目 次
まえがき
1. 狗邪韓国は南狗邪国だった
2. 倭語、辰韓語、弁韓語に中国語が含まれていた
3. 「使者は大夫を自称す」の意味するものとは
4. 倭、辰韓、弁韓の文化は呉越の文化と相似している
5. 釜山が日本列島への移民の拠点だった
6. 「ナ国は倭国の極南界なり」の意味するものとは
7. 「漢委奴国王」の意味するものとは
8. ナ国の朝貢がカヤ国分裂の発端になった
9. ドミノ倒しでカヤ国の分裂が倭国大乱を引き起こした
10. 「奈良」は「奴国」を意味する
11. ヤマト国によるヤマト連邦の統治体制が確立した
12. 日本列島への移民には辰韓系移民と弁韓系移民があった
13. 魏に朝貢した理由はクマ国が南方民族に占領されたためだった
14. 神宮皇后のモデルは卑弥呼と壹与だった
15. 中国の使者はヤマト国に行けなかった
16. 万二千余里はクマ国までの里数だった
17. 「南至投馬国」と「南至邪馬台国」の南は本来東が正しい
18. ナ国の戸数は水増しされた
19. 壹与はウミ国の神官(斎王)だった
20. イト国に飛鳥時代の原型を見た
21. 魏志倭人伝から統治する側と統治される側の構図が見えた
22. 壹与から「応神天皇」へ
23. 魏志倭人伝後の倭国の状況
ま え が き
普段何気なく使っている和風、和食、和服などの「和」が魏志倭人伝に出て来る日本の古代の国名である「倭」のことなのだということを認識している人は少ないと思う。古代における日本の国名として中国語の日本国名である「倭」が使用されていた。その後、日本に国家が形成されると国威発揚のために国内では「大倭」と標記するようになった。漢字表記では「大倭」と書いたが、この漢字に日本の覇者となったヤマト国の「ヤマト」という読みを当てた。中国は周辺の国の名前に侮蔑的な意味を持つ漢字を当てることが多かった。このため、日本では中国語の「倭」という漢字を嫌い、後に「和」という漢字に置き換えて「大倭」を「大和」と標記するようになった。今日でも私たちは「大和」を「ヤマト」と読む。天武天皇による律令国家建設に際して国号を「日本」と定めるまでこれらの国号が使用された。私たちは21世紀の現代においても古代の「倭」という国名を生活の中で使っている。
魏志倭人伝の原文の内容を知りたい方は下記のホームページを参考にしてください。
このページのTOPへ
1. 狗邪韓国は南狗邪国だった
魏志馬韓伝に「秦が天下を統一するに及んで蒙恬に遼東に至る長城を築かせた」とある。秦の始皇帝は遼東半島まで囲い込む長城を建設するために自らが滅ぼした国から大勢の民を無理やり駆り出して長城建設の労役を強いた。特に遼東半島に近い中国東北部の燕、済、趙並びに済の南に位置する楚の淮河下流域(昔の呉の領域)から民を徴用した。
秦の時代に大衆は過酷な軍役や労役に駆り出された。農村では村の門の左側に貧民、右側に富民が居住していたと言われるが、貧民はおよそ黄河文明とはかけ離れた生活をしていた。一つの村の貧民をごっそり労役に駆り出すことがしばしば行われた。山東半島近くの淮河下流域で稲作や漁労による素朴な生活をしていた多くの人が秦の始皇帝によって強制的に遼東半島の長城建設の現場に移住させられて過酷な労働を強いられた。
魏志馬韓伝に「(始皇帝が亡くなって)陳勝と呉項の乱が起きて天下が乱れた。燕、済、趙の民は辛苦から朝鮮王準の領地(朝鮮北部)に徐々に逃れた。準はこれを西方に置いた」とある。一方、辰韓伝には「古老の伝世によると、辰韓人は秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したと自ら言っている」、「(辰韓の)言語は馬韓と同じではない」、「秦語に似ている。ただし、燕や済の名称に非ず」とある。これらのことから朝鮮王準は、黄河文明系の中原諸国である燕、済、趙の亡命人を自らの領地の西方に置き、周の時代は蛮地として蔑まれた中国南部の楚の亡命人を朝鮮半島南部に追いやったと考える。
楚の亡命人は朝鮮半島南部の先住民である馬韓人に東方に住むことを許された。魏志馬韓伝に「辰韓は昔の辰国なり」とあり、その地は秦人の国ということで馬韓人にシン(=秦)のクニと呼ばれた。彼らが中国南部に住んでいた頃は春秋戦国時代から続く絶え間ない戦争により田畑が荒らされ、また戦争に駆り出されて多くの人命が失われたことだろう。楚は長江文明に育まれた地であり、長江文明の根幹は稲作である。稲は水と気候の条件に恵まれれば嫌地現象がなく連作が可能かつ容易に栽培地域の拡大が可能で収穫量が持続的に増加するといった優位性を持つ。魏志弁韓伝に「土地は肥沃で、五穀と稲の栽培に適している」とある。楚の出身の彼らにとってこの地は正に安住の地だった。
彼らは長城建設のために使用していた鉄製の道具を朝鮮半島南部にもたらした。鉄製の道具は田畑を開墾するのに絶大な威力を発揮した。稲作によって安定した食料を確保した亡命中国人は先住民女性と結婚し、代を経るにつれて人口が爆発的に増加した。そして、その居住地域が瞬く間に広がり、幾つかの部族国家が建国された。更に人口が増加して、新たに弁辰諸国(辰国から分かれた国)が誕生した。過っての辰国は中国人に辰韓と呼ばれるようになり、弁辰は弁韓とも呼ばれた。
魏志倭人伝に「郡より倭に至るには・・韓国をへて・・その北岸狗邪韓国に至る七千余里」とある。「その北岸」を私は「倭の北岸」と解釈する。すなわち、狗邪韓国は卑弥呼の時代に倭に属していたことになる。
倭人伝に「今は使訳が通じるのは三十国」とある。狗邪韓国、対馬国、一大国(壱岐国)、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬壹国の計9カ国に国名を羅列するだけの21カ国を合わせるとちょうど30カ国になる。三国志の撰者の陳寿が狗邪韓国が倭に属すると認識していたことは間違いない。
3世紀の卑弥呼の時代の朝鮮半島南部は馬韓、辰韓、弁韓の三韓の時代(紀元前2世紀〜紀元後4世紀)である。魏志弁韓伝に「弁韓は辰韓に雜居し、城郭をも有する。衣服、住居は辰韓に同じ。言語、法俗は相似するが、祠に鬼神を祭祀するのは異なる」とある。
魏志弁韓伝に弁、辰韓合わせて二十四カ国となっているが、弁韓伝には二十三カ国しか国名が書かれていない。弁韓の十二カ国は全て書かれているので、辰韓が十一カ国しか書かれていないことになる。私はもう一つの国が狗邪韓国だと考える。狗邪韓国の人の祭祀は辰韓人と同じだったのではないだろうか。だから、狗邪韓国を辰韓の範疇に入れたが、当時の中国人は女王国の直接支配は及ばないものの歴史的な経緯から狗邪韓国が倭に属すると認識していた。7世紀中ごろに朝鮮半島を統一する新羅は辰韓十二カ国の一つである斯盧国が勢力を拡大させて周辺のクニグニを吸収して興した国である。12世紀に書かれた現存する朝鮮最古の歴史書である三国史記新羅本紀の建国神話に「倭人」や「倭国」の記述があることから新羅人も倭国と斯盧国との密接な関係を認識していたことが分かる。
魏志倭人伝では朝鮮半島にあるクニであることを明確にするために狗邪韓国と表記したが、本当の国名は狗邪国だと考える。実は弁韓の中にも狗邪国というクニがあり、このクニが狗邪韓国だと考える人が多い。私は(弁韓)狗邪国と(辰韓)狗邪国があったと考える。日本書紀に出てくる加羅(から)が(弁韓)狗邪国で、南加羅(ありしひのから)が(辰韓)狗邪国だと考える。この(辰韓)狗邪国が卑弥呼の時代に倭に属していた。魏志馬韓伝の「韓は帯方の南に在り、東西は海に囲まれ、南は倭と接す」、弁韓伝の「弁韓の涜盧国が倭と境界を接す」および涜盧国が東菜に在ったと想定されていることから(辰韓)狗邪国は釜山付近に在ったと考えるのが妥当である。(弁韓)狗邪国は洛東江の対岸にある金海に在ったと想定されており、緯度的に釜山は金海の南にあたることから日本書紀の「南」加羅という表現と矛盾しない。また、(辰韓)狗邪国は弁韓のクニグニに囲まれていたことになるが、これは弁韓伝の「弁韓と辰韓は雑居して」と一致する。
魏志弁韓伝に(弁韓)彌離彌凍国と(辰韓)難彌離彌凍国というクニが記されている。「難」の「ナン」は本当は南を意味する「ナン」だと考える。つまり、「南」彌離彌凍国と書くべきだった。おそらく中国人はそのことを分かっていて敢えて「難しい」を意味する「難」の漢字を当てたのだ。当時の中国人の周辺諸国に対する差別意識が徹底していたことが分かる。(弁韓)狗邪国と(辰韓)狗邪国のことを韓人は「カヤ」と「ナンカヤ」と呼んでいた。正式な国名は「カヤラ」であるが、韓人は略称で呼んでいた。例えると、「カヤラ」は「筑紫国」という正式名称に相当し、「カヤ」は「筑紫」という略称に相当する。このことは日本書紀に出てくる加羅(カヤラ→カラ→加羅)と南加羅と正に一致する。中国人が(辰韓)狗邪国を倭に属すクニと認識していなければ、倭人伝で朝鮮半島にある倭のクニであることを明確にするために(辰韓)狗邪国のことを「狗邪韓国」と表記する必要はなく、弁韓伝で「難狗邪国」と記したことだろう。
(弁韓)狗邪国と(辰韓)狗邪国は洛東江を挟んで境界を接していたが、両国は元は狗邪国(以下カヤ国と記す)という一つのクニだったと考える。
このページのTOPへ
2. 倭語、辰韓語、弁韓語に中国語が含まれていた
「ナン=南」は中国語である。更に魏志辰韓伝に「国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と言い、皆のことを徒と呼び合う」とある。魏晋の国で使われていた中国語とは異なっていたようだが、明らかに辰韓人の言葉に中国語が含まれていた。元々先祖は亡命中国人と先住民女性との結婚から始まっているので辰韓人や弁韓人の言葉に中国語が含まれていても不思議ではない。辰国が亡命中国人によって征服された国であれば辰韓人や弁韓人の言葉は征服者である中国人の言葉である中国語になっていたことだろう。しかし、魏志弁韓伝に「辰王は馬韓人を用いて擁立することが代々継承されている。辰人は自ら王に立つことはできない」とある。つまり、辰国の支配者はあくまで馬韓人だった。このため先住民の言葉が基本になって亡命人の中国南部の言語(楚語)がミックスされたと考える。
魏志倭人伝に「古より倭の使者が中国を詣でると皆が大夫を自称した」とある。ナ国が後漢に朝貢した時も卑弥呼が魏に朝貢した時も倭の使者は「大夫」を自称した。「大夫」は中国語である。倭国でも中国語を使っていたことが分かる。日本に漢字が伝来したのは4世紀中頃となっているが、57年頃に間違いなく倭人は中国語を使っていた。もちろん中国語そのものではなく、現在と同じように中国語が混じった言語を使っていた。
倭語(支配層の言葉)と辰韓語と弁韓語はいずれも朝鮮半島南部の先住民の言葉に中国語(楚語)がミックスされた言語を基本とする似通った言語だったと考える。おそらくこの頃の倭語と辰韓語と弁韓語はお互いに方言と言って良い程の近さだったのではないだろうか。
言語学的に日本語と朝鮮語はアルタイ語圏に属していて基本的な部分に共通点が多い。文法が似ていて、いずれも多様な敬語法や人称代名詞の使い分けをする。一方、中国語は異なる言語体系である。おそらく朝鮮半島先住民の言葉がアルタイ語圏に属する言語だったと考える。
ところが、日本語と朝鮮語とに共通する単語は少ない。これは列島と半島の違いによるものと考える。朝鮮半島(特に半島北部)は大陸と地続きのために漢民族による支配や北方系の扶余系民族などによる支配を受けている。他民族に支配されると他民族の言葉が強制的に移入される。少なくともその支配体制に組み込まれた被支配民は他民族の言葉を強制される。そして、次第に他民族の言葉が被支配民の言葉にミックスされていく。
このことは名前の姓の特徴から補強できる。朝鮮人の姓のほとんどが中国人と同様に漢字1字であるが、日本人の姓のほとんどが漢字2字である。朝鮮半島の方がより強く中国の影響を受けたことを示している。
朝鮮語は朝鮮半島先住民の言語に中国語と北方系民族の言葉がミックスされた言語だと考える。このことは同時に「朝鮮人のルーツ」を示している。
一方、日本列島はこれらの民族による支配を受けたことがない。更に、海で隔てられているために日本列島への大陸からの移民の数は限られていた。つまり、移民は人口的に常に少数派だった。このため移民当初は先住民と共存するしかなく、先住民と意思の疎通を図るには多数派の先住民の言葉を使うしかなかった。
「ブロークン イングリッシュ」という言葉がある。英語を正確に話せない者でも英単語を並べて話すだけで英語圏の人と意思の疎通を行うことができる。これと同じように移民も先ず先住民の言葉の単語を覚えて単語だけで先住民と意思の疎通を行ったと考える。その結果、移民の言語に先住民の単語がミックスされていった。
玄界灘沿岸の集落に権力者が現れてナ国などの小国家が形成されると、朝鮮半島からの独立を明確にするためにむしろ積極的に日本列島土着の言葉である縄文語を取り入れ、移民オリジナルの言語からの脱却が図られたのではないだろうか。
日本語は朝鮮半島先住民の言語に中国語と縄文人の言葉がミックスされた言語である。このことは正に「日本人のルーツ」を示している。
このページのTOPへ
3. 「使者は大夫を自称す」の意味するものとは
