2010年03月27日

なぜ船舶は「◯◯丸」なのか?

<ソース先>http://blogs.yahoo.co.jp/tomo_kite/21102290.html#21534354
なぜ船舶は「◯◯丸」なのか?2009/9/4(金) 午前 5:50
(旧)ほぼ日刊 鞆の浦新聞/鞆津三十六景


鞆港/風の音舍「さつき丸」
鞆港/風の音舍「さつき丸」 posted by (C)鳶眼

日本では「日本丸」のように、名前の最後に丸を付した船名が多い。
これは歴史的に日本人が船の名前に「丸」の語尾をつけて来たことによるが、船舶法でも「丸」の付加を推奨してきた経緯がある。
企業が所有する船舶の場合は各企業ごとに命名の慣例があり、海運会社ではその所有するフェリーに河川や花の名前を付して特徴を出している。
「丸」を付けずに例えば「さんふらわあ」とひらがな書きにするなどそれぞれ特徴を出している
そもそもなぜ「丸」が日本の船名に付けられたのかは、諸説があって判然としない。

「平安期以降鬼丸・膝丸など所有物に丸をつける慣習があり、船にもその名称がつけられたから」
「昔の船体は『たらい』のように丸かったから」
「女性的なイメージでかわいい名前とした」
「城郭の『丸』に由来する」などである。

この風習は江戸時代初期にはすでに存在しており、安宅丸などがその例である。

明治以後の日本の特徴として、艦船名に人名を当てないことがあげられるが、これは明治天皇から艦名についての下問があり、臣下が諸外国では偉人の名前をとることがある旨奏上したところ、「船が沈んだらその人に失礼になる」との言葉があり、以後日本では艦名に人名を使用しないこととなったとされている。しかし1982年に防衛庁(当時)所有の砕氷艦の艦船名を公募したところ、日本で初めて南極探検を敢行した白瀬矗中尉に因む「しらせ」が上位となった。防衛庁は「しらせ」を艦船名に採用するにあたり、人名ではなく昭和基地近くの地名である『白瀬氷河』(もちろん白瀬矗中尉に因む地名)に由来することとし、人名を艦船名には採用できないという問題をクリアしている。


Wikipediaにはある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


この鞆港に浮かぶ、高速船の名前は何ていうのだろう・・・

<コメント:編集局長魚屋>
この船の名前は「サツキ」
この企業が持っているもう一つの船は「メイ」

サツキとメイ・・・・
となりのトトロ?

なのかな?


鞆港に停泊するならなんで「いろは丸」にしなかったんだろう・・・

あ、
沈んだ船と同じは縁起が悪いか・・・


__________

<コメント:高木洋一さん>
メールで申しました通り、私は街づくりにおける強力な中立機関の存在を重要視しております。賛成派、反対派に対して第三の勢力になる団体としてこのサイトを考えておりましたが、どうやら「一個人」でやっておられること、「今住んでいる人達で決めれば良い。」と外からコミットする気はない、という考えでおられることがわかってきて、矛先(期待の先)を間違えたようです。詳しい中身の話はもっと別の所へ持っていき、中立機関の設立を働きかけていきたいと思っています。ご迷惑おかけしました。メールで言ったとおり、このサイトの趣旨には共感していますので、地道に頑張ってください。

__________

<コメント:編集局長魚屋>
メール受け取っておりませんもしや、tomokentei@gmail.comに送られましたでしょうか?あとで確認してみます__________「第三の勢力」もってのほかですそのビジョンがすでにこちらの考えと違うところです


