鎮魂のまち、法善寺界隈と寺町を歩く
オダサクの大阪発見
"夫婦善哉"といえば、法善寺の汁粉屋を連想するだろう。1人前で2杯もってくる善哉が有名である。それを表題とした小説「夫婦善哉」の作者が織田作之助である。ニックネームはオダサク。昭和前後の古きよき大阪をこよなく愛したフラヌール(遊歩人)である。
大正2年(1913)に生まれ、33歳の若さで結核によりこの世を去るまで、大阪を舞台にした作品を数多く生み出した。
主人公の放浪や感情の起伏を通して、大阪の庶民の生活やまちの表情を細やかに、具体的に店や通りの名前も織り交ぜて描いているのが特徴で、当時の地誌としても、評価が高い。
そんな織田作之助の視点から大阪をなぞってみる。
案内人は、大阪でもっともこの文士を敬愛するといっても過言ではない、井村身恒(みつね)さん。オダサクの魅力と軌跡を追いかけ、「オダサク倶楽部」を立ち上げ、活動を展開している。
最も大阪的なところ、法善寺「特に織田が好んで通い、作品の舞台にしたのは、何をおいても、ミナミの法善寺界隈です」と井村さんは言い切る。「夫婦善哉」はもちろん、「アド・バルーン」「雨」「放浪」「青春の逆説」等の作品に、法善寺界隈が描かれている。
法善寺周辺は、水掛地蔵を中心に、ミナミの中でもそこだけが、周りの喧騒を忘れさせるような澄んだ空気感が印象的である。
最も大阪的なところを案内してくれといわれると、僕は法善寺へ連れて行く。寺ときいて二の足を踏む人には、浅草寺も寺じゃないか、浅草寺が「東京の顔」だとすると、法善寺は「大阪の顔」なのである。
(「大阪発見」より)
「織田が東京にいた時期に、大阪を懐かしく思い出すと、まず法善寺が脳裏に浮かんだとあります。大阪を離れてはじめて、"大阪発見"をしたんやね」と井村さん。
「織田は、当時の旧制高津中学、現在の上本町近くにある高津高校に通っていた頃から、学校が終わると日本橋の南側に出て、千日前、法善寺あたりをぶらぶらしていたようです」。千日前郵便局やトリイホールのある上方ビルに面する東西の通りが、法善寺の参道のようにも感じられる。
アーケードの商店街をくぐると、石畳が続く。入り口南側には「天龍山法善寺」と掘られた大きな石塔。歩を進めると、ふーっと線香の香り。正面は、水掛不動尊である。「ここは、正確には法善寺の境内。周辺は、芝居裏と呼ばれてたんです」。

法善寺のややこしさ「織田は、法善寺の性格を一口に説明するのは難しい、つまりは、ややこしいお寺だといっています」。
入り口が5つある。千日前からの入り口が2つ、道頓堀からの入り口が1つ、難波新地からの入り口が二つ。(中略)
ここはまるで神仏のデパートである。信仰の流行地帯である。迷信の温床である。例えば観世音がある。歓喜天がある。弁財天がある。稲荷大明神がある。弘法大師もあれば、不動明王もある。なんでも来いである。ここへ来れば、たいていの信心事はこと足りる。ないのは、キリスト教と天理教だけである。
井村さんは、織田作之助の「大阪発見」の文章をすらすらと暗誦する。さすがだ。
水掛不動尊には、手をあわせる人の姿が絶えない。「水掛けになったのは戦後。不動尊はもともと目をかっと見開いていたそうです」。
周りを取り囲む石柱には、商店会だけでなく新派の芝居関係者、歌舞伎役者、旅館関係者などの名前がずらりと刻まれている。「水谷八重子、中村鴈治郎、今のトリイホールの前身である上方旅館の鳥居鉄三郎の名前もあるでしょう」。地域に愛され支えられているのがわかる。