魏志倭人伝に「男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」とある。私は「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」の文を何故陳寿はこの位置に書いたのかをずっと理解できないでいた。その前後の文と何ら関係がないように思われたからだ。しかし、やっと理解できた。キーワードは「大夫」だった。「大夫」は中国の周代から春秋戦国時代に使われていた身分を表す言葉で「領地を持つ貴族」を意味する。陳寿にとって「大夫」という言葉は大昔の中国語だった。陳寿は、倭人の男性が身体に入れ墨をしていることと倭人が大昔の中国語を使うこととを夏王朝の王子が会稽に封じられたときに蛟龍の害を避けるために身体に入れ墨をしたという伝説に結びつけ、倭人が大昔に会稽に住んでいた中国人の末裔ではないかと考えたのではないだろうか。
魏志馬韓伝(注釈からの引用)に「周朝の衰退を知った燕が燕王を自称して朝鮮の領地を略奪しようとしたので、朝鮮候(箕氏朝鮮)もまた朝鮮王を自称し、周室を尊んで兵を挙げて燕を迎撃しようとしたが、大夫の禮が諫言したので止めた」とある。周の時代に朝鮮候の臣下に「大夫」という身分があったことが分かる。更に馬韓伝(一部は注釈からの引用)に「前漢の時代に箕氏朝鮮の後裔の朝鮮王準は燕人の衛満に国を追われ、その左右の宮人を率いて韓地に逃れた。その子や親が韓地に留まり、韓王を自ら号した。準王は海中にあって朝鮮とは互いに往来しなかった。その後箕氏朝鮮の王族は絶滅した」とある。「海中」とは日本列島のことではないだろうか。「大夫」という身分だった人物が準王に付き従って日本列島に逃れ、その子孫が生き残って、その後日本列島に移住してきた人々に「大夫」という言葉を伝えたのではないか。そのために「大夫」という古い中国の官職名が倭人に伝承されたのではないか。
このページのTOPへ
4. 倭、辰韓、弁韓の文化は呉越の文化と相似している
魏略逸文に「聞其舊語、自謂太伯之後」とある。「(倭人に)古い中国語を何故使うのかと聞いたら自ら太伯の後裔だと答えた」という意味である。太伯は中国周王朝の文王の叔父に当たり呉の租とされる人物である。倭人は太伯という中国の伝説上の人物を知っていたことになる。太伯は髪を短く切り全身に入れ墨をしていたという。
春秋時代に呉の領地だった淮河下流域はその後に越に征服され、更に楚、秦と統治者が変わっていった。したがって、この地では呉、越、楚、秦の文化が時代と共にミックスされたに違いない。ただし、元々呉と越の文化は「呉越同源」と言われるほど似通っており、呉と越を併せた統治期間は楚や秦の統治期間に比べて圧倒的に長いので、この地の文化は呉越の文化が基本になっていると考えてよい。
呉越文化の代表的な特徴として米を主食、湿気を防ぐための「巣居」という高床式建築、穀霊を運ぶ生物として鳥を崇拝する鳥信仰、入れ墨の風習が挙げられる。このうち米、高床式建築、鳥信仰は稲作を根幹とする長江文明に源がある。魏志倭人伝に「現在の倭の海人は水に潜って魚介を採ることに長けている。身体に入れ墨をするのは大魚や水鳥を厭うからでもあるが、後にやや飾りとなった」とある。入れ墨は漁労を生業としていた人の風習ではないだろうか。
考古学的に中国の秦の時代より遥か昔の時代に日本列島や朝鮮半島南部で稲作が行われていたことが明らかになっているので、米については言わずもがなであるが、魏志倭人伝に「粟と稲の種を蒔く」、弁韓伝に「土地は肥沃で、五穀と稲の栽培に適している」とあり、倭国と朝鮮半島南部で稲の栽培が行われていたことが明記されている。
高床式建築について魏志には明確にそれと分かるようには記されていない。魏志馬韓伝に「住居は草屋根に土の室を作り、形は家の如し、その戸口は屋根の部分に在る」とある。馬韓人は朝鮮半島南部の先住民であるが、彼らの一般の住居は竪穴式住居だったことが分かる。倭人の住居も一般の住居は近親者だけで作ることができる先住民様式の竪穴式住居だった。しかし、遺跡から発掘された土器に重層の建物が描かれていることや吉野ヶ里の復元遺跡から分かるように卑弥呼の時代に高床式建物が建てられていた。同様の遺跡が朝鮮半島南部においても発掘されている。権力者たちの住居、祭祀場や倉庫などの官舎は技術継承者の指導の下に大勢の人員を動員して造る高床式の建物だった。
中国の住居は西欧と同じように住居内で靴を脱がないで寝台で寝る構造である。これは黄河文明の流れを汲む建築様式である土間式住居が中国では一般的になったことを示している。一方、日本や朝鮮の住居は基本的に住居内で靴を脱いで床に寝具を敷いて寝る構造で、これは長江文明の流れを汲む建築様式である高床式住居を原型としている。
魏志弁韓伝に「大鳥の羽を死者に送る。その意味は死者が飛揚することを欲する」とある。朝鮮半島南部で明らかに鳥信仰が行われていたことが分かる。倭人伝には明確に鳥信仰を窺わせる記述は無い。しかし、遺跡から鳥型の木製品や鳥装のシャーマンと思しき人物が描かれた土器が出土している。熊野本宮大社の大斎原の大鳥居には八咫烏が描かれているが、私は「鳥居」は鳥信仰が形を変えたものだと考えている。そして、鳥居の形は「天」の漢字を表していると考えている。つまり、鳥居は魏志弁韓伝に書かれたように「鳥の羽で死者を天に飛揚させる」という観念を表している。古代の呉では「白鶴舞」という儀式があったが、島根県津和野町弥栄神社に鷲の姿に扮して舞う「鷲舞」という神事がある。古代の呉の鳥信仰が現代の日本に伝承された証ではないだろうか。
入れ墨の風習については、魏志倭人伝に「男性は老若を問わず顔と身体に入れ墨をしている」、弁韓伝に「男女共に倭人に近く、身体に入れ墨もする」とある。倭人、辰韓人、弁韓人が入れ墨をしているのは呉の風習が代々受け継がれたのだろう。
淮河下流域で暮らしていた多くの人が秦の始皇帝によって強制的に遼東半島の長城建設の現場に移住させられて過酷な労働を強いられた。彼らは始皇帝死後の混乱に乗じて朝鮮半島方面に亡命したが、朝鮮王準によって朝鮮半島南部に追いやられた。そこで、先住民の馬韓人に東方に住むことを許されて辰国を建国した。代を経て辰国の人口が増大して辰韓や弁韓の諸国が誕生し、更に日本列島へ移住が行われた。日本列島に移住した人々はやがてクニの支配層を形成した。このようにして長江文明を源とする淮河下流域の呉越文化が鉄の文化と共に朝鮮半島南部や日本列島の主流の文化となったと考える。
私の個人的な推測であるが、辰韓人は先祖が漁労に携わっていた人で、弁韓人は先祖が農耕に携わっていた人ではないだろうか。辰韓人は漁師の気性が遺伝して気性が荒く好戦的な性格だった。だから、朝鮮半島では弁韓系の伽耶諸国が辰韓系の新羅に併合され、後に新羅が半島を統一した。一方、日本列島では弁韓系の古代出雲が辰韓系の大和連邦に併合されて大和王権が日本を統一する結果になった。
このページのTOPへ
5. 釜山が日本列島への移民の拠点だった
(辰韓)カヤ国が在った釜山の港は現在でも韓国第一の貿易港である。中国には「南船北馬」という諺がある。中国南部出身の中国人を先祖に持っているのだから造船技術や航海術に長けた人が朝鮮半島南端にあったカヤ国に大勢いただろう。しかも、肉眼で対馬が見える。当然、船で対馬へ移住する人がいたはずである。そして、次には壱岐へ移住し、更に北九州に移住する。そこには稲作に適した土地がある。
洛東江流域は現在でも鉄鉱床が濃密に分布しており、古代は砂鉄を多く産出した。魏志弁韓伝に「国は鉄を出す。韓、濊、倭、皆従いて之を採る」とある。洛東江流域の砂鉄を原料にして作った鉄製の農工具を船に積んでカヤ国から北九州に移住した人々がいた。
北九州ではまず玄界灘沿岸を開拓しただろう。開拓地ではまず集落を造って共同で開墾した。開拓地域が拡がるにつれて次々に集落が造られた。その情報は本国に伝えられ、次から次に移住が行われたに違いない。鉄製の農工具は作業の効率を著しく向上させる。多くの農産物や海産物が生産され、たちまち人口が増加しただろう。
紀元前100年頃に玄界灘沿岸の遺跡の出土物が一変すると言われている。この頃から金属器が大量に出土し、「三種の神器」も出土する。土器の様式も一変する。これらの事から紀元前100年頃にカヤ国から集団的な移住が行われたと考える。
紀元前109年と紀元前108年の2回にわたって前漢の武帝による朝鮮遠征が行われ、衛氏朝鮮が滅ぼされて漢四郡が置かれ、朝鮮半島北部が漢の植民地となった。この武帝の朝鮮遠征がカヤ国から集団的な移住が行われるきっかけになったのではないだろうか。
西部開拓時代のアメリカのようにフロンティアを目指して開拓移民は九州内を南へ進んだ。しかし、南方民族と遭遇して彼らと共存できずにそれ以上南下するのを止めた。北九州の最南端に造られたクニがクマ(隅という意味)国だった。これが魏志倭人伝に出てくる狗奴国である。隅本(=熊本)は「クマ国の起源」を意味すると考える。つまり、熊本平野にクマ国が造られた。熊本平野で朝鮮系無文土器が出土しているので、この地まで弥生人が進出していたことは間違いない。
北九州から再び船に乗って東へ進んだ移民団があった。神武東征神話では神武天皇は阿岐国で7年、吉備国で8年過ごしたことになっているが、この吉備国が魏志倭人伝に出てくる投馬(トモ)国だと私は考えている。移民団の一部が岡山地方に残り、後にトモ国を建国したのだ。移民団一行は畿内に入り、後に邪馬台(ヤマト)国を建国した。ヤマト国が強大になった要因は琵琶湖水系の豊富な水資源だと考える。これにより多くの人口を養える米の安定した生産が可能となり、ヤマト国の人口が増大した。神武東征神話は卑弥呼の時代より遥か昔に北九州から最初に畿内に移住した人々の業績を神話化したものである。
神武東征神話にもあるように北九州を含めて移住の際に先住民との争いや混血があったと考えられるが、基本的に後発の移民が先住民を支配する構図になったと考える。先住民として、太古の昔からの日本列島の住人である縄文人と呼ばれる人々やカヤ国から移住が行われる前の遥か昔から長い時間をかけて主として朝鮮半島経由で段階的に大陸から日本列島へ移住した人々がいた。カヤ国からの移住民の特徴は「鉄の文化」を保有していたことである。
余剰農産物をカヤ国に輸出して鉄を輸入し、小型の農工具が北九州で作られた。鉄は現在の釜山湾、対馬、壱岐、博多湾のルートで輸入された。鉄製品は各地域の集落に広まり、鉄製品を購入するために各地域の集落から色々な産物が博多湾岸に集まった。
鉄の輸入を独占する人物が現れた。きっと法外なマージンを取ったに違いない。この人物はたちまち財を成し、その財力を元に専業兵士を雇って福岡平野や糸島平野の集落を支配下に収め、国名を「ナ」と名付けて王を自称した。やがてナ国内で大型の鉄製品を作るようになり、益々ナ国の国力は増大した。そして、ナ国王は後漢に朝貢するまでになった。
ナ国王の支配地は糸島平野から福岡平野まで広がっており、その中心地である吉武高木遺跡に王都があった。吉武高木遺跡では弥生時代前期末〜中期初頭の甕棺墓・木棺墓等11基から青銅器の武器、鏡、ヒスイ製の玉類(いわゆる三種の神器)が出土しているが、鏡には朝鮮半島に起源を持つ多紐細文鏡と呼ばれる鏡も含まれる。私はこれらの墓こそナ国王族の墓と考えている。
魏志倭人伝に「昔は百余国あった」とあり、この頃各地域の小国家(=クニ)は百余りあったが、ナ国に比べると規模は遥かに小さかった。おそらくナ国の使者は後漢朝に対してこれらのクニはナ国の支配下にあると説明したことだろう。当時は未だヤマト国やトモ国は建国されていなかった。
流れを整理すると次のようになる。中国の秦の時代に朝鮮半島近くの長城建設の労役を強いられた淮河下流域の民が秦朝滅亡の混乱に乗じて朝鮮半島南部に亡命した。前漢(紀元前206年〜紀元後8年)の200年の間に、その子孫が朝鮮半島南端の洛東江下流域にカヤ国を建国し、更に北九州に移住した(紀元前100年頃)。その後、日本列島内を南に東に移住し、百余国のクニが建国された。その中で博多湾近辺にあったナ国が鉄の交易を独占して勃興し、後漢の初代皇帝光武帝に朝貢して金印を授かった。
このページのTOPへ
6. 「ナ国は倭国の極南界なり」の意味するものとは
後漢書東夷伝にある「(ナ国は)倭国の極南界なり」という記述は撰者の范曄の誤解による誤りであると考える人がいる。後漢書は魏志倭人伝より後世に編纂されたものである。魏志倭人伝ではヤマト国、トモ国に次ぐ規模を誇るナ国の他にその他のクニの最後に「ナ国」というクニがもう一度出てくる。そして、「ここが女王の境界の尽きる所なり」とある。范曄は魏志倭人伝のその他のクニの「ナ国」が光武帝に朝貢したナ国だと勘違いして「(ナ国は)倭国の極南界なり」としたと言うのだ。私は逆に魏志倭人伝の撰者である陳寿の方が誤りを犯したと考えている。後漢時代から伝わる公文書の中に「(ナ国は)倭国の極南界なり」という文があって、陳寿はそれを知っていた。この公文書の内容に合わせて最後に「ナ国」を追加して「ここが女王の境界の尽きる所なり」としたと想像している。ナ国という国が二つあることはキョウト府とキョウト県があるようなもので不自然である。しかし、陳寿にとってそんなことはどうでもよかった。重要なのは公文書間で矛盾がないようにすることだったのだ。私は最後の「ナ国」は実際には当時の倭国に存在せず、陳寿が創作したクニだと考えている。
