2008年12月04日(木)
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2008年10月30日日経BP
「ミスター戦闘機」の異動
「な、なんで私なのですか!」
宮川淳一は、あまりの驚きに思わず声を発していた。
2007年2月のある日。三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所。副所長(当時)は、防衛省向けの航空機技術部長だった宮川を呼ぶと、「お前、4月からMジェットになったぞ」と、唐突に内示したのだ。「Mジェット」とは、開発を進めている小型ジェット旅客機の呼称。現在は正式に、「MRJ(三菱リージョナルジェット)」となった。
三菱航空機の宮川淳一常務執行役員プロジェクトマネージャー。東京大学工学部航空学科を卒業して1978年に入社。防衛省向けの戦闘機開発畑が長かった。2007年4月に旅客機プロジェクトに異動。2008年4月、三菱航空機の設立に伴い現職に就く。東京生まれの東京育ち。子供の頃は、第二次世界大戦中の戦闘機のプラモデルをよくつくった。「ゼロ戦」や「月光」という三菱が手掛けた海軍機ばかりでなく、「飛燕(ひえん=三式戦闘機)」など中島飛行機の陸軍機にも興味があったという
戦闘機開発から民間旅客機の開発へ。現在流れている主力事業から、将来に向けた未知の事業へ。サラリーマンなら、誰でも、予期せぬ異動を経験することはある。しかし、宮川はこのときを「腰が抜けるほど青天の霹靂だった」と振り返る。なぜなら、あまりにも異例の人事異動だったからだ。
防衛関連ビジネスは、国の中期防衛力整備計画に基づいて決定されていく。中期防は5年スパン(現在は2005年度-2009年度)。それに合わせて、三菱重工も事業計画を立てていた。
1978年に東京大学工学部航空学科を卒業して入社した宮川は防衛畑が長い。航空機技術部長に昇格したのは、現在の中期防が始まった2005年。それ以前は、防衛省のステルス実証機の主任研究者であり、社内では、“戦闘機畑のエース”と目されていた。内示を受けたときも、2005年度-2009年度の中期防の期間中に予定されている、いわゆるFX(次期戦闘機導入計画)に対応する社内プロジェクトの責任者も務めていた。
「何で自分なのか……。俺が抜けて、ディフェンス(防衛省向け)は、やっていけるのか」
宮川は混惑せざるを得なかった。だが、サラリーマンは辞令には抗えない。
「YS-11」以来、半世紀ぶりの国産機開発
やがて、宮川は大きな不安に襲われる。4月以降、何から、どう始めたらいいのか、皆目見当がつかなかったからだ。
プロジェクトマネージャーとして赴任する宮川に課せられた最大のミッションは、国産旅客機という新たな事業の成功である。具体的には、成功させるための事業計画を打ち立てることだった。
「プロジェクトが動いていたのは、もちろん知っていました。メンバーに選ばれていた後輩の技術的な相談に乗ったりしていましたから。しかし、まさか、自分がやることになるとは……。予想だにしなかった。とんでもないことになったという不安でいっぱいでした」
航空機技術部長だったころ、宮川は250人もの部下を預かっていた。これに対し、このときMRJは、まだ部にも昇格していないチーム。メンバーは設計技術者を中心に30人ほど。
「こんな少ない人数で、何をやれと言うんだ」
こう考えると、不安はさらに増幅していく。
MRJプロジェクトはプロペラ旅客機の「YS-11」以来、半世紀ぶりとなる国産旅客機開発。座席数70~90の中距離用で、1日に何度も離発着することを前提とする。2011年の初飛行(ロールアウト)、2013年の就航をめざしている。
もともとは、独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が2003年に公募した「環境適応型高性能小型旅客機研究開発」(民間航空機基盤技術プログラム)に、三菱重工が中核として参画したのがMRJの始まり。同プログラムの期間は2003年~2013年の11年間。富士重工業と日本航空機開発協会も参加し、富士重は主翼開発を担当する計画で始まった。
「プロダクトサポート」からの切り替え
桜が散った4月となり、宮川に一本の電話が入る。果たして相手は、東大航空学科の同期で航空会社に勤務する友人だった。
「(民間旅客機を)やるんだってなあ。どれだけ大変な仕事か教えてやる。みんなを集めるから、すぐに東京に出てこい」
大衆的な居酒屋で、友人たちは待っていた。みな、日本航空と全日空の社員ばかり。運航や整備部門に従事する技術者たちだった。上京した宮川は、旧交を温める余裕もなく、ひたすら酒を胃袋へと流し込む。
「旅客機は、売った後が大変なんだよ」。赤ら顔ながら冷静な目で、一人が言う。新型機を運航させるためには、新型機に応じた整備設備が必要になる。パイロットはもちろん、整備員や客室乗務員も新型機用に教育を施さなければならない。
「教育までフォローできるのか?」
「そもそも、(三菱)重工は飛行機を営業した経験がないだろう。YS-11のときとは状況が違うぞ」
「そうそう、つくれば必ず売れるという保証はない」
「われわれは1機だけ買うわけにはいかない。大きな投資になる……」
「(座席数が60~100席の)リージョナルジェットは、これから競争が激しくなる。ロシアや中国も入ってくるんだ」
「まだ間に合うだろう。国産機なんてあきらめて、国やボーイングの受注だけやっていたらどうだ。メーカーとして参入するのは、大変だぞ」
宮川は友人たちの言葉を黙って聴いていたが、心の内側では思っていた。「受注メーカーのままなら、短期的なリスクは少ない。しかし、今は三菱が、いや日本の航空機産業が、完成品メーカーとして参入できる最後のチャンス。受注メーカーでは、ものづくりの自由度は限定されるうえ、何より発注を切られたら終わってしまう。自動車に続く、日本の大きな産業としてのジェット旅客機を、俺たちは立ち上げなければならない。もちろん、参入は大変なことであり、社内に難問は山積している。俺は、変えなければならない」。優良な下請けから挑戦する元請けへ、企業体質を変える必要に宮川は迫られた。
名古屋に帰った宮川は、ある行動に出る。それまで三菱重工では、納入後にアフターフォローする部署を「プロダクトサポート」と呼んでいた。MRJチームでは、これを「カスタマーサポート」と呼ぶことに、すぐに変更させた。その後、チームには試験部門の人員などが増員されていくが、この年(2007年)の秋までには、「購買部」も「SCM(サプライチェーンマネジメント)部」と名称を変更させてしまう。一種の意識改革である。
三菱重工が経験しなかった領域
いま、宮川は言う。
「友人たちと話していて、“プロダクトサポート”という意識はとんでもないことだと気づきました。サポートするのはお客様。発想をガラリと変える必要があった。購買部の名称変更も同じです。航空機は60万点から70万点の部品で構成されます。膨大な部品を統合するのがメーカーの役割。だから、隠然とした力を持つ購買部としてふんぞり返っていたら、サプライヤー(納入業者)の協力を得られない。新規ビジネスで最も大切なことは、チーム内の組織化、そしてメンバーの意識を新しいビジネスに合ったものに変えることです」
距離を置いていたものの、航空機技術部長のときからMRJプロジェクトを見ていた宮川は、「これまで経験のない領域がある」ことを感じ取っていた。その一番は営業である。三菱重工にも、営業部もあれば、営業マンも、もちろんいる。しかし、問題はその中身だ。
「ウチの営業マンは頭を下げたことがない。“前垂れ精神“のかけらもないのです」
防衛省やNEDOといった国家組織、それにボーイング社やエアバス社など取引先が限られているし、技術が評価されれば仕事を出してくれる。営業マンは自社の都合に合わせて、発注先と調整すれば仕事は成立した。
しかし、旅客機の営業はそうはいかない。買う気のない相手にも自社商品を売り込まなければならない。しかも、三菱重工は新参者でありエアライン(航空会社)は、三菱重工とMRJについてほとんど知らないのだ。
国産旅客機開発は、電機、自動車など国内のさまざまな産業への訴求効果も期待される
友人たちが指摘したように、リージョナルジェット市場は今後競争が激化する。すでに、カナダのボンバルディア社とブラジルのエンブラエル社が高いシェアをもっていて、ここに中国とロシアの企業が新規参入してくる。
MRJの開発費用はトータルで1500億~1800億円と見込まれており、価格は1機30億~40億円の予定。エアラインは1機だけを購入することはなく、10機あるいは20機とユニットで購入する。さらに、訓練設備や地上支援機材も購入しなければならず、1回あたりの取り引きは少なくても1000億円に膨れあがる。
しかも、安売り航空券や燃料高、競争激化により、エアラインの経営はどこも厳しい。そうした相手に、頭を下げない営業スタイルが通用するはずもない。
「環境」を軸にするコンセプトの誕生
組織改革とメンバーの意識改革は、プロジェクトリーダーとして取り組まなければならない最優先事項だったが、もう一つ、速やかにつくり上げなければならないことがあった。
それは、MRJそのものの商品コンセプトだ。宮川は4月に異動になったが、6月にはパリ航空ショーを控えていた。パリでは実物大の客室モックアップを公開する予定だったが、プレゼンの際、コンセプトの説明は必須だった。
4月に宮川が最初に見せられたのは、一枚のコンセプト図。縦軸に「オペレーティングコスト(運航経済性)」、横軸に「キャビンコンフォート(客室快適性)」とあった。この座標図には、三つのマークが記されていた。一つはボンバルディアの「CRJ」。快適性は低いものの経済性がそこそこ高い位置に。次はエンブラエルの「EMB」で、経済性は低いが快適性はそれなりに高いポイントに。そして、MRJは両方とも高いところに、位置づけられていた。
「これじゃダメだ! ライバル機との相対的な価値を訴えても意味はない。中国とロシアが入ってきたら、あるいは競合他社が新型機を投入してきたら再びプロットするのか。そうではなく、MRJの絶対的な価値、すなわち“売り”を訴えなければ」
