
下村海南の本名・宏。官僚・新聞人。官界に入り、ついで朝日新聞社に入社。戦争中、一九四四年一二月二六日、勅令によって公布された「朝鮮及び台湾在住政治処遇調査会」のメンバーとなり、その後、鈴木貫太郎の国務相兼情報局総裁となっている。戦後は初代の藤楓協会会長を務めた。下村宏(海南)は、『文芸春秋』一九三七年八月号(『日本MTL』第七九号〔一九三七年一〇月・一一月〕に転載)に「朝鮮の癩から内地を―小鹿島物語―」を執筆し、そのなかで、つぎのように述べている。
【例一八】「一、内地と朝鮮の癩くらべ――(中略)遺伝ではない伝染病である。しかも結核などゝちがつて患者の数は著しく少ない。さらに患者は人交はりがしにくい。(中略)実際は日本内地だけで三万位あるのぢやないかともいはれ、いやまだ多かろうとさへいはれてる。朝鮮も人口二千万人、その中で約一万二千人の患者が居るといはれてるが、事実はまだ多いはずである。(中略)しかも日本内地の癩患者は年を逐ふて幾分づつ減少してゐるが、朝鮮では年に千人から二千人の患者が増加してゐたのであるから、之は何んとしても驚くべき憂ふべき事実であった。
年 別 新患者 総 数
昭和元年 一二〇六 五三二一
同 二年 一四三二 五四二七
同 三年 二〇三四 六七八二
同 四年 一四九六 七〇〇〇
同 五年 一三三八 七三九六
同 六年 一九八九 八〇三一
といふ統計が朝鮮総督府から発表されてる。之が朝鮮に於て癩撲滅に力こぶを入れ、半島民あげて之に協力した大きな理由であり、又僕が小鹿島といふ島へ出かけて行く事になつた因縁である。(中略)
今や文化の進んだ国は馬匹改良ばかりでない。人種改良につとめてる。欧米各国は悪質者の断種につとめてる。殊に植民地は全部まき上げられ領土は切りちゞめられ、その上四年半の大戦に壮丁二百万を失ふたドイツが、人口の増加に全力をつくしてゐるのは当然すぎる。しかし同時に体質の向上をはかるため、積極にはスポーツの奨励その他あらゆる手段を講じつつあると共に、消極には悪質者の絶滅をはかるべく断種法の励行につとめてる事を忘れてはならない。萬を算する癩の患者いかにも気の毒な同情すべき癩の患者。何よりも最初に絶滅すべき癩の患者。さうした問題にペンをはしらせる事はいつの世でも閑文字ではない。(中略)
三、朝鮮の患者と内地の患者――朝鮮の療養所と内地の療養所と相違なる点のみ、思ひうかぶまゝに算へ立てて見る。
一、 まづこゝには四千名の患者が収容されてる。現在ではフリツピンのクリオン療養所では六千人を収容してるさうで、これが数に於ては世界一かとも思ふが、小鹿島の四千名それも本年中には五千名になるであらう。内地では長島の愛生園、東京郊外村山の全生病院が一千二三百名を収容し、その数に於て内地では第一であるが、小鹿島はさらに数倍の多きにのぼつてる。(中略)
療養所も同じ土地には三四百名位が理想で、あまり多くは収容できないといはれてるが、小鹿島は大きな例外といはねばならない。(中略)
四、日本の癩の誇り――(中略)内地でもたしか草津へ癩患者の刑務所が出来たとか記憶するが、更生園では同じ島内で近かじか見もし見らるゝところに刑務所があり刑期満了後は同じく島内の部落の中に交ざるらしいが別に面倒もないらしい。しかし最後に内地朝鮮の相違としていひたい事は癩に対する朝野の関心である。癩は伝染だる。(中略)内地の癩予防協会はたしか二百万円集めようといつても半分も集らない。之に反して朝鮮では五十万円ほど集めようとしたら二百十余万円集つた。内地とちがつて総督の鶴の一声はよくひゞくといへば、それまでゞあるが、その寄附金には今までになく朝鮮人が多い。(中略)
全羅南道の離れ島、その昔李舜臣と我水軍と剣相見えた古戦場の一角に、今や大御心により世にも不幸なる患者たちに慈雨がそそがれてる。小鹿島を見て一等国日本の内地の癩の現況をかへり見て感慨無量なるものがある。」
(下村海南「朝鮮の癩から内地を―小鹿島物語―」『文芸春秋』一九三七年八月号掲載され、のち『日本MTL』第七九号<一九三七年一〇月・一一月>に転載。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料七一、二八八~九頁に収録。傍線は滝尾)。
第八節 政府・帝国議会と朝鮮総督府との関連、「民族浄化」のための根絶策