三国志は3世紀後半に晋の陳寿が作成し、後漢書は5世紀前半(432年)に南朝宋の范曄が作成した。後漢書東夷伝倭人伝の内容は明らかに三国志魏志倭人伝の内容と酷似しており、魏志倭人伝からの流用が疑われる。しかし、「建武中元二年、倭の奴国が朝賀を奉貢す。使者は大夫と自称す。倭国の極南界なり。光武帝が印綬を賜る。安帝永初元年、倭国王帥升等が生口百六十人を献じ、謁見を請い願う」の文は後漢時代から伝わる公文書を基に書いたと考える。「建武中元二年、倭の奴国が朝賀を奉貢す」「光武帝が印綬を賜る」「安帝永初元年、倭国王帥升等が生口百六十人を献じ、謁見を請い願う」の文については、このように具体的な記述は魏志倭人伝に無く、後漢時代の公文書に基づいていると判断できる。「使者は大夫と自称す」については、魏志倭人伝に「古よりこのかたその使者の中国に詣るや皆大夫と自称す」とあり、後漢時代の公文書に基づいていると判断できる。そうすると、「(奴国は)倭国の極南界なり」という文も後漢時代の公文書に基づいていると考えるのが自然である。
敢えて「極」南界としたことから、後漢初期の中国人は「カヤ国からナ国まで倭という国である。倭国の主体は朝鮮半島南端のカヤ国にあり、対馬、壱岐と連なり、最南端にナ国がある。ナ国は更に百余国に分かれている」と認識していたと考える。
中国人はカヤ国を倭人のクニだと認識したが、カヤ国の人は自分たちが倭人であるという認識は無く、80カ国近くある他のクニグニの人々と同様に韓人であるという認識を持っていた。しかし、カヤ国と南カヤ国に分裂後は韓人も中国に倣って南カヤ国の人々を倭人と呼ぶようになった。
そもそも「倭国」や「倭人」は中国語であって、日本列島の人々も自分たちが「倭人」であるという認識を持っていなかった。
このページのTOPへ
7. 「漢委奴国王」の意味するものとは
福岡の博物館で初めてナ国の金印を見た時の印象は「エッ!こんなに小さいの!?」だった。その後、中国の雲南省博物館に行った時に漢の皇帝が贈ったと言う金印を見たが、ナ国の金印とそっくりなのに驚いた。ミャンマーでも同様の金印が出土していると言う。
雲南省の金印は「愼王乃印」に対してナ国の金印は「漢委奴国王」である。しかも、「漢」の字が2字分取って大きく彫られている。もし後漢が倭を外国とみなしていたならば「倭王乃印」としただろう。30年に後漢が朝鮮半島北部にあった楽浪郡を修復し、その後の57年にナ国が光武帝に朝貢している。この頃の中国人は朝鮮半島南端のカヤ国から北九州のナ国までを倭の領域と認識しており、かつ朝鮮半島全土が楽浪郡の支配下にあると考えていた。このため、後漢朝は倭は楽浪郡の支配下にあるという意味を込めて「漢」の字を大きく頭に入れたのだと考える。当然外国の王としての称号である「倭王」を認めるはずがない。だからナ国の王を倭王と認めずに「委(倭)の奴国の王」とした。しかし、卑弥呼が魏に朝貢した時のように「韓の東南大海中の遥かに遠いクニ」からの朝貢に光武帝は大いに喜び、金印を授けたのだと考える。
カヤ国からの移民が玄界灘沿岸に初期のクニを形成した時からカヤ国からの独立の意識が高かった。その後に日本列島に百余国のクニが形成され、ナ国の権力者が王を自称するようになったが、ナ国王は百余国のクニ全体がナ国という独立国であるという認識を持っていた。
ナ国王が後漢に朝貢した理由はナ国を独立国として認めてもらうためだった。したがって、ナ国王が本来望んだのは「奴王乃印」だったが、残念ながらその望みは叶わなかった。
このページのTOPへ
8. ナ国の朝貢がカヤ国分裂の発端になった
魏志では弁、辰韓のクニの規模について大きいクニで4、5千戸としている。一方、ナ国は2万余戸である。したがって、ナ国が後漢に朝貢した頃に既にカヤ国を凌ぐ国力を持っていたと考えられる。
元々日本列島に移民した人々の大部分は洛東江の釜山側に住んでいた人だった。このため57年にナ国が後漢に朝貢して金印を贈られたことは特に洛東江の金海側に住んでいた人々のナ国に対する警戒感と反感を助長させた。カヤ国の王はナ国との鉄の交易により莫大な利益を得ていたので、反ナ国派の矛先はカヤ国の王に向けられた。その結果、カヤ国内は反ナ国派と国王派に分かれて争うことになった。やがて反ナ国派に強力なリーダー(金官伽耶の始祖である首露王)が現れてその勢いを増した。
後漢書東夷伝に、57年に倭のナ国が朝貢して光武帝が印綬を授けたことを記した後に、107年に倭国王が生口(奴隷)160人を献じて謁見を願い出たことが記されている。ここでの倭国王とは朝鮮半島南端にあったカヤ国の王のことだと考える。謁見を願い出た理由は援軍を請うためだった。
その理由について以下に示す。クニなどの首長を意味する単語として後漢書辰韓伝に「渠帥」、魏志馬韓伝に「長帥」、「主帥」、魏志弁韓伝に「渠帥」が出てくる。魏志倭人伝では「大官」、「官」となっている。このことから後漢書倭人伝の「倭国王帥升等献生口百六十人」の文の「王帥」は「王に準ずる首長」を意味すると考える。すなわち、この文は「倭国の王に準ずる首長の升らが生口百六十人を献ず」と訳すべきである。しかも、「〜帥」の単語は三韓のみにおいて使用されている。したがって、「升」はカヤ国の王だと判断する。だからこそ160人もの生口を楽浪郡に送ることができたのだ(239年に卑弥呼が対馬海峡を越えて帯方郡に送った生口は10人だった)。後漢朝は倭国を漢の領土と考えているので、升を「倭王」とせずに倭国の「王に準ずる首長」と記した。そもそも当時の「国」という字は現代の日本で言えば都道府県や市町村を意味する漢字だった。現代風に言うと、升は後漢国の倭県の県知事であり、倭県にはカヤ市とナ市の二つの政令指定都市があって升はカヤ市の市長も兼ねたということである。
「升等」となっているのは、カヤ国の王とナ国の王が共同で後漢に援軍を懇願したからではないだろうか。カヤ国の使者たちが楽浪郡に赴いて安帝への謁見を請い願った際にカヤ国の王とナ国の王(倭の両王)の共同の請願であることを説明したのだろう。ナ国の王はカヤ国の王が権威を失うことは自分の権威を危うくすることだと分かっていた。二人は運命共同体だった。だから、何としてもそれを防がねばならなかった。
反ナ国派の反乱は益々勢いを増した。しかし、カヤ国王は後漢の援軍を得られずに戦いに敗れて反ナ国派と洛東江を境に国を二分することに合意せざるをえなかった。反ナ国派が占有した(弁韓)カヤ国は鉄山を有しており、豊富な砂鉄を産出した。一方、国王派の(辰韓)カヤ国のナ国への鉄の輸出量は激減した。その結果、カヤ国王は失脚してナ国に亡命したのではないだろうか。これ以降倭の主体は完全に日本列島に移った。
三国史記新羅本紀によると「121年に倭人が東の辺境を攻めた」とある。異論もあろうが、私は三国史記の記載内容を史実として捉えることにする。ナ国王は鉄を求めて(辰韓)カヤ国に軍を進めた。つまり、この時点で(辰韓)カヤ国はナ国の属国と化した。ナ国は(辰韓)カヤ国のことを「ナ国の属国」という意味で「ミマナ」と呼んだ。こうしてカヤ国王の本拠地があった「ありしひのから」はナ国から「ミマナ」と呼ばれるようになった。卑弥呼の時代に(辰韓)カヤ国は韓人から「ナンカヤ」、中国人から「狗邪韓国」、倭人から「ミマナ」と呼ばれた。
洛東江という天然の水濠に守られ、首露王に率いられた(弁韓)カヤ国(「から」)は手強かった。そこで、ナ国軍は北方の涜盧国に目をつけて侵攻したが、涜盧国は斯盧国に救援を求めた。このために斯盧国と戦争になった。新羅本紀に「123年に倭国と講和した」とあるので、この頃に日本列島内に不穏な動きが顕在化したと思われる。そのために停戦をして兵を日本列島に撤退させた。
このページのTOPへ
9. ドミノ倒しでカヤ国の分裂が倭国大乱を引き起こした
ドミノ倒しでカヤ国の分裂が倭国大乱の引き金になったと考える。鉄の輸入量の激減により鉄の価格が高騰した。このことは以前からナ国による鉄交易の独占に不満を抱いていた各地の小国家(同族集落の連携組織)の不満を爆発させた。北九州のクニグニはナ国と距離が近いこともあってナ国の圧倒的な武力の脅威に晒されて小国家同士の大きな結束には至らなかったが、ヤマト地方とトモ地方はナ国から遠く離れていたために、ナ国に対する憤懣が原動力となってたちまちの内にそれぞれの域内の小国家連合が成立した。ここにヤマト国とトモ国の建国が成った。
魏志倭人伝によると卑弥呼の時代には日本列島の倭の領域は28カ国(狗邪韓国と最後の奴国を除く)のクニから構成されていた。一方、昔は百余国あったとされているので、75カ国程度の小国家がヤマト国やトモ国などに統合されたことになる。
ヤマト国はトモ国と同盟を結んでナ国王を倒すべく共に北九州に向かって軍船を進めた。ヤマト・トモ国同盟軍が北九州に上陸すると北九州連合軍との間で戦闘が行われた。しかし、元々ナ国の専横に不満を抱いていたナ国以外の北九州のクニグニの人々の戦意は低く、戦局は北九州連合軍側の方が不利だった。そうするうちに北九州のクニグニの軍がヤマト・トモ国同盟軍になだれをうって投降した。ナ国軍は敗走するしかなかった。やがて、ナ国王の本拠地は敵の大軍に囲まれた。魏志倭人伝に「そこで法を犯せば、軽い罪は妻子を没収、重罪はその一門と宗族を滅ぼす」とある。ヤマト・トモ国同盟軍はナ国の王と高官たちをその親族に至るまで捕えて殺してナ国王朝の宗族を滅ぼしたが、ナ国自体は残した。それはこの地がヤマト国やトモ国の支配層の先祖が最初に入植した土地であり、移住当初の先祖の墓があったからである。ただし、ナ国の弱体化策として旧ナ国領を分割し、ナ国の喉元にイト国を造って直轄領とした。
敵の大軍に囲まれて敗戦を悟った時にナ国王は王の印璽として引き継がれてきた金印を隠すように部下に命令した。博多湾を背にして敵に囲まれたので海に出て志賀島に金印を隠すしかなかった。金印は巨石の下に隠されていたと言う。ナ国王にとって金印は王の証だったに違いない。それをヤマト国に奪われることは忍びなかったのだろう。
畿内勢力が北九州の王族を滅ぼしたということが記紀に書かれていないと反論する人がいるかもしれない。皇族の出身地が「韓国に向かう」九州の地であることが古事記に書かれていて、古事記の撰者は玄界灘沿岸が最初の入植地であり、古のナ国が日本で最初に王が誕生した地であることを認識していた。記紀は皇族を正当化するための正史である。ナ国の王族を武力で滅ぼしたことは言わば主殺しである。そんなことを正史に書けるはずがない。このことを歴史から葬り去らなければ天孫降臨どころではなくなる。だから、書かなかった。
このページのTOPへ
10. 「奈良」は「奴国」を意味する
古事記を編纂するに当たり古からの伝承にできるだけ沿ったストーリーにするという方針があったと考える。だから、伝承に沿って九州に天孫降臨して神武天皇が九州から大和に東征するというストーリーになった。そうでなければ、天孫降臨の場所として熊野を選んだと思う。また、古事記からわずか8年後に編纂された古事記の改訂版とも言うべき日本書紀では天孫降臨の場所の記述が書き換えられているのが興味深い。古事記では「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけに天降った」とあるが、日本書紀では「日向の襲の高千穂峰に天降った」となっている。また、古事記では「この地は韓国に向かい」となっているが、日本書紀では「そししの空国を」に書き換えられている。つまり、古事記では明らかに天孫降臨の場所を玄界灘沿岸としているのに対して日本書紀では熊襲の地を天孫降臨の場所として選んでいる。これは、古の先祖が朝鮮半島から渡来したというしがらみを断ち切り、大和民族として自立するという意思表示を当時の日本の指導者が日本書紀で明確にしたのだと考える。だから玄界灘沿岸とは真逆の朝鮮半島から遠い熊襲の地をあえて天孫降臨の場所として選んだのだ。
私は奈良=那羅の「那」はナ国の「ナ」だと考えている。ナ国王の時代を歴史から葬り去ったが、首都の名前にナ国のクニの名を付けることで先祖の地に対する畏敬の念を示したと考えている。
「ラ」は朝鮮半島南部先住民の言葉で「クニ」を意味する。すなわち、「ナラ」は「ナのクニ」という意味であり、中国語に翻訳すると「奴国」ということになる。「クダラ」の「ラ」も「クニ」の意味である。「百済」という漢字表記は支配層の扶余民族が定めた国名である。これに被支配層の先住民が呼んだ国名である「クダラ」という読みを当てたのだ。このことは「倭」、「大倭」、「大和」という漢字に「ヤマト」という読みを当てたのに似ている。古代では新羅、加羅、安羅、多羅、耽羅など朝鮮半島南部のクニの名に「ラ」を付けることが多かった。魏志弁韓伝にある斯蘆国の斯蘆=シンラは「シンのクニ」という意味である。したがって、「斯蘆国」は本来「シンのクニの国」という意味になってしまう。韓人が「シンラ」と呼んだ国名を中国語に正しく翻訳すると「斯国」ということになる。これは正に魏志馬韓伝が言うところの昔の辰国である。斯蘆国が辰韓、弁韓の起源だった。狗邪韓国の北に境を接する涜盧国の涜盧=トクラは「トク」のクニという意味であり、これは日本書紀の喙国(とくのくに)に相当する。
日本列島のクニでは対馬島や壱岐島を除けば朝鮮半島に最も近い末羅に「ラ」が付く。カヤ国から最初に東松浦半島付近に移住した人々が造ったクニであり、「マツラ」と名付けられた。その後に移民の開拓地域は東の糸島平野や福岡平野に広がり、「カフラ」や「ナラ」と名付けられた。しかし、ナラに権力者が現れて小国家が形成されると、朝鮮半島からの独立の意思を示すために三韓のクニグニの名に付けられていた「クニ」を意味する「ラ」を取り除いてクニの名を「ナ」とした。そして、その後はクニの名に「ラ」が付けられることはなくなり、カフラがナ国に吸収されたためにマツラだけが残った。
