小さな奇跡のような嬉しい事が起こる度に 何時も感謝している
起こらなくてもただ 何時ものように目覚める度に感謝している
何か嫌な事があっても これも生きてく上での出来事だ
まだまだ生きてるうちは 不本意な事を乗り越えなくてはならないのだ
その乗り越えるエネルギーを 出させようとする出来事だと感謝している
何故 そんなに何でも感謝するようになったのかといえば
毎朝行う神事くらいしか思いつかない
特別な宗教には入っていないし
入るつもりも無いが
目に見えぬ偉大な力の存在を信じている私は
迷い悩み苦悩する心を
感謝と言う ハッピーな状態に常に置けたらと
宗教家ではないが伊勢白山道という方のブログの話にも納得して
自分の神聖な時間を持つために始めた事だ
毎朝 神棚の榊の水を交換し お水いれの水も替え
ご先祖さまのしきみの水を替え ご先祖様にはお茶と水
ご飯を炊いたときは 炊き立ての白米を供える
ニコニコサラサラのために 水の交換は必ずするが
あまり形には拘らないでいる
そういう時間と手間と自分の無心の心を捧げるつもりでする
神棚には 2礼2拍手をして
生かして頂いて有り難うございますと感謝の言葉のみを捧げる
ご先祖様には
お線香を立て やはり同じように感謝の言葉を捧げる
2年ほど前から お願い事は一切言わないようにした
今 生きていることに感謝だけを捧げている
ある日 先祖に感謝を捧げていた時 何かハッと気づいた
私以前の既に亡くなっている先祖の面々には
心残りのある人も沢山いることだろう
しかしもう肉体が無くなってしまうと
何も出来ない 何もいえない
伝えるすべを持たないだろう先祖達が
ただ 思うのは
自分達を代表する自分の子孫が
精一杯真面目に生きてくれることを
願うばかりではなかろうか?
子孫の生き様は そのままダイレクトに
先祖の魂には通じるのではないだろうか
先祖は子孫に その事を伝える事すら出来ないのに
子孫は ご先祖様守ってください
どうかご加護がありますようにと 願い事ばかりを言われても
何もできなくて ただ苦しいばかりではないだろうか?
逆に
感謝して暮らします
いい事も悪いことも感謝して精一杯がんばりますと
何時も語りかけてくれたら どんなに心強く安心する事だろう
安心すれば 心残りも和らぎ
迷わず成仏でき あの世での生活(あるのかどうか解らないが)も
穏かなのではないか
ああ・・・
既に亡くなってる人は 霊になってるから
何でも叶えられる力を持ってるかもしれないと
勝手に想像して いろんな願い事をするけれども
本当は そんな力は 現実に生きて行動できる
どんな事も思いのままに行動できる
生身の人間にしか 与えられていないのかもしれない
本当は 先祖の方が
色んな先祖の心残りの分まで 頑張って欲しいと願っているとしたら
今 この世に生きて何でも行動できる私は 一番の幸せ者なのだ・・・
しかも 今その代表として生きている・・・
ならば 先祖が恥ずかしくないような 生き様を 自分なりに生き
先祖に頼むのではなく 先祖に頼まれるような人間になれたら・・・と
何故か そんな思いが稲妻のように思考を貫いた
ならば 悲しみや苦悩を訴えたり 努力無しの幸福を願ったりしてはならない
先ずは 自分が精一杯頑張って生き抜くことをお誓いし
何時も この私を存在させてくれた先祖に心から感謝しようと心に決めた
以来ずっと 毎朝続けているが
以前は 感謝の気持ちが上面だけだったが
今は 先祖の気持ちを汲んだ感謝を伝えられているような気がしている
それと 奇跡がどう関係あるかって?
実は 毎日起こる出来事は
見方によっては奇跡なのだと言うことは
1つの言い回しで
私たちは 生まれた瞬間から
奇跡の連続の中にいるけれど
誰もが 同じような生活をしていると
それが当たり前と思ってしまうように
魔法をかけられていたような気がしている
今が奇跡と気付いた瞬間から
幸福の風が 吹き渡る
そんな気がする
言葉で説明するのは難しいが
毎日折に触れて感謝を見つけていると
ある日 心の中で何かが変わる
そんな事を発見した思いなのだ
今後 私の病気がよくなることは多分無いだろうし
お金も苦しい まだ面倒見なければならない姑も居るし
私の今の状況は不本意な事も多々ある
しかし 私の心は何故か幸せ感と充実感で溢れている
毎日が穏かで嬉しく楽しいのだ
ただ 生きてるだけで有り難いのだ
明日も目覚めた瞬間から 奇跡が始まる
もう寝ようと 布団に入って幸せを感じ 今日も生かして頂いて
有り難うございますと感謝して寝るとグッスリだよ