北朝鮮軍元大佐が語る金日成父子とは(中)
金元大佐は研究を重ねた末に、核爆発で発生する閃光(せんこう)に反応する通気装置を開発した。地下300メートルにある防空壕の外で核爆弾が爆発したとき、直ちに換気口を閉め、放射性降下物が防空壕に影響を及ぼさないようにする設備を設計した。金元大佐は、「護衛司令部最高位の幹部らが見守る中、閃光で換気口が自動的に閉まる試演イベントを成功させると、大いに称賛された」と語った。
その後、金元大佐に与えられた任務は、金主席が利用する外国製乗用車の管理だった。金主席は当時、ドイツ製のベンツを20台余り所有するほど外国車に凝っており、金元大佐は金主席の好みに合わせ高級外車を調達する仕事に従事した。
「車に問題が起きると、ドイツの技術者を直接呼んで修理していましたが、これではだめだろうと感じ、整備工5人を選んで、ベンツの工場があるドイツのシュツットガルト工場に出向き、1カ月間合宿して自動車整備技術を学びました。また、ひどく気まぐれな金主席が車の色を変えろと指示することがあるので、塗装技術を習うため、数カ月間ドイツに滞在したこともあります」
金主席が車に乗って地方を視察する際は、金元大佐も後方の予備車に乗り込み、金主席に同行した。金元大佐は当時の場面を回顧してこう語った。
「金主席が車に乗って外出するときは、全人民が地面に座り、お辞儀をしなければなりませんでした。車に乗って通りかかった人は、車を止めてお辞儀をします。しかしある時、通りすがりの人が気付かずにそのまま素通りしたところ、金主席が車を止めさせ、“あの者はなぜお辞儀をしないのか”と怒り、随行員が当人を連行するという騒動もありました」
-どうして独裁者用の物資調達業務を担当するようになったのか。
「仕事を上手くこなし、ドイツ語も堪能だったため、海外で品物を調達する仕事を任され、後にこの仕事を専門に担当する朝鮮機械輸出入商事副社長の職責を務めるようになりました」
金元大佐の当時の任務は、北朝鮮全域にある金主席の別荘に納める各種の家具をはじめ、壁紙や、シャンデリア、金属探知機・毒ガス探知機など、金主席の身辺保護用装備を購入し、北朝鮮に搬入することだった。「80年代中盤だったか、中国で大地震が発生したときは、金主席が“地震予報装置を入手せよ”と指示し、ドイツで最新の地震予報装置を購入し、主席宮などに設置したこともあります」
金元大佐は有能な人物として評判になり、一対一で金総書記と面会する機会も得たという。
「1981年だったと記憶していますが、金総書記(当時はまだ総書記ではなかった)から、“随行者なしで一人で来い”との指示があり、党中央委員会執務室に出向きました。金総書記は、地下300メートルにある地下別荘にわたしを連れて行きました。そこは、戦時に金総書記の家族が住む場所で、平壌から30キロほど離れた戦時非常党中央委の建物と地下トンネルでつながっていました。金総書記は、この地下トンネルを往復する際、自分が移動するための“電気自動車”が必要なので、世界最高の製品を探して来いと指示しました」
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