このページのTOPへ
11. ヤマト国によるヤマト連邦の統治体制が確立した
ナ国時代に百余国に分かれていたクニは移民後の先祖を同じくする集落の連携組織(同族国家)だったので結束が固かったが、ヤマト国やトモ国は同族国家を超えた地域国家だった。ナ国王打倒の旗印の下に合従連合したが、ナ国の王族が滅亡すると今度は旧同族国家間の覇権争いが勃発した。武力に勝る同族国家が近隣の他の同族国家の集落を支配下に収めて領地を拡大することが長い間続いた。しかし、圧倒的な勢力を持つ集団は現れなかった。ヤマト国が幾つかの領域に集約され、トモ国との主導権争いにも勝利した時に争いは収まった。それ以後、ヤマト国によるヤマト連邦の統治体制と有力頭領(豪族の頭領)の合議制による政治体制が整備された。三国史記新羅本紀によると158年に斯蘆国に友好使節を派遣しているので、この頃に争いは収まったと考える。
ヤマト国によるヤマト連邦の統治体制として、直轄領のイト国に「オオツカサ」を派遣して北九州の監督と外交の責任者とした。土着の豪族が支配している大きなクニに対しては土着の豪族の支配を認め、お目付け役として「ヒナモリ」を派遣して監視に当たらせた。北九州のクニグニの「ヒナモリ」は「オオツカサ」の管轄下にあった。土着の豪族がいない小さなクニに対しては長官の「ヒコ」と副官の「ヒナモリ」を派遣して治めさせた。
イト国に派遣している「オオツカサ」(魏志倭人伝では「王」とされている)から南方民族が北上して侵攻してきたという報告がヤマト国にもたらされた。有力頭領による合議の結果、トモ国とも諮って直ちに援軍を北九州に送ることになった。援軍の司令官に「ソツ」という官職名が与えられた。「ソツ」は北九州のクニグニからも徴兵して援軍に加え、南方民族と戦闘を交えてこれを撃退した。「ソツ」と援軍はそのままイト国に常駐した(魏志倭人伝で「ソツ」は「大率」と記されている)。有力頭領の合議を取り仕切る最有力頭領はこれを絶好の機会と捉えて、倭国として一つにまとまることの必要性を説いた。そして、自らが王となろうとしたが他の有力頭領の反発を招いた。おそらくナ国王のような専横的な権力者の再来を危惧したのだろう。やむなく娘の卑弥呼を女王とすることで他の有力頭領と妥協した。ただし、年少の卑弥呼を擁立したこと、更に卑弥呼亡き後に男王が立ったが再び戦乱となってやはり13歳の壹与を王としたことからも分かるように実質的には有力頭領の合議制政治が続いていたと考える。三国史記新羅本紀によると173年に倭女王卑弥呼が友好使節を斯蘆国に派遣しているので、この年に女王に共立されたと考える。中国の梁書にも「光和中(178年〜184年)に卑弥呼が共立され倭を治め始める」と書かれているので、この頃に女王に共立されたと考えてよい。
魏志倭人伝に「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年及共立一女子為王」とある。「本」には事物の起源という意味があるので、「其国本」は「その国の起源」=「昔のナ国」のことを指すと考える。つまり、最初の文は「昔のナ国にも男王がいて、その治世が七、八十年続いた」と訳すべきである。ナ国の王は57年に後漢からナ国王として認められているので、130年頃に滅亡したと考えられる。「倭国乱る」はヤマト・トモ国同盟軍と北九州連合軍の戦争のことを指していると考える。「互いに攻伐することが歴年に及んで一人の女性を王に共立した」の「互いに攻伐することが歴年に及ぶ」は、その後の旧同族国家間の武力統合、ヤマト国とトモ国の主導権争い、南方民族との戦争のことを指すと考える。
流れを整理すると次のようになる。57年にナ国が後漢に朝貢。これに反発してカヤ国内で紛争が発生。107年にカヤ国王が後漢に援軍を求める。援軍を得られずに(弁韓)カヤ国と(辰韓)カヤ国に分裂。鉄の日本列島への輸入量が激減。121年にナ国軍が鉄を求めて朝鮮半島に進出して斯蘆国と戦争。この時に(辰韓)カヤ国はナ国の属国となり、ナ国はこの国を「ミマナ」と呼ぶ。同族国家が合従連合してヤマト国とトモ国が誕生。123年にナ国は斯蘆国と講和。130年頃にヤマト・トモ国同盟軍が北九州に上陸して北九州連合軍と戦闘。ナ国軍が敗走してナ国の王族滅亡。この時に金印を志賀島に隠す。その後旧同族国家間の武力闘争やヤマト国とトモ国の主導権争いが続く。争いが収まりヤマト国によるヤマト連邦の統治と有力頭領(豪族の頭領)による合議制政治を開始。158年に斯蘆国に友好使節を派遣。南方民族が北上して侵攻。ヤマト連邦軍が南方民族を撃退。卑弥呼を女王に共立。173年に倭女王卑弥呼が斯蘆国に友好使節を派遣。
このページのTOPへ
12. 日本列島への移民には辰韓系移民と弁韓系移民があった
私はカヤ国から日本列島に移住した人々には辰韓系と弁韓系の2種類があったと考えている。辰韓系の人は釜山付近に住んでいた人であり、移民の多数を占めていた。しかし、移民の中に洛東江の対岸の金海地方に住んでいた人も含まれていた。辰韓系の移民の子孫はヤマト連邦のクニグニを建国し、弁韓系の移民の子孫はイズモ圏のクニグニを建国した。
未だナ国王の時代の頃、カヤ国内で国王派と金海側住民を中心とした反ナ国派の対立が表面化した時に、日本列島内では北九州の宗像地方などに住んでいた金海側出身の先祖を持つ住民の迫害がナ国王配下の兵士によって行われた。このため弁韓系の住民の大部分はナ国の迫害から逃れるために山陰地方などに移住した。山陰地方に移住した人々はそこで独自のクニを構築してクニの名を「イズモ」と呼んだ。イズモ国はカヤ国が(弁韓)カヤ国と(辰韓)カヤ国に分裂後は先祖の故郷である(弁韓)カヤ国と交易を行った。(弁韓)カヤ国は楽浪郡と交易があったので、イズモ国は(弁韓)カヤ国を介して楽浪郡とも交易を行った。つまり、卑弥呼の時代の倭国にはヤマト連邦−(辰韓)カヤ国−帯方郡とイズモ国−(弁韓)カヤ国−楽浪郡の二つの交易ルートがあった。祭祀は弁韓系の祭祀を先祖代々受け継いでいた。日本の神社は大部分が出雲系の神が祀られているが、これはとりもなおさず弁韓系の祭祀を基にしているということである。卑弥呼の時代にはイズモ国は未だヤマト連邦に属していなかった。このため魏志倭人伝にイズモ国は登場していない。
魏志倭人伝の投馬国をイズモ国に比定する人がいる。北九州と畿内の間にある強大なクニとして後の吉備国以外に古代出雲も確かに候補として挙げることができる。しかし、古代出雲は山陰から北陸にかけて四隅突出墳墓に代表される独特の文化圏を形成していたことが考古学的に明らかにされている。また、ヤマト王権の権威の象徴とされる前方後円墳は岡山地方では古墳時代前期に150mの前方後円墳が作られているが、出雲地方では50m程度のものしか作られていない。後期になって突然100mを超える前方後円墳が作られている。したがって、投馬国として後の吉備国を比定する方が自然である。
魏志弁韓伝に「(弁韓は)衣服と住居は辰韓と同じ、言語と法俗は辰韓に似通っているが祠に鬼神を祭るのが異なる」とある。この弁韓の「祠に鬼神を祭る」祭祀方法が神社の起源ではないだろうか。ヤマト国はイズモ国と講和するに当たり、その条件としてイズモ国の祭祀を倭国の祭祀として採用することを提案したのではないか。その証としてそれまでの青銅器祭器である銅鐸、銅剣、銅矛などを土中に埋めたのではないか。近畿の銅鐸文化圏と北九州の銅武器文化圏を区別することが行われているが、近畿で銅鐸祭器が著しく発達したというだけで、共に青銅器祭器を用いる祭祀という点で一致しており、基本的に同一の文化圏であると考える。その後、祠を建ててその中に御神体を祀る祭祀が次第に日本各地で行われるようになった。そして、神無月に全国の神々が出雲に参集するという神話が生まれた。後世に仏教が倭国に伝来して中国式の寺院が建てられるようになって、祠も神社に規模が拡大した。原則的に「神宮」は辰韓系の神社、農耕の象徴である注連縄が飾られている「大社」は弁韓系の神社と考える。
伊勢神宮外宮の土宮や風宮、内宮の正宮などのすぐ横に小石を敷き詰めた四角の広場があり、その中ほどに木製の百葉箱のような物がぽつんと立っている。私はこれこそが本来の祠ではないかと推測している。
辰韓系移民の移住当初の拠点地域だった福岡市が釜山市と姉妹都市になり、弁韓系移民の拠点地域だった宗像市が金海市と姉妹都市になっているのは単なる偶然ではなく歴史的な運命であると思わざるを得ない。
このページのTOPへ
13. 魏に朝貢した理由はクマ国が南方民族に占領されたためだった
卑弥呼の時代の倭の戸数は魏志に記されているだけで15万戸になる。これに対して馬韓の戸数が10余万戸、弁、辰韓の合計が5万戸であり、三韓合わせて15余万戸となる。つまり、倭の戸数は三韓の合計戸数に匹敵する。しかも、首都であるヤマト国の戸数は7万戸であり、三韓のクニの最大1万戸に比べて圧倒的な規模である。中国の魏朝は当然倭の使者から倭の国状について聞いただろう。魏朝は倭の規模から独立国であると認めざるを得なかった。このため卑弥呼を「親魏倭王」となし、倭王として認めた。卑弥呼が中国が認めた最初の倭王だった。ちなみに、卑弥呼が173年に壹与同様に13歳で女王になったと仮定すると、239年に魏に朝貢した時には79歳だったことになる。魏志倭人伝に「(卑弥呼の)年齢は既に高齢」とあるし「倭人の寿命は百年ないし八、九十年」とあるので事実として成り立たない仮定ではない。
卑弥呼が女王に共立された173年に斯蘆国に友好使節を派遣してから66年も経った239年に何故急に中国に朝貢したのだろうか?238年に魏が公孫氏を滅ぼして楽浪・帯方郡を修復したということがそのきっかけだっただろうが、それにしても、243年に再び朝貢し、更に247年に使者を帯方郡に派遣してクマ国との戦争の状況を説明している。つまり、矢継ぎ早に中国に使者を派遣している。私は、南方民族が再びヤマト連邦領へ侵攻したために危機感を抱いたヤマト連邦首脳陣が魏に援軍を依頼しようとして何度も朝貢したと考える。
近畿、瀬戸内海沿岸、北九州を支配していたヤマト連邦がクマ国との戦争の援軍を中国に求めるはずがないと反論する人がいるかもしれない。しかし、ヤマト王権が関東から北九州まで普く支配するようになっても熊襲は7世紀までヤマト王権に屈しなかったということは史実である。このことから分かるように南方民族(後世の薩摩隼人)の兵士は勇猛果敢でヤマト王権の最大の強敵だった。
更に、この時代のヤマト連邦の指導者は自分たちの先祖が元々は中国の南部(春秋時代の呉の領域)に住んでいた中国人だったという認識を未だ持っており、自分たちが呉の太白の後裔だと信じていた。彼らにとって南方民族は異民族であるが中国は先祖の故国という認識だった。だから、中国に援軍を求めることは自然な行為だった。
魏志倭人伝でクマ国の官とされている「キクチヒコ」は元はヤマト国がクマ国に派遣した長官だった。ヤマト連邦は過ってのナ国と同様に鉄を求めて朝鮮半島の涜盧国に侵攻し、涜盧国を支援する斯蘆国と戦争になった。232年には斯蘆国の首都である金城を包囲したが、233年は大敗した。この戦争はクマ国にも軍事的および経済的負担を強いた。この負担に不満を抱いたキクチはヤマト連邦に対して反乱を起こし、南方民族の族長卑弥弓呼に臣従した。その結果、クマ国は南方民族に占領されてしまった。女王が魏に朝貢するきっかけとなったのはクマ国が南方民族に占領されたからだと考える。ヤマト連邦軍はクマ国奪還のためにクマ国に兵を進めたが、南方民族軍の抵抗は極めて頑強で何年経っても奪還することができなかった。ヤマト連邦首脳陣は再度魏に朝貢して援軍を求め、更に帯方郡に使者を派遣して戦争の状況を説明したが、結局援軍を得られなかった。得られたのは黄幢の軍旗と檄文のみだった。
このページのTOPへ
14. 神宮皇后のモデルは卑弥呼と壹与だった
私は、卑弥呼の時代の斯蘆国との戦争に関連付けて日本書紀の神功皇后の新羅への親征の物語が創作されたと考えている。もちろん卑弥呼自身が朝鮮半島に渡っていないし、新羅を征伐したという事実はない。そもそも記紀の内容を全て事実と捉えることは意味がない。
神功皇后の摂政期間の201年〜269年は卑弥呼と壹与の時代に相当する。更に神功皇后紀に魏志の倭女王からの朝貢の記事が引用されており、明らかに日本書紀の撰者は神功皇后を卑弥呼や壹与に関連付けている(もちろん神功皇后が朝貢したとは書かれていない)。私は神功皇后は卑弥呼と壹与を併せた人物をモデルにしていると考えている。中国の梁書に「光和中(178年〜184年)に卑弥呼が共立され倭を治め始める」とあるので、日本書記で神功皇后が摂政を開始した年としている201年と大きなずれは無い。
しかし、卑弥呼や壹与の時代に倭国が百済や高句麗の地域まで進出したということを示す資料は無い。4世紀中頃に倭国が朝鮮半島に進出し、4世紀末前後に百済や新羅から人質を取って事実上属国とし、更に北方の高句麗地方に侵入した史実と卑弥呼の時代の斯蘆国との戦争を結びつけて日本書紀の撰者が強引に神功皇后(=卑弥呼)の治世において三韓を征伐したことにしたと私は考えている。この件に限らず記紀では仁徳天皇までは史実と思われる事績が100年以上も前倒しして書かれている。
卑弥呼と壹与は倭王であるにもかかわらず、なぜ「神功天皇」ではないのだろうか?