最終節の第W章「強制隔離収容の施策と施行」を書くにあたり、三点ばかり「要因と責任」として指摘しておきたいと思う。第一は政府・帝国議会と朝鮮総督府との関連、第二は総督府のすすめた「民族浄化」のための根絶策、第三は朝鮮総督府のハンセン病政策が国際的知見に逆行であったこと、この三点である。
第一項 政府・帝国議会と朝鮮総督府との関連
辛珠柏(韓国・成均館大学)編『日帝下支配政策資料集・全十七巻』(一九九三年四月発行)には、朝鮮総督府警務局「第六九回 帝国議会説明資料」(一九三五年)、「第七三回 帝国議会説明資料」(一九三七年)、「第八六回 帝国議会説明資料(一九四四年)」があり、そのなかには「癩患者見込数及之カ収容処遇ノ現況将来ノ計画」、「癩患者ノ見込数及収容並ニ処遇ノ現況」等の資料が収録されている。その資料は、滝尾英二編『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第3巻に所収している。
また、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島―』未來社(二〇〇一年九月)には、帝国議会に予算説明のため東京に行っていた総督府総務総監・大野緑一郎宛てに小鹿島更生園長・周防正季が送った書簡を紹介している(二六四〜二六五頁)。
一九三四年九月十四日に公布された「朝鮮総督府癩療養所官制」にしても、天皇か裁可した「勅令第二百六十号」として、時の内閣総理大臣兼拓務大臣・岡田啓介が公布・制定したものである。(『朝鮮総督府官報』第二千三百十号・昭和九年九月十九日より)。
このように、朝鮮総督府は天皇及び政府、帝国議会の指揮・指導を受けて施策を行なっていたのである。国内には、まがりなりにも国会(帝国議会)が存在し法案審議も行なわれていた。その国会も衆議院議員の選挙は、制限付きではあり、特に女性の参政権は認められていなかったが、法制定に民意が反映される余地はあった。しかし、植民地朝鮮では、国内でいう「国会(帝国議会)」という立法機関が存在しなかった。朝鮮では、勅令・制令・府令・道令・訓令などの行政機関などで一方的に決定されて施行されていった。
第二項 朝鮮総督府のすすめた「民族浄化」のための根絶策
前述したように、光田健輔は一貫して日本治世下にあるハンセン病患者の存在を「日本の対面を汚がすもの」として捉えて「民族浄化論」を主張し、小鹿島更生園収容患者の医療と生活の貧弱さ、人権無視の園の運営には目をそらし、もっぱら「恐らく世界一の癩療養設備と云ふても決して溢美の言ではない」と規模の巨大さのみを賛美している。また、宮内次官や癩予防協会副会頭などの経歴をもつ関屋貞三郎が「我が国も決して少ない方ではない。此の点に於て日本はどちらかと申しますと遺憾乍ら野蛮国に近いと云ふ状態にあるのであります」と述べるなどと朝鮮総督府のすすめた「民族浄化」のための根絶策は、軌を一つにしたことを主張している。即ち国内に関した当時のハンセン病施策を鋭く批判した前掲の『「らい予防法」違憲国賠請求の原告最終準備書面』(二〇〇〇年一二月八日)でいうように、政府とそれに歩を併せてハンセン病関係者は、ハンセン病患者を国辱的存在として考え、「文明国に癩はない」として、「民族浄化論」をもって小鹿島へ患者の強制隔離強収容し、その強化の対策を推進した。
『昭和十二年道警察部長会議希望事項』朝鮮総督府(一九三七年五月発行)のなかで、衛生課関係として、京畿道からは「癩患者収容ノ件」として、つぎのように書かれている。
「二四〇 癩患者収容の件――(京畿道)
理由 癩患者の収容に関しては特殊の場合各道に割当収容をなすの外は凡て小鹿島療養所長と直接協議することと成り居れるも協議不調の場合多く昨年中同院に於ては三七五名を新に収容せるも本道よりの収容は皆無にして国際都市たる京城、仁川を有する本道として甚だ苦痛とする所なり、就中京城府の如きは朝鮮に於ける政治、経済、文化の中心地にして内地諸外国よりの往来繁く鮮内他の諸都市とは頗る事情を異にするものありて同府内に於ける癩患者の徘徊は単に保健衛生上の問題たるに由らす朝鮮統治の面目にも関するものに付将来之等特殊事情を考慮せられ総督府に於て年々四、五十名位宛の割当収容し得る様取計はれたし。
答 癩療養所長と協議せらるへし」。
(辛珠柏編『日帝下支配政策資料集』第七巻(一九九三年四月発行、四八〇頁)。