考え抜いた宮川は、パリ航空ショーの直前、MRJの三つのコンセプトを考え出す。
環境:優れた燃費と低騒音
乗客:快適な客室
エアライン:優れた経済性
この時点で、MRJのコンセプトに初めて「地球環境」が入った。しかも、中心に位置づけられたのだ。
「欧州の人たち、特にドイツの人と話していて、これからは環境の時代であると強く感じた」と、宮川は話す。現実に、航空機に対する環境規制は、これから世界的に高まっていく。
「地球環境」「乗客」「エアライン」と三者を“ステイクホルダー(利害関係者)”とするコンセプトは出来上がった。
ひたすら読書感想文を書いた小学生時代
三菱航空機の戸田信雄社長。1945年生まれ。東京大学工学部航空学科を卒業し1969年に三菱重工業入社、名古屋航空宇宙システム製作所所長などを経て2008年4月から現職
ところで、技術者の多くは、論理的な思考や理解力がある一方で、技術内容を説明することが苦手だったり、コンセプトメイクは上手くなかったりすると言われる。
1954年生まれの宮川は、東京・世田谷生まれの世田谷育ち。区立北沢小学校4年生から6年生の3年間、担任だったK先生から大きな影響を受けた。この3年間、宮川は国語の教科書を開いた記憶がない。教科書による授業ではなく、ひたすら本を読まされ、読書感想文を書かされたというのである。
児童向けの偉人伝や歴史書、科学本、宮沢賢治や漱石と、広いジャンルで何でも読まされた。図書館や書店で本を求め、読み終えると、鉛筆を持ち原稿用紙に向かう。いまの大学生のように、ネット検索からコピー・アンド・ペーストしてレポートをつくるのとは訳が違う。小学生が手書きで文章をまとめるのである。
偏差値を上げることを最大の目的とする“お受験”の時代の今では、きっとPTAからクレームの一つも来ただろう。だが、1960年代のおおらかな時代だった。
「小学校時代の先生のやり方が、実は大人になってから本当に役に立っているのです。自分で考える力、思索する力を育んでくれたのですから」
パリ航空ショーの直前、自ら考えた、環境を中心としたコンセプトを、宮川はプロジェクトの責任者である名古屋航空機製作所長の戸田信雄(当時、現在は三菱航空機社長)に、気持ちのたかぶりを抑えながら説明した。
黙って聴いていた戸田は、宮川の説明が終わると一言だけ発した。
「うん、わかった。それで行こう」
宮川は内心「クリエイティブなアイデアへの評価を、もっとしてくれてもいいじゃないか」と思ったが、言葉にはしなかった。戸田は東大航空学科の先輩だが、感情を表に出さない性格だということを宮川は知っていた。江戸っ子の宮川に対し、戸田は厳しい気候に晒される北陸地方の出身だった。
背中を押した2つの技術革新
横浜で10月に開かれた「2008年国際航空宇宙展」を動画で紹介。「YS-11」以来の国産旅客機開発の話題もあり、大きな賑わいを見せた(画像をクリックすると国際航空宇宙展の動画レポートをご覧いただけます)
「時は到来した。ここを逸すれば、チャンスは二度とない。(三菱)重工にも、そして日本にとっても……」
経営者は認識し、速やかに決断した。前夜、都内にある自宅の天体望遠鏡から彗星を確認していた。暗く澄み切った空の向こう側にある星空の煌めきと同じくらいの重さが、彼の決断には、込められていた。
2005年のカレンダーも残りわずかなある夜。三菱重工業会長(当時)の西岡喬は、この日までひたすら待ち続けていた。10年などという歳月ではない。四半世紀、いや「YS-11」から数えるなら、ほぼ半世紀に達する。
東京大学航空学科を卒業し1959年に入社して以来、経営再建に取り組んだ社長時代(1999年~2003年)も含めて、西岡はひたすら待っていた。チャンスが訪れるのを。
「自前の航空機事業を立ち上げる」
これは、西岡ばかりではなく、歴代の三菱重工トップの変わらぬ思いだったろう。ただし、西岡はいま、次のように話す。
「(民間航空機に参入することは)“思い”などという生やさしいものではない。産業立国としてわが国が生き残るため、やらなければならないのが国産航空機事業なのです。航空機には先端技術が採用される。しかも、他の産業への波及効果は絶大。一流の技術立国として、日本が将来も輝き続けられるかどうか、生きるか死ぬかがMRJにかかっているのですよ」
ではなぜ、この時期に決断したのか。
「技術革新が二つあったこと。さらに、原油価格が上昇を続けていた。ここがチャンスと捉えた」と、西岡は話す。
石油価格上昇。「燃費が決め手に」
二つの技術革新とは、機体の軽量化を実現する炭素繊維複合材(CFRP)、および新型エンジンである。両技術により燃費を2割から3割向上できる見通しが立っていた。
このうちCFRPは、三菱重工が炭素繊維メーカーの東レと組んで加工方法を共同開発し、米ボーイング社が開発を進める次世代中型旅客機「787」の主翼への採用が決まっていた(この時点で、三菱重工は主翼製作のための工場投資に着手していた)。
米P&W社が新開発した「GTFエンジン」。燃費性能が高く騒音が少ない環境対応型だ。P&W社はこのエンジンを2008年7月に初飛行させ、40時間以上の飛行試験を成功させている(画像提供:三菱航空機)
エンジンは、米プラット・アンド・ホイットニー(P&W)社が約20年間にわたって開発を進めてきたGTF(ギアド・ターボ・ファン)エンジン。エンジンはファンを大きくするほど燃費性能は向上するが、一方で騒音も大きくなってしまうため、ファンの大型化には限界があった。P&W社が開発中のGTFエンジンは、圧縮機・タービンの主軸とファンの間にギアボックス(変速機構)を介在させることで、ファンの回転数を主軸と独立させて変えられるようにした。これにより、燃費向上と騒音低減を果たし、高い環境性能を実現させたことが特徴だ。MRJに初めて搭載される。
一方、1990年代を通して1バレル(=約159リットル)10~20ドル台と安値で安定していた原油価格は、2004年には30ドル台後半に、そして2005年10月には1バレル60ドル近くまで上昇する(その後、2008年夏には135ドルまで高騰。秋になって急速に値を下げた)。
「原油価格がじりじりと上昇を続けるなかで、燃費性能に優れた旅客機、すなわち、環境性能が高いリージョナルジェットは、世界の航空会社から求められていくに違いない」
三菱重工が中核となって進めているNEDO(独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)の民間航空機基盤技術プログラム(前編参照)が進行するなか、西岡は、こう判断していた。
問題は、MRJのプロジェクトリーダーに誰を起用するか。西岡の脳裏には、2人の男の顔が浮かんでいた。
10年に1人の逸材
三菱航空機の首脳。中央が戸田信雄社長、左が宮川常務執行役員。戸田氏は1954年生まれ。東京大学工学部航空学科を卒業し1969年に三菱重工業に入社、名古屋航空宇宙システム製作所所長などを経て2008年4月から現職
日本の製造業、そして日本の製造業を基盤で支える三菱重工の将来を託すビッグプロジェクトだった。チャンスは一度。失敗は許されない。
しかも、航空機ビジネスは超長期に及ぶ。最低でも10年、場合によっては40年、50年のロングランだ。現に、好調を持続する欧州エアバス社でさえ、いまだに3兆円もの借金を抱えている。ボーイング社にしても、747でさえ、採算ラインに乗ったのは最近である。
「(ボーイング)787は、何としても成功させなければならない。787あってのMRJだから……」
こう考えたとき、候補者は一人に絞られた。
宮川淳一が「青天の霹靂」と感じた異例の人事異動は、内示される1年以上前に固まっていたのである。
西岡は言う。
「ビッグプロジェクトを進めるときに最も大切なのはリーダー。人です。特に最初が肝要。ところが、プロジェクトを任せられる人間は限られるのです。(三菱)重工には毎年何百人と優秀な社員が入社するけれど、プロジェクトリーダーになり得る人物は、10年に一人くらいしかいない。技術だけわかっていてもダメ。調達から開発、生産、サービス、資金、何より営業まで監理できる人間でなければ、とてもでないがやり抜けない。忍耐強さ、積極性、柔軟性、判断力、統率力、まとめ上げる力、情熱……。その人がもっている素質が一番大切です」
西岡は、自分より18歳も若い宮川に、民間航空機という“夢”を託した。駅伝競技で、たすきを後続ランナーに手渡すように。
複合材使用の功罪
2007年4月にMRJのプロジェクトマネージャーに就いた宮川は、商品コンセプトの中心に「地球環境」を据えるなど、矢継ぎ早にアクションを起こしていた。
5月に入り、6月のパリ航空ショーを前に、特徴の一つである炭素繊維複合材(CFRP)の使用をめぐり、プロジェクト内で議論が起こる。
航空機の機体材料には、アルミを中心とした合金(ジュラルミン)を使うのが一般的。しかし、MRJはリージョナルジェットとして初めて、CFRPの採用が決まっていた。
三菱重工はCFRPを、ライセンス生産している戦闘機に採用していたほか、787では主翼をはじめ機体材料全体の約50%で使用することをボーイング社との間で決めていた。こうした実績から、MRJでも大幅に取り入れて一段の機体軽量化を図って、環境性能をアップさせる計画だった。が、「胴体にCFRPを採用するのは、リスクが大きい」という意見が出る。
MRJは、YS11以来、ほぼ半世紀ぶりとなる国産旅客機。日本の航空機業界、三菱重工にとっても悲願である。座席数は70~90席。短距離、中距離を一日に何度か運航する。競合する同型機に比べ、最大で30%も燃費効率で上回る環境性能が売り。環境、快適性、経済性をコンセプトに、順調にいけば2011年初飛行、2012年の運航となる
議論の末、胴体での使用を取りやめアルミ合金に決める。主翼や尾翼などCFRP比率は30%となった。ユーザーである航空会社との話し合いから導き出された結論だった。
MRJは機体そのものは小さいが、人に合わせるため、窓や扉のサイズは「777」などの大きな機体とあまり変わらない。複合材を使えなくはないが、窓や扉用に穴を開けると補強が必要となり、複合材を使うメリットが小さくなる。
