第2回高松国際ピアノコンクールを定点観測している。

一般人による、一般人のための国際ピアノコンクール入門、を目指します。

音楽性より協調性、お粗末な本選

2010-03-27 22:01:58 | 日記
 最初に舞台の演奏者を見てびっくり。なんと、知り合いのアマチュア奏者が混じっておりました。プロとしての活動はおろか、音楽大学も出ておらず、本職も音楽とは全く無縁。そんな人が、しかも公式パンフレットにも名前が出ていなかったわけですから、最近になって予定メンバーが欠け、その代打となったのでしょう。あとで本人に確認を取ってみると、あの伴奏メンバーは4割がロイヤルチェンバーオーケストラ、4割が正式なプロフェッショナルでは無い瀬戸内フィルハーモニー、残り2割がセミプロですらない高松交響楽団とのこと。正確な比率ではないでしょうが、このようなレベルの、しかも急造オーケストラが伴奏なんて、一体運営部は何を考えているのでしょうか?これでは、独奏者ごとの音楽の組み立て方、ニュアンスにしっかりとついていくことが不可能ですし、順番が前と後では「こなれ方」がまるで変わってしまいます。公平な条件ではなくなってしまいます。

 結果として、予感は的中。前半は独奏者とオーケストラの連携が全く取れておらず、音楽性だの表現力だのを聴き比べる以前に、音楽としての形を成しているか否かというレベルの争いにまで引き下げられていました。これが本選、馬鹿にするにもほどがあるというものです。

No.19 マリアンナ・プリヴァルスカヤ

トップバッターで、しかも演奏曲はアンサンブルがただでさえ厄介なラフマニノフの2番。本人のせいなのか、オーケストラのせいなのか判別つかないほどのひどいズレ具合。音量バランスも悪く、ピアノの音が聞こえないこともしばしば。3楽章はもう聴いているのがつらくなるほどで、ピアニストのテンポ感が完全に消失してしまっていて、何を弾いているのか全く分からないほどです。

No.23 ダニイル・ツベトコフ

冒頭、ピアノが入る前のホルンがまず音を外す。その後の単純な四分音符、ピアノとオーケストラ、ちゃんと聴きあっていますか?というくらいのズレ具合。
ピアニストもピアニストでいらだっているのか、どこまでも音が硬質で、チャイコフスキーなのにまるでプロコフィエフのよう。豊かな曲線を描かず、どこまでも鋼鉄の歩みでした。

No.25 ゲオルギー・ボイロチニコフ

この辺からようやく、オーケストラとピアノが極端にずれるということは無くなった。
チャイコフスキーの一番はどっしりとしたテンポでゆったりと。こういうロマンチックな流れを生み出すのはさすが得意としているだけのことはある。しかし、途中に現れる高速で左右交互のオクターブは、信じられないくらいたどたどしく、音楽的な流れを明らかに妨げていた。それが影響してか、その後あきらかに空回りしている印象。音楽に説得力が無く、せっかくのエネルギーが無駄に垂れ流されているようにさえ感じた。

No.28 アレクサンドル・ヤコブレフ

アンサンブルがシンプルなベートーヴェンを選曲したことが結果的に作戦勝ち。出だしから安定していたので、安心して寝ました。

〇No.33 リー・ユンヤン

決して、傷が無いわけではない。もっと完成度の高い演奏は本選以外にあった。それでも唯一、聴いていて音楽に素直に入り込むことができた演奏だった。
ピアニストがつけるテンポの緩急が決して恣意的ではなく、合理的であるためか、No.19であれだけバラバラだったアンサンブルが見事に決まる。オーケストラの様々な事情を考慮しているかのように、自分勝手には弾かず、しっかりと伴奏と協力して音楽を作り上げていた。本来なら、本選まで残った演奏者はすべてこのラインは守った上で表現力勝負をして欲しかったのだが…