この資料からでも明らかなように、「国際都市たる(中略)京城府の如きは朝鮮に於ける政治、経済、文化の中心地にして内地諸外国よりの往来繁く(中略)癩患者の徘徊は単に保健衛生上の問題たるに由らす朝鮮統治の面目にも関するもの」というように、ハンセン病患者を国辱的存在として考え、患者を忌避し社会から排除しようとするものであった。
第三項 朝鮮総督府の癩政策が、国内以上に医学的・国際的知見に逆行したこと
日本のハンセン病政策が、医学的・国際的知政見に逆行することについては、前掲の『「らい予防法」違憲国家賠請求事件原告最終準備書面(事実編)』(二〇〇〇年一二月八日)の「第二章 絶対隔離絶滅政策(らいの根絶策)の展開」(一六〜一一二頁)で詳細に論じられているところである。そうした日本のハンセン病政策は国内にとどまらず、植民地統治下の朝鮮(の小鹿島更生園)ではさらに露骨に・ストレートにすすめられてきた。
当時、朝鮮では三つの私設のハンセン病療養所があった。釜山相愛園、麗水の愛養園、大邱の愛楽園である。一九三八年の入院者数は釜山相愛園が六八七名、麗水の愛養園が七一九名、大邱の愛楽園が七九七名である。朝鮮総督府では、私設のこれら療養所に対して一九二三年以降、患者収容人員に応じて国庫補助を与えていた。もちろん、これらキリスト教医療宣教師が経営する療養所は、朝鮮総督府のハンセン病患者とは異なった管理・運営が行なわれていたことは事実である。
前掲の崔晶基は、全南大学校大学院社会学科の碩士論文『日帝下朝鮮のらい(癩)患者統制に対する一研究―癩患者管理組織を中心に―』(一九九四年二月)のなかで、つぎのように述べている(原文は韓国語)。
「2、日本と朝鮮の癩患者管理政策の比較――癩病が遺伝される病気ではなく、伝染病という認識をもつようになったきっかけは一八七三年、ハンセン(Gerhard Armauer Hansen)が癩菌を発見してからである。その結果、癩病の原因に関するいろんな仮説、憶測または迷信的風聞が一掃され、癩病の伝染説が占めるようになった。その後、一九九七年、ドイツ・ベルリンで開かれた第一回万国癩病会議(国際癩学会)では、『癩病は隔離以外に根絶策はない伝染病』と決議し、癩病が伝染病という事実と社会的隔離という対応策が認定されるようになった。これから、隔離を一次的な要請とする癩管理の概念が確立されたのである(大韓癩管理協会、一九八八、六四〜六五頁)。
日本も、当時ドイツに留学中であった医者と癩病行政家たちが会議に参加し、『癩病は隔離以外に根絶策がない伝染病』であるという会議結果を受け入れ、それを日本に伝播した。そして、それにより日本では、癩患者管理がはじめて始められたのは、一八九九年であった。(崔晶基註・当時、光田健輔が東京養育院で回春病室を開設し、癩患者の隔離治療を始めていたのだ。荒川厳(一九八三)〔「らい予防法」の矛盾と改正〕、『解放教育』第一七四号、一九八三年一二月号、五〇頁)。その後、一九〇七年、日本では、初めて浮浪癩患者を取り締まり、療養所に隔離収容するという癩予防法が制定・公布され、その結果、一九〇九年に五つの公立癩療養所が建てられた。しかし、癩予防法の制定は、癩患者に対する人間的同情と救済手段よりも、かえって癩患者を忌避し、彼らを社会から排除しようとする隔離収容政策であった。この時期に定立した日本の癩患者統制政策の特徴は、つぎのようであった。
第一、社会浄化という命題のなかで、患者が犠牲にならなければならない社会意識が、癩患者統制の推進力となっていた。
第二、政策施行の初期から、癩病は不治の病という医学的見解に立脚し、患者を差別し、それにより一生涯、強制的に隔離させるというのが、癩患者統制政策の基本になっていた。〔崔晶基註・当時、荒川厳、一九八三、前掲書、五一頁〕。
当時、日本の癩患者管理政策の確立は、朝鮮での重要な意味を持っていた。日本の癩患者管理と関連した機構が設立され、法律が制定される時期は、朝鮮が日本の侵略により植民地の道に入った時期であった。よって、日本の癩患者統制と関連した制度とか、機構、人力等がそのまま朝鮮に流入され、日本で行なわれた政策上の変化は、一、二年あとには朝鮮でもそのまま適応されていた。それは、朝鮮内での独立的な法律が制定されず、癩患者療養所が日本の公立癩療養所と似ていた小鹿島慈恵医院一つしかなく、それ以外に宣教師たちが運営している私立病院に若干の補助金を支払ったり、放置していたことからもわかる。