__________

<コメント:高木洋一さん>
私のイメージとしては、この中立を目指すサイトが、すでに10人くらいの組織で、30人くらいの実働部隊ができるまで育て、署名活動などし、議員を一人巻き込んで、議会に質問状や嘆願書を送る、そうなると新聞でも取り上げられるようになる。(地元で体験済み)私たちはまだここで止まっていて行政の行動待ちですが、鞆だと反対派の団体などもあるので、もっと動ける。まず強力な中立機関として市民数百人にモニター登録してもらって、行政側と反対派の討論会を何度も開催して、論拠や資料を集めていく。組織を大きくする意味は、行政の参加を促すことです。バックに議員や市民が多数いると、新聞など世論を含めて無視できなくなる。しかし、架橋断固反対などの対立点をいきなり討論に持ち出すのではこれまでと変わらない話しか双方から聞けない。中立機関として、「20年後の鞆の街は」という先の未来図などから少しずつ話し合っていく、というのが中立機関の役割です。
行政側から見たら、何も言わずに架橋賛成(もしくはスルー)ではない組織で、反対派と同じくうざったいと思われそうだけれど、中立として強硬な反対派と違って話し合いできるし、市民に考えを伝えられる組織として使える、と思わってもらえる存在になることを目指します。モニターとして参加した市民が「やはり架橋は反対だ」「賛成だ」と新たな組織を作ったりすることも考えられ、対立を煽る組織と考えられるかも知れません。しかし、中立に公平に話を聞いていく姿勢を堅持し、議論できる環境を担保している限り、どんな過激な考えの人でも参加を促すことができ、問題解決に貢献できると考えています。ヨーロッパ型の多様な組織の介入で街づくりを実行していく発想がもとになっています。「20年後」の質問に反応していただいたように、このサイトの目指す所は上記の考えに近いと感じましたが(中立、少しずつ、ということなども)、個人で時間がない中、やっておられるサイトに、もっともっと活発に巨大に迅速に活動しろ、と脅すことは間違っていると気づきました。申し訳ありませんでした。

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<コメント:編集局長魚屋>
依然、メール読めていません壊れたPCの中にGMAIL「tomokentei@gmail.com」のパスワードも入ってて、ちょっと(いや、カナリ)困っています。この連休を使って復旧作業にかかりますので、すいません。もうしばらくお待ちください。

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<コメント:高木洋一さん>
http://oohiratosihiro.cocolog-nifty.com/ http://blogs.yahoo.co.jp/kazuakimae/23745959.htmlhttp://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/administration/article.aspx?id=20090215000026&ref=rss現場でたくさん情報が出てたのに(三つ目の新聞のやつ)、こんな無難な記事になったのが衝撃でした。例えば、業者があらかじめ施設が建つ土地を買っておいて、後で行政が高値で買い取り、売却益を分け合う、という古典的な手法も用いられており、港近くの業者名も含めて詳しい話が出ていました。メールで送ったものは、もう一度ここか他のアドレス等に送りましょうか。今必要でない物を復旧させるのに時間を使うのはもったいないと思います。私もGメール使ってましたが、今は使ってません。

「橋を架ける、架けないとは違うレベルで知恵を出し合ってほしい。」と要求しているのではなく、こちらは「橋を架ける、架けないとは違うレベルで知恵を出している」こういったものは恋愛と同じで、他人に求めちゃあダメ。自分で行動しなければならない。かと言って、行動できない人を咎めてはいけない。と考えている。と、ありましたが、宮崎さんが言ってるのは、「架橋賛成・反対を話すよりは」街の未来の話をしてほしい、ということではないでしょうか。他人をあてにせず、自分が動かないと、という話にはならないと思いますが。私は、中立が担保されてから、両派が毎日のように集まり、ガンガン知恵を出し合う話し合いができることを願ってます。これだけ強調しておけば、私の話が荒らしや中傷ではなく、具体的な提案だとわかっていただけると思います。何度も同じ内容で申し訳なかったですが。宮崎さんは、細かいことは知らないはずですが、非常に鋭いですね。私は全面賛成です。上から目線どころか、本質を見事に突いてる話です。