No.34 石村 純

3次まで常に独特な存在感を出し続け、何かしら意識せずにはいられなかった演奏者だったが、本選にきてそれまで有利に働いていたものが次々と裏目に出てしまった。
音色は相変わらずゴージャスだが、チャイコフスキーを演奏するにはやや深みや柔らかさが足らず、直前の演奏と比較するとどうしても足りないものの存在が浮き彫りになってしまった。
また、協奏曲をする上で我の強さが悪い方向に作用してしまい、冒頭の四分音符からもうオーケストラの音を聴かずに前進してしまうような未熟さを見せてしまった。
音楽をやる上で、個性や意思は大切だが、ある面では音楽に奉仕するためにそれをうまく捨てなければならない。それができるかできないかが、最後の最後で明暗を分けてしまった印象。


ここまでが、ほとんど舞台裏を知らなかった状態での感想。


ここで、件の知り合いからの舞台裏の情報。

オーケストラのレベルは決して通常のプロと引けをとるものではない。しかし、昼頃からは疲れが出始め、ミスを重ねた。
No.19は練習中は特に要望を伝えなかったのに、本番では、いきなりルバートをかけたり音を小さくしたりで、あれは超一流オケでもない限り対処は無理。
まともに演奏できたのはNo.33くらいなもので、他の人は皆アンサンブルしなさ過ぎる、

とのことです。

一応、この情報もつけておかなければ不公平だと思いましたので。
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勝手に盛り下がっている私

2010-03-26 21:28:51 | 日記
 1,2,3次と全ての演奏に接し、明日はとうとう本選というときになって、今の私の心境は、明日の演奏はどうなるのだろう?優勝者は誰になるのだろう?という風に興奮するのとは、真逆の位置にあります。なんか色々考えてしまって気になることが多く、素直に楽しめずにいるのです。

 まず気がかりなのは、落選した人たちは今後どうなるのだろうか?
 1,2,3次それぞれで、私が好きだった演奏者のうち何人かは落ちています。彼ら彼女らは、これからどのような音楽活動を展開するのだろう?ピアニストとして飯を食っていけるのだろうか?仮にそれができなければ、それまで途方も無いほどの時間とお金をかけた「出資」は、いわば無駄になるのだろうか?何より当の本人はそのことをどう感じるのであろうか?覚悟してこのいばらの道を選んだのであろうか?
 コンクールとは、言わばコロシアムと同じで、観客の見守る中、ピアノを使った戦い、いや、殺し合いのようなものだ、というのが、今の私の実感です。このコンクールの中だけではなく、演奏者はそれぞれこの舞台にいたるまで、どれほどのピアニストとしての生存競争を勝ち上がってきたでしょうか。その競争は一体どこまで続いて、どこまで勝ち続ければよいのでしょうか。「他人ではない、自分との戦い」なんて半分は嘘です。聴衆はそれほど多くのピアニストを求めてなんかいないのですから、その「求められるピアニスト」の数少ない椅子をぶん取るべく、多くの「ピアニスト志望者」が壮絶な戦争をしていることは事実なのです。周囲のレベルが上がれば上がるほど、同じレベルの演奏をしていたのでは価値が暴落していくことを考えると、たしかに競争相手に対して直接攻撃できないという点では「自分との戦い」ではあっても、評価の相対性という点では「他人との戦い」なのです。つまり、音楽の世界といえども、一般社会と何一つ違いはありません。
 私にとって、もう2次で「しぼりこみ」は終わっていました。あとは、演奏者それぞれが自由に演奏してもらいたい、もうこれ以上優劣を競わなくてよい、とかなり本気で思っていました。しかしコンクールはまだ続きます。私にとって大切な演奏者が「劣」と評価され、消えていくのを見るのが、つらくてたまりません。