一画には、大阪を舞台に数々のヒット曲をつくった作詞家・作家の石濱恒夫歌碑が立つ。
がたろ横丁で行き暮れ泣いて
ここが思案の合縁奇縁
おなごなりやこそ願かけまする
恋の思案の法善寺
石濱恒夫 作詞


水掛不動に隣接して、「夫婦善哉」の店がある。新しいビルの中で、昔のイメージが半減しているのは残念だが、今も続く老舗として、横丁の顔であることに変わりはない。「夫婦善哉の店は、もとはここではなかったのでご案内しますよ、こっちです」。
汁粉屋と寄席が並ぶ路地 井村さんに連れられて、もう1本北の通りへ。この横丁には、西と東の入り口に木製の看板が吊ってある。西の方は、藤山寛美の筆跡だが、法善寺の「善」の文字の横線が足りない。「一本足りないほうが、喜劇役者にはいい、と寛美さんは言われたそうですが、実際は間違えはったのかもしれませんね」と井村さんは推測する。一方、東の看板は、三代目桂春団治の筆。それぞれに味わいがある。「記憶にも新しいですが二度の火事の名残で、看板がすすけていますね」。
この通りの中ほどに北から交わる小路がある。「地面が上下にうねっていますが、火事で火が迫った証拠の一つです」。二度も半焼しながら、地元の方や芸人の努力で復興を果たした。法善寺界隈には、人をそこまで動かすだけの大きな魅力があるという証拠だ。



「この交差する東角に、夫婦善哉があったんです。『夫婦善哉』初版の表紙を広げたら、ここの横丁の西側から東を見たアングルで描かれています。赤い提灯があり、おたふく人形が座っていて、他に汁粉屋も並んでいたんです。寄席があって、西側には"紅梅亭"、夫婦善哉の東側には"南地花月"。初代春団治が、派手な人力車でここに乗りつけたんです」。井村さんは、何度も繰り返して言う。ここが当時、非常に賑わっていた場所であったと。甘いもんと寄席小屋がある路地、オダサクでなくても通いたくなるだろう。




「正弁丹吾亭」は、明治26年(1893)創業。肥桶を並べた公衆トイレ(小便・担桶)があった場所を再整備して、立ち呑み屋として開店。児童文学作家の小川未明が「しょうべん」「たんご」に当て字を考案したのが屋号となった。「関東煮(かんとだき)が美味しい店として作品にも出てくるし、織田も行きつけていたようです」と、井村さんは、店の前にある、織田作之助の石碑を指し示す。
行き暮れてここが思案の善哉かな
作之助

「織田は、実はお酒が飲めなかったのですが、義兄の乕次に連れられて、ミナミ界隈の遊び方を教わったんでしょう。乕次は、作之助の2番目の姉、千代の夫で、この夫婦が、そのまま夫婦善哉のモデルだったのはご存知ですね」。
法善寺横丁の「横丁」は、作家、長谷川幸延が名付け親である。もともと大阪に「横丁」はなく、「横町(よこまち)」なのだが、法善寺西門の南にあった小料理屋の名前が「横丁」で、そこからとったという。「横町」より音感として心地よかったという理由だそうだ。「織田も、"横丁"という表現を使っていますね」。
今では、老舗と新しい店とが混在するが、いずれも食通をうならせる味と時間を提供してくれる。