後世に推古天皇を始め女性の天皇は何人も出ているので、「女王」ということが天皇にしなかった理由ではない。私は卑弥呼と壹与が中国に朝貢したことが天皇にしなかった理由と考えている。記紀の編纂者や編纂当時の日本の指導者は中国の歴史書(三国志)に卑弥呼と壹与が中国に朝貢したことが記されていることを知っていた。しかも、卑弥呼の時代の日本の様子が詳細に書かれていて、この書物を無視できないと判断した。しかし、天皇が中国に朝貢する事などあってはならない。だから、天皇にしないで皇后の摂政という設定にしたのだ。このために仲哀天皇と神功皇后の子である応神天皇が成人しているにもかかわらず神功皇后が摂政を続けて応神天皇は71歳で即位するという不可思議な設定になってしまったのではないだろうか。
中国の晋書に「泰始の初めに遣使が重ねて入貢した」とある。また、梁書に「再び卑弥呼の宗女の壹与を王として立てた。その後、また男の王が立った。いずれも中国の爵命を拝受した」とある。これらの文から「泰始の初めに壹与と男王が次々に入貢して中国の爵命を拝受した」と解釈できる。ところが、日本書紀には「武帝の泰始二年十月に倭の女王が重ねて貢献した」と書かれている。つまり、日本書紀は男王が中国に朝貢した事を隠蔽している。男王はおそらく応神天皇である。日本書紀の選者は日本人のプライドを守るために涙ぐましい苦労をしているのだ。
倭の五王が中国に遣使したことが記紀に書かれていないのも同じ理由であり、故意に書かなかったのである。
倭国大乱を勝ち抜いて最有力頭領となり、ヤマト国によるヤマト連邦の統治を開始した人物が崇神天皇のモデルであり、卑弥呼の死後に男王となるが有力頭領たちによってすぐに王の座を壹与に挿げ替えられた卑弥呼の弟が仲哀天皇のモデルである。
壹与の次の倭王が応神天皇(壹与の子とは限らない)であり、応神天皇が有力頭領による合議制政治を打破して最高権力者としての王による政治をヤマト連邦で最初に始めた男王である。したがって、応神天皇からヤマト王権が始まったと言えよう。次の仁徳天皇がヤマト連邦に属しないもう一つのクニであるイズモ国との交流を開始して富国強兵を行い、朝鮮半島へ進出した。そして、倭の五王に繋がる。
ただし、応神天皇の在位期間は71歳から111歳までと不自然であり、これは二人の人物を一人に合成した可能性が高い。更に、仁徳天皇の在位期間も57歳から143歳となっており、同様と考える。これは前述したように記紀では仁徳天皇までは100年以上も前倒しして史実と思われる事績が書かれているためにそれを調整するためにこのような細工がなされたと思われる。
蛇足だが、武内宿禰は有力頭領たちを象徴し、襲津彦はイト国の「ソツ」をモデルにしていると考える。記紀において襲津彦は朝鮮半島に関係の深い人物として描かれている。イト国の「ソツ」は232年〜233年の斯蘆国との戦争の実戦を指揮する立場にあったし、後の本格的な朝鮮半島への進出時にも「ソツ」が陣頭指揮した。
神代の時代の記紀は何を物語っているのだろうか?記紀において、辰韓系のヤマト連邦の人々のカヤ国における先祖の象徴が天照大神であり、弁韓系のイズモ圏の人々のカヤ国における先祖の象徴が天照大神の弟の素戔男尊であると私は考えている。カヤ国から対馬、壱岐、東松浦半島の順で日本列島に渡来して玄界灘沿岸に移住した人々が天照大神の孫である邇邇芸命一行のモデルである。つまり、玄界灘沿岸が本来の天孫降臨の地であり、「韓国に向かう地」である。その後、移民団は南に開拓地域を広げていった。更に東の本州に移住して最終的に畿内に達した人々が神武天皇一行のモデルになった。弁韓系移民も当初は宗像地方などに住んでいたが、カヤ国が(辰韓)カヤ国と(弁韓)カヤ国に分裂した頃に弁韓系移民の子孫が出雲地方に移住した。記紀では出雲国へは素戔男尊自身が降臨したことになっている。
神武天皇より先に天磐船に乗って河内の地に天降ってヤマト国に移ったとされる饒速日命はカヤ国から移住が行われる前の遥か昔から段階的に大陸から海を越えて日本列島へ移住して稲作を日本列島にもたらした人々を象徴し、ヤマト土着の首長である長髄彦は太古の昔からの日本列島の住人である縄文人と呼ばれる人々を象徴している。また、饒速日命は長髄彦の妹と結婚しているが、このことは大陸からの移民と土着民との混血を表現していると考える。
このページのTOPへ
15. 中国の使者はヤマト国に行けなかった
魏志倭人伝に記された帯方郡からの倭国への使者は240年の建中校尉の梯雋と247年の塞曹掾史の張政である。おそらく魏帝を始め魏朝のほとんどの人が倭という国があるということを卑弥呼の朝貢によって初めて知ったことだろう。魏朝にとって倭は未知の国だった。このため梯雋には倭とはどういう国か詳細に報告せよとの命令が下っていたと推察する。魏志倭人伝の内、旅程、倭の習俗、倭の国状についての記載は梯雋の報告書を基にして書かれた公文書をほとんど書き写し、「景初二年六月」で始まる倭と中国との外交に関する部分と卑弥呼の死後の事柄については選者の陳寿が魏の公文書を基に作文したと考える。
魏志倭人伝に記された倭国のクニに関する方角や距離には矛盾があるが、それを検証する物が無く、結局自分の主張に都合良く解釈するしかない。私の都合の良い解釈はこうだ。第一に、帯方郡からの使者を始め当時の中国人は日本列島の地理に関する正確な知識を持っていなかった。第二に、梯雋は女王国であるヤマト国に行っていない。行かなかったのではなく、行けなかった。その原因は帯方郡から乗船して来た船にトラブルが発生して使えなくなったからである。第三に、「帯方郡から男王国まで万二千余里」と書くつもりだった文を「帯方郡から女王国まで万二千余里」と書いてしまった。第四に、「南至投馬国」と「南至邪馬台国」の南は本来東が正しい。
「梯雋は女王国であるヤマト国に行っていない」の根拠の一つがマツラ国である。何故マツラ国からイト国まで「道を行くに前の人が見えないほど草木が生い茂った」五百里の道を歩いたのか。それは船を使えなくなるトラブルが発生して陸行するしかなかったからである。常識的にはイキ国からマツラ国の港に寄港して、そこからイト国の港まで船で行くはずである。おそらくイキ国からマツラ国に向かう途中で暴風に遭遇したと考える。その際に船の帆が破損したのではないか。一行は命からがら東松浦半島の突端の港に上陸したものの帯方郡から乗船してきた船は使えなくなってしまった。だから歩いて半島を南下してマツラ国の港に辿り着いた。ここで天候の回復を待って倭の船に乗ってイト国に行く手もあっただろううが、小さな倭の船に乗るよりは歩いた方がましだと中国の使者は思ったのだろう。何しろ海で死ぬ目に会ったばかりである。それで一行はイト国まで歩いた。半島を南下してから東に向かったのでイト国まで「東南陸行」と記したと考える(松浦川流域から前原まではむしろ東北の方角になる)。
中国の使者はツシマ国やイキ国に上陸してこれらのクニの中心集落に宿泊したに違いない。その際に長官や副官から歓迎の宴を受けたことだろう。マツラ国だけ長官も副官も記載が無いのは彼らに会っていないからだ。いかにもマツラ国でゆっくりする暇も無く通り過ぎたという印象を受ける。マツラ国の中心集落は千々賀遺跡ではないかと言われていて、松浦川を船で上流に上がれば中心集落まで行ける。おそらく中国の使者は同行している難升米から聞いているイト国にある迎賓館とも言うべき「邸閣」で早く体を休めたかったのではないか。だから、マツラ国の中心集落までわざわざ行く気にならず、真直ぐにイト国を目指したのだろう。無事に船でマツラ国の港に着いていたならばマツラ国の中心集落を訪問して中国の使者は長官や副官の歓迎を受けたことだろう。そして、報告書にマツラ国の長官と副官の官職名を記したことだろう。
イキ国からマツラ国に向かう途中で暴風に遭遇したのではないかという根拠がある。魏志倭人伝に、カヤ韓国(釜山)−ツシマ国間が千余里、ツシマ国−イキ国間が千余里とある。実際の地理からもこの二つの距離を同じとしても頷ける。ところが、イキ国−マツラ国間までもが千余里となっている。実際の地理ではイキ国−マツラ国間はどう見てもツシマ国−イキ国間の距離の半分程度である。梯雋は中国の船(帆船と考える)の1日当たりの航行(原則として視野を確保できる明るい時間のみ航行)が何里に相当するという基準値と歩いた場合の1日当たりの距離(同様に明るい時間のみ歩行)の基準値を持っていた。それらを用いて船で航行したり歩いたりした日数から里数を見積もったと考える。
16世紀末に朝鮮通信使が残した記録である「日本往還日記」によると、釜山から対馬島まで五百里、対馬島から壱岐島まで五百里、壱岐島から名護屋まで百三十里となっている。海を渡る際に釜山でも対馬でも壱岐でも風待ちのために何日も待っている。天候も風向きも良好な日の夜明けに釜山近くの絶景島を出航すると夕方に対馬の西浦(上対馬町)に着いている。次に対馬の府中浦(厳原町)を朝出航して夕方に壱岐島に着いている。この時に暴風に遭遇したことが記されている。壱岐島を朝出航したが順風を得られずに夕方班島(加唐島か?)に着いて、そこで宿泊している。次の日の朝出航して東松浦半島に上陸して名護屋城を訪れている。
倭国の使者一行が水先案内のために中国の使者に同行していただろうから、倭人の水夫の経験から対馬海流の潮流を考慮して最適な位置にある釜山近辺の島を天候が良くて順風が吹く日の夜明けと共に出航し、目標である対馬を目視しながら航行して夕方頃に対馬島北部に着いた。壱岐島に渡る時には対馬島南部を夜明けと共に出航して夕方頃に壱岐島に着いた。マツラ国に渡るために壱岐島を夜明けと共に出航したが途中で暴風に遭遇したために船の速度が極端に遅くなってマツラ国(東松浦半島突端)に夕刻以降に到着した。そのために、実際より長い距離を見積もってしまった。
中国の船で1日当たり航行した距離の基準値は千余里(「千里ぐらい」と訳すべきである)だったとするのが妥当である。また、魏志倭人伝で記された里数と実際の距離を比較すると1里が100m弱に相当することが分かる。つまり、百里は10km弱である。私は百里が歩いた場合の1日当たりの距離の基準値だったと考える。つまり、東松浦半島突端から前原市まで5日かかって歩いたと考える。
イト国からヤマト国までは水行三十日である。とても帯方郡の使者は倭の船でヤマト国に行く気にはなれなかっただろう。倭国側も、もし倭の船で帯方郡の使者をヤマト国に送る途中で万一のことがあれば倭国の責任となり援軍を依頼するどころではなくなると考えたに違いない。それで無理にヤマト国行きを勧めなかった。双方の思惑が一致して帯方郡の使者はヤマト国に行かなかったと考える。ただし、船が破損したことは帯方郡の太守に隠すことはできないので(代わりの船をよこすように帯方郡に伝令を出したはず)、船が破損したこととそのためにヤマト国に行けなかったことを梯雋は正直に報告書に書いたと考える。しかし、帯方郡の太守が自分に責任が及ぶことを畏れて魏朝への報告書にそのことを書かなかった。
帯方郡を出発してヤマト国に至る行程のなかで「到達した」という意味の「到」の漢字が使われているのは2箇所しかない。まず「到其北岸狗邪韓国」である。この文にはいよいよ倭の領域に到達したという感じが現れている。もう一つは「到伊都国」である。もし、梯雋がヤマト国まで到達しているならば「到邪馬台国」と表現しただろう。しかし、「至邪馬台国」となっている。これらの文からはイト国が旅程の終着点だったとしか読めない。更に、イト国までは語順が「(方角)+交通手段+距離+目的地」となっているが、ナ国からは「方角+目的地+(交通手段)+距離」に変わっている。また、戸数について、ウミ国までは「有」という漢字が使われているが、トモ国とヤマト国については「可」の漢字が使われている。「有」は「有る」という確定的な意味合いを持つが、「可」は疑問の語気を表し、「有るだろう」という推量の意味になる。つまり、ナ国とウミ国はイト国に逗留している間に視察に出かけたが、トモ国とヤマト国は自分の目で確認していないから「可」の漢字を使った。また更に、ウミ国までは水行も陸行も里数を記しているが、トモ国とヤマト国については日数を記している。これは、トモ国とヤマト国については自分で行っていないので里数を見積もることができず、倭人から聞いた旅行日数を報告書に書いた。つまりトモ国とヤマト国については倭人から聞いた情報のみを基に書いたために表現が異なったと考える。
魏志倭人伝で官と副と戸数以外にクニの状況について如何にも紀行文として書かれているのはツシマ国、イキ国、マツラ国だけである。そして、イト国は使者の逗留場所となっている。しかも、「郡使往来常所駐」となっている。「常」は「常時」や「普段」を意味し、この文は「帯方郡の使者はナ国とウミ国を視察に出かけた以外は『ずっと』イト国に滞在した」という意味に解釈することができる。このこともイト国が旅程の終着点であることを示している。
卑弥呼が女王に共立された経緯を記した後に卑弥呼の状況について記されているが、これは梯雋が「オオツカサ」や難升米から女王共立の経緯を聞いた時に卑弥呼の状況も聞いたと考えられ、必ずしも梯雋がヤマト国に行ったという根拠にはならない。
イト国の王についての説明は「代々女王国に属す」しかないのに、大率(=「ソツ」)については詳しく述べている。しかも、中国の「刺史」の例えまで出して中国人が大率の立場を理解し易いようにしている。「郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」とあり、「(大率が)帯方郡の使者が倭国を訪れた際に港で点検照合した上で文書(詔書)と魏帝から下賜された物を運送して女王に詣でた。したがって、間違いなく女王に届けられた」としている。つまり、梯雋は「自分は船が破損したためにヤマト国に行けなかったが、イト国の港までは間違いなく詔書と下賜品を運んだ。中国の刺史にも匹敵する立場にある大率が点検照合してそれを確認した。後は大率の責任で女王に届けた」と言わんばかりだ。
イト国の「オオツカサ」を「代々女王国に属す王」と表現しているのも恣意的である。いかにも「オオツカサ」が女王の王族だという事を強調しようとしている。本来梯雋は魏帝の代理として倭王の前で詔書を代読する必要があった。「ヤマト国に行けなかったが、王になってからわずかの人しか会ったことがない卑弥呼の代理とも言うべき『王』の前で詔書を代読して魏帝の徳を倭人に知らしめた」と言いたかったのではないだろうか。