また、中近距離用のMRJは、1日に10回程度の離発着を行うこともありうる。国際線に就航する大型機が1日1~2回なのとは違い、頻繁に離着陸を繰り返すぶん、空港で荷物を運ぶローダーや牽引車、タラップ車などと接触するリスクが高まるのである。しかも、大型機と違い、背が低いために、ぶつかりやすい。複合材は補修しにくく、修理の手間とコスト面も考えて、CFRPの胴体への使用を見送った。
それでも、現在の代表的なリージョナルジェットと比べると「26%燃費効率が高い。26%の半分はエンジン、残りはCFRPや機体設計によるもの」と宮川は話す。
ボーイング流の仕事術
「コ・ロケーションだ」
プロジェクトマネージャーに就いてから、宮川はメンバーを前に口癖のように言い続ける。「コ・ロケーション」、つまりは、同じ場所に集結することを指す。特に、少数でも、キーマンたちを最初から“コ・ロケート”させてきた。
優秀ではあるが個人プレーで仕事をしていた技術者たちを宮川は組織化していく。
20代のころ、宮川は米国スタンフォード大学に社費留学して、航空宇宙学のマスター(修士号)を取得。その後、1980年代には「7J7」(「よど号事件」で知られる727の後継機)で、ボーイング社との共同開発プロジェクトに参画する。空力設計技術者として、主翼の形状設計を担当。巡航速度に対応したハイスピードウイングデザインをつくりあげたのである。
このとき、宮川は米国にも赴いた。そこで、ボーイング流の仕事の手法を会得する。特に「会議の原則」があり、それには「『意見を批判せよ。人を攻撃してはいけない』などと書かれていました」と、宮川は振り返る。
若いころ、ボーイング流の仕事法を学んだ宮川常務執行役員は、MRJ開発にそのときの経験を生かそうとしている
会議は頻繁に開かれたが、開始時間には全員が必ず揃っていた。始まると徹底した討論が繰り広げられる。だが、確かに個人攻撃はなかった。プロジェクトマネージャーが出席し、部門を横断して大きな決定を行う会議(プロマネ会議)から、部門ごとの小さな会議まで、喧々諤々、みんなが意見を出し合っていた。
「なるほどなぁ」と、若い宮川は素直に感じたが、MRJプロジェクトマネージャーになったいま、「会議の原則」を取り入れている。コ・ロケートの場でだ。複合材の胴体への採用見送りのときも、反対論は多かった。だが、新しい方向へとまとまっていった。
ちなみに、7J7の開発当事、ボーイング社のプロジェクトマネージャーであり宮川のボスだったのは、アラン・ムラーリー。その後、フォード・モーターにCEO(経営最高責任者)兼社長で引き抜かれ、現在はフォードの経営再建に取り組んでいる。
一方、エアバス「A300」の対抗機になるはずだった7J7は、エンジンに問題を抱えていたため1987年に開発を中止してしまう。だが、三菱重工がボーイング社との共同事業を拡大させていく素地となったプロジェクトであり、宮川たちの技術的成果は777に導入されていく。
「ですから、民間航空機での私の成功体験は、やや屈折しているんです」と宮川は笑う。
インテグレーターとしての素養
西岡は言う。
「旅客機は型式認証をするのはFAA(米連邦航空局)だが、実際に使うのはエアライン(航空会社)。型式認証では安全性能について徹底して審査され、一方、お客様は経済性や快適性をはじめ、さまざまな要求をしてくる。この点、認証する機関と利用者が同じである防衛省向けは、ある意味、楽な事業なのです」
宮川は「戦闘機の場合は先端技術へのチャレンジが大切。優秀な人材を数多く集めて、ひたすら高度な技術を追っていく。これに対し、MRJは違う。インテグレート(統合)できるセンスが、組織にも個人にも求められます」と打ち明ける。
MRJはリージョナルジェットに「快適さ」を提供。新型スリムシートの導入により、足下も広い。写真は2008年10月に横浜で開催された「国際航空宇宙展」で、報道陣に公開された実物大モックアップの機内
MRJは2007年10月に受注を開始。翌年3月には、全日空がローンチカスタマーとして25機を発注する。これを受けて、4月1日に三菱航空機が発足。西岡は同社会長(三菱重工では会長から相談役に)、戸田信雄が社長、宮川は常務執行役員プロジェクトマネージャーとなった。1年前にはわずか30人だったチームは、従業員数200人になり、2008年秋の時点では500人に増員されていった。
宮川は、まず、部門ごとにグループリーダーを指名していく。2008年秋の時点で、グループリーダーは10人ほど。ボーイングにならい、プロマネ会議を頻繁に開くが、10人のグループリーダーは全体を統括する機能を負っている。グループリーダー指名のポイントは、インテグレーター(統合者)としての素養があるかどうかだという。
デシジョンメイキングも、グループリーダーを中核に行われていく。宮川の考えも、グループリーダーを通して現場に浸透させていく。現場が混乱したときは、グループリーダーたちが収拾にあたるが、解決できないときには部長たちに上げ、それでも無理な場合は宮川に判断を仰ぐ仕組みである。
宮川は「私には、インテグレートするチカラ、まとめるチカラはあると思う。小学生時代、読書感想文を徹底して書かされたおかげかもしれない」と笑う。
人が育ち、技術が育つこと
MRJの主要なシステムパートナーは2008年2月に決定した。エンジン:プラット・アンド・ホイットニー(米)、電源、空調、補助動力、燃料タンク防爆、高揚力装置、防火、各システム:ハミルトン・サンドストランド(米)、降着システム:住友精密工業(日)、電子機器(アビオニクス)、飛行制御システム:ロックウェル・コリンズ(米)、油圧システム:パーカーエアロスペース(米)、飛行制御システム:ナブテスコ(日)(資料提供:三菱航空機)
一般に、技術系でも事務系でも、ビジネスマンのタイプとは、大きく次の4つがあると分析される。1.プロデューサー(実務家)、2.アントレプレナー(起業家)、3.アドミニストレーター(管理者)、4.インテグレーター(統合者)。これらすべての要素を兼ね備える完璧な人は、まずいない。たいていの人は、どこかが強く、弱い部分は必ずある。そして、4タイプのうち、インテグレーターは少ないと言われる。それだけに、まずは人物を見抜く力が、宮川には要求された。
グループリーダーを指名する一方で、技術目標や販売目標の達成をめざすリーダーも置いた。こちらは、プロデューサータイプが向く。
こうした組織化の目的は、2011年の初飛行、2013年には型式証明取得と引き渡し、と決まっているスケジュールに応えるため。さらに、エンジンはP&W社、油圧システムは米パーカーエアロスペース社、降着システムは住友精密工業などと、多くのサプライヤー(納入業者)を統合していかなければならないためだ。特に今回は、部品の6~7割は海外から調達していく。
組織がもつ統合力が、成否を決めていくのだ。
西岡は「いま(2008年秋)の段階では、受注がどうのという話は早い。世界金融危機の真っただ中にあるのだから厳しいのは当然。重要なことは、人が育ち、技術が育つこと。そして、その技術が日本の産業全体のレベルを押し上げていく。むしろ、官民が一体となるオールジャパンのバックアップ体制が必要です」と語る。
宮川は言う。
「とにかく塁に出たい。内野安打でも、ポテンヒットでも、敵失でもいい。まず塁に出て、次の人に繋げていきたい」
国産機をつくるという強い糸
10月に横浜で開催された国際航空宇宙展の会場内で開催された記念講演。国産旅客機開発への関心は高く、立ち見ばかりでなく入りきれない人も出た
わが国は終戦まで、ゼロ戦や隼など、軍用機を中心に年間2万5000機を生産した実績を持つ。しかし、敗戦から7年間は航空機の生産を禁止される。その後、1962年に官民一体でプロペラ旅客機「YS-11」を開発。だが、大きな赤字を抱え、1973年に生産を中止した。
西岡は東大航空学科時代、ゼロ戦の開発者で三菱重工の技術者だった堀越二郎の講義を受講し、堀越に勧められて三菱重工に入社した。そして入社2年目から、YS-11開発に従事した。その体験も踏まえ、「YS-11が失敗したのは、責任の所在があいまいだったから。国を中心に多くのメーカーが仲よくやる手法は、通用しなかった。MRJはウチがやります」と表情を引き締める。YS-11では飛行機づくりの手法も戦前とは変わっていた。堀越のような一人の天才技術者が職人技ですべてを担っていた戦前と違い、分業体制が導入され、ものづくりはガラッと変わった。
その後、西岡は、三菱重工が独自開発するターボプロップ機の「MU2」、ビジネスジェットの「MU300」を手掛ける。特に1981年にFAAの型式認証を取得したMU300は米市場での技術的評価は高かった。しかし、米国経済は冷え込んでしまっていて、1988年に三菱重工は事業を売却して撤退してしまう。累計生産は101機だった。その後、米国経済に好景気が到来。同機は現在までに約1000機も売れ、引き受けた米ビーチ社に利益をもたらしているという。
西岡喬三菱航空機会長(三菱重工業相談役)。1936年生まれ。香川県出身。1959年東京大学工学部航空学科を卒業して、新三菱重工業(現在の三菱重工業)に入社。「YS-11」、「MU300」などの開発に従事。設計、サービス、営業と、民間航空機の幅広い経験を持つ。名古屋航空宇宙システム製作所所長などを経て、経営が厳しかった1999年に社長就任。2003年に会長、2008年から現職。他に、三菱自動車工業会長なども兼務している。趣味は天体観測。本当は天文学者になろうとも考えていた。東大航空学科出身で、ゼロ戦を開発した堀越二郎氏の勧めもあり三菱重工へ。父親も、清水トンネルなどを手掛けた技術者。「日本は、技術立国でなければならない」と話す
西岡は研究畑を振り出しに、サービスや構造設計、全体設計、果ては営業からMU300の幕引きまで何でもやってきた。“道一筋”の技術者が多いなかでは珍しい経歴だが、「そのように育てられたのです。むしろいま、MU300を経験した人、航空機事業を語れる人間がいないのですよ。悔しさはあった。その点も含めて、航空機ビジネスについて、私は若い技術者たちに伝えなければならない」と話す。