 もう一つは、このような催しを香川で開くことにどれほどの意味があるのだろうかということ。パンフレットには「香川県は音楽大学に進学する人材の人口比率面で日本のトップクラス」なんて書かれていますが、その音大への香川一の予備校的存在の高松第一高校音楽科は2年連続定員割れを起こしている有様。「クラシック音楽に対する関心が高い県」のはずが、まともなプロのオーケストラ一つ持つことすらできない現実。
 このようなことに限らず、香川がいかに音楽的な環境が貧困であるか身をもって味わっているだけに、こういうちょいと金をひねり出せば出来るお祭り騒ぎなんかで浮かれることはとてもじゃないが出来ないのです。
 クラシック音楽を楽しむのは、流行歌を楽しむのとは比べ物にならないほどハードルが高く、しかも流行歌ほど分かりやすい刺激はほとんどありませんから、これから先の日本は、ますますクラシック音楽を楽しむ余裕が時間面でも金銭面でも無くなっていく事でしょう。コンクールを見ていると、無性にそんな現実も感じられてしまい、何やらナーバスになっていきます。

 この催しが単なるお祭り騒ぎで終わるか否かは、結局これからの香川県民がどうであるか、ただその一点にかかっているだけで、それを考えると、明日の優勝者が誰になろうが、たいした問題ではありません。

そんなわけで、私は明日も聴きにいきはしますが、あんまりワクワクはしていないです。
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第2回高松国際ピアノコンクール第3次予選

2010-03-25 18:58:10 | 日記
 私にとって1,2次よりはるかに聴くのがしんどい予選でした。

 その理由の第一に藤満健の《栗林の四季〜庭園にて》これがものすごくつまらない。弱音でポツンポツンと奏でる和音、拍節にとらわれない間で自然でも表現しているつもりなのでしょうが、そんなものは武満徹あたりから吐いて捨てるほどある現代音楽のステレオタイプそのものです。さらに興ざめなのは、激しい指使いを要求される強奏部へと移行する様に何の必然性もないこと。演奏者の技量を測ることを目的としているのがみえみえ、栗林の自然のイメージなど一切感じ取れませんでした。それとも、作曲者は夏に栗林公園を訪れたそうですが、その日に台風でも直撃したんですかねえ?
 藤満健は出発点こそ作曲家だったようですが、最近のキャリアはもっぱら演奏家のようで作曲家としてのキャリアを積んでいないような人になぜ委嘱したのか理解不能です。日本にはもっと面白い作品を作れる人はいるのですから、こういうところで委嘱料を出し惜しみしないでいただきたいものです。いずれにせよ、昨日の10回の演奏のみでもう二度と演奏されることも無いでしょうね。4年前の《屋島》のごとく。

 第二の理由は個人的なこと、私はモーツァルトの良さが分からないのです。日本はアジアの中で最もモーツァルトの演奏頻度が高いらしいですが、皆さん本当に分かって楽しんでいるのでしょうか?あの作品って、相当に西洋音楽の理論やルール(和声とか対位法とか楽典とか)に精通していないと、ルールを知らずにアメリカンフットボールを見るのと同じくらいに楽しめないと思うんですが、一般的にはそうではないんですかね?
 私は強弱の変化や音色の多様さ、豊かなリズム、身を切られるような痛々しさから人目もはばからずおおはしゃぎしてしまうような喜びの表現に心が惹かれる性質で、モーツァルトにそういう方向性の面白さを求めることは不可能なので、どこを楽しめばよいのか、今の私には分かりません。

 そんなわけで、よほど突出した演奏で無い限り演奏の良し悪しは分かりませんでした。
 またこういった理由のために、私が応援していた6名の演奏がどうであるかが主な興味の対象であり、他4名ははっきりいってどうでも良いと思っていたことを最初にお断りしておきます。


△No.7 イリーナ・ザハレンコバ

静かに奏でられる高音部の和音に透き通った冬のイメージを感じさせるのはさすが。しかし曲が進むにつれ音楽の持つイメージが伝わらなくなってきた。曲が悪いのもあるが、演奏者自身あまり理解し切れていないのだろう。
モーツァルトの1,3楽章は、演奏者の特性に明らかに合っておらず、音と戯れている感じが伝わってこない。2楽章こそロマンチックでいい演奏だったが…本戦でもう一度会いたいという期待を込めての△。叶わなかったが。

