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自分はなぜこのような日記を書く気になったのだろう。不思議なことだ。だが、夜毎夢の中で私に書くことを強いているものが、昼間にも書くよう急き立てているのだろう。
いずれにしろ、大した問題ではあるまい。この日記を読む人間は一人もいない。時が来れば日記は始末してしまおう。
私は名もない男である。家族も、故郷も、財産もない。ブルジョワや官僚から蔑視されている者の一人だ。
自分に良くしてくれようとした者たちのために、私は愚かにも苦しんだ。そこから幸福が生まれるかもしれないことを、知っていればよかったのだ。だが、自分は若過ぎて、不幸からも輝かしい未来が生まれるということが、そのときは分からなかった。
最初、私は名もない子供だった。あれは三歳の頃だった。泣きじゃくりながら、ポーランドの路上をさまよっていた。一九二〇年だから、逆算して、自分が一九一七年に生まれたことだけは確かだ。
それにしても、どこから、また誰から私は生まれたのだろう。私はほとんど話ができなかったようだ。私のポーランド語は貧弱で、ロシア語はもっとひどかった。ドイツ語はまったく理解できなかった。
自分は一体誰だったのだろう。私は自分の名前すら言葉に出せなかった。結局、この世に生まれてきたからには、自分には名前があり、呼びかけに答えていたはずなのだ。今後は、義理の親の選んだ名前に満足しなければならない。
五〇年後の今も、気持ちはだいぶ和らいできたが、…博士と…夫人を思い出すたびに、怒りがこみ上げてくる。
彼らはいい人達だった。気前が良く、鷹揚な人達だった。彼らには子供がいなかった。それで私を養子にしたのだ。実の子以上に、私は愛されたと信じている。彼らは、不妊によって突き落とされた絶望の淵から、私によって救い上げられた。だから私を愛したのだ。
彼らは私を天からの贈り物と考えたに違いない。彼らは、自分たちの身に起こったことを、何もかもかに神のせいにするほど、強い信仰を持っていたからだ。
むろん、まるでゲームのように、私にも同じことをするように教育した。彼らは立派な徳を持っていた。二人が陰口をたたくのを一度も聞いたことがない。
路上で、ひとり激しい泣き声をあげている私を見つけたとき、二人はまだ若かった。年は三五歳ぐらい。お似合いのカップルで、二人をつなぐ大袈裟ともいえる愛情を、私はすぐに感じ取った。二人が互いを見つめてキスし合う光景を見たときには、楽しさが歓喜に変わったものだ。
彼らは「私の」父であり母だった。私は、子供じみた情熱をもって、この所有形容詞を口ずさんでいた。母は、特に私を溺愛したが、それは私にとっては耐えられないものだった。どうしてそうならなければならないのか。自分にはその理由がわからなかった。
私は、生まれつき内気で、勉強好きな性格だった。彼らに面倒をかけたことはない。女々しかったというのではない。激しく戦うこともできた。だが、戦うには、乱暴になる必要も、悪者になる必要もない。
私の両親、特に母は、私が良い性格だと思いこんでいたが、彼らが知らなかったのは、運良く、私の意志が彼らの意志と合っていたに過ぎないということだ。私は大きな野心を懐いていたが、彼らがそれを認めていた。少年が望んでいたのはそれだけだったのだ。
私が、勉強でかなりの成績を収め、一四歳になった年に、私たちはローマとパリに旅行することを決めた。私は、嬉しさのあまり、なるべく眠らないよう頑張った。眠りが時間の浪費に思え、その分を旅行の準備にかけたいと思ったのだ。事前にこれらの都市について知識を深めておきたかった。
ある晩、意に反して瞼が重くなってきたときに、眠気をなくすのにいい薬を父が持っているのではないかと考えた。それで、足音を忍ばせて居間に行った。
すると、隣室から二人の話し声が聞こえてきた。二人は、私のパスポートのことで相談しあっていたが、このときに、私が「実の子ではない」と言ったのだ!