宮川は「MU300をやりたくて入社した」と言う。
ゼロ戦からMRJまで、技術者たちは世代を超えて、細いながらも、国産機をつくるという強い糸でつながっている。
ロッキード、ダグラス、サーブ、日本航空機製造(YS-11の製造会社。1983年に解散)……。民間旅客機の歴史とは、敗者の屍が累々と横たわる歴史でもある。かつての名門で現在も名を残すのはボーイングとエアバスの2社に過ぎない。
2001年9月11日、米国同時多発テロが発生し、航空不況が到来。世界の航空会社は100席未満のリージョナルジェットを求め、カナダのボンバルディアとブラジルのエンブライエルが表舞台に立ち、脚光を浴び始めた。両社は国家からバックアップを受けているものの、燃費性能や環境性能は十分ではない。ここにMRJの活路がある。
敗者に溢れた巨大産業にMRJは入っていく。
「勝つために」(宮川)
オールジャパン体制の基礎
「40年ですか……」
「そうです、40年後です。航空機事業が主力産業に成長するのは。しかし奥田さん、考えてみてください。40年前、すなわち昭和40年代前半に、日本の自動車産業が、米国や欧州に工場進出するなど、誰が予想したでしょうか。いまや、中国やインド、ロシアにも出ていて、世界中に自動車を売っているじゃないですか」
「うーん……」
「これから生まれてくる子どもたちが、40歳の働き盛りになったときに、一流の技術立国として日本は輝いていなければならない。そのための基盤をつくるのは、われわれの責務なのです」
西岡喬は、トヨタ自動車の奥田碩相談役(元社長・会長)にこう話し、三菱航空機への出資を要請した。西岡が日本経済団体連合会(経団連)副会長に就任した2003年5月、会長を務めていたのは奥田。以来、2006年5月に奥田が会長を退くまで、二人は経団連会長と副会長の関係だった。
度重なる不祥事で経営が揺らいだ三菱自動車の再建問題でも、西岡は奥田に幾度となく相談をしていた。強い信頼関係があった。
奥田は西岡の要請に応える。2007年4月に三菱重工の全額出資で設立した三菱航空機は、同年5月30日、第三者割当増資を実施し、トヨタ自動車や三菱商事に新株を割り当てると発表した。
資本準備金を含めて設立時30億円だった資本金は、資本準備金と合わせて700億円になる。2008年秋の時点で、出資比率は、三菱重工が67.5%、トヨタと三菱商事が各10%。このほか住友商事や三井物産、東京海上日動火災保険、日本政策投資銀行が1~5%を出資している。
そもそも、三菱重工とは別に三菱航空機を設立したのは外部から資金を集めるためだったが、トヨタの出資により「オールジャパン体制」の基礎は出来上がった。三菱航空機社長の戸田信雄は「トヨタさんは、ものづくりのエース。MRJをつくっていくなかで多くを学びたい」と話す。
とはいえ、西岡の出資のお願いが、すべての会社に響いたわけではない。「40年は長すぎます。当社には、3年で単年度黒字が見込めない事業はやらないという社内ルールがあるのです。申し訳ないですが、お力にはなれません」といった答えが返ってくることも、少なくない。
機械金属産業が集積する地域などは、MRJプロジェクトを歓迎してくれている。将来の受注につながるからだ。ところが、出資となると手のひらを返す。地域の経済団体幹部は「何しろいまは、景気が悪くなりましたから……」とやんわりと断ってくるそうだ。
環境性と経済性の使い分け
かつて、ボーイングとエアバスは国家補助をバックに激しい開発競争を展開した。この結果、「旅客機開発における国の援助額は、開発費の30%以内」と国際的に決まってしまった。米国と欧州以外では、開発費用が膨大な大型旅客機への参入は、事実上不可能となった。
リージョナルジェットのMRJも「30%枠」で開発していかなければならない。
民間からの資金導入は必須であり、西岡はいまも行脚を続けている。だが、こんな風にも言う。「航空機事業は、なくなることはない。なぜなら、大陸間を短時間に移動する手段は飛行機以外にないのですから」。
2007年10月にMRJの受注を開始してから、宮川淳一は営業で世界中を飛び回っている。
「三菱は自動車会社だろう。ラリーで有名だ」と言われることもあれば、中東のエアラインでは「エアコンやテレビの会社が、飛行機に進出したのか」と聞かれたこともある。
宮川常務執行役員は、東大で今秋行われたシンポジウムで、MRJの新規受注に関し触れ、新たに5社程度と「つめの段階にある」と明かした
そんなとき、宮川は、いちいち反論しない。相手の想像に任せたまま、本題に入っていく。何度も面談して、受注のメドが立っていけば、そのときに誤解を解けばいいだけだから。
MRJは環境性能が最大の“売り”だが、営業を繰り返すうち、相手によって関心事が違うこともわかってきた。欧州のエアラインは、みな環境性能に興味を持つ。航空機への環境規制が強化されていくという理由だけではない。会社や個人がもっている環境への意識が、根本的に高いためだ。
一方、米国のエアラインは環境への関心は、概して低い。そこで、低燃費による経済性で攻めていく。「現在、就航しているリージョナルジェットと比較して、最大で30%、燃費がいいのです」と。もっとも、燃費性能の高さは、経済性ばかりでなく、環境保全にも結びついていく。
「MRJは、オールジャパンで取り組んでいるのですよ」と宮川は営業先で必ず話している。
大きな過ちを起こさないために
2008年7月30日。三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所内の講堂。若手技術者を中心に、150人の三菱航空機社員が集められた。彼らを前に、西岡は「MRJプロジェクトの挑戦」と題する講義を行った。
資金集めに奔走する西岡喬三菱航空機会長(三菱重工相談役)。「MRJにおけるものづくりは、米国的な市場主義をとらない。40年先を見据える」「原子力発電、ロケット、そして飛行機をつくれない国は、一流国とは言えない」と語る
自身の経歴に始まり、プロジェクトの意義、民間機ビジネスの特殊性、過去の反省と重要施策、そして行動指針。「MRJは他のプロジェクトとは異質である」としたうえで、
積極性
情熱
果敢
柔軟性としたたかさ
の4つの要素を社員に求めた。ある種の“戦陣訓”である。
西岡は、自分の思いを若い社員たちにぶつけた。
「(ジェットエンジンの)MRJは、三菱にとっても国にとっても、最初で最後の挑戦」
「成功は必須であり、失敗すれば(三菱)重工にも致命傷を与える」
「押しつけるのではなく、若い諸君が夢を実現させる機会である」
「誰も成功を確信できない。しかも、開発完遂後、合否判定には10年以上かかる。茨の道であり、世界に通用する航空機事業として次世代に引き継がなければならない」
西岡には、過去の航空機開発で悔しさも残る。YS-11は責任部門と実施部門が分かれていたため、MU300は市場の変化への対応不足から、いずれも「採算悪化で事業中止に追い込まれた」と指摘。これらの失敗から「大きな過ちを繰り返す土壌が、われわれにあることを忘れてはいけない」「自分たちに実力があると思ったら大間違いだ」と訴えた。そして「二者択一になったら、難しい道に挑戦せよ」と話した。
セブン-イレブンをめざす
大型液晶ディスプレイ(36×28cm)を4面装備したフライトデッキ。状況認知性を高めてパイロットの負担を低減させている(資料提供:三菱航空機)
世界金融危機の影響も受け、米国製造業の凋落は著しい。経営が事実上破たんしているゼネラル・モーターズ(GM)をはじめとする自動車ビッグスリーは、その象徴だろう。米ゼネラル・エレクトリック(GE)やボーイングなど、強みを発揮する製造大手にしても、ライセンス生産を拡大し、日本企業などへの依存度を強めている。
原因の一つは、行きすぎた市場主義。単年度、さらには四半期という短期間で利益を出して、株主を最大化していくが、赤字に陥れば、部門や会社までもM&A(企業の合併・買収)で売却してしまう。こうしたやり方は、「長期の積み重ねが必要な技術開発には向かない。今のままなら、米国のものづくりは疲弊していくだけ」と指摘する財界人はいる。
西岡は言う。
「米国的な市場主義とは一線を画して、MRJに取り組んでいる。世代を超えた挑戦です」
宮川も「航空機は100年事業。若い人にぜひ入ってほしい」と10月にシンポジウムを行った東大で学生に呼びかけた。
民間からの資金導入が厳しさを増しているため、三菱重工としてMRJプロジェクトを支えていかなければならない。西岡は「心配はしていないが、(MRJ)撤退という選択肢はもっている。経営だから。MRJのために、三菱重工を潰すわけにはいかない」とも話す。しかし、その決断が下されれば、わが国の旅客機ビジネスは再起できない痛手を負う。
従来通り、ボーイングの下請けとしてやっていれば、三菱重工の受注量が増えていくのはわかっていた。収益を得ていくのには安全・確実な選択だった。
だが、敢えて難しい道を選んだ。
戸田社長は言う。
「棟梁仕事をやらなければならないのですよ。下請けのままでは、航空機ビジネスを本当に伸ばすことはできない。指示を受ける大工ではなく、決定して、まとめ上げる棟梁にならなければ意味はない。日本の航空機が生き残るために、避けて通れない道なのです。国家として、わが国の産業全体の将来に向けて、私たちはやり抜くしかないのです」
宮川は最近、部下によく言う。
「セブン-イレブンになろうぜ」と。
「それって僕たちに1日16時間働けって意味ですか」
「違う。イトーヨーカ堂からブランチアウトしたセブン-イレブンは、親会社だったヨーカ堂を超えただろう。俺たちもいつの日か、ああなるんだよ」
環境性能が高いMRJは、新しい日本型ものづくりの挑戦でもある。環境などの技術面だけではなく、今まで欠如していた統合力をもつ人づくり、組織づくりという要素も含まれる。産官に限らず、学をも巻き込む、国家プロジェクトといっても過言ではない。
「MRJは、今は紙飛行機。2011年に初飛行された後、一気に行きますよ」と宮川は話す。現場で困難への挑戦を繰り返す男たちの胸は今日も熱い。
2011年、もうすぐ、楽しみですね!!