No.8 花田 えり佳

演奏の終了前後で唯一オーケストラに向かって握手も礼もしなかった人。
演奏にもそれと同じくらい礼儀もゆとりが無く、《栗林》は音楽の流れに対する配慮が全く出来ておらず、特にペダルの切り方はあまりにも雑。
《モーツァルト》そもそもなぜ3次まで残ったのか分からないほど突出した個性が無い人だから、ある意味音楽の邪魔をせずにすんでいて、安心して何も考えずに聴ける。だが、オーケストラと分離していたところがあったし、やはりここでもペダルの切り方が下手糞だった。

〇No.15 イ・ジンヒョン

《栗林》音の持つ性質を良くとらえており、あいまいにごまかすことなく、自然に入り込める演奏。あきらかに前二者とは違っていた。
モーツァルト、こういう曲では2次までのようにはしゃぐことができず、どこまでも正統派を突き詰めなければいけないため、悪くは無いが精彩を欠いていた。

No.19 マリアンナ・プリヴァルスカヤ

《栗林》不協和音にも品がある。良い意味で抑制された演奏。
モーツァルトは、1,2次と全く興味のもてない演奏者だったので、寝ながら聴いていました。「出来は良いかもしれないけど、彼女が本戦通ってしまったら、調子の悪かったNo.7が通らなくなるかもしれないなあ、まずいなあ」とか思いながら。

No.22 富田珠理

《栗林》弱音、間の取り方はいい感じだったが、難易度の高い強奏部で技術力の不足が露呈してしまった。
その技術の問題が、全くごまかしが効かないモーツァルトでははっきりと出てしまい、指のもつれで音楽の流れが澱む個所があちこちに見受けられた。。表現面では、全体的におとなしい。
これでは、残念ながら香川枠と言われても仕方がない。

〇No.23 ダニイル・ツベトコフ

《栗林》を一つの現代音楽と割り切った技術力アピールに徹しており、もはや栗林も自然も日本も感じさせることの無い、シェーンベルクとかブーレーズとかその辺を彷彿とさせる演奏。こういう方向性で責めきったのは彼のみ。意図してかどうかは知らないが、中身の無い音楽を効果的に聴かせるコンクールの戦術としては見事。
モーツァルトは高い基礎力を背景に知的で揺るぎの無い演奏。

〇No.25 ゲオルギー・ボイロチニコフ

No.23とは逆に、《栗林》をロマン派風の表現でとらえており、場面ごとの表情付けが優れていた。彼は音色に対する感性がとにかくすごい。
しかしモーツァルトは明らかに適性が無く、印象に残らなかった。

No.28 アレクサンドル・ヤコブレフ

悪くは無いのだが、印象としてはNo.23とNo.25を足して2で割った感じ。技術力が高いのは分かるが、前二者と比較すると、どうしても応援したくなる演奏ではない。

No.33 リー・ユンヤン

ロシア3人組の演奏の後で、彼らと比較しそれほど方向性も技術力も違いがあるわけではないので、驚きも感動も無く、全く印象に残っていない。

〇No.34 石村 純

《栗林》凛とした音色で、不協和音も強奏部も何かしらの美しさが表現されている点が、他の9人には無い音楽の組み立てであった。
1,2,3次とたくさんの演奏を聴き、素晴らしいキャラクター、個性のある演奏者に少なからず出会えた。しかしそういった演奏者も演奏曲目や順番によっていまいち実力が発揮できなかったり埋もれてしまったりすることもしばしばあった。そんな中、彼女の演奏は明らかに別次元にあり、ひとり音が浮き上がって聞こえる。多分、彼女は今、何を弾いても彼女らしい演奏ができる状態にあるのだろう。結果発表を聞く前から、通ることは確信していた。本戦のオオトリを楽しみにしたい。
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心を込めるな!ハイドン、モーツァルトのピアノ・ソナタの性質

2010-03-23 18:58:10 | 日記
 2次予選の課題曲の一つに、1次予選で演奏したピアノ・ソナタを2楽章からというものがありますが、この課題の存在に私は強い違和感を覚えています。