もともと夫婦善哉があった場所を右手に見て細い路を北へ進むと、道頓堀にあるうどん屋の「今井」横まで通じている。この路地に、入って驚いた。「浮世小路(しょうじ)」として復元され、江戸から昭和初期の街をテーマに再現した小さなミュージアムになっているのだ。昔の地図や街の賑わいを描いたペーパークラフト、道頓堀川から一寸法師様の物語が始まったとする「一寸法師大明神」や「夫婦善哉」「南地花月亭」の入り口も見事に再現されている。細かく見ていくと時間を忘れてしまう。騒然とした道頓堀から、浮世小路をくぐって昔の街を思い返しながら、法善寺横丁へ入ると、横丁の土地に滲みこんだ先人の営みがより味わい深く感じられる気がした。
"まち鎮め"の象徴、千日供養の寺「夫婦善哉の蝶子と柳吉の最後のシーンは、文楽の艶姿女舞衣の三勝半七のパロディで、二人で死ぬのではなく蘇生する話だとね、私はそう思うんです」と井村さんは話す。「映画では、森繁久弥演じる柳吉が、最後に"今ごろは半七さん、どこでどうしてござろうぞ"と口説きを口ずさむシーンさえあるでしょ」。
江戸期の千日前には、今の中央区千日前1丁目あたりに墓地があり、さらに南に火葬場、刑場があった。「実際の三勝半七の心中事件は、墓地の南側のさいたら畑(さいたら=地獄と極楽とどっちつかずの場所という意味)で起こっていて、法善寺に二人の墓があると伝えられているんです」。
明治に入ると、火葬場と墓場が阿倍野へ移転し、次第に盛り場として賑わうようになる。法善寺は昔、千日念仏を行っていたことから、千日寺と呼ばれていたが、「千日前」という地名は、千日寺の前であることに由来する。
「近松門左衛門の『心中重井筒』の舞台も近く、道行では、今の相合橋を渡って高津へ向かっていますね」。
かつては、あの世への地獄門であり、様々な情や怨念が街の記憶として染み付いている場所。だからこそ、千日供養をしていた法善寺への信仰、横丁の静けさや情緒に癒される。
法善寺や横丁が、愛され続けるわけは、古きよき大正・昭和へのノスタルジー、そして、江戸期"さいたら"の地で焼かれ灰山に埋もれた数多の命、それらを看取り送ってきた地霊への鎮魂であろう。"まち鎮め"と井村さんは表現する。自然か必然か、その上に独特の情緒や華やぎが生まれ根付き、現代もこれからも、私たちの心を引き付け続けるだろう。
生まれ育った、木の都「織田の視点を感じるには、もうひとつ、上町界隈を歩く必要がありますね」と井村さんに誘われ、天王寺区の生国魂神社周辺へ足を運ぶ。
織田作之助は、大阪市南区生玉前町、現在の天王寺区上汐で生まれた。「場所は、生玉前町の光正寺と一乗寺の間あたりで、谷町筋の道路拡張で今ちょうどグリーンベルトになっているあたりです」と聞いて驚く。家族で墓参りによく通る場所だったからだ。「その後、父親が、知人の証文に"請判"して借金の肩代わりになったため、引っ越してわび住まいをしたのが、東区東平野町やね。今の天王寺区上汐の生玉小学校の西前あたりで、当時"日の丸横丁"といわれていた奥の方です」。当時は、裏長屋がずらりと並んでいたのだろう。
「上町といいますが、実際は貧しい下町です。台地状になっていたのでミナミの繁華街へは坂道を下っていきますが、織田がよく"下に行く"と言っていたのは遊びにいく意味だったのでしょう。この界隈の思い出は、『木の都』という作品に如実に表現されていて、こんな冒頭です」。
大阪は木のない都だといわれているが、
しかし私の幼児の記憶は不思議に木と結びついている。
それは、生国魂神社の境内の巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり......