三菱航空機「MRJ」世界市場攻略 半世紀ぶりの国産旅客機開発
2008年10月30日日経BP
「ミスター戦闘機」の異動
「な、なんで私なのですか!」
宮川淳一は、あまりの驚きに思わず声を発していた。
2007年2月のある日。三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所。副所長(当時)は、防衛省向けの航空機技術部長だった宮川を呼ぶと、「お前、4月からMジェットになったぞ」と、唐突に内示したのだ。「Mジェット」とは、開発を進めている小型ジェット旅客機の呼称。現在は正式に、「MRJ(三菱リージョナルジェット)」となった。
三菱航空機の宮川淳一常務執行役員プロジェクトマネージャー。東京大学工学部航空学科を卒業して1978年に入社。防衛省向けの戦闘機開発畑が長かった。2007年4月に旅客機プロジェクトに異動。2008年4月、三菱航空機の設立に伴い現職に就く。東京生まれの東京育ち。子供の頃は、第二次世界大戦中の戦闘機のプラモデルをよくつくった。「ゼロ戦」や「月光」という三菱が手掛けた海軍機ばかりでなく、「飛燕(ひえん=三式戦闘機)」など中島飛行機の陸軍機にも興味があったという
戦闘機開発から民間旅客機の開発へ。現在流れている主力事業から、将来に向けた未知の事業へ。サラリーマンなら、誰でも、予期せぬ異動を経験することはある。しかし、宮川はこのときを「腰が抜けるほど青天の霹靂だった」と振り返る。なぜなら、あまりにも異例の人事異動だったからだ。
防衛関連ビジネスは、国の中期防衛力整備計画に基づいて決定されていく。中期防は5年スパン(現在は2005年度-2009年度)。それに合わせて、三菱重工も事業計画を立てていた。
1978年に東京大学工学部航空学科を卒業して入社した宮川は防衛畑が長い。航空機技術部長に昇格したのは、現在の中期防が始まった2005年。それ以前は、防衛省のステルス実証機の主任研究者であり、社内では、“戦闘機畑のエース”と目されていた。内示を受けたときも、2005年度-2009年度の中期防の期間中に予定されている、いわゆるFX(次期戦闘機導入計画)に対応する社内プロジェクトの責任者も務めていた。
「何で自分なのか……。俺が抜けて、ディフェンス(防衛省向け)は、やっていけるのか」
宮川は混惑せざるを得なかった。だが、サラリーマンは辞令には抗えない。
「YS-11」以来、半世紀ぶりの国産機開発
やがて、宮川は大きな不安に襲われる。4月以降、何から、どう始めたらいいのか、皆目見当がつかなかったからだ。
プロジェクトマネージャーとして赴任する宮川に課せられた最大のミッションは、国産旅客機という新たな事業の成功である。具体的には、成功させるための事業計画を打ち立てることだった。
「プロジェクトが動いていたのは、もちろん知っていました。メンバーに選ばれていた後輩の技術的な相談に乗ったりしていましたから。しかし、まさか、自分がやることになるとは……。予想だにしなかった。とんでもないことになったという不安でいっぱいでした」
航空機技術部長だったころ、宮川は250人もの部下を預かっていた。これに対し、このときMRJは、まだ部にも昇格していないチーム。メンバーは設計技術者を中心に30人ほど。
「こんな少ない人数で、何をやれと言うんだ」
こう考えると、不安はさらに増幅していく。
MRJプロジェクトはプロペラ旅客機の「YS-11」以来、半世紀ぶりとなる国産旅客機開発。座席数70~90の中距離用で、1日に何度も離発着することを前提とする。2011年の初飛行(ロールアウト)、2013年の就航をめざしている。
もともとは、独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が2003年に公募した「環境適応型高性能小型旅客機研究開発」(民間航空機基盤技術プログラム)に、三菱重工が中核として参画したのがMRJの始まり。同プログラムの期間は2003年~2013年の11年間。富士重工業と日本航空機開発協会も参加し、富士重は主翼開発を担当する計画で始まった。
「プロダクトサポート」からの切り替え
桜が散った4月となり、宮川に一本の電話が入る。果たして相手は、東大航空学科の同期で航空会社に勤務する友人だった。
「(民間旅客機を)やるんだってなあ。どれだけ大変な仕事か教えてやる。みんなを集めるから、すぐに東京に出てこい」
大衆的な居酒屋で、友人たちは待っていた。みな、日本航空と全日空の社員ばかり。運航や整備部門に従事する技術者たちだった。上京した宮川は、旧交を温める余裕もなく、ひたすら酒を胃袋へと流し込む。
「旅客機は、売った後が大変なんだよ」。赤ら顔ながら冷静な目で、一人が言う。新型機を運航させるためには、新型機に応じた整備設備が必要になる。パイロットはもちろん、整備員や客室乗務員も新型機用に教育を施さなければならない。
「教育までフォローできるのか?」
「そもそも、(三菱)重工は飛行機を営業した経験がないだろう。YS-11のときとは状況が違うぞ」
「そうそう、つくれば必ず売れるという保証はない」
「われわれは1機だけ買うわけにはいかない。大きな投資になる……」
「(座席数が60~100席の)リージョナルジェットは、これから競争が激しくなる。ロシアや中国も入ってくるんだ」
「まだ間に合うだろう。国産機なんてあきらめて、国やボーイングの受注だけやっていたらどうだ。メーカーとして参入するのは、大変だぞ」
宮川は友人たちの言葉を黙って聴いていたが、心の内側では思っていた。「受注メーカーのままなら、短期的なリスクは少ない。しかし、今は三菱が、いや日本の航空機産業が、完成品メーカーとして参入できる最後のチャンス。受注メーカーでは、ものづくりの自由度は限定されるうえ、何より発注を切られたら終わってしまう。自動車に続く、日本の大きな産業としてのジェット旅客機を、俺たちは立ち上げなければならない。もちろん、参入は大変なことであり、社内に難問は山積している。俺は、変えなければならない」。優良な下請けから挑戦する元請けへ、企業体質を変える必要に宮川は迫られた。
名古屋に帰った宮川は、ある行動に出る。それまで三菱重工では、納入後にアフターフォローする部署を「プロダクトサポート」と呼んでいた。MRJチームでは、これを「カスタマーサポート」と呼ぶことに、すぐに変更させた。その後、チームには試験部門の人員などが増員されていくが、この年(2007年)の秋までには、「購買部」も「SCM(サプライチェーンマネジメント)部」と名称を変更させてしまう。一種の意識改革である。
三菱重工が経験しなかった領域
いま、宮川は言う。
「友人たちと話していて、“プロダクトサポート”という意識はとんでもないことだと気づきました。サポートするのはお客様。発想をガラリと変える必要があった。購買部の名称変更も同じです。航空機は60万点から70万点の部品で構成されます。膨大な部品を統合するのがメーカーの役割。だから、隠然とした力を持つ購買部としてふんぞり返っていたら、サプライヤー(納入業者)の協力を得られない。新規ビジネスで最も大切なことは、チーム内の組織化、そしてメンバーの意識を新しいビジネスに合ったものに変えることです」
距離を置いていたものの、航空機技術部長のときからMRJプロジェクトを見ていた宮川は、「これまで経験のない領域がある」ことを感じ取っていた。その一番は営業である。三菱重工にも、営業部もあれば、営業マンも、もちろんいる。しかし、問題はその中身だ。
「ウチの営業マンは頭を下げたことがない。“前垂れ精神“のかけらもないのです」
防衛省やNEDOといった国家組織、それにボーイング社やエアバス社など取引先が限られているし、技術が評価されれば仕事を出してくれる。営業マンは自社の都合に合わせて、発注先と調整すれば仕事は成立した。
しかし、旅客機の営業はそうはいかない。買う気のない相手にも自社商品を売り込まなければならない。しかも、三菱重工は新参者でありエアライン(航空会社)は、三菱重工とMRJについてほとんど知らないのだ。
国産旅客機開発は、電機、自動車など国内のさまざまな産業への訴求効果も期待される
友人たちが指摘したように、リージョナルジェット市場は今後競争が激化する。すでに、カナダのボンバルディア社とブラジルのエンブラエル社が高いシェアをもっていて、ここに中国とロシアの企業が新規参入してくる。
MRJの開発費用はトータルで1500億~1800億円と見込まれており、価格は1機30億~40億円の予定。エアラインは1機だけを購入することはなく、10機あるいは20機とユニットで購入する。さらに、訓練設備や地上支援機材も購入しなければならず、1回あたりの取り引きは少なくても1000億円に膨れあがる。
しかも、安売り航空券や燃料高、競争激化により、エアラインの経営はどこも厳しい。そうした相手に、頭を下げない営業スタイルが通用するはずもない。
「環境」を軸にするコンセプトの誕生
組織改革とメンバーの意識改革は、プロジェクトリーダーとして取り組まなければならない最優先事項だったが、もう一つ、速やかにつくり上げなければならないことがあった。
それは、MRJそのものの商品コンセプトだ。宮川は4月に異動になったが、6月にはパリ航空ショーを控えていた。パリでは実物大の客室モックアップを公開する予定だったが、プレゼンの際、コンセプトの説明は必須だった。
4月に宮川が最初に見せられたのは、一枚のコンセプト図。縦軸に「オペレーティングコスト(運航経済性)」、横軸に「キャビンコンフォート(客室快適性)」とあった。この座標図には、三つのマークが記されていた。一つはボンバルディアの「CRJ」。快適性は低いものの経済性がそこそこ高い位置に。次はエンブラエルの「EMB」で、経済性は低いが快適性はそれなりに高いポイントに。そして、MRJは両方とも高いところに、位置づけられていた。
「これじゃダメだ! ライバル機との相対的な価値を訴えても意味はない。中国とロシアが入ってきたら、あるいは競合他社が新型機を投入してきたら再びプロットするのか。そうではなく、MRJの絶対的な価値、すなわち“売り”を訴えなければ」
考え抜いた宮川は、パリ航空ショーの直前、MRJの三つのコンセプトを考え出す。
環境:優れた燃費と低騒音
乗客:快適な客室