ただ、朝鮮が日本の植民地である関係で、癩患者管理においても、日本で行なわれていたことと比べ、かなり抑圧的で強制的な性格をおびている点が違った。しかし、朝鮮の癩患者管理は、それ自体がもっている非人間的待遇に、民族的な差別が加わっている。」
(二三〜二五頁。この崔晶基さんの論文は、●日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集〔第一輯〕として、人権図書館・広島青丘文庫から一九九五年一一月に翻訳され、出版されている。)
第三項 朝鮮総督府の「癩政策」が、国内以上に医学的・国際的知見に逆行したことを私は論述してきた。この『意見書』を書き終えるに当たり、医学関係者では全くないハンナ・リデルが長年、回春病院長として献身的にハンセン病患者の救済に当たったリデルのハンセン病知見を示す講演内容を紹介し、締めくくりたいと思う。ハンナ・リデルは、一八五五年一〇月イギリスに生まれる。キリスト教伝道のため、日本を訪問し、一八九〇年四月三日、熊本にある本妙寺へ花見に誘われ、寺の参道や境内に集る桜の木の下にハンセン病患者に接し衝撃を受ける。リデルは自らの全財産を処分して、一八九五年に熊本の黒髪にハンセン病患者救済事業として「回春病院」を設立する。そのハンナ・リデルは一九一九年六月一五日、第七十二回救済事業研究所に於いて「回春病院設立の動機に就て」と題して、つぎのように講演している。
「‥‥私が二十五年間患者を扱ひました経験によりまして、(中略)病院が始まりましてから二十有余年間にまだ医者にしろ看護婦にしろ、或は小使、賄係といふ風な大勢な人々の中の一人も癩病に感染した者が無いといふことは大変に喜ばしいことです。私はいつも思つて居るのでございます。癩病の黴菌は空気の中に存在して居るものでございません。是は所謂皮膚伝染でございまして、黴菌は血液の中に居りまして、血液の中から血液の中に伝はつて行く所の径路を取つて居るからこちらの皮膚が健全でございますれば癩病の黴菌は這入る途がございませぬ。是は皮膚に僅かな疵がございまして、其疵から癩病の黴菌は這入つて来たら恐ろしい所の結果が出来るかも知れない。ですから癩病患者に接するには自分の皮膚の状態を十分考へますことゝ、又其他二三の注意を怠らなければ癩病に感染する所の虞は殆ど無いと申しても宜しいのでございます。斯ういふ事から考へまして私共患者の間に働きます所の者は此癩病の伝染の径路斯の如くでありますからしてそれに冒されない所の注意を取つてさへ参りましたならば癩病に感染する虞のないといふことを非常に嬉しく思つて居るのでございます。」
(大阪府救済課内・救済事業研究会編輯・発行『救済研究』第七巻・第八号、一九一九年八月、三〇頁より)。
ハンナ・リデルがこう語った時代的制約を考えたなら、(例えば、傷口からの皮膚接触伝染などの意などもあるが、)私は高くこのリデルの見解を評価したいと思う。しかし、その後の日本のハンセン病政策をすすめる政府責任者・政策実行者の医学関係者たちは、ハンセン病を「強烈な伝染病である」という考えを背景として、絶対隔離政策を実行した。そして、これは日本国内だけでなく植民地・占領地にもこの政策を波及させ、実行したのである。そのため、同地のハンセン病患者への悲惨な被害が拡大したのである。いま、日本政府に問われていることは、その被害実態を認めた上で、謝罪とそれに基づく補償を当事者にすることではないか、と私は考えている。
日本統治時代に、強制隔離収容され現在なお、小鹿島病院に入所している方がたは現在、百十七名いる。すべての方が高齢者で、現在、その平均年齢は八十歳を越え、毎年、十名余も亡くなっている。一刻の猶予も許されないと思う。「段階的に〜、」とか、「国内の問題が済んでから、」とかいうことは、こと、日本の植民地朝鮮統治期に強制隔離された小鹿島から「補償申請した人たち」には通用しない論理であることを、銘記して欲
しいと思う。そのことを日本に在住するすべての人たちに訴えたい。
「不幸は、最も早くやって来て、幸せはいつも遅く最後にやってくる〜」と、小鹿島更生園入所者のおじいさん(ハラボジ)、おばあさん(ハルモニ)たちに、思わせないで欲しい。
この『意見書』はそのために、書かれたものである。
【お願い】引用・紹介した資料の中には、人権の視点からみて適切でない語句・表現がありますが、歴史的資料を検討する上で採用しているので、ご配意をお願いいたします。(滝尾)