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第82回センバツ高校野球大会に出場した開星(島根)の野々村直通監督(58)が25日、松江市内の同校で会見し、監督を辞任することを表明した。同校は22日の向陽に敗れた後「21世紀枠に負けたことは末代までの恥」などと発言したことを問題視。無期限の謹慎処分を科す方針だったが、同監督が一連の騒動を起こした責任を痛感。自ら退くことを決めた。後任監督には同校職員の山内弘和コーチ(34)が昇格する。なお、大会5日目は前日に続き、雨のため、全3試合が中止となり、26日に順延。2日連続の雨天中止は25年ぶり。
問題発言の代償はあまりにも大きかった。野々村監督は黒のスーツの前ボタンをきちんと留め、紺地のネクタイを結んで会見場に登場。「辞任を自らお願い申し出ました」と切り出し、頭を下げた。
24日の緊急会議で大多和聡宏校長(52)は「このまま監督を続けるのは難しい」とコメント。過去の功績などを考慮し、当初は無期限の謹慎処分を下す方針を固めていた。ところがこの日午前、校長が呼び出したところ、同監督が初めて辞任を申し入れた。
23日に日本高野連に謝罪した際に「継続できるなら頑張りたい」と続投に意欲を見せたが、翌日の24日夜に辞任を決意。対戦した21世紀枠で出場した向陽(和歌山)と、01年度から導入された同制度そのものを侮辱したことに加え、島根県のイメージを著しく損なったことが身を引く決断につながった。「ふるさとのイメージを高めようと頑張ってきたが、愚かな行為によってマイナスになってしまった」と、反省の言葉を口にした。
連日の報道だけでなく、同校には22日の問題発言以後、1000件近い抗議電話が寄せられていた。「服装にも反省が足りないと非難されている」と校長が指摘したように、同監督の派手な服装がクローズアップ。結果的に批判を増幅させたことで、同校を含めた郷土のイメージダウンにつながってしまった。
1988年の創部からチームを育て上げ、春夏の甲子園に計8回出場させ、梶谷隆幸(横浜)らプロ野球選手を送り出した。同校での監督生活22年間の実績は一瞬の舌禍によって崩れた。「時間を戻せないかと思う…」。23日に続き、この日も涙を流した指揮官。「野球を辞めたい」と直情的に言い放った言葉が、思わぬ形で現実となった。
◆開星・野々村監督問題の経過
▼3月22日 センバツ1回戦で向陽に1―2で敗退。野々村監督は試合後に「21世紀枠に負けたことは末代までの恥。野球を辞めたい。腹を切りたい」とコメント。日本高野連は発言を問題視し、島根県高野連を通じて、学校側に事情聴取。
▼同23日 野々村監督が甲子園で日本高野連と大会本部に謝罪する。日本高野連は口頭で厳重注意。開星・大多和校長は、和歌山・向陽を訪れ、板橋孝志校長(59)に謝罪。
▼同24日 開星が緊急会議を開き、大多和校長が野々村監督に自宅謹慎を指示。
◆野々村直通(ののむら・なおみち)1951年12月14日、島根県生まれ。58歳。島根県立大東で三塁手、広島大では主将で大学選手権に出場。監督としては広島・府中東で79年春に甲子園出場。86年に開星に赴任し、88年の野球部創部とともに監督に就任。93年夏以来、同校で春夏通算8度の甲子園出場を果たした。最高成績は07年夏の3回戦進出。
日本高野連・小森年展事務局長「島根県高野連から正式な報告の文書が届いていないので、コメントのしようがありません」
向陽・高田恵雄部長「あまりにも急展開でびっくりしている。野々村監督は指導者として野球を愛されていると感じていた。ちょっと残念な気持ちも個人としてはある」
(2010年3月26日10時48分 スポーツ報知)