エアライン:優れた経済性
この時点で、MRJのコンセプトに初めて「地球環境」が入った。しかも、中心に位置づけられたのだ。
「欧州の人たち、特にドイツの人と話していて、これからは環境の時代であると強く感じた」と、宮川は話す。現実に、航空機に対する環境規制は、これから世界的に高まっていく。
「地球環境」「乗客」「エアライン」と三者を“ステイクホルダー(利害関係者)”とするコンセプトは出来上がった。
ひたすら読書感想文を書いた小学生時代
三菱航空機の戸田信雄社長。1945年生まれ。東京大学工学部航空学科を卒業し1969年に三菱重工業入社、名古屋航空宇宙システム製作所所長などを経て2008年4月から現職
ところで、技術者の多くは、論理的な思考や理解力がある一方で、技術内容を説明することが苦手だったり、コンセプトメイクは上手くなかったりすると言われる。
1954年生まれの宮川は、東京・世田谷生まれの世田谷育ち。区立北沢小学校4年生から6年生の3年間、担任だったK先生から大きな影響を受けた。この3年間、宮川は国語の教科書を開いた記憶がない。教科書による授業ではなく、ひたすら本を読まされ、読書感想文を書かされたというのである。
児童向けの偉人伝や歴史書、科学本、宮沢賢治や漱石と、広いジャンルで何でも読まされた。図書館や書店で本を求め、読み終えると、鉛筆を持ち原稿用紙に向かう。いまの大学生のように、ネット検索からコピー・アンド・ペーストしてレポートをつくるのとは訳が違う。小学生が手書きで文章をまとめるのである。
偏差値を上げることを最大の目的とする“お受験”の時代の今では、きっとPTAからクレームの一つも来ただろう。だが、1960年代のおおらかな時代だった。
「小学校時代の先生のやり方が、実は大人になってから本当に役に立っているのです。自分で考える力、思索する力を育んでくれたのですから」
パリ航空ショーの直前、自ら考えた、環境を中心としたコンセプトを、宮川はプロジェクトの責任者である名古屋航空機製作所長の戸田信雄(当時、現在は三菱航空機社長)に、気持ちのたかぶりを抑えながら説明した。
黙って聴いていた戸田は、宮川の説明が終わると一言だけ発した。
「うん、わかった。それで行こう」
宮川は内心「クリエイティブなアイデアへの評価を、もっとしてくれてもいいじゃないか」と思ったが、言葉にはしなかった。戸田は東大航空学科の先輩だが、感情を表に出さない性格だということを宮川は知っていた。江戸っ子の宮川に対し、戸田は厳しい気候に晒される北陸地方の出身だった。
背中を押した2つの技術革新
横浜で10月に開かれた「2008年国際航空宇宙展」を動画で紹介。「YS-11」以来の国産旅客機開発の話題もあり、大きな賑わいを見せた(画像をクリックすると国際航空宇宙展の動画レポートをご覧いただけます)
「時は到来した。ここを逸すれば、チャンスは二度とない。(三菱)重工にも、そして日本にとっても……」
経営者は認識し、速やかに決断した。前夜、都内にある自宅の天体望遠鏡から彗星を確認していた。暗く澄み切った空の向こう側にある星空の煌めきと同じくらいの重さが、彼の決断には、込められていた。
2005年のカレンダーも残りわずかなある夜。三菱重工業会長(当時)の西岡喬は、この日までひたすら待ち続けていた。10年などという歳月ではない。四半世紀、いや「YS-11」から数えるなら、ほぼ半世紀に達する。
東京大学航空学科を卒業し1959年に入社して以来、経営再建に取り組んだ社長時代(1999年~2003年)も含めて、西岡はひたすら待っていた。チャンスが訪れるのを。
「自前の航空機事業を立ち上げる」
これは、西岡ばかりではなく、歴代の三菱重工トップの変わらぬ思いだったろう。ただし、西岡はいま、次のように話す。
「(民間航空機に参入することは)“思い”などという生やさしいものではない。産業立国としてわが国が生き残るため、やらなければならないのが国産航空機事業なのです。航空機には先端技術が採用される。しかも、他の産業への波及効果は絶大。一流の技術立国として、日本が将来も輝き続けられるかどうか、生きるか死ぬかがMRJにかかっているのですよ」
ではなぜ、この時期に決断したのか。
「技術革新が二つあったこと。さらに、原油価格が上昇を続けていた。ここがチャンスと捉えた」と、西岡は話す。
石油価格上昇。「燃費が決め手に」
二つの技術革新とは、機体の軽量化を実現する炭素繊維複合材(CFRP)、および新型エンジンである。両技術により燃費を2割から3割向上できる見通しが立っていた。
このうちCFRPは、三菱重工が炭素繊維メーカーの東レと組んで加工方法を共同開発し、米ボーイング社が開発を進める次世代中型旅客機「787」の主翼への採用が決まっていた(この時点で、三菱重工は主翼製作のための工場投資に着手していた)。
米P&W社が新開発した「GTFエンジン」。燃費性能が高く騒音が少ない環境対応型だ。P&W社はこのエンジンを2008年7月に初飛行させ、40時間以上の飛行試験を成功させている(画像提供:三菱航空機)
エンジンは、米プラット・アンド・ホイットニー(P&W)社が約20年間にわたって開発を進めてきたGTF(ギアド・ターボ・ファン)エンジン。エンジンはファンを大きくするほど燃費性能は向上するが、一方で騒音も大きくなってしまうため、ファンの大型化には限界があった。P&W社が開発中のGTFエンジンは、圧縮機・タービンの主軸とファンの間にギアボックス(変速機構)を介在させることで、ファンの回転数を主軸と独立させて変えられるようにした。これにより、燃費向上と騒音低減を果たし、高い環境性能を実現させたことが特徴だ。MRJに初めて搭載される。
一方、1990年代を通して1バレル(=約159リットル)10~20ドル台と安値で安定していた原油価格は、2004年には30ドル台後半に、そして2005年10月には1バレル60ドル近くまで上昇する(その後、2008年夏には135ドルまで高騰。秋になって急速に値を下げた)。
「原油価格がじりじりと上昇を続けるなかで、燃費性能に優れた旅客機、すなわち、環境性能が高いリージョナルジェットは、世界の航空会社から求められていくに違いない」
三菱重工が中核となって進めているNEDO(独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)の民間航空機基盤技術プログラム(前編参照)が進行するなか、西岡は、こう判断していた。
問題は、MRJのプロジェクトリーダーに誰を起用するか。西岡の脳裏には、2人の男の顔が浮かんでいた。
10年に1人の逸材
三菱航空機の首脳。中央が戸田信雄社長、左が宮川常務執行役員。戸田氏は1954年生まれ。東京大学工学部航空学科を卒業し1969年に三菱重工業に入社、名古屋航空宇宙システム製作所所長などを経て2008年4月から現職
日本の製造業、そして日本の製造業を基盤で支える三菱重工の将来を託すビッグプロジェクトだった。チャンスは一度。失敗は許されない。
しかも、航空機ビジネスは超長期に及ぶ。最低でも10年、場合によっては40年、50年のロングランだ。現に、好調を持続する欧州エアバス社でさえ、いまだに3兆円もの借金を抱えている。ボーイング社にしても、747でさえ、採算ラインに乗ったのは最近である。
「(ボーイング)787は、何としても成功させなければならない。787あってのMRJだから……」
こう考えたとき、候補者は一人に絞られた。
宮川淳一が「青天の霹靂」と感じた異例の人事異動は、内示される1年以上前に固まっていたのである。
西岡は言う。
「ビッグプロジェクトを進めるときに最も大切なのはリーダー。人です。特に最初が肝要。ところが、プロジェクトを任せられる人間は限られるのです。(三菱)重工には毎年何百人と優秀な社員が入社するけれど、プロジェクトリーダーになり得る人物は、10年に一人くらいしかいない。技術だけわかっていてもダメ。調達から開発、生産、サービス、資金、何より営業まで監理できる人間でなければ、とてもでないがやり抜けない。忍耐強さ、積極性、柔軟性、判断力、統率力、まとめ上げる力、情熱……。その人がもっている素質が一番大切です」
西岡は、自分より18歳も若い宮川に、民間航空機という“夢”を託した。駅伝競技で、たすきを後続ランナーに手渡すように。
複合材使用の功罪
2007年4月にMRJのプロジェクトマネージャーに就いた宮川は、商品コンセプトの中心に「地球環境」を据えるなど、矢継ぎ早にアクションを起こしていた。
5月に入り、6月のパリ航空ショーを前に、特徴の一つである炭素繊維複合材(CFRP)の使用をめぐり、プロジェクト内で議論が起こる。
航空機の機体材料には、アルミを中心とした合金(ジュラルミン)を使うのが一般的。しかし、MRJはリージョナルジェットとして初めて、CFRPの採用が決まっていた。
三菱重工はCFRPを、ライセンス生産している戦闘機に採用していたほか、787では主翼をはじめ機体材料全体の約50%で使用することをボーイング社との間で決めていた。こうした実績から、MRJでも大幅に取り入れて一段の機体軽量化を図って、環境性能をアップさせる計画だった。が、「胴体にCFRPを採用するのは、リスクが大きい」という意見が出る。
MRJは、YS11以来、ほぼ半世紀ぶりとなる国産旅客機。日本の航空機業界、三菱重工にとっても悲願である。座席数は70~90席。短距離、中距離を一日に何度か運航する。競合する同型機に比べ、最大で30%も燃費効率で上回る環境性能が売り。環境、快適性、経済性をコンセプトに、順調にいけば2011年初飛行、2012年の運航となる
議論の末、胴体での使用を取りやめアルミ合金に決める。主翼や尾翼などCFRP比率は30%となった。ユーザーである航空会社との話し合いから導き出された結論だった。
MRJは機体そのものは小さいが、人に合わせるため、窓や扉のサイズは「777」などの大きな機体とあまり変わらない。複合材を使えなくはないが、窓や扉用に穴を開けると補強が必要となり、複合材を使うメリットが小さくなる。
また、中近距離用のMRJは、1日に10回程度の離発着を行うこともありうる。国際線に就航する大型機が1日1~2回なのとは違い、頻繁に離着陸を繰り返すぶん、空港で荷物を運ぶローダーや牽引車、タラップ車などと接触するリスクが高まるのである。しかも、大型機と違い、背が低いために、ぶつかりやすい。複合材は補修しにくく、修理の手間とコスト面も考えて、CFRPの胴体への使用を見送った。
