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2010-03-25

「教義」の内容と効果〜科学思想で生きてみる2

宗教には主要教義があり、その違いによって派閥がある。三位一体を認めるか?キリストはただの優れた予言者にすぎないのか?などと、興味のない人間にはAKB48のメンバーの違いと同じである。。どうでもいい


科学には「教義」という言葉は似合わないだろう。普通科学の内容は実証されるべき(されていくべきというか。。。)ものだし、必ずしも正しいとされているものばかりではない。ある理論は近似と考えられているし、他の理論は決定的な実証のしようがなく正しいとも間違っているともいえない。。より高い見地からは近似的な理論でも、実用的にはそれで十分というものもある。(ただ、ある科学命題や主張に強くこだわる心理的理由っていうのはあるだろうが。。これは境界的な問題ではある。。)


宗教は基本その教義内容について抜本的に否定はありえないということである。人格的な創造主を否定したらいわゆるアブラハム宗教ユダヤキリストイスラム)の信仰は成り立たない。仏教も個々に「これを認めないなら、この派を認めている事にはならない」というような教義があるだろう。。問題は「認める」「信じる」「理解する」ということが宗教の中では明確に区別されていない場合が多いことである。もちろんそういう教義認識の段階によって教団の中に階層構造が出来上がっていることも多いわけである。


そもそも、宗教は教義の内容よりも、「その教義を認めている(信じている)ことで、他者と結びつく、オルグされている」という「効果」が重要なのである(ここで、私は個人がある言説や理屈を強く信望している事のみでは宗教的とはいわない。例えば私はビッグバン説が好きじゃない(笑))。「存在しないことを信じる」「不合理故に信じる」というような言明がそういったことを表している。


科学はむしろ、理論や主張の「内容と相互連関」が問題になる。互いに矛盾するような内容は両立しない。。宗教では明らかに日常では両立しようのないようなことが共存すると主張する。。そもそも言説の内容をいろいろ議論する事自体、宗教的とはいえないともいえる。。


科学が内容に関わる事で宗教的な命題を批判しても、宗教は必ずしも本質を批判される事にならない。もちろんこれは個々の人間の問題ではある。ドーキンスの論駁で「主の存在が怪しくなり」信仰を失う人はいるだろう。でもたいてい信仰者はこの手の批判には慣れていて、問題がそこにはないことを知っている。論理的に明晰な事で孤独であるよりも、不合理なことでも組織されていることを選ぶ人間はいくらでもいるのである。事実、特に宗教を意識しなくても集団で何かをする時にある程度「理不尽」な事を受け入れる必要があることは多い。。それで人付き合いを嫌う人もいる訳だが。。


科学思想で生きるということの素朴な意味はまず、このような人間集団、人間の社会性、組織現象の事実を理解するということであろう。 そして、人間の生の重心のようなものが個体の中心にあるのではなく、このような集団的なものにあるのだということを明確に認識する事であろう。。その時宗教の効果」の科学というものが在る程度みえてくるのであろう。プラシーボ効果が実証されたように。。

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