(「木の都」より)
「織田は子供の頃から、上町台地の緑に覆われた寺院や坂道を遊び場としていました。生国魂神社は、昔はもっと境内が広く蓮池があり、水遊びをして濡れた着物を近くの銀杏の木に干した、と記しています。また遊びに行った帰り道、暗い夜にここを通ると、まるで巳(みい)さんが棲んでいるような怖さを感じたのではないでしょうか」という井村さんの語りに耳を傾けながら、昔に思いをはせる。
坂道の味わい方―日想観の名所 生国魂神社から、源聖寺坂を通る。坂途中の齢円寺は、作家"藤沢恒夫"の曾祖父である、幕末の漢学者"藤原東亥"の墓所。銀山寺には、近松門左衛門作「生玉心中」の主人公の"お千代・半兵衛"の墓がある。近松の心中物の中で、唯一夫婦で心中した二人である。
このあたり、歴史の散歩道と呼ばれるだけのことはあって、時を重ねた趣を感じさせる寺院が並び、有名人物の石碑や墓所が多い。大樹や豊かな緑が今なお残るのは、寺院が自分の庭として維持してきた部分が大きいだろう。下寺町一帯、生国魂神社や大蓮寺あたりから天王寺へ続く緑地の帯は、オダサクに「木の都」と呼ばせた貫禄を今も残す。
「"坂の名を誌(しる)すだけでも私の想いはなつかしさにしびれる"と書いています。特に、織田が一番好きだったのは、口縄坂ではないでしょうか。当時は今よりもっと、夕陽が美しく見えたと思いますよ」。『木の都』は、主人公が10年ぶりに少年時代に親しんだ上町界隈を訪ねる話である。「口縄坂を上がったところにあるレコード屋がひとつの舞台になっていますが、道頓堀の"今井"がモデルなんです」。
今は、うどん屋だが、道頓堀がまだ芝居街として栄えていた時期に茶屋として商いを始めた。モダニズムの時代には、レコードや蓄音機も扱う楽器店へ。その後、道頓堀に「食いだおれ」のイメージが強まるとうどん屋へと、時代時代で、まちの変遷にあわせて業種を転換して生き残る稀有な店だ。

口縄坂上り詰めには、織田作之助文学碑が建てられており、「木の都」の最後のシーンが刻まれている。
口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たように思われた。風は木の梢にはげしく突つ掛つていた。
「これは、失われていく大阪への遺書なんですね」。井村さんによると、大阪市が昭和55年(1980)に建立した文学碑の第一号だそうだ。
「この急な勾配は、貴重ですねぇ。手すりはつきましたが、戦前と同じでしょう」。なぜ、口縄というのか。諸説あるが、「やはり、蛇のように曲がっていたのでしょう。整備される前は、たぶん上下に蛇行していたので、それが蛇のように見えた。私はそう思いますね」と井村さんはゆっくり階段を下りる。口縄坂の真ん中には、オダサクが登下校の女子学生に憧れたという夕陽丘女学校の正門跡がある。
このあたりの地名は"夕陽丘"という。「鎌倉時代の歌人、藤原家隆がこの地に小庵を結び、夕陽を信仰して極楽浄土へいくという日想観を修め、正座合掌しながら往生したという話が由来の一説です」と、その場所へ。藤原家隆墓があり家隆塚(かりゅうづか)と呼ばれて親しまれているという。「秋が深まると、今でも輝く夕陽と茜色の空を拝めますよ」。旅人や住民は、道すがら夕陽丘から静かに西を拝んだのだろう。この界隈の空気が澄んでいるのは、日々、赤い夕陽に浄化されるせいなのかもしれない。

高津宮から織田作之助が眠る墓へ「次にオダサクゆかりの地といえば、少し歩きますが、高津宮ですね。境内に、梅ノ木橋(梅橋)と言って、今は川も流れていない石橋が残っています。ほんの一歩で渡れる橋で、織田はよく遊んだそうですが、ここを流れていた梅乃川は、道頓堀川の源流だという説があります」。高津宮は、落語をはじめ、古典芸能や賑わいのエピソードには事欠かない、昔ながらの趣を残す場所だ。
隣接するのは中寺町である。「本経寺」には人形浄瑠璃で、竹本義太夫と人気を二分していた豊竹若太夫の墓がある。やや北上すると、谷町8丁目の建物と建物の間に近松門左衛門の墓。もとは「法妙寺」境内にあったが、寺の移転のため現在は、ビルの谷間に埋没している印象である。あの有名な近松の墓がこんなひどい状態とは、嘆かわしい。