それでも、現在の代表的なリージョナルジェットと比べると「26%燃費効率が高い。26%の半分はエンジン、残りはCFRPや機体設計によるもの」と宮川は話す。
ボーイング流の仕事術
「コ・ロケーションだ」
プロジェクトマネージャーに就いてから、宮川はメンバーを前に口癖のように言い続ける。「コ・ロケーション」、つまりは、同じ場所に集結することを指す。特に、少数でも、キーマンたちを最初から“コ・ロケート”させてきた。
優秀ではあるが個人プレーで仕事をしていた技術者たちを宮川は組織化していく。
20代のころ、宮川は米国スタンフォード大学に社費留学して、航空宇宙学のマスター(修士号)を取得。その後、1980年代には「7J7」(「よど号事件」で知られる727の後継機)で、ボーイング社との共同開発プロジェクトに参画する。空力設計技術者として、主翼の形状設計を担当。巡航速度に対応したハイスピードウイングデザインをつくりあげたのである。
このとき、宮川は米国にも赴いた。そこで、ボーイング流の仕事の手法を会得する。特に「会議の原則」があり、それには「『意見を批判せよ。人を攻撃してはいけない』などと書かれていました」と、宮川は振り返る。
若いころ、ボーイング流の仕事法を学んだ宮川常務執行役員は、MRJ開発にそのときの経験を生かそうとしている
会議は頻繁に開かれたが、開始時間には全員が必ず揃っていた。始まると徹底した討論が繰り広げられる。だが、確かに個人攻撃はなかった。プロジェクトマネージャーが出席し、部門を横断して大きな決定を行う会議(プロマネ会議)から、部門ごとの小さな会議まで、喧々諤々、みんなが意見を出し合っていた。
「なるほどなぁ」と、若い宮川は素直に感じたが、MRJプロジェクトマネージャーになったいま、「会議の原則」を取り入れている。コ・ロケートの場でだ。複合材の胴体への採用見送りのときも、反対論は多かった。だが、新しい方向へとまとまっていった。
ちなみに、7J7の開発当事、ボーイング社のプロジェクトマネージャーであり宮川のボスだったのは、アラン・ムラーリー。その後、フォード・モーターにCEO(経営最高責任者)兼社長で引き抜かれ、現在はフォードの経営再建に取り組んでいる。
一方、エアバス「A300」の対抗機になるはずだった7J7は、エンジンに問題を抱えていたため1987年に開発を中止してしまう。だが、三菱重工がボーイング社との共同事業を拡大させていく素地となったプロジェクトであり、宮川たちの技術的成果は777に導入されていく。
「ですから、民間航空機での私の成功体験は、やや屈折しているんです」と宮川は笑う。
インテグレーターとしての素養
西岡は言う。
「旅客機は型式認証をするのはFAA(米連邦航空局)だが、実際に使うのはエアライン(航空会社)。型式認証では安全性能について徹底して審査され、一方、お客様は経済性や快適性をはじめ、さまざまな要求をしてくる。この点、認証する機関と利用者が同じである防衛省向けは、ある意味、楽な事業なのです」
宮川は「戦闘機の場合は先端技術へのチャレンジが大切。優秀な人材を数多く集めて、ひたすら高度な技術を追っていく。これに対し、MRJは違う。インテグレート(統合)できるセンスが、組織にも個人にも求められます」と打ち明ける。
MRJはリージョナルジェットに「快適さ」を提供。新型スリムシートの導入により、足下も広い。写真は2008年10月に横浜で開催された「国際航空宇宙展」で、報道陣に公開された実物大モックアップの機内
MRJは2007年10月に受注を開始。翌年3月には、全日空がローンチカスタマーとして25機を発注する。これを受けて、4月1日に三菱航空機が発足。西岡は同社会長(三菱重工では会長から相談役に)、戸田信雄が社長、宮川は常務執行役員プロジェクトマネージャーとなった。1年前にはわずか30人だったチームは、従業員数200人になり、2008年秋の時点では500人に増員されていった。
宮川は、まず、部門ごとにグループリーダーを指名していく。2008年秋の時点で、グループリーダーは10人ほど。ボーイングにならい、プロマネ会議を頻繁に開くが、10人のグループリーダーは全体を統括する機能を負っている。グループリーダー指名のポイントは、インテグレーター(統合者)としての素養があるかどうかだという。
デシジョンメイキングも、グループリーダーを中核に行われていく。宮川の考えも、グループリーダーを通して現場に浸透させていく。現場が混乱したときは、グループリーダーたちが収拾にあたるが、解決できないときには部長たちに上げ、それでも無理な場合は宮川に判断を仰ぐ仕組みである。
宮川は「私には、インテグレートするチカラ、まとめるチカラはあると思う。小学生時代、読書感想文を徹底して書かされたおかげかもしれない」と笑う。
人が育ち、技術が育つこと
MRJの主要なシステムパートナーは2008年2月に決定した。エンジン:プラット・アンド・ホイットニー(米)、電源、空調、補助動力、燃料タンク防爆、高揚力装置、防火、各システム:ハミルトン・サンドストランド(米)、降着システム:住友精密工業(日)、電子機器(アビオニクス)、飛行制御システム:ロックウェル・コリンズ(米)、油圧システム:パーカーエアロスペース(米)、飛行制御システム:ナブテスコ(日)(資料提供:三菱航空機)
一般に、技術系でも事務系でも、ビジネスマンのタイプとは、大きく次の4つがあると分析される。1.プロデューサー(実務家)、2.アントレプレナー(起業家)、3.アドミニストレーター(管理者)、4.インテグレーター(統合者)。これらすべての要素を兼ね備える完璧な人は、まずいない。たいていの人は、どこかが強く、弱い部分は必ずある。そして、4タイプのうち、インテグレーターは少ないと言われる。それだけに、まずは人物を見抜く力が、宮川には要求された。
グループリーダーを指名する一方で、技術目標や販売目標の達成をめざすリーダーも置いた。こちらは、プロデューサータイプが向く。
こうした組織化の目的は、2011年の初飛行、2013年には型式証明取得と引き渡し、と決まっているスケジュールに応えるため。さらに、エンジンはP&W社、油圧システムは米パーカーエアロスペース社、降着システムは住友精密工業などと、多くのサプライヤー(納入業者)を統合していかなければならないためだ。特に今回は、部品の6~7割は海外から調達していく。
組織がもつ統合力が、成否を決めていくのだ。
西岡は「いま(2008年秋)の段階では、受注がどうのという話は早い。世界金融危機の真っただ中にあるのだから厳しいのは当然。重要なことは、人が育ち、技術が育つこと。そして、その技術が日本の産業全体のレベルを押し上げていく。むしろ、官民が一体となるオールジャパンのバックアップ体制が必要です」と語る。
宮川は言う。
「とにかく塁に出たい。内野安打でも、ポテンヒットでも、敵失でもいい。まず塁に出て、次の人に繋げていきたい」
国産機をつくるという強い糸
10月に横浜で開催された国際航空宇宙展の会場内で開催された記念講演。国産旅客機開発への関心は高く、立ち見ばかりでなく入りきれない人も出た
わが国は終戦まで、ゼロ戦や隼など、軍用機を中心に年間2万5000機を生産した実績を持つ。しかし、敗戦から7年間は航空機の生産を禁止される。その後、1962年に官民一体でプロペラ旅客機「YS-11」を開発。だが、大きな赤字を抱え、1973年に生産を中止した。
西岡は東大航空学科時代、ゼロ戦の開発者で三菱重工の技術者だった堀越二郎の講義を受講し、堀越に勧められて三菱重工に入社した。そして入社2年目から、YS-11開発に従事した。その体験も踏まえ、「YS-11が失敗したのは、責任の所在があいまいだったから。国を中心に多くのメーカーが仲よくやる手法は、通用しなかった。MRJはウチがやります」と表情を引き締める。YS-11では飛行機づくりの手法も戦前とは変わっていた。堀越のような一人の天才技術者が職人技ですべてを担っていた戦前と違い、分業体制が導入され、ものづくりはガラッと変わった。
その後、西岡は、三菱重工が独自開発するターボプロップ機の「MU2」、ビジネスジェットの「MU300」を手掛ける。特に1981年にFAAの型式認証を取得したMU300は米市場での技術的評価は高かった。しかし、米国経済は冷え込んでしまっていて、1988年に三菱重工は事業を売却して撤退してしまう。累計生産は101機だった。その後、米国経済に好景気が到来。同機は現在までに約1000機も売れ、引き受けた米ビーチ社に利益をもたらしているという。
西岡喬三菱航空機会長(三菱重工業相談役)。1936年生まれ。香川県出身。1959年東京大学工学部航空学科を卒業して、新三菱重工業(現在の三菱重工業)に入社。「YS-11」、「MU300」などの開発に従事。設計、サービス、営業と、民間航空機の幅広い経験を持つ。名古屋航空宇宙システム製作所所長などを経て、経営が厳しかった1999年に社長就任。2003年に会長、2008年から現職。他に、三菱自動車工業会長なども兼務している。趣味は天体観測。本当は天文学者になろうとも考えていた。東大航空学科出身で、ゼロ戦を開発した堀越二郎氏の勧めもあり三菱重工へ。父親も、清水トンネルなどを手掛けた技術者。「日本は、技術立国でなければならない」と話す
西岡は研究畑を振り出しに、サービスや構造設計、全体設計、果ては営業からMU300の幕引きまで何でもやってきた。“道一筋”の技術者が多いなかでは珍しい経歴だが、「そのように育てられたのです。むしろいま、MU300を経験した人、航空機事業を語れる人間がいないのですよ。悔しさはあった。その点も含めて、航空機ビジネスについて、私は若い技術者たちに伝えなければならない」と話す。
宮川は「MU300をやりたくて入社した」と言う。
ゼロ戦からMRJまで、技術者たちは世代を超えて、細いながらも、国産機をつくるという強い糸でつながっている。
ロッキード、ダグラス、サーブ、日本航空機製造(YS-11の製造会社。1983年に解散)……。民間旅客機の歴史とは、敗者の屍が累々と横たわる歴史でもある。かつての名門で現在も名を残すのはボーイングとエアバスの2社に過ぎない。