やはり「犬と鬼」を読んでみてください。読むと、話し合いができない原因がわかります。公共事業は絶対止まらない軍隊の「司令」みたいなもの、威信、金、首、全て詰まった不沈空母で戦前の軍部のような方式が残っています。現地の住民などには「説明会」をしてやるだけありがたいと思え、土木業者には仕事やるから賄賂出せ(自殺した松岡農相の裏話とかすごいです)と、最初から力関係が違いすぎ、話し合いなどできません。「裁判所は憲法にあるから裁判には従うけど、うぜえな」くらいの勢いです。「そんな大げさな」とか「証拠はあるのか」など少しでも思ったら、読んでみてください。アレックス・カーはアシをつけて全て証拠を出して書いてます。行政を引っ張り出せるような、話し合いの機関には圧倒的に中立さ・公平さが必要でしょうね。ほとんど「新聞社」レベルのそれが必要になる。新聞は事実確認しても証拠がないと載せない、警察のような正確性があるなと思いましたが、社会への影響力もあり「行政が気にする」「話し合いを促せるメディア」という意味で、私の考えている強力な中立機関に近いと思いました。

でも新聞もやりすぎると、圧力かけられて購読者が減るんじゃないか、結論が一方に出ると逆の考えの購読者には読まれなくなるんじゃないか、など、ビジネス主体だからこその弱点もありますね。そこはNPO型でどっちになっても利害関係はない、徹底的に話し合いできる場所を設けることで、早くこの問題を決着させて対立を止めてほしい、と思ってる市民が作る、というのが理想だと思います。メールで送ったものは、もう一度ここか他のアドレス等に送りましょうか?

違う話題で失礼します。コメントがまだ書き込めないので。法律面から考えて見ました。意見などお願いします。ヨーロッパでは、地方自治が進んでおり、権力が強い地方政府が条例を変えられ、多様な主体がまちづくりに参加することができます。国よりも「都市」に帰属してるという感覚が強いので、何事も住民が集まって決める、という、“敬意”と“誠実さ”の対話が行なわれることが、システムに内臓されているのです。だから、公平に話し合える「場」が存在する。対して、日本は国と地方政府の縦の関係が強すぎ、住民が意見を言おうにも、行政側は裁判にだけ訴えていれば、相手が折れる、という繰り返しでした。

八ツ場ダムの建設撤回の問題についても、住民はお上の「撤回ありきの説明会」には参加しない、という選択肢しかないのが現状です。うかつに出てしまうと「もう住民に説明さしあげました」という証拠にされてしまう。“敬意”と“誠実さ”のある対話を望んでも、一方が圧倒的に有利な状態だと、ここまで対話は成り立たないものなんです。私も行政との対話に出たことがありますが、本当に無力感しか残りませんでした。過激な反対派の考えや「ジャイアンーノビタの関係では中立のスネオはジャイアン側」という気味の悪さもよくわかります。実感するためには、何か自分の身近なことに代入してみてほしいと思います。

過去の過激派の言動を忘れてあげてくださいとは言いません、当人らも今は反省してる所でしょう。ただ、あなたが唱える「平和な話し合い」“敬意”と“誠実さ”などを示すようなシステムがない、反対派も全く手詰まりでストレスがある状況だということは理解してもらいたいと思いました。日本じゃなくヨーロッパのシステムだったならば、もっと自由に意見をいい合えたはずです。私たちもネットではなく堂々と地元の討論会に参加して話し合えていたはずだと思います。戦前に国家を全ての中心において運営してきた行政の仕組みはまだ残っています。自治省出身(総務省になっても)がかなりの数の県知事や市長を占めるのは、昔、県知事職が自治省の一つの部署だったからです。中央に対して地方は上司と部下の関係であり、戦後、軍部など目立つ所は解体されましたが、地方自治についてはほとんど変わらずに名称だけ変わってきた歴史があります。私はまちづくりの卒論で地方自治についても調べたので、行政と住民の間の力関係が日本は全くおかしい、ということを意識しつつ、全てのコメントを書いてきました。というか、それを元に行動しています。