 ピアノコンクールの性質上、演奏者は皆、一曲一曲が真剣勝負、一音一音に作曲者の意図、心の奥底まで感じ取るように、丁寧に、心を込めて表現していきます。適当になんか弾けるわけがありません。当たり前ですが。
 ところが、クラシック音楽の中には、そのように演奏することを最初から意図されていない音楽も存在します。いや、むしろ作曲者にそれほど気を使って演奏されるようになるのはベートーヴェン以降の話であり、グレゴリオ聖歌から始まる西洋芸術音楽の歴史から見ると、むしろ歴史は浅いくらいです。

 ベートーヴェンの偉大さの一つは、教会の礼拝のため、もしくは鳩山家もびっくりの召使を10000人以上かかえる貴族様の慰み者に過ぎなかったような音楽の価値を「芸術」にまで格上げしたことであり、それは子供の読み物に過ぎないマンガを手塚治虫が一気に大人の鑑賞に耐えられる程のレベルに上げたことと似ています。

 故に作曲の仕方もベートーヴェン以前と以後ではまるで違っており、一般的にイメージされるような「主題の提示や展開、再現を綿密に計画、解決に一部のスキも無い音楽」を目指すようなことを、モーツァルトやハイドンはしません。いや、正確に言うと出来なかったのです。それは音楽家、作曲家の地位が職人レベルにしか考えられていなかったため、クライアント(=貴族等)の要求にこたえることが第一だったから、ありていに言えば時間が無かったからです。仕事を頼まれた作曲家が「〆切延ばして」「コミケ行くために休ませて」なんて冨樫義博のような寝言を言おうものなら職はもちろん、この時代のことだから命も無くなるかもしれませんでした。

 また、クライアントが要求しているのは単なる娯楽、貴族様の優雅なお食事タイム、友人たちとの憩いのひとときを華麗に彩りさえすればそれで良いため、ソナタで言えば最初の1楽章は頑張って作っても、2楽章以降は形式だけ守って適当に仕上げるのです。当時のクライアントは、音楽を最後までじっくり聞くつもりなんか無いのですから、それでも文句は言われません。つかみが良ければ最後まで笑える漫才と同じです。
 クライマックスをラストに持ってくるという現代では常識過ぎて意識もされない黄金パターンを音楽の分野で最初に成功させたのはベートーヴェンなのです。
 念のために言っておきますが、これは私の妄想ではありません。現に、そういった音楽を研究する場でも、1楽章とそれ以降を同じレベルで分析しようとはしていないのですから。

 さて、以上の事情をかんがみるに、ピアノコンクールのような真剣勝負の場においてハイドンやモーツァルトのピアノ・ソナタを2楽章から始めると言うことが、いかに無茶であるかお分かりいただけるでしょうか?
 実際、2次審査では、この課題曲の扱いが相当厄介であったと感じる演奏が多数ありました。40分のリサイタル形式で曲順を自由に出来るとはいえ、音数の少ない緩叙楽章から始まる古典派をそのまま演奏しても聴き栄えするわけありませんから、居場所が見当たらないのです。その結果大半の演奏者は緩叙楽章を無理やりロマン派風に改変、旋律を甘甘に歌ったりテンポをゆらしたりしていましたが、もともと中身の薄い曲をそうやって格好つける様は明らかに無理があります。
 No.25の演奏なんてすごいことはすごいのですが、「マイセンの皿に乗せて思う存分デコレーションして高級菓子に見せているけど、本体はスーパーで買ってきた200円のチョコレートケーキ」のようで、ほとんど詐欺だとさえ思いました。

 もちろんこのことは作品にも演奏者にも罪は無く、課題曲を設定する立場にあった人間が責めの対象になるわけです。音楽の歴史的な意義のうち、現代の事情にそぐわない部分を無神経に踏み潰す不見識こそが。