2001年9月11日、米国同時多発テロが発生し、航空不況が到来。世界の航空会社は100席未満のリージョナルジェットを求め、カナダのボンバルディアとブラジルのエンブライエルが表舞台に立ち、脚光を浴び始めた。両社は国家からバックアップを受けているものの、燃費性能や環境性能は十分ではない。ここにMRJの活路がある。
敗者に溢れた巨大産業にMRJは入っていく。
「勝つために」(宮川)
オールジャパン体制の基礎
「40年ですか……」
「そうです、40年後です。航空機事業が主力産業に成長するのは。しかし奥田さん、考えてみてください。40年前、すなわち昭和40年代前半に、日本の自動車産業が、米国や欧州に工場進出するなど、誰が予想したでしょうか。いまや、中国やインド、ロシアにも出ていて、世界中に自動車を売っているじゃないですか」
「うーん……」
「これから生まれてくる子どもたちが、40歳の働き盛りになったときに、一流の技術立国として日本は輝いていなければならない。そのための基盤をつくるのは、われわれの責務なのです」
西岡喬は、トヨタ自動車の奥田碩相談役(元社長・会長)にこう話し、三菱航空機への出資を要請した。西岡が日本経済団体連合会(経団連)副会長に就任した2003年5月、会長を務めていたのは奥田。以来、2006年5月に奥田が会長を退くまで、二人は経団連会長と副会長の関係だった。
度重なる不祥事で経営が揺らいだ三菱自動車の再建問題でも、西岡は奥田に幾度となく相談をしていた。強い信頼関係があった。
奥田は西岡の要請に応える。2007年4月に三菱重工の全額出資で設立した三菱航空機は、同年5月30日、第三者割当増資を実施し、トヨタ自動車や三菱商事に新株を割り当てると発表した。
資本準備金を含めて設立時30億円だった資本金は、資本準備金と合わせて700億円になる。2008年秋の時点で、出資比率は、三菱重工が67.5%、トヨタと三菱商事が各10%。このほか住友商事や三井物産、東京海上日動火災保険、日本政策投資銀行が1~5%を出資している。
そもそも、三菱重工とは別に三菱航空機を設立したのは外部から資金を集めるためだったが、トヨタの出資により「オールジャパン体制」の基礎は出来上がった。三菱航空機社長の戸田信雄は「トヨタさんは、ものづくりのエース。MRJをつくっていくなかで多くを学びたい」と話す。
とはいえ、西岡の出資のお願いが、すべての会社に響いたわけではない。「40年は長すぎます。当社には、3年で単年度黒字が見込めない事業はやらないという社内ルールがあるのです。申し訳ないですが、お力にはなれません」といった答えが返ってくることも、少なくない。
機械金属産業が集積する地域などは、MRJプロジェクトを歓迎してくれている。将来の受注につながるからだ。ところが、出資となると手のひらを返す。地域の経済団体幹部は「何しろいまは、景気が悪くなりましたから……」とやんわりと断ってくるそうだ。
環境性と経済性の使い分け
かつて、ボーイングとエアバスは国家補助をバックに激しい開発競争を展開した。この結果、「旅客機開発における国の援助額は、開発費の30%以内」と国際的に決まってしまった。米国と欧州以外では、開発費用が膨大な大型旅客機への参入は、事実上不可能となった。
リージョナルジェットのMRJも「30%枠」で開発していかなければならない。
民間からの資金導入は必須であり、西岡はいまも行脚を続けている。だが、こんな風にも言う。「航空機事業は、なくなることはない。なぜなら、大陸間を短時間に移動する手段は飛行機以外にないのですから」。
2007年10月にMRJの受注を開始してから、宮川淳一は営業で世界中を飛び回っている。
「三菱は自動車会社だろう。ラリーで有名だ」と言われることもあれば、中東のエアラインでは「エアコンやテレビの会社が、飛行機に進出したのか」と聞かれたこともある。
宮川常務執行役員は、東大で今秋行われたシンポジウムで、MRJの新規受注に関し触れ、新たに5社程度と「つめの段階にある」と明かした
そんなとき、宮川は、いちいち反論しない。相手の想像に任せたまま、本題に入っていく。何度も面談して、受注のメドが立っていけば、そのときに誤解を解けばいいだけだから。
MRJは環境性能が最大の“売り”だが、営業を繰り返すうち、相手によって関心事が違うこともわかってきた。欧州のエアラインは、みな環境性能に興味を持つ。航空機への環境規制が強化されていくという理由だけではない。会社や個人がもっている環境への意識が、根本的に高いためだ。
一方、米国のエアラインは環境への関心は、概して低い。そこで、低燃費による経済性で攻めていく。「現在、就航しているリージョナルジェットと比較して、最大で30%、燃費がいいのです」と。もっとも、燃費性能の高さは、経済性ばかりでなく、環境保全にも結びついていく。
「MRJは、オールジャパンで取り組んでいるのですよ」と宮川は営業先で必ず話している。
大きな過ちを起こさないために
2008年7月30日。三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所内の講堂。若手技術者を中心に、150人の三菱航空機社員が集められた。彼らを前に、西岡は「MRJプロジェクトの挑戦」と題する講義を行った。
資金集めに奔走する西岡喬三菱航空機会長(三菱重工相談役)。「MRJにおけるものづくりは、米国的な市場主義をとらない。40年先を見据える」「原子力発電、ロケット、そして飛行機をつくれない国は、一流国とは言えない」と語る
自身の経歴に始まり、プロジェクトの意義、民間機ビジネスの特殊性、過去の反省と重要施策、そして行動指針。「MRJは他のプロジェクトとは異質である」としたうえで、
積極性
情熱
果敢
柔軟性としたたかさ
の4つの要素を社員に求めた。ある種の“戦陣訓”である。
西岡は、自分の思いを若い社員たちにぶつけた。
「(ジェットエンジンの)MRJは、三菱にとっても国にとっても、最初で最後の挑戦」
「成功は必須であり、失敗すれば(三菱)重工にも致命傷を与える」
「押しつけるのではなく、若い諸君が夢を実現させる機会である」
「誰も成功を確信できない。しかも、開発完遂後、合否判定には10年以上かかる。茨の道であり、世界に通用する航空機事業として次世代に引き継がなければならない」
西岡には、過去の航空機開発で悔しさも残る。YS-11は責任部門と実施部門が分かれていたため、MU300は市場の変化への対応不足から、いずれも「採算悪化で事業中止に追い込まれた」と指摘。これらの失敗から「大きな過ちを繰り返す土壌が、われわれにあることを忘れてはいけない」「自分たちに実力があると思ったら大間違いだ」と訴えた。そして「二者択一になったら、難しい道に挑戦せよ」と話した。
セブン-イレブンをめざす
大型液晶ディスプレイ(36×28cm)を4面装備したフライトデッキ。状況認知性を高めてパイロットの負担を低減させている(資料提供:三菱航空機)
世界金融危機の影響も受け、米国製造業の凋落は著しい。経営が事実上破たんしているゼネラル・モーターズ(GM)をはじめとする自動車ビッグスリーは、その象徴だろう。米ゼネラル・エレクトリック(GE)やボーイングなど、強みを発揮する製造大手にしても、ライセンス生産を拡大し、日本企業などへの依存度を強めている。
原因の一つは、行きすぎた市場主義。単年度、さらには四半期という短期間で利益を出して、株主を最大化していくが、赤字に陥れば、部門や会社までもM&A(企業の合併・買収)で売却してしまう。こうしたやり方は、「長期の積み重ねが必要な技術開発には向かない。今のままなら、米国のものづくりは疲弊していくだけ」と指摘する財界人はいる。
西岡は言う。
「米国的な市場主義とは一線を画して、MRJに取り組んでいる。世代を超えた挑戦です」
宮川も「航空機は100年事業。若い人にぜひ入ってほしい」と10月にシンポジウムを行った東大で学生に呼びかけた。
民間からの資金導入が厳しさを増しているため、三菱重工としてMRJプロジェクトを支えていかなければならない。西岡は「心配はしていないが、(MRJ)撤退という選択肢はもっている。経営だから。MRJのために、三菱重工を潰すわけにはいかない」とも話す。しかし、その決断が下されれば、わが国の旅客機ビジネスは再起できない痛手を負う。
従来通り、ボーイングの下請けとしてやっていれば、三菱重工の受注量が増えていくのはわかっていた。収益を得ていくのには安全・確実な選択だった。
だが、敢えて難しい道を選んだ。
戸田社長は言う。
「棟梁仕事をやらなければならないのですよ。下請けのままでは、航空機ビジネスを本当に伸ばすことはできない。指示を受ける大工ではなく、決定して、まとめ上げる棟梁にならなければ意味はない。日本の航空機が生き残るために、避けて通れない道なのです。国家として、わが国の産業全体の将来に向けて、私たちはやり抜くしかないのです」
宮川は最近、部下によく言う。
「セブン-イレブンになろうぜ」と。
「それって僕たちに1日16時間働けって意味ですか」
「違う。イトーヨーカ堂からブランチアウトしたセブン-イレブンは、親会社だったヨーカ堂を超えただろう。俺たちもいつの日か、ああなるんだよ」
環境性能が高いMRJは、新しい日本型ものづくりの挑戦でもある。環境などの技術面だけではなく、今まで欠如していた統合力をもつ人づくり、組織づくりという要素も含まれる。産官に限らず、学をも巻き込む、国家プロジェクトといっても過言ではない。
「MRJは、今は紙飛行機。2011年に初飛行された後、一気に行きますよ」と宮川は話す。現場で困難への挑戦を繰り返す男たちの胸は今日も熱い。
2011年、もうすぐ、楽しみですね!!
1 ■ドバイへのコメントありがとうございました
いつも、大変詳しく教えていただいています。私はおおざっぱな者なので、ドバイもおおざっぱに聞いてきました。湾岸諸国の利益が、今あまり世界に還元されていないようです。それは2002年のテロ以来欧米へのリスクを湾岸諸国が感じているからで、その分ドバイへの投資が増加した経緯があるようです。湾岸諸国の利益は湾岸諸国内部にも過去に比べ多く還元しているのが現状で、オイルマネーが昔のようにすぐに世界に還流しないようです。