J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION-有限責任中間法人 Jリーグ選手協会-

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中島浩司 選手
生年月日 : 1977/08/20
身長/体重 : 181/68
ポジション : MF
経歴 : 赤坂台中-仙台育英高-ベガルタ仙台
― 小学生時代(赤坂台JSC)

少年団に入ったのは結構遅くて、小学校5年生ぐらいでした。父が野球好きだったので、もっと小さな頃は野球をしていたんですけど、近所に住んでいるお兄さんたちがみんなサッカーをしたので、それについて回って一緒にサッカーをしている間に、サッカーが好きになってきて。それで結構遅めだったんですけど、小5ぐらいから少年団に入りました。その少年団は、楽しんでやるということを主体としたチームだったので、意識せずに、自由にやっていました。

― 中学生時代(赤坂台中学校)

中学校は地元の赤坂台中学校に進んだんですけど、この時、大きなイベントがあったんですね。家がWOWOWに加入したんです。そこでイタリアのセリエAが放映されていたんですね。ミランのフリットがマタギ全盛期のころで。それに友だちとはまって、すごくイタリアサッカーに憧れて。部活以外でも、友だちと公園で真似したりして。その頃から、日本にはまだなかったけどプロ選手になりたいな、という夢を持ち始めたんですね。
中学校時代は大会でも上位にはいけなかったですし、選抜も地区選抜ぐらいだったし、高校から声のかかるようなこともありませんでした。ただ、人一倍サッカーはやっていましたね。家に帰ってきてご飯を食べてからも寝るまでやっていたんですよね。

― 高校への進学

それくらいイタリアに憧れていたので、中学校を卒業したらイタリアに行きたいと思っていたんですよ。日本にはまだJリーグがなくて、プロサッカーの土壌がなかったですし。それで両親にいろいろと調べてもらったんですが、結局イタリアに行くツテがなかったんです。ブラジルだったら行っている人がいたんですけど、そっちには全然興味がなくて。結局、イタリアは断念したんですが、進学にしても大阪周辺の高校から声がかかるようなことはなかったから、どうしよう…と思っていたところ、父の会社の関係の方から「仙台育英がセレクションをやっているよ」という話があったんですね。見に行ったらいいサッカーをしていたんです。それに監督はブラジル人の監督で、学校自体も結構名が知れている。それでセレクションを受けたら、試験なしで入ってくれみたいなことになって。家がある大阪からはすごく離れていたけど、もともとイタリアに行くつもりだったし、迷わず行っちゃおうと。自分は思い立ったらすぐ行くタイプなので。(笑)

― 高校生時代(仙台育英高)

セレクションで入ったんですけど、試合に行くメンバーには入っていても、なかなかポジションはとれなくて。レギュラーで出たのは3年からなんですね。当時の仙台育英のサッカーは、やっぱりブラジル人監督の考えだったから、ポンポン蹴り合いをするのではなく、つないでいくサッカーだったんですね。そういう部分は自分には合っていたのかなと思います。僕は肉体的に強かったり、足が速かったりというよりは、ボールを扱ってというタイプだったので。大会としては、東北大会で優勝したぐらいで、選手権は出られなかったんです。ただ、クラブチームと高校のチーム合同の大会の東北地区代表にはなりました。

夏過ぎぐらいに、ブランメル仙台から話が来ているけど…と先生に言われたんですね。僕はもともとプロでやりたいという意識が強かったから、ブランメルもJFL(現在のJ2)に上がって力を入れていこうという時だったし、自分の夢でもあったから、それは迷いなく決めました。(JFLということに抵抗はなかった?)当時は、自分では自信があると言っていたけど、自信過剰じゃないというか、客観的に自分の立場というのがわかっていたので。自分自身をずっとどこかで冷静に見ている自分がいるんですよね。今もJ1でやっているけど、自分はそんなに大それた選手でもないというのをずっと感じてやってきたから、こんなに長く出来ているんだと思っています。同年代で、自分よりもっと上手くて、すごい選手も見てきたし、一緒にやってきましたけど、そういう選手と客観的に比べて、自分は劣っているというか、そこまでの選手じゃないというのを思いながらずっとやってきたから、長くサッカーを続けて来れたのかなと思っています。

― プロになれた一番のポイントは?

高校進学の時にした決断でしょうか。自分の今までの人生は運がいいと思うんですけど、迷ってやらないというよりは、自分がやりたいと思ったり、やろうと決断をした時に、それを信じて、すぐに決めて動いてきたのが、良かったのかなと思うんです。自分のやってきたことに自信があって、その場その場で自分自身がしっかりしていれば、どんな世界に飛び込んでいこうと大丈夫だと思うんです。


【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫

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