滅亡したナ国王の金印が巨石の下に隠されていたとはいえ現代まで伝承したのに、卑弥呼の金印はヤマト国がヤマト王権へと発展したにもかかわらず現代に伝承されていない。また、卑弥呼に贈られた百枚の鏡とされる三角縁神獣鏡も後になって作られた国産品ではないかという説がある。ひょっとすると、中国の使者の船は港に係留している間に暴風のために沈没してしまったのではないだろうか。暴風が吹き荒れている間はとても荷物を船から降ろせなかっただろう。魏帝からの下賜品も船と共に海に沈んでしまったのではないだろうか。例え暴風が原因だとしても皇帝の下賜品を失くしたとあっては間違いなく梯雋たちの死罪は免れない。難升米らの倭国の使者たちは水先案内をしながら帯方郡から梯雋に同行していたから下賜品を失くした状況をよく分かっていた。梯雋と倭国側が話し合って、下賜品が女王の所まで届けられたことにしたのではないか。倭国が魏に朝貢した狙いは援軍である。梯雋を助けることによって恩を売ったのではないか。また、梯雋は、大率がイト国から女王の所まで運んだことにして、万一女王の所に下賜品が届いていないことが魏朝に発覚した時に、それは大率が途中で失くしたからだと言い訳ができるようにしたのではないか。金印や鏡は今も東松浦半島突端の海底に眠っているのかもしれない。
このページのTOPへ
16. 万二千余里はクマ国までの里数だった
倭国が魏に朝貢した理由はクマ国が南方民族に占領されたために援軍を請うためだった。したがって、戦争の最前線になっているクマ国についての情報を梯雋に教えたはずである。倭国領であるツシマ国の大官やイキ国の官は「ヒコ」と官職名しか書かれていないのに、敵国のクマ国の官については「キクチヒコ」と具体的な名前が付されている。「ソツ」は当然最前線に行ったことがあり、梯雋にイト国からクマ国まで歩いてかかる日数を告げ、梯雋はその日数からイト国からクマ国までの距離を見積もったと考える。倭国側は帯方郡からの援軍の派兵を想定して帯方郡からクマ国までの道程を報告書に書いて欲しかったはずである。魏志倭人伝では「其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王、自郡至女王國萬二千餘里」となっている。最後の文は梯雋が本来「自郡至男王國萬二千餘里」と書くつもりだったのを、その直前に「女王」と書いたためにうっかり「自郡至女王國萬二千餘里」と書いてしまったと私は都合良く考える。
この文が本当に帯方郡から女王国までの距離を記したものだとすると、「從郡至倭」から「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸」までの文をまとめる形で、すぐ後に「自郡至女王國萬二千餘里」と続けるのが文の構成として自然だと考える。
そもそも女王国までの里数を見積もったのであればウミ国まで里数を書いておきながら何故ヤマト国については日数を書いたのかが疑問である。
「計其道理、当在会稽東冶之東」とある。これは、陳寿が倭人の男性が身体に入れ墨をしていることと夏王朝の王子が会稽に封じられたときに蛟龍の害を避けるために身体に入れ墨をしたという伝説とを結びつけ、「そういえば梯雋が報告書に書いたヤマト国までの道程を計算するとヤマト国は会稽の東冶(福建省福州辺りとされる)の東に当たるな」と納得しているのだ。福建省の福州の東というと沖縄辺りになる。朝鮮半島の南端から3千里南に航行し、さらに中国の船で南に三十日航行すると沖縄まで行ってしまうということだ。これは明らかに「自郡至女王國萬二千餘里」と矛盾する。前にも述べたが、陳寿は後漢時代の公文書に合わせて架空の「ナ国」を創作したぐらいだから、梯雋の報告書にミスがあるかどうかをチェックする積もりは全く無かったと考える。
以上示したように「自郡至女王國萬二千餘里」の文がそのまま正しいとすると色々と不都合である。
「自郡至男王國萬二千餘里」が正解だと仮定すると、帯方郡からイト国までは一万五百里だから、イト国からクマ国までを千五百里(15日間の歩行距離に相当)と見積もったことになる。東松浦半島の突端からイト国まで五百里だから、イト国からクマ国まではその3倍ということになる。クマ国が朝鮮系無文土器が出土している熊本平野にあったと仮定しよう。イト国からクマ国に行くには、前原市(イト国)から背振山地を避けて福岡市まで東行し、次に南下して春日市(ナ国)に行って、そこから例えば現在の西鉄大牟田線に沿って南下し、基山町(鬼国=キ国)や鳥栖市(対蘇国=トス国)を経由して有明海沿岸沿いに歩けば熊本平野(クマ国)に到達する。この道程を東松浦半島の突端からイト国までの道程の3倍の距離だと言っても十分に合理性がある。
このページのTOPへ
17. 「南至投馬国」と「南至邪馬台国」の南は本来東が正しい
鉄などの輸入品はイト国から船でヤマト国まで運ばれただろうから、その航路が整備されていたはずである。イト国の港とトモ国の港(鞆の浦付近)の間に20カ所の寄港地があり、港の近くに集落があって食事や宿泊ができるようになっていた。トモ国の港とヤマト国の港(大阪湾)の間には10カ所の寄港地があった。しかも、瀬戸内海は文字通り内海であり航路としては申し分ない。倭の使者の難升米が魏に使いする際にヤマト国の港から船でイト国まで行った時もその航路に沿って航行したはずである。ちなみに、朝鮮通信使も糸島半島の唐泊から藍島、赤間、上関、蒲刈、鞆、下津井、牛窓、室津、神戸の順に寄港しながら瀬戸内海を航行して堺の港に到着している。
「南至投馬国水行二十日」と「南至邪馬台国、女王之所都、水行十日、陸行一月」は梯雋が難升米から聞いた行程を書いたと考える。したがって、水行は倭の船(手漕ぎ船と考える)による日数を示している。これらの文の「南」を「東」にとりあえず置き換えてみよう。そして、これを「イト国から東に水行二十日でトモ国に至る。トモ国から東に水行ならば十日、陸行ならば一月でヤマト国に至る」と訳す。イト国からトモ国に行くには船で行くしかないので水行のみになっているのは矛盾しない。トモ国からヤマト国へは陸続きなので船でも行けるし歩いてでも行けるので水行と陸行が併記されているのは矛盾しない。実際の地理でイト国の港−トモ国の港間の距離はトモ国の港−ヤマト国の港間の距離の2倍としても合理性はある。ヤマト国は倭国の首都で最大のクニであり、一方トモ国はその同盟国で二番目に大きいクニである。当然両国間を繋ぐ道路が整備されていて頻繁な人の移動があったと考えられる。すなわち、「南」を「東」と置き換えることによって二つの文は合理性を持ってくる。
何故「東」を「南」と書いたか?その原因について説得力のある根拠を示すことは難しいが、私は三つの都合の良い原因を提案する。一つは、梯雋が帯方郡を出発して以来だいたい南に進んできて、対馬、壱岐と南北に連なる島々を経て北九州に到達しており、その上でクマ国が南にあるとかその他のクニグニが南にあるとか倭人から聞き、かつ倭人が南方的な風俗をしていたこともあって日本列島が南北に長い島国であるという先入観を持ってしまった。そのために報告書を書くときに「南」と書いてしまった。
梯雋がイメージした倭国の地理は次のようになる。朝鮮半島南端から南にツシマ国の島、イキ国の島、そして、マツラ国、イト国、ナ国、ウミ国がある島が連なる。ここまでは自分の目で確認している。更に、この島の南に別の島があって、そこまで倭の船で二十日航行するとトモ国に着く。トモ国から船で南に十日航行するとヤマト国に着く。ヤマト国はトモ国と同じ島にあって歩いてでも行け、その場合は一カ月かかる。ヤマト国の南にその他のクニグニがあり、その南にクマ国がある。
今一つは、梯雋がヤマト国に行けなくなったのを幸いに、万一魏が倭国に侵攻してきた時の事を想定して首都であるヤマト国の位置について倭人が嘘の情報を教えたのではないか。なにしろ、ツシマ国の目と鼻の先は魏の帯方郡が間接的ながら支配している領域なのだ。しかも、難升米らは魏の都に行って中国の実情を目の当たりにしてカルチャーショックを受けただろうから、魏に攻められたらひとたまりもないと思っていたことだろう。万一帯方郡が三韓の兵を徴兵して倭国に侵攻してきた時に北九州から南に向かえばクマ国に達するという訳だ。
最後は、陳寿が漢の時代の公文書にある「ナ国は倭国の極南界なり」という文に合わせて、トモ国、ヤマト国およびその他のクニグニが南方向に連なっているとし、最後にもう一つのナ国を追加して「ここが女王の境界の尽きる所なり」としたというものである。帯方郡からの倭国に関する調査報告書にはトモ国とヤマト国は「東至」と書いてあったが、陳寿が「南至」と書き換えたのである。陳寿にとって大事なことは歴代の王朝から代々伝わる公文書の内容と齟齬が無いようにすることであって、東夷の国についての記載内容が真実かどうかはどうでもよかったのである。
梯雋が代わりの船が来るまで帯方郡に帰るに帰れなくなってイト国を主につぶさに視察したおかげで倭の風俗習慣(梯雋は日の長い夏季に来倭したと考えられるので夏の主としてイト国の風俗を報告書に書き記した)や国状が魏志倭人伝に事細かに記される結果になったと考える。もし梯雋がヤマト国に行っていたならば今日のような邪馬台国論争は起きなかっただろう。元寇の時もそうだが、台風は日本という国を神秘的な国にしてしまう。
このページのTOPへ
18. ナ国の戸数は水増しされた
梯雋は訪倭するに当たり楽浪郡から資料を取り寄せるなどして倭国に関する予備知識を得ようとしただろう。あるいは、資料を取り寄せるまでもなく倭の使者の難升米から倭国に関する情報を得ただろう。難升米はナ国王の使者が自称した「大夫」という官職名を自分も使ったぐらいだからナ国王が中国に朝貢したことを知っていたと考える。つまり、梯雋は倭国に関する予備知識として漢の時代にナ国王が中国に朝貢したことを知っていた。そうすると、中国人として自分の国の皇帝が金印を授けたクニに行ってみたいと思うのが自然である。しかも、イト国から遠くないと倭人は言っている。梯雋は間違いなくナ国を視察に出かけただろう。
ナ国が視察の目的地であったために魏志倭人伝ではナ国の方が先に書かれているが、「東『行』至不彌國百里」となっているので、まずイト国を朝方出発して東の方向に陸行して不彌國(=ウミ国)に行ったと考える。私はウミ国は現在の宇美町の西方の福岡市博多区にある板付遺跡や金隈遺跡付近だったと考える。当時の博多湾の海岸線は板付の福岡空港辺りまで入り込んでいたらしいので、「ウミ」は「海」の意味ではないだろうか。夕方までにウミ国に着いたので「東行至不彌國百里」とした。百里はイト国からの距離を示している。つまり、この文は「(イト国から)東行して百里でウミ国に至る」という意味である。おそらく板付遺跡にあった集落で宿泊してウミ国の長官や副官から歓迎の宴を受けただろう。
ちなみに、その他のクニグニの最初に出てくる斯馬國(=シマ国)は当時は島だった糸島半島(糸島郡に合併前は志麻郡と言った)にあって、「シマ」は「島」を意味すると考えている。それではその他のクニグニがイト国の南にあるという魏志倭人伝の記述と矛盾すると異論を唱える人がいると思うが、梯雋は自分が実際に行ったクニと大国であるヤマト国とトモ国以外のクニについては十把一絡げにしたと私は考えている。しかし、その他のクニグニの多くがイト国の南にあったのは間違いないと考える。
翌朝、南の方向に歩いてナ国に行った。しかし、板付遺跡や金隈遺跡からナ国があったと想定される須久岡本遺跡までたいした距離ではない。直ぐにナ国に着いたことだろう。ナ国をゆっくり視察して、ここでも宿泊してナ国の長官や副官から歓迎の宴を受けた。翌朝直接イト国を目指して歩き、夕方までにイト国に帰り着いた。だからイト国から「東南至奴國百里」とした。
竹や木の林が多く、わずかに田地があるが、なお食すに足らないイキ国の戸数が三千余家、浜や山や海に沿って居住し、草木が生い茂っているマツラ国の戸数が四千余戸である。それに対して、イト国には「女王国に属する王」や「大率」が居り、考古学的にも糸島平野には須久岡本遺跡を超える規模の三雲井原遺跡や径46.5cmの巨大な鏡が副葬された墓が発掘された平原遺跡がある。にもかかわらず、イト国の戸数は千余戸である。これは明らかに不自然である。実は魏略逸文ではイト国の戸数は万余戸となっている。私は魏略の方が正しいと考える。では、何故陳寿はイト国の戸数を千余戸としたのか?私はイト国の万余戸の戸数はナ国の戸数に水増しされたと考える。おそらくナ国の戸数は万余戸だった。そして、梯雋はイト国がナ国王の時代はナ国の領地だったと倭人に聞いて、そのことを報告書に書いていた。中国の皇帝が金印を授けたナ国が小さいクニであってはならないと陳寿が考えたとしてもおかしくない。だからナ国王の時代に合わせてナ国の戸数をイト国の戸数とナ国の戸数を合わせた二万余戸にした。一方、イト国の戸数は最低戸数にした。
このページのTOPへ
19. 壹与はウミ国の神官(斎王)だった
私がウミ国だったとする金隈遺跡は紀元前2世紀頃から紀元後2世紀頃まで使用された墓地である。したがって、ここにはカヤ国から渡来して福岡平野に居住するようになった人々の墓もあった。そして、これらの墓の中に畿内に移住した人の先祖の墓もあった。つまり、ヤマト国の支配層のカヤ国からの移住当初の先祖の墓(記紀で言えば邇邇芸命一行の墓)もここにあったと考える。
ナ国王の時代にイト国もウミ国もナ国の領地だったが、ヤマト・トモ国同盟軍がナ国の王族を滅ぼした後にイト国と共にウミ国もナ国から分離した。イト国は北九州の監督のために直轄領としたが、ウミ国は先祖の墓を祭祀するために直轄領とした。
魏志倭人伝によるとウミ国の戸数は最低の千余家である。このことからウミ国の官の「多模」は豪族の頭領の名前ではなくて官職名であると考える。私は多模=タマ=玉だと考える。祭祀を司る神である太玉命や巫女である玉依姫から連想されるように「タマ」は神官の官職名だった。「タマ」はヤマト国の支配層の先祖の祭祀を司る神官だった。
神宮皇后は筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でおしめを換えたという伝説がある。
日本書紀が卑弥呼や壹与と関連付けた神宮皇后は宇美町や志免町の地域と縁の深い人物として描かれている。
金隈遺跡は志免町のすぐ西隣にある。少なくとも壹与は王に共立される前はウミ国の神官だったと考える。後世に未婚の内親王が伊勢神宮の巫女として奉仕する斎王という制度が作られるが、その原型が卑弥呼の時代にあったと私は考えている。魏志倭人伝で壹与は卑弥呼の宗女とされている。私は卑弥呼はヤマト国による統治体制を確立させた「崇神天皇」の直系の子孫であると考えている。一方、イト国の「オオツカサ」の官職は「崇神天皇」の血縁者(弟ではないだろうか)の一族が世襲していて、壹与は「オオツカサ」の娘だったと考える。つまり、卑弥呼と壹与は親族ということになる。私はイト国の「オオツカサ」の未婚の娘がウミ国の「タマ」を務め、ヤマト連邦の支配層の先祖を祀る慣わしがあったと考えている。壹与は幼い内にウミ国の神官(巫女)に任官したのではないだろうか。