20冊以上、観光の本だけで読んでますが、どの成功した観光地も行政の政策に反するようなことを自分たちで決めています。一番代表的なのは湯布院で、徹底的に反対して行政に嫌われましたが、素材の温泉のよさとあいまって、自分たちで決めて行動する、ということを貫いた結果だと思います。ヨーロッパ都市に近いシステムや雰囲気を感じます。真逆が夕張です。総務省から表彰されるくらい全て言うことを鵜呑みにして開発し続けた結果です。日本においては国や行政の行なう「公共事業」は独立企業行なう事業と変わりがないレベルまで「主体性」が認められていて、住民が反対した所で「選挙で選ばれた議会や市長が決めた」という理由が金科玉条で、これまであたりまえのように通ってきました。しかし、県や国の担当者や首長や議長はその町に住んでるとは限らない。もしかしたら、福祉政策や教育政策など他の政策が受けて当選したのかも知れない。まちづくりはイギリスなどヨーロッパでは資格がある専門職でもあります。

センターマネジャーや商業の組合や住民などが参加して決定する機関に権限がたくさんあります。日本の水道局や警察のように、市長や議員になっただけでは、その組織を変更する権限がないような部門と同じと考えることもできます。つまり、選挙の争点に「まちづくり」の要素が少なくなるとも言えます。専門的な(私の言う強力な中立)機関が、とことん考え続けてきた計画を少しずつ実行してる状態で、市長選があったとしても、「街に巨大な橋を通して、一気に変えます」ということは言えないわけです。それくらい、まちづくりは専門職で庶民の生活に大事なものだと思われている。大事なものだからこそ、、“敬意”と“誠実さ”のある対話を守るためにしっかり権限を移譲して(私の言う力を与えて)、市民の参加する権利を守っている。自由な討論を担保していると言えます。私の考える「未来にも魅力が持続し続ける」まちづくり、には湯布院やヨーロッパ型の、権限があり、討論がとことんできる自由のある組織は欠かせないと思っています。その前提でここへの全ての提言を行なってきました。

行政とちょうど話し合っている最中で、言動は荒らしや中傷のように過激に写ったかも知れませんが、子供たちに残せるのは、「勇敢な人生(後世の人も感動する伝記のような)か、豊かな文化だけ」という信条で、先祖から受けた豊かな文化や自然を子供や後輩たちに伝えていかないといけないと日々思いながら活動しています。グローバル化が進んで、東京一極集中や、アメリカ型の自然の資源を奪って使うような文化が最盛期に来ている感がありますが、後世では、自分たちがやってる「故郷の歴史や文化を大事に受け継いでいくこと」の精神を受け継いでいってくれる後輩たちが出ることを確信しています。

「自分たちだけの・その時だけの利益」だけの勢力(一種の現代病の患者だと、哀れむべきかも知れませんが)の好きなようにさせてはいけない。鞆で言えば、もし橋がかかることになっても、今の権力構造のままではいけない。中立機関を作り上げて、討論し尽した結果、架橋が決まれば、後世の人びとに誇れることだと思います。その街のために討論できる場所を用意して、必死で考え尽くして、最善だと思われる方法を取って来た。この街への思いは、昔の人も今の人も同じだと。その気持ちは絶対、後輩に伝わっていき、無駄になることはありません。逆に、行政の言うままにして、自分たちの街に関心ない態度をとっていたら、後輩や後世にも間違いなく伝わります。人口減少・都会への流れは加速するでしょう。そのためにはまず、市民の思いを共有・討論し尽くせる「場所」が必要です。

「討論できる場所がない」という例が昨日の新聞に載っていたので、紹介します。http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/article.aspx?id=20090924000100河川に関しては進んでいて、「河川計画策定に住民参加の仕組みを盛り込んだ河川法の改正」がもう行なわれています。しかし、>同事業対策弁護団の谷脇和仁団長が「法律は変わっても現場は 変わっていない」と指摘。宮本氏は「ダムを造る側の行政はも っと住民と向き合って話をする必要がある」と強調した。行政の態度は全く変わらないようです。>また、同事業認定取消請求訴訟原告団の山西克明団長が事業の 経緯などを説明した。結局、話し合いの場所がなく、どこの公共事業もそうですが、裁判しか道がないのです。

