<飛べ!ニッポン 1939~2009>
1939年に世界一周飛行に成功した「ニッポン号」の操縦かんを握った中尾純利機長は、その性能の良さをこう記している。「ニッポンはどんな時にもこの私の信頼を裏切らなかった」。飛行前、米ロサンゼルス、独ベルリンなど各国に交換用の発動機や部品などが送ってあった。しかし「200時間もの飛行に、1回の故障もない飛行は、全く私の信頼以上のものであった」という。
愛知県豊山町の三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所小牧南工場。その一角に三菱の空の歴史を凝縮した史料室があり、零戦の復元機やニッポン号の写真、模型などが保管されている。岡野允俊室長(80)は「航空機は頂点の産業。すそ野が広く、技術の活性化につながる。MRJ(三菱リージョナルジェット)がニッポン号のように羽ばたいてくれれば」と目を細める。
戦前、最盛期には年間約2万8000機を生産して「航空機大国」と称された日本。だが45年の敗戦から7年間、連合国軍総司令部(GHQ)に生産禁止を命じられ、空白を余儀なくされた。再興を目指した国家プロジェクトが57年に始まった戦後初の国産旅客機、YS11の開発だった。
三菱重工や富士重工業などから技術者が出向した半官半民の特殊法人・日本航空機製造が180機余りを生産した。だが赤字がかさみ事業はついえた。
元同法人設計部員の鳥養鶴雄さん(78)は「商品として飛行機を造ることの大変さが初めて分かった」と漏らす。元日本エアシステム整備本部長の粂喜代治さん(72)も「日本に民間機を造った経験が乏しく、販売後のサポートを分かっていなかった」と振り返る。
旅客機にとって補修や点検、部品交換は生命線だ。アクシデントに備えて予備部品を世界各地に送ったニッポン号。YS11で露呈したサポートの不備。三菱航空機は過去に学び、カスタマーサポート部を設置、MRJ発進に向け余念がない。
国のお墨付きとなる型式証明取得の審査をする国土交通省航空機技術審査センター。平井一彦所長(45)は85年の日航ジャンボ機墜落事故を機にこの道に進んだ。17人のチームは米航空局職員の研修などを受け知識を磨く。「外国に出して恥ずかしくない証明をしなければ」とMRJの開発陣と議論を重ねる。
MRJを成功に導くため過去のすべてが動員される。【真野森作】=つづく
毎日新聞 2009年2月26日 東京朝刊