 最後に、No.28の演奏のみが、2次で唯一違和感無く聴けました。緩叙楽章の無い2楽章のみの曲を高い技術力を駆使して、まるでジェットコースターの力学的な運動のように鍵盤上を駆け回る指、心をこめずに娯楽に徹していて、正統派の解釈かどうかは分かりませんが、最もこの時代の精神に近いであろうと思われました。
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二次予選二日目

2010-03-23 10:05:26 | 日記
〇No.23 ダニイル・ツベトコフ(ロシア)

ベートーヴェンはとても端正で、作品の持つ孤独感が浮き彫りになる演奏。時々、不協和音がミスタッチに聞こえてしまったり、早い部分でちょっと粒が明瞭に聞こえなくなるのが惜しい。
続くラヴェルの《ソナチネ》はガラス細工のようなキラキラした音色が作品に合っている。No.7とはまた違う、心地の良い冷たさを感じる。
一次審査も含め、端正で感情をむき出しにしない演奏を心情にしているのかと思いきや、リスト《ドン・ジョバンニの回想》で今までのイメージを覆すほどの壮絶な演奏。迫力だけでなく、強奏時でもギリギリのところでうるさくないようバランスが考慮されているのがまた素晴らしい。

No.24 アンドリイ・ツィギチコ(ウクライナ)

モーツァルトはNo.23と似たキャラクターの出だしなのだが、見た目がごついためか妙なギャップが生じてしまい、演奏にうまく入り込めない。
ラヴェルの《水の戯れ》は連符の粒がはっきり立ちすぎたり、リズムの揺らし方に角があったりして(まるでメトロノームで合わせたように感じる箇所さえも)「水」がイメージできない。
そしてシューベルトの行進曲風の始まりとの対比もできておらず、1次審査と比べると明らかに調子を落としていた。

〇No.25 ゲオルギー・ボイロチニコフ(ロシア)

ハイドンに関しては、演奏者がというより曲が悪すぎる。後ほど詳述するが、そもそも中身の無い音楽を無理やり味付けしようとしているため、その技術力と表現力は認めるが、決して理に適った解釈ではない。
演奏者の真骨頂はその次のショパン。一次審査で「空間が鳴り響いているよう」と記したが、《舟歌 嬰ヘ長調》の冒頭数小節の和音、フレーズの歌いまわしで、文字通り風景を一変させてしまった。こんなことができる演奏者は本コンクール中では彼しかいない。
この演奏者は、つまりハイドンのような古典スタイルを守った演奏はできないが、ロマン派となると誰にも負けない適正があるということなのだろう。
ショパン、ドビュッシーと小品を3,4曲並列させるプログラムの組み方は私の好みとは間逆なのだが、そういったものが一発で吹き飛ばされるほどの見事さだった。と同時に、昨日の演奏で?マークをつけたことに罪悪感が軽減された。要するに演奏に力が無かったという、ただそれだけのことだと分かったから。

No.27 渡辺 仁美(日本)

演奏前から「ご愁傷様です」とは思っていたが、まさしくその通りになってしまった。演奏は残酷なくらいレベルの差がはっきりと出てしまい、残念ながら「東京ディズニーランドの後にレオマワールドへ行くようなもの」と言わざるをえない。せめてレオマでは無く栗林公園くらいに目指す方向性が極端にずれていればここまではっきりした差は出なかったであろうに。
さらに気の毒なことに、前の演奏のためか調律がかなり狂っているとしか思われない音が聞こえさえした。

△No.28 アレクサンドル・ヤコブレフ(ロシア)

近くのじじいが無神経にプログラムの紙をカサカサいわせたり、防犯用にかばんに付けている鈴が鳴ったりして集中できず。せっかくいい演奏だったのにもったいない。(実は前の演奏からそうだったのだが、その演奏はどうでもよかったのでその時は気にならなかった)