オダサクが、"下に行く"つまり、ミナミに通う時に通っていたのが「地蔵坂」。高津宮に北接し谷町8丁目の交差点を含む、東西にのびる道で、今では坂の勾配もほとんどわからないほどになっている。通っていた旧制高津中学(現高津高校)から、そのまま西へ高津宮を経て進むと道頓堀界隈に出る。
この地蔵坂を東へさかのぼって歩き、作之助が生まれた上汐を通り過ぎる。近くの「誓願寺」には、井原西鶴の墓がある。
生玉から高津、中寺町、上汐、城南寺町と、寺院が群れをなして見事な屋根を連ねている。特に、盆や彼岸などには線香の香りがたちこめ、エリア一帯、あの世とこの世をつなぐ異界性を極める。
そんなまちを遊び場にして育った作之助が眠る墓が「楞厳寺(りょうごんじ)」にある。
門をくぐってすぐ左手、大きな不定形の墓石に「織田作之助墓」と刻まれている。吉村正一郎の味わい深い文字。裏には、同氏の字で、藤沢恒夫の文章も刻まれている。
井村さんは、線香の変わりに手持ちの煙草を供え、「織田は、煙草が大好きだった。今日は好きな銘柄だったラッキーストライクではないけれど......」とつぶやきながら参拝する。一緒に手を合わせたが、何を言っていいかわからず「......はじめまして」と挨拶した。その後方に、織田家先祖代々の墓もあり、父親の鶴吉、母親のたかゑ、幼少で亡くなった姉のことが眠る。裏には、昭和11年織田作之助建立とある。「当時織田には、とてもそんなお金はなかったから、まわりの人が助けてくれたのでしょう」と井村さん。「織田はキンモクセイが好きだったので、この寺にもたくさん植えられています」。


現在、住職である田尻玄龍さんは、旧制高津中学に大正15年(1926)に入学した9期生、つまりオダサクと同級生であり、学友として親交を深めた。その上、楞厳寺は織田家の菩提寺であるため、妻の一枝、作之助本人の葬儀も務めた。まさに生き証人である。田尻さんは、昔を思い出しながらゆっくりと語りだした。
「織田は、高津中学でも成績は優秀でした。"ガリ勉するやつは頭が悪いやつだ"と言って、あまり勉強していないように見せかけて、友達を誘って道頓堀や千日前によく通っていました。帰りには、嫁いだ姉のタツさんの家に寄って小遣いをもらっていました。卒業後は、旧制三高、今の京都大学に合格します。京都の吉田山の宿舎に下宿して創作活動をしていましたね。食べることを節約して遊びまわっていたようで、無理がたたって結核をわずらってしまいました。
私の方は、中学時代に病気で卒業が1年遅れましたが、織田とは対照的に、自宅から京阪電車と徒歩で今の佛教大学に通い、健康を回復して僧侶の道を進み、今日まで、長生きさせてもらっています」。今年(2009年)で95歳と聞き、驚いた。物腰や活き活きした肌つやから、とてもそうは見えない。社会福祉法人高津学園の理事長を務めている。「お墓は、三回忌に建立されました。今でも度々、一般の方が来られます。織田について伝えるのが、私の務めになってきましたね」。オダサクの分まで、いつまでも元気で、語り続けてほしい。
イチビリ精神でまちの元気づくりへ 井村さんは、織田作之助命日の1月10日には墓参りを欠かさない。
二十数年前、東京から堺に戻って住んだ北野田の駅前に、織田作之助と一枝のスイートホームが残っていたことが活動のきっかけとなった。以前から無頼派の作家の一人として興味はあったという。「織田作之助の魅力は、その行動力と文学にとどまらないマルチなエンターテイメント性です」と語りだしたらもう止まらない。高校教諭を務めながら、一方で、オダサク倶楽部を仕掛けた。蓄音機のコレクターや映画愛好者との出会いがあり、次第にネットワークが広がった。
「織田は、『織田作』に"オーダーメイド"とルビをふったりするような、イチビリ精神の持ち主でね。それを継承して、オダサクをダシに面白いことを企画して、まちの元気にもつながったら、と思ってね」。読書会から発展して、2001年には、第一回「オダサク映画祭」を実現させた。オダサクの原作・脚本で川島雄三がメガホンをとった「還って来た男」や「わが町」を上映し、2003年には、映画・落語・講談・乙女文楽をまじえた第二回を開催した。その後も、朗読会、オダサクが愛した音楽を蓄音機で紹介するコンサート、まち歩き、船旅ツアーと続く。夢は、オダサク自身の"生き急ぎ"の生涯を映画にすることだ。