梯雋がウミ国を訪問した時にウミ国の「タマ」の官職を務めていたのは壹与で、梯雋は壹与が祭祀を行なうのを見たかもしれない。
蛇足であるが、梯雋が訪倭した時にイト国の「オオツカサ」の官職に就いていた人物こそ後の応神天皇であると私は考えている。魏志倭人伝に卑弥呼について「衆を惑わす」と書かれている。これは「オオツカサ」が梯雋に卑弥呼に対して不満を述べたためにこのように書かれたのだと推測する。朝鮮出兵や南方民族との戦争に駆り出されたのは北九州のクニグニの人々である。ヤマト国の命令により北九州の監督責任者である「オオツカサ」がそれを指揮する立場にあった。したがって、「オオツカサ」は朝鮮出兵を決定した卑弥呼を怨んでいたのである。
宇美八幡宮の祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫命、住吉大神、伊弉冉尊である。神功皇后が女王となった後の壹与を表すのに対して玉依姫命は巫女時代の壹与を表しているのではないだろうか。
このページのTOPへ
20. イト国に飛鳥時代の原型を見た
魏志倭人伝においてナ国でさえツシマ国、イキ国、マツラ国、ウミ国と同列のクニとして扱われている。これに対してイト国は他とはまったく状況が異なる。イト国には「代々王がいて皆女王国に属している。帯方郡の使者が往来した時に常時逗留した所である」とある。ここでの「王」とは「オオツカサ」のことで、北九州の監督責任者であり中韓との外交の責任者でもあった。「オオツカサ」の官職はヤマト国の卑弥呼の親族(王族)が代々世襲していた。この役職は後に筑紫大宰と呼ばれた。
「収租賦」とある。この文の主語はイト国で、「(イト国は)租賦を収集す」を意味すると考える。イト国には多くの役人や専業兵士がいたのではないだろうか。役人や兵士に給料(と言っても現物支給)を払うために北九州のクニグニから租賦を徴収していた。卑弥呼の時代に既に租税制度の原型があったことを示している。
「有邸閣」とあるが、この「邸閣」が使者の宿泊所であり、饗応の場だったと考える。吉野ヶ里遺跡の主祭殿を上回る立派な建物だったに違いない。平原遺跡の王墓と思しき墓の東側に直径約70cmの大柱跡が発見されているが、これこそ「邸閣」の柱の一つだと私は推測している。この「邸閣」が後の筑紫館の原型となった。
「国国有市、交易有無、使大倭監之」とある。この文の「大倭」はそのまま「倭人の位の高い者」を意味すると考える。倭国内でも当然クニとクニとの間でお互いに自分のクニに無い物をそれを所有するクニから仕入れることが行われていた。しかし、わざわざ倭人と表現したのはここでの交易が海外交易のことを言っているからだと考える。ナ国の時代は博多湾が朝鮮半島との貿易港だったが、ナ国王滅亡後はイト国の港に貿易港を移した。つまり、イト国が海外との玄関口だった。この「大倭」は「カラモノツカイ」というヤマト国が派遣した役人であり、朝鮮半島からの輸入品の検査や価格交渉を行っていた。朝鮮半島からの積荷はやはり鉄が主だった。それ以外に(辰韓)カヤ国を介して帯方郡から中国の品が輸入された。日本列島からは米、真珠、青玉(ヒスイ)、丹などを輸出した。ちなみに、三韓があった朝鮮半島南部で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土している。商品の価格は鉄本位制で決められた。「邸閣」は貿易商人の宿泊や商談の場としても使用された。
「特置一大率、検察諸国、諸国畏憚之、常治伊都国、於国中有如刺史」とある。「率」は「兵を率いる者」の意味で、「大率」は「兵を率いる位の高い者」を意味する。すなわち大将のことである。上の文は「一人の大将を特別に置いて北九州のクニグニを検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。常時はイト国で政務を執っているが、北九州において中国の刺史の如き存在である」と訳すべきである。中国の刺史は魏晋の時代には地方を監察する監察官であるだけでなく軍を動かす権限を持つ将軍位を兼務することが多かった。倭国では「ソツ」という官職名で呼んでいた。北九州における防衛と治安の責任者である。この役職は後に筑紫率と呼ばれた。更に、「率」(そつ、そち、すい、ひき−いる、りつ)の字は「帥」(そつ、そち、すい、ひき−いる、しゅつ)の字に置き換えられて後世に大宰帥の官職名などに使われた。ちなみに、大宰帥は九州における外交と防衛の責任者で、筑紫大宰と筑紫率を一つにしたようなものである。
後漢書馬韓伝に「大率皆魁頭露紒、布袍草履」(首領は皆頭の髪を剃りあげ、綿入れを着て草履を履いている)とあり、「大率」という単語が使われている。どちらかと言うと「大率」は野武士の頭目のような意味で使われており、このため後世に率の字を帥の字に置き換えたものと思われる。
「ソツ」の第一の役目は南方民族の侵攻に対する防衛である。第二の役目は北九州のクニグニの監視である(北九州のクニグニはナ国王との戦争時には敵国だった)。第三の役目は中国の使者の警備である。「ソツ」の配下の兵士が常に使者の身辺を警護した。第四に、魏志倭人伝に「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及、郡使倭國、皆臨津搜露」とあり、倭王が魏都、帯方郡、諸韓国に使者を派遣した時及び帯方郡の使者が倭国を訪れた時に毎回港で荷物を点検照合した。つまり、出入国管理の業務も担当していた。「ソツ」は防衛、警察、出入国管理という多くの重要な役目を負っていた。ちなみに、「倭王が魏都、帯方郡、諸韓国に使者を派遣した時」とは、173年の斯蘆国、239年と243年の魏都、247年の帯方郡への派遣などである。「帯方郡の使者が倭国を訪れた時」とは、240年の建中校尉の梯雋と247年の塞曹掾史の張政の訪倭である。
「下戸與大人相逢道路、逡巡入草、傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、為之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾」とある。おそらく中国の使者がイト国の市中を「オオツカサ」と共に視察した時に遭遇した光景を記したのだろう。この文は「家来が位の高い者(『オオツカサ』)と道で出会うと避けて草むらに入り、説明すべき事を言葉で伝える。(その際に)或いは蹲り或いは跪き、両手を地に着けて敬意を表す。(位の高い者は)『アイ(分かった)』と応じて承諾する」という意味であるが、まるで時代劇を見ているような光景である。後世の武士の時代の礼儀作法が卑弥呼の時代に既にあったことが窺える。
魏志倭人伝から「女王国に属す伊都国の王」→「筑紫大宰」→「大宰帥」、「大率」→「筑紫率」→「大宰帥」、「大倭」→「韓物使(からものつかい)」→「唐物使」、「邸閣」→「筑紫館」→「鴻臚館」、「伊都国」→「那津官家(遠の朝廷)」→「大宰府」というように九州における卑弥呼の時代から飛鳥時代への連続性を読み取ることができる。
このページのTOPへ
21. 魏志倭人伝から統治する側と統治される側の構図が見えた
ツシマ国、イキ国、ナ国、ウミ国の副官はいずれも「ヒナモリ」である(マツラ国については官も副官も記されていないが、副官は「ヒナモリ」だと思われる)。「ヒナモリ」はヤマト国が派遣した地方官で、いわゆるお目付け役である。ツシマ国とイキ国については官が共に「ヒコ」となっているので、長官もヤマト国から派遣されていた。ウミ国の官の「タマ」は神官である。ウミ国の「ヒナモリ」はお目付け役というよりも「タマ」の世話役という役目だったのではないだろうか。「ヒコ」と「ヒナモリ」と「タマ」以外は豪族の頭領の名前である(中国の使者は本来は報告書に官職名を書きたかったが、豪族の頭領はヤマト国から派遣された者ではなく官職名が無いので、やむなく頭領の名前を書いた)。
イト国、トモ国、ヤマト国の副官に「ヒナモリ」はいない。イト国には女王国に属する王(オオツカサ)がいて、ヤマト国は女王の都する所である。ヤマト国には卑弥呼の弟(最有力頭領の後継者)を入れると5人の有力頭領がいて、実質はこの5人の合議で政が行われたと考える。魏志倭人伝からヤマト国、トモ国、イト国の統治する側とツシマ国、イキ国、マツラ国、ナ国、ウミ国の統治を受ける側の構図が見えてくる。ただし、ウミ国はヤマト国の祭祀領である。トモ国、イト国は後に古代有数の地方国家である吉備国、筑紫国へと発展し、そして、ヤマト国は大和王権へと発展していく。5人の有力頭領は後に皇族、巨勢氏、平群氏などに発展したのかもしれない。女王に属せずクマ国を占領してヤマト連邦と戦争状態にある南方民族はこの後も7世紀までヤマト王権に屈服せず熊襲と蔑称された(ヤマト王権に臣従後は隼人と呼ばれた)。
このページのTOPへ
22. 壹与から「応神天皇」へ
私は倭国大乱を勝ち抜いてヤマト国によるヤマト連邦の統治を開始した人物が「崇神天皇」だと推定する。その理由は、一つは天皇名に「神」の字が使用されていることと、もう一つは「はつくにしらすすめらみこと」(初めて天下を治めた天皇という意味)と称えられていることである。
記紀によると「いくめいりひこいさち」と後妻皇后の「ひばすひめ」の娘である「やまとひめ」は伊勢神宮を興したことになっていて、伊勢神宮の初代の斎宮とされている。しかも、「ヤマト」という国名を名に付している。このことは「やまとひめ」が巫女王であることを想起させる。魏志倭人伝に「卑弥呼は鬼道に仕え衆を惑わすことができる」とある。そして、卑弥呼は中国が認めた初代の倭王である。これらのことから「やまとひめ」が魏志倭人伝の卑弥呼の実像であると推測される。
神功皇后紀に魏志の倭女王からの朝貢の記事が引用されていることと神功皇后の摂政期間が卑弥呼と壹与が倭王であった期間と重なることから神功皇后は卑弥呼と壹与を併せた人物をモデルにしているとみなせる。卑弥呼は初代の倭王であり、中国への朝貢の事実が中国の史書に記載されていなければ天皇と称されていたはずである。やむなく天皇ではなく皇后という設定にしたが、その名に「神」の字を付したのは初代倭王であることを称えるためと考える。
私は次のような事から応神天皇は崇神天皇の直系一族とは別の分家の出であると考えている。
・垂仁天皇の前妻皇后は崇神天皇の異母弟である彦坐王の娘の「さほひめ」で、垂仁天皇と「さほひめ」の子は「ほむつわけ」という名であり、「わけ」が付いている。
・景行天皇の母方の曽祖父は彦坐王で、景行天皇の名は「おおたらしひこおしろわけ」であり、「わけ」が付いている。日本書記によると景行天皇は九州巡幸を行っている。
・神功皇后は彦坐王の4世孫で、神功皇后の子の応神天皇の名は「ほむたわけ」であり、「わけ」が付いている。応神天皇は九州の宇美で生まれたとされている。更に神功皇后も九州に縁の深い人物として描かれている。
以上の事は、名前に「わけ」が付く人物は彦坐王の一族に関係があって九州に縁が深い事を暗示している。崇神天皇の直系一族が「いり」一族であり、「わけ」とは分家という意味で、崇神天皇の異母弟である彦坐王の一族が「わけ」一族ではないだろうか。「ほむつわけ」や「おおたらしひこおしろわけ」は「ほむたわけ」の名である応神天皇が崇神天皇の直系の子孫であるとカムフラージュするために創作されたと考える。
魏志倭人伝に「イト国には代々王がおり、すべて女王国に属す」と記されている。この「王」とは「オオツカサ」という北九州全体を監督する統括地方官のことである。イト国は大陸の先進文化の輸入窓口であり、「オオツカサ」は中韓との外交・貿易の責任者でもあった。したがって、ヤマト国にとって「オオツカサ」は極めて重要なポジションだった。このため分家の彦坐王の「わけ」一族が代々イト国の「オオツカサ」の官職を世襲していたと考える。この役職は後に筑紫大宰と呼ばれて多くの王族が筑紫大宰に拝されている。
「ほむたわけ」(応神天皇)はイト国の「オオツカサ」だったと考える。記紀によると応神天皇の時代に朝鮮半島から多くの渡来人があったとされている。「ほむたわけ」がイト国の「オオツカサ」だったとすると当然朝鮮半島に豊富な人脈があったと推定されるので、「ほむたわけ」が新王朝樹立後に朝鮮半島から多くの渡来人があったことは納得できる。また、「オオツカサ」は南方民族(熊襲)との戦争の最高司令官でもあり、景行天皇の九州巡幸は「オオツカサ」時代の「ほむたわけ」をイメージして創作されたと考える。
「ほむたわけ」が王族と言えども「オオツカサ」は臣下の身分である。臣下であった者が王の地位に就いたことをカムフラージュするために応神天皇が崇神天皇の直系の子孫であるという設定にしたと考える。
魏志倭人伝に壹与は卑弥呼の宗女と記されている。壹与も卑弥呼同様に巫女王であった可能性が高く、独身を貫いたと考えられる。万世一系の原則から応神天皇は仲哀天皇の子でなければならない。だから、応神天皇は神功皇后の子という設定になったが、逆に壹与は応神天皇の娘の「きのあらたのいらつめ」であると考える方が自然である。「きのあらたのいらつめ」という名は女性でありながら武具を纏って朝鮮半島に渡って新羅を征伐した神功皇后の人物像にぴったりである。神功皇后の後半のモデルである壹与が応神天皇の娘だとすると、神功皇后の父の息長宿禰王こそ実は応神天皇ということになる。
倭国大乱後にヤマト国の有力頭領(豪族の頭領)の合議制による政治体制が確立したが、その際に最も力を持っていたのが「みまきいりひこいにえ」(崇神天皇)だった。「みまきいりひこいにえ」は有力頭領による合議を取り仕切る最有力頭領(今風に言えば議長)の地位にあった。最有力頭領の地位は「みまきいりひこいにえ」から「いくめいりひこいさち」(垂仁天皇)に世襲された。
南方民族(熊襲)が北九州のヤマト連邦領に侵入して来た事件をきっかけにナ国王の時代のように最高権力者としての王位の設置の機運が高まった。最有力頭領の「いくめいりひこいさち」(垂仁天皇)は自から王になろうとしたが、ナ国王のような専横的な権力者の再来を危惧した有力頭領たちの反対で王になれず、娘の「やまとひめ」(卑弥呼)を王にすることで有力頭領たちと妥協した。この頃は最有力頭領も他の有力頭領たちを圧倒するような勢力を持っていなかったのだ。王と言っても実質的には祭祀や卜占を司る巫女王であり、実際の政務は有力頭領たちの合議により執り行われた。