細部への妥協は行政側からもあります。しかし、作ることは前提で「大元」や「まちの未来の姿」の話はできない。行政はそういう場を作ることを嫌ってさえいます。それはそうです。今までは事業を独占できていたのに、他の機関の意見を聞かないといけないのは、自分が同じ立場でも嫌でしょう。しかし、未来のためには必要です。詳しい資料です。 http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/291/1部抜粋します。 なかなか見ごたえのある議論です。ちなみに私はやや賛成側です。この場合はダム作ってもいいかと思いますが、もっとよく話し合われたら、どんどん意見も変わってくると思います。落としどころは必ずありそうな事例で、そのためにも討論の「場所」ば必要だと思います。記者の意見も同じ感じです。☆争点☆ 景観について<新ダムは、県内有数の観光スポットであり、瀬戸内海国立公園の一角を占める寒霞渓の真下に位置する>

【推進派】県は、ダムの下流側に盛り土をして、できるだけコンクリート面を覆うなどの方法を提案。さらに「学識者や地元町議らによる景観検討委員会を設置し、景観への配慮に努める」とする。しかし会合は「議論に支障が出る恐れがある」として非公開で行われており、方針決定の過程は不透明。【反対派】「あんな大きなダムができたら、下から寒霞渓が見えなくなる」(男性住民)。また反対派グループは、約百年前に外国人が別荘地として開発しようとしたのを、地元有志が私財をなげうって阻止した歴史を挙げ、「大事に受け継いできた景観を守るべき」と訴える。☆争点☆ 経済効果【推進派】男性住民の一人は「誰も損する人はいない。島の土建屋さんももうかるのでは」。女性住民は「今の狭い道も良くなるだろうし、ダムでもできないとそんな話にはならなかった」とダム建設に伴う周辺開発に期待を膨らませる。【反対派】「ダムを造っても、島外の大手ゼネコンが潤うだけ。本当に地元業者を思うなら、ダムより河川改修の方がいい。それなら地元だけでできる」と男性住民。

別の女性住民は「喜ぶのは地権者だけ。周辺開発なんか、お金がないからと進まないと思う」と悲観的だ。☆専門家の話☆来は、基本高水を設定する段階から住民が参画する仕組みが確立されるべきだ。少なくとも行政は複数、もしくは幅のある基本高水ごとに事業計画案を住民に示す必要がある。ただ、それが担保されていない状況では、住民が見直しを働き掛け、地域に見合った設定に引き下げることが考えられる。それは当然、ダム自体の見直しにつながる。―その際、住民と行政にどういったことが求められるのか。大熊 行政は判断材料となる情報提供を十分しなければならない。住民は環境破壊や費用対効果、さらにはどうソフトで補うか、どの程度の被害まで我慢するかを総合的に考える必要がある。見直しにより環境や景観を守ることができ、治水対策が早く完成するならば、例えば三十年に一度の床下浸水を我慢するというコンセンサスもできるかもしれない。

―治水をめぐる基本的な考え方は。大熊 川を治める技術は地域の実情に応じて展開されるべきで、住民の考え方を最優先することが重要だ。川にはそれぞれ歴史や文化があり、住民との豊かな関係が尊重されなければならない。治水は行政主導で進められているが、それを地域の選択にゆだねる方向転換の時期に来ているのではないか。ダム論議は、その一つの契機になり得るだろう。◎取材を終えてダムに向かって曲がりくねった道を進むにつれ、反対派による立ち木トラストの看板が目立つようになる。推進派の街宣車が、町内を走り回っていた時期もあった。いずれも、のどかな町には不釣り合いな光景だ。住民たちにダム問題を尋ねても、容易に口を開こうとはしなかった。しかし関心がないわけではないようだ。反対派が主催した昨年の集会には、田中康夫・長野県知事効果もあって五百人もが参加した。