ハイドンは高速の指回しが安定しており、まるでジェットコースターのように安心してスリルを楽しめる。ハイドンはこういう風に、演奏者の気持ちを込めて感動的にするのではなく、娯楽と割り切ったお軽い演奏の方が似合っている。
ブラームス《幻想曲集》は外に向かって安易に放出せずに、内に向かう情熱の表現が、ブラームスらしくて良い。演奏者の資質に合っていると思った。
ラヴェル《スカルボ》音の粒が明確に立ちすぎたり、テンポやフレーズのゆらしがあまりに人間的で、標題の不気味な妖精の表現ではなく、人間のダークサイドといったニュアンスになってしまったのが惜しい。

No.31 ジュン・アサイ(アメリカ)

白い服で出てきた時から何かキャラにあわない違和感を覚えた。
ベートーヴェン2楽章のテンポのゆらし方がなまめかしくて面白いのだが、今ひとつ徹し切れていない。3楽章で調子を取り戻すかと思いきや、強奏でなだれ込むようにキメるところの音量、迫力が不足していて今ひとつ調子が出ていない。
続くラヴェル、ショパンもどこかインパクトに欠ける。2次予選のレベルの中では、基礎技術がイマイチだったのかもしれない。

〇No.32 チェ・ヨンイム(韓国)

『冬のソナタ』のヒロインのような、清楚なベートーヴェン。3楽章では一転してアグレッシブで情熱的な一面も見せる。
シューベルトは温かみのある音色や歌い回しが、本コンクールであまり聞かないタイプだったので新鮮で感動。
ラヴェル《夜のガスパール》連符の粒がうまくぼかされていて、水の妖精をイメージさせるさわやかで品のある響きが素晴らしい。《スカルボ》も悪魔性を持ちつつも品と優雅さを兼ね備えた名演であった。

〇No.33 リー・ユンヤン(台湾)

ハイドンのロマンティックな解釈はやはり違和感を覚える。多分本人もこの曲を好きでも何でもないのだろうが、課題だからできるだけ頑張って演奏している感じ。
続くショパン《スケルツォ第二番》はその鬱憤をはらすかのような凄まじさ。No.25が演奏者の個性が前面に出た語り口と比較すると、こちらは作曲者が演奏者に乗り移ったかのよう。誤解を恐れずに言えば、手本のようですらあった。
続くラヴェルは気の抜けたヴァージョン。おそらく演奏者はこういうあいまいにぼかされたように表現する音楽が苦手なのだろう。それならば、評価は諦めるが失点は最小限に防ごうと割り切っているようで、技術の高さだけは必死に保とうと頑張っている。
そしてリスト《メフィスト・ワルツ第一番》は予想通り、気持ちの入り方がまるで違う、圧倒的な説得力。
得手不得手がはっきりしている点(そして、その得手とはロマン派)ではNo.25と同じだが、こちらの方がよりそれを自覚し、その上で最大限の効果が得られるよう選曲や曲順を戦略的に工夫している、まさに策士の一面を持っている。そしてNo.15が大人になるとこんな感じかとも思った。

〇No.34 石村 純(日本)

ショパン《ピアノソナタ第二番》もう出だしからして、他の奏者とは存在感が圧倒的に違う。演奏者の奏でる一音一音が全て「支配者、女王」という性質を帯びているほど。上手い下手の問題ではなく、人種が違うと言わんばかりに。それなのに技術だかなんだか分からないが、とにかく聞いているほうも納得させられてしまい、不快には思わない。No.8が「スキを見せない」とすれば、この演奏者は本当に「スキが無い」。

まぎれもない天才ではあるのだが、ピアノをわざわざスタインウェイを選ばずに自分の音を作り上げた点といい、使用しているプロフィール用写真といい、決して天然で純粋にここまで登ってきたわけではないのだろう。そういうところもやはりキム・ヨナとイメージが重なる。

あえて苦言を呈すると、あまりに演奏者の個性が強すぎて、どの作品を演奏しても作曲者の存在がバックに回ってしまうのはさすがにやりすぎではないかと思わないでもないのだが、もうそんなことはどうでも良い、ただこの演奏にどっぷり浸りたいと、細かい記述は放棄してしまいたくなりました。
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