魏志倭人伝に「その習俗として、事を起して行動に移す時には決まりごとがあり、その度ごとに骨を焼いて卜占で吉凶を占う。先ず卜占の祝詞を唱えるが、その言葉は令亀の法の如くで、焼いてできた亀裂を見て兆しを占う」とある。「やまとひめ」が有力頭領たちが立案した政策を行動に移して成功するかどうかを最終的に占いで判断した。
やがて最有力頭領の地位は「いくめいりひこいさち」から「やまとひめ」の弟の「わかきにいりひこ」に引継がれた。魏志倭人伝に「卑弥呼には国の統治を補佐する弟がいる」と記されている。
最有力頭領の「わかきにいりひこ」は鉄を求めて朝鮮半島に侵攻する事を立案し、「やまとひめ」が吉兆を占って出兵を決定した。その結果、朝鮮出兵は失敗に終わり、加えてクマ国の反乱を誘発してしまった。魏への朝貢も「やまとひめ」が占って行動に移したが、魏の援軍は得られなかった。
魏志倭人伝に「(卑弥呼が死んで)男王が立ったが、国中が服さず互いに殺しあい、千人余りが死んだ。再び卑弥呼の宗女の13歳の壹与を王として立てると国中が遂に平定した」とある。「わかきにいりひこ」は朝鮮出兵の失敗の責任を姉に押し付けて姉を自害させた。「やまとひめ」は弟のために自ら自害したかもしれない。「わかきにいりひこ」は姉の後継者として王の座に就いたが、朝鮮出兵失敗の責任は「わかきにいりひこ」にもあるとして反発した有力頭領たちが反旗を翻し、激しい戦いが繰り広げられた。
記紀では応神天皇にとって異母兄に当たる香坂皇子と忍熊皇子が畿内で反乱を起こしたので、神功皇后が九州から帰還して彼らを討ち取ったとされている。このことは崇神天皇直系の「いり」一族王朝の滅亡を意味している。最有力頭領と有力頭領たちの戦いにおいて最有力頭領側の総大将は「わかきにいりひこ」の皇子たちだったが、最有力頭領の側が戦いに敗れて皇子たちを含め一族郎党が有力頭領たちの連合軍に殺された。最有力頭領の「わかきにいりひこ」は側近の者と共に船で海上に逃げ、分家であるイト国の「ほむたわけ」を頼って北九州に落ち延びた。有力頭領たちの追討軍も「わかきにいりひこ」を追って北九州に上陸した。
朝鮮出兵や南方民族との戦争に駆り出されたのは北九州のクニグニの人々である。ヤマト国の命令により北九州の監督責任者である「オオツカサ」がそれを指揮する立場にあった。したがって、「オオツカサ」の「ほむたわけ」は朝鮮出兵の発案者である「わかきにいりひこ」を怨みに思っていたことだろう。更に、最有力頭領一族の親族である自分が王になれるチャンスと思ったに違いない。このため追討軍からの働きかけに応じて「ほむたわけ」は「わかきにいりひこ」を逆に迎え撃った。おそらく多々良川の対岸に兵を集めて「わかきにいりひこ」が多々良川を渡るのを阻止したのではないか。後方に追っ手の軍が迫っている。自らの運命を悟った「わかきにいりひこ」は香椎の地で自害して果てた。
私は「わかきにいりひこ」は「仲哀天皇」だと考えている。日本書紀によると仲哀天皇は九州の香椎で亡くなったとされている。記紀によると、神懸りした神功皇后が受けた朝鮮出兵のご神託を聞いた仲哀天皇がそれを信じなかったために神の怒りに触れて急死した事になっている。これは神功皇后の新羅征伐が成功したという設定にしたために、本当は「わかきにいりひこ」(仲哀天皇)が朝鮮出兵を立案したのに、逆に仲哀天皇が朝鮮出兵に反対したという設定にしたのである。いずれにしても仲哀天皇は朝鮮出兵や熊襲討伐に関連して亡くなっており、朝鮮出兵失敗とクマ国反乱が原因で失脚した卑弥呼の弟である「わかきにいりひこ」の状況と酷似している。
「ほむたわけ」は当然自ら王になることを望んでいたが、有力頭領たちは「ほむたわけ」の娘を王にすることを提案した。イト国を含む北九州のクニグニは朝鮮出兵やクマ国との戦争で疲弊しており、「ほむたわけ」は有力頭領たちとの戦いを避けるためにウミ国の「タマ」だった娘の「きのあらたのいらつめ」(壹与)を王にすることで有力頭領たちと妥協した。その結果、有力頭領たちは13歳の「きのあらたのいらつめ」をヤマト国に招請して王の座に就けた。ただし、「きのあらたのいらつめ」も「やまとひめ」と同様に巫女王であり、政治の実務は有力頭領たちの合議によって執り行われた。「ほむたわけ」はそのまま「オオツカサ」の地位に甘んじた。
「ほむたわけ」は貿易のためにイト国を訪れる韓人の貿易商人らとの交際を活発にして朝鮮半島との人脈を広げた。また、王の父であることを利用して大陸との貿易担当の役人である「カラモノツカイ」(魏志倭人伝では「大倭」と記されている)と密貿易を取り締まる立場にある「ソツ」(魏志倭人伝では「大率」と記されている)を抱き込んで密貿易を行って財力を蓄えた。これによりヤマト国の有力頭領たちを凌駕する力を蓄えていった。それは自らが最高権力者としての実権を持った真の王となるための準備だった。
中国の晋書に「泰始(265年〜275年)の初めに遣使が重ねて入貢した」と書かれている。日本書紀では「泰始二年(266年)十月に倭の女王が貢献した」と書かれている。更に中国の梁書に「壹与を王として立てた後、また男の王が立った。いずれも中国の爵命を拝受した」とある。これらの文から266年に壹与が朝貢して中国の爵命を受け、続いて男王が朝貢して中国の爵命を受けたと解釈できる。
魏志倭人伝には「壹与は使者を派遣して張政らを送り返し、そのまま使者は魏都に出向いて朝貢した」と書いてあるが、壹与が中国から倭王の称号を得たとは書かれていない。したがって、壹与は中国から正式に倭王として認められていないということになる。帯方郡から張政が遣わされた247年の2年後の249年に「きのあらたのいらつめ」(壹与)が13歳で女王の座に就いたと仮定すると266年には30歳の立派な成人女性になっている。中国への遣使は必ずイト国に立ち寄り、「オオツカサ」が一行のために「邸閣」で労をねぎらう壮行会を催すのが慣わしだった。そこで、「きのあらたのいらつめ」は中国へ朝貢して倭王の称号を受けよとのご神託があったと有力頭領たちに告げ、朝貢を決定させた。「きのあらたのいらつめ」は遣使一行に密使を忍び込ませ、父である「ほむたわけ」への伝言を託した。その内容は、ヤマト国の状況を知らせ、東征して有力頭領たちから政治の実権を奪還することを父に促すものだった。
「ほむたわけ」は「ソツ」と共に大陸から輸入した最新の兵器を装備した軍を率いて畿内に向けて出発した。「きのあらたのいらつめ」からの情報により難波を本拠地とする豪族の頭領である「たけふるくま」が奈良盆地の有力頭領たちと不仲であることを聞いていたので、難波津に上陸して「たけふるくま」に王の勅命により建国以来の王朝を簒奪した有力頭領たちを征伐するために東征した旨を伝えた。すると、「たけふるくま」は直ちに「ほむたわけ」に帰順した。「ソツ」が立てた作戦により「たけふるくま」の軍が先鋒として難波から奈良盆地に攻め込み、一方、「ソツ」に率いられた「ほむたわけ」の軍は紀伊に回りこんで後方から奈良盆地に攻め込んだ。挟み撃ちにあった有力頭領たちの軍は大混乱に陥った。「ほむたわけ」軍は有力頭領の中でリーダー格の頭領の一族を殲滅させた。しかし、残りの有力頭領たちは臣下となることを条件に許した。娘の「きのあらたのいらつめ」は王位を父の「ほむたわけ」に譲位した。ここに最高権力者としての実権を持った男王が日本で初めて誕生した。王となった「ほむたわけ」は中国に朝貢して「倭王」の爵命を受けた。後世に「ほむたわけ」に「応神天皇」という「神」の字を付した名が贈られた。
日本書紀では応神天皇は270年に71歳で即位したことになっている。「きのあらたのいらつめ」が266年に中国に朝貢して「ほむたわけ」が270年に朝貢したとすると、中国の晋書の「泰始(265年〜275年)の初めに遣使が重ねて入貢した」の文と矛盾しない。また、270年には「きのあらたのいらつめ」は34歳になっているので、父である「ほむたわけ」の年齢は50歳を過ぎていたことだろう。壮年を過ぎてから即位したことは間違いなさそうだ。
以前はイト国の港が貿易港であり、「カラモノツカイ」がイト国に派遣されて朝鮮半島との貿易を行い、輸入した品は「カラモノツカイ」がヤマト国まで運送していた。したがって、韓人の貿易商人がヤマト国に来ることはなかった。「ほむたわけ」は難波に「邸閣」(後の難波館)を建設して難波津を貿易港とし、韓人の貿易商人がヤマト国に来ることを許した。
「ほむたわけ」の父祖らの墓はイト国に造られたが(平原遺跡がその墓所)、「ほむたわけ」が畿内に移ったために、糸島地方では3世紀前半までは王墓が造られたが、その後は王墓が造られなくなったと考える。
戦を陣頭指揮した「ソツ」は「ほむたわけ」の軍事面での側近となった。「ソツ」は記紀では葛城襲津彦(そつひこ)として描かれている。当初は和歌山県伊都郡かつらぎ町付近を領地としたと考える。「ソツ」の一族はその後隆盛を極めて葛城氏という豪族に発展した。しかし、雄略朝の時代に葛城氏は滅亡し、その後は物部氏が軍事氏族として発展していった。
倭王や最有力頭領の地位は「みまきいりひこいにえ」(崇神天皇)→「いくめいりひこいさち」(卑弥呼の父、垂仁天皇)→「やまとひめ」(卑弥呼、神功皇后)→「わかきいりひこ」(卑弥呼の弟、仲哀天皇)→「きのあらたのいらつめ」(壹与、神功皇后)→「ほむたわけ」(壹与の父、応神天皇)の順に引き継がれた。
このページのTOPへ
23. 魏志倭人伝後の倭国の状況
魏志倭人伝以降の倭国の状況を推測してみた。
まず南方民族と講和を結んだだろう。ヤマト国は正式に南方民族によるクマ国(熊本平野に在ったと考える)の領有を認め、更に菊池平野を南方民族に割譲することによって南方民族と講和した。その結果、菊池平野にキクチ一族が進出した。また、元々クマ国があった所は「クマモト」と呼ばれるようになった。ヤマト国にとっては屈辱的とも言うべき条件であるが、南方民族との講和無くしては朝鮮半島への進出はありえないので、やむをえなかった。これにより290年頃から朝鮮半島への侵攻を再開している。
トモ国が軍をイズモ国に侵攻させたが撃退され、逆にイズモ国の反転攻勢を受けた。このため4世紀中頃までにヤマト国はイズモ国の東部(後の伯耆国)を攻略してイズモ国に圧力を加え、イズモ国の「祠に鬼神を祭る」祭祀方法を倭国の祭祀方法として採用することを提案して講和を迫った。そして、遂にイズモ国と講和して人的交流と交易を始めた。講和条件履行の証としてそれまでの青銅器祭器である銅鐸、銅剣、銅矛などを土中に埋めた。イズモ国には(弁韓)カヤ国から鉄が輸入されていて、更に高い金属製造技巧を持った集団がいた。ヤマト国はこの集団をヤマト国に招聘して鉄製の兵器を製造させた。このことが倭国の軍事力を飛躍的に強化させた。この集団は後に物部氏という軍事氏族に発展した。
この鉄製の兵器で武装した倭国軍が朝鮮半島に侵攻した。(辰韓)カヤ国(任那=南加羅)を軍事拠点にしてまず(弁韓)カヤ国(加羅)に侵攻した。この頃の(弁韓)カヤ国は過っての勢いは無く、倭国軍はこれを占領してナ国王以来の悲願である砂鉄の大産地を確保した。次に倭国軍は涜盧国(喙国)を占領して洛東江下流の砂鉄の産地のほとんどを手中に収めた。更に安羅、卓淳などの国を占領した。倭国は各国の王の王位を保障して人質を取って属国とし、調を収めさせる策を採った。そして、いよいよ百済や新羅に侵攻した。朝鮮の史書である三国史記の百済本紀に「397年に太子を人質として倭に送った」とあり、更に新羅本紀に「402年に奈勿王の子を人質として倭に送った」とある。400年前後に百済や新羅は相次いで倭国に人質を送って倭国と講和した。この後も新羅とは戦争を繰り返したが、百済とは親交を深めた。
新羅は本来「シンラ」であるが日本では「しらぎ」と呼ぶ。昔は「しらき」と呼んだ。私は「き」は鬼畜米英の「鬼」を意味すると考えている。すなわち、「しらき」は新羅に対する蔑称である。新羅は倭国同様に亡命中国人を先祖に持つ国である。つまり、新羅は倭国と同系の国と言える。これに対して百済の支配層は扶余民族である。異民族の国と親交を深めているのに対して同じ先祖を持つ新羅が倭国に敵対することに余計に憎しみが増して蔑称で呼ぶようになったと考える。
同様のことが高句麗と百済の関係についても言える。高句麗は広開土王碑文で百済の名称を「百残」と記している。これは明らかに百済の蔑称である。百済の支配層は高句麗と同様に扶余系民族である。同系の民族の国が高句麗に敵対することに憎しみが増して蔑称で呼んだと考える。
倭王の武は「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称して中国の宋に正式の任命を求めたが、宋は武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」として百済を除外している。当時の中国人は満州に源を発する扶余系民族を、漢民族とは異なるが、北方系中国人とみなしていた。百済の支配層は扶余民族だったので百済を中国系の国とみなして、これを除外したと考える。一方、慕韓(=馬韓)は百済の被支配民である先住民のことなので認めた。百済の支配層以外は新羅人も伽耶人も百済の被支配民もカヤ国から日本列島に渡来した人の先祖と深い繋がりを持つ人々であり、そういう意味で宋朝の判断は絶妙だったと言えよう。
百済との親交が倭国に文明開化をもたらした。倭国内でヤマト国を中心にして黄河文明の流れを汲む中国文化の導入が図られた。入れ墨の習慣を止め、中国風の服装をして靴や草履を履くようになった。ただし、地方では未だ入れ墨や裸足の習慣が残っていた。建物も中国風の建物を建てるようになった。ただし、代々受け継がれてきた高床式の様式と組み合わされた。正に明治維新後の和洋折衷の西洋化と同じように倭中折衷の中国化が行われた。
421年以降に倭の五王による中国の朝廷への朝貢が行われているが、その際に讃、珍、済、興、武という中国人風の名前を使っている。もちろん、これは対中国用の別名である。日本のメーカーのアメリカ工場の駐在員がアメリカ人が自分の名を呼び易いようにポールのような別名を使うのと同じである。中国人風の名前を使ったということは倭国内で中国化が進んだことを示している。
倭の五王の武とされる雄略天皇と思しき人物の名が記された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に中国語の文章そのもの(漢文)が刻まれている。471年に少なくとも支配層のレベルでは間違いなく漢文を記録のために使用していた。更に中国式の暦も使用されている。このことも倭の五王の時代には中国化が進んでいたことを示している。ただし、名前の部分は漢字を表音文字として使用しており、名前に漢字を使用する時代はもっと先ということになる。
百済を介して行われた中国化がやがて倭国に飛鳥文化を花開かせた。
<了>
このページのTOPへ
|