住民たちは、互いの考え方を知りたがっているのではないか。説明会では行政だけが情報を持っていたので議論になりえなかったが、今の状態なら公開討論会も成り立つのではないか。反対でも規模にのみ異論がある人もいれば、賛成でも景観に不安を抱く人もいる。話し合い理解しあうことが、住民関係の正常化につながると信じる。なお、寒霞渓は地元だけの財産ではないことは忘れないでほしい。

昨日付けの東国原知事のブログです。私の意見も全く同じです。「敬意ある対話は今のままでも実現できる」という憶測や夢のような話ばかりしてないで、現実を見てみてください。僕が「県民総力戦」と言っているのは、自治は原則全員参加が理想であるからだ。しかも能動的にである。要するに、県民皆で医師や教師を支え、子供を育て、高齢者や社会的弱者を支え、産業や観光振興や街づくりに全員で取り組むということである。自治体の現場では、互いの生活を支え合う社会を目指し、それを住民自治によって決定する仕組みを作り上げていくのである。そのために自治体に十分な財源と権限が必要なのである。

地域住民が抱える課題はそれぞれの生活に密着していて、実に多様化し複雑化高度化し、木目細かい。また、住民の課題解決に対する発想はユニークであり、多様性に富む。それらの諸課題や住民ニーズ、住民の取り組み(やる気)に機動的・柔軟的に対応するのが地方分権である。地方に権限・財源・人間があれば、意思決定のスピードは飛躍的に向上し、それらの行政ニーズに迅速にかつ木目細かに対応出来る。というか、対応出来る行政を皆で作るのが地方分権・地域主権の本旨である。ここでいう地域主権とは、地域が行政権・財政権・司法権・領土・住民を有し、その住民が主体的な意思を有し、権限や責任を有することだと考えている。

意のある対話を望むのは、私もあなたも同じことです。(あなたが感情的にならずに考えられればすぐわかります)しかし、そのために場所を早急に作る必要がある。(感情的になりすぎて、ここを勘違いされました。落ち着きましょう)今のままでは敬意ある対話はできません。目を覚ましてもらうために猪木さんに登場いただきますか。北朝鮮との親交があり(北朝鮮の一方的ぶりは今までの公共事業の行政みたいです)、日本との関係が閉塞してる現状について「俺も早く解決してほしいと思うけど、反面、対話の場所がなくてどうやって解決するのって。」

本田健さんは、私が処女作である『加速成功』出版のときにわざわざ出版社に出向いてくれましたしジェームス・スキナーは、まだ無名の私をセミナー講師に引き上げてくれた人です。力のある人に引き上げてもらうかたくさんの人に押し上げられることが成功の秘訣です。道幸武久さんという方の話です。その通りだと思います。行政は前者。我々は後者の「力」を得ることが必要だと思います。中立な機関の力の源泉はこれ以外にないと思います。あなたも寝かせている計画を実行する時には「力」が必要なはずです。そこまで考えて計画されることを望みます。期待しています。

http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/20090919この「地域コーディネーター養成講座」というのは、私の言ってる「ヨーロッパ型の中立機関」や多様な意見を採用してのまちづくりという方向にかなり近いです。時代はどんどん変わってきて、市民も参加のまちづくりの実現ができるのはもうすぐだと思います。あなたも、自分の意見に固執して、自分だけで進めるのもいいですが、本当に街を変えていきたいなら、たくさんの人を巻き込めるようにすべきだと助言させていただきます。一団体ばかり攻撃して停滞してないで、たくさんの情報を集めて、発想力を豊かにすることだと思います。鞆検の次も考えましょう。いろいろやってるけど、たまたま停滞してるのが今だったら、私の勘違いですが、今は発想も行動も鞆のためになってません。(おそらく、こういう真面目な書き込みも、生意気だ、と捉えられるのでしょうけれど、いつまでもその態度では鞆はよくなりませんよね)しかし、期待しています。
posted by 編集長/魚屋(うおや) at 04:59| 広島 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | ◎これまでの経緯 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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