何が井村さんをそんなにつき動かすのだろう。実は、第一回映画祭の準備中、脳卒中で倒れた。「その時、救急病棟で、織田が枕元に現れたんです。夜中、死神のような白い顔で"死んだらアカンで~あんじょう頼むよってになあ"と。それで息を吹き返しました。あの時、煙草のにおいもしました」と打ち明けてくれた。快復後は、オダサクが井村さんの生活に居座っている。「私が堺に戻ったのが33歳。織田が亡くなった年齢と同じで、まさに人生の後追いをしていますね。織田の遺言執行人にならなあかんなあ......と」。不思議だが、やはり、井村さんとオダサクは何らかの縁(えにし)がありそうだ。「私は織田の大阪に対するものの見方をもらっていますね。大阪の陰と陽、弱いものや消されたものへの深い思い入れを、あげつらうことなく、照れ隠しでさりげなく表現する、"オダサクイズム(オダサク主義)"を自分のものにしたいです」。
井村さんは、"路地裏の感覚、有象無象の人間の濃密な人間関係がそのまま出ているのが織田作品の風合い"と表現する。それは、ノスタルジーではあるが、人にとってはかけがえのないもので、現在は希薄になっている。
「ただ過去を懐かしむだけでなく、未来へ跳ね返すようなエネルギーが織田の作品にはあります。晩年は、文化都市に進むべく大阪ルネッサンスを提唱していた。伝統に工夫を加えるという大阪らしい文化性を育てる、その一翼を、いろいろな方といっしょになって担いたい」。
織田作之助ゆかりの地は、偶然にも、あの世への路(みち)を強く感じさせる場所であり、歴史を背負う地霊に支えられた情緒が色濃い。作品を読むほどに、オダサクが描く路地裏や繁華街、そこで生きる人々は、かつての大阪文化そのものであったと感じる。そこに伴う切なさや哀しみも心に滲みる。
独特の作風に触れ、その舞台に足を運ぶことで、改めて失われた大阪の原風景に出会えるに違いない。さらに、変わりゆくまちや人の価値観、そして大阪の可能性を考えるひとつの機会にもなれば、オダサクの望むところであろう。
人は大阪に就いて三百年の伝統ということをよくいう。たしかに大阪は伝統を守ってきた都だ。今日以て伝統を守るだけなら、骨董屋のおっさんにも出来よう。大阪人を大阪人たらしめるものは、大阪人が永遠の新人だという一事だ。
「永遠の新人」より
大阪人に共通の特徴、大阪というところは猫も杓子もこういう風ですなという固着観念を、猫も杓子も持っていて、私はそんな定評を見聴きするたびに、ああ大阪は理解されていないと思うのは、実は大阪人というものは一定の紋切型よりも、むしろその型を破って、横紙破りの、定跡外れの脱線ぶりを行う時にこそ真髄の尻尾を発揮するのであって、この尻尾をつかまえなくては大阪が判らぬと思うからである。そして、その点が大阪の可能性である......
「大阪の可能性」より(抜粋)



〔おすすめ参考文献〕(入手しやすい文庫版を中心に)
織田作之助
『夫婦善哉』新潮文庫/講談社文芸文庫
『夫婦善哉 完全版』雄松堂出版
『六白金星 可能性の文学』岩波文庫
『青春の逆説』角川文庫
『織田作之助』ちくま日本文学全集
『世相 競馬』講談社文芸文庫
『大阪の可能性』青空文庫(インターネット)
『大阪発見』青空文庫(インターネット)
大谷晃一『織田作之助』沖積社
大谷晃一編『織田作之助作品集』沖積社
「大阪人」2006年11月号(特集:文士オダサク読本)
「大阪春秋」112号(特集:法善寺横丁界隈)
〔カリスマのプロフィール〕
井村身恒(いむら・みつね)
1952年堺生まれ。高校教諭。オダサク映画祭をきっかけに「オダサクを"ダシ"に大阪を元気にする」オダサク倶楽部を作り、読書会やまち歩きなど様々な活動を続けている。
著書『フォーラム堺学 第6集』(堺都市政策研究所、共著)、『堺市今昔写真帖』(郷土出版社、共著)ほか、「大阪春秋」「大阪人」「上方芸能」などに執筆。