まるで、落雷に打たれたかのようだった。この気持ちが人に理解できるであろうか。少なくとも、似たような境遇の小説家であれば、この気持ちが分かるかもしれない。だが、あえて言えばそれ以上のものだった。人間はこのような気持ちを言い表せる言葉を持ってはいない。
この瞬間に生じた心の傷は、はかれないほど特殊で、生まれたばかりの赤子のように小さなものだった。それは赤子のように徐々に成長していたが、自分にはそれがわからなかった。私はできれば死にたいと願い、心はますますその方向に傾いた。
心臓の鼓動がどれほど速まったことか。その間にも、全身は大理石のように硬直した。心臓の鼓動が元に戻ったときに、ようやく身動きが取れるようになった。頭の天辺からつま先まで苦痛に襲われた。それまで、自分は痛みというものを知らなかった。だから、最初の一撃で完全にやられ、自分の人生が左右されるほどになったのだ。
傷ついた心は、親から離れるよう私を急き立てた。私は、着の身着のままでこの衝動に従った。できることなら下着さえ捨てて行きたかった。彼らに関わるいっさいを捨てたかったのだ。
私の親は、確かに「彼ら」と呼ばれて当然の人間たちだった。その気持ちは今も変わらない。私が向けた彼らへの憎しみの値は、彼らが私に向けた愛情に等しい。
真実愛していると言いながら、彼らは私を欺いていたからだ。私は彼らをけっして許さない。何一つ許さない。それが自分の信条なのだ。
論理的には、彼らに感謝するべきであろう。自分が今や、世界最強の秘密結社の一員になっているのも、元を正せば彼らが原因なのだ。
私は神の個人的な敵になった。本当は存在していない神の「死」を、今や、全世界に教育宣伝する人間になっているからである。
心の傷が、遠くウラジオストクまで走るよう、自分を急き立てた。私は出発した。だが、何十時間も経つうちに、元気な体もさすがに消耗し、壁にもたれて息をつかねばならなくなった。壁がぼんやりとし始めて、私はその場に崩れた。遠くからかすかに人の声が聞こえた。
「おお、なんて可哀そうな子でしょう!」
私は、母性愛を見せようとする女を絞め殺してやろうと、振り向いた。
だが、殺人計画は、不快感に阻止された。あまりに女の顔が醜くかったからだ。このような不気味な人間の肌に触れるのも嫌だった。私は話そうとしたが息が詰まった。
二人の女は私にアルコールを飲ませようとした。私はそれを吐き出して、即座に眠りについた。明るい日の光に目が覚めた。一人の女がベッド脇に座り、私を見つめていた。彼女が私をそこに運んでくれたのだ。前と同一人物であったのかもしれないが、もう化粧は取っていた。私は話しかけた。
「昨日はひどい顔だったね。」
彼女は静かに答えた。
「それをいうなら、一昨日でしょう。」
道理で腹ペこのはずだ。私は食物をねだった。女は男に食べさせるよう運命付けられているものだ。
「家出してきたのね。名は(誰々)でしょう」との声に心がやわらいだ。
私は、次の言葉を待ち、あえて答えずにいた。すると、彼女はこう付け足した。
「ロシアに入る手助けならできますよ。」
「なぜロシアへ行きたいと分かるのです。」
「うわ言のように、そう言っていましたよ。」
「それで、私の名前を知っているのですか。」
「いいえ、新聞で見たのです。ご両親は、帰りなさいとおっしゃっていますよ。叱らないからと。」
「両親などいないんだ!」と私は言った。
彼女は、私がけっして戻らないことを理解したに違いない。こう言ったからだ。
「ロシアに私の親戚がいます。国境越えを助けて上げましょう。」
その言葉に希望の光を感じた。それで、昼に下校する友達に、手紙を手渡してくれるよう、彼女に頼んだ。彼女は私のために役立つことを喜んでいるようだった。
私は暗号で書いた短い手紙を手渡した。私たちは、暗号を遊びに使い、それを知る者は誰もいなかったのだ。この劇的な状況で、私はそれまで遊びとしか考えてこなかったものを使うことになった。
友人は裕福で、彼の両親は、必要以上の小遣い銭を彼に与えて甘やかしていた。それで、要りもしないものを買うために彼が貯めているはずの金を、当てにしたわけである。彼が私に強い友情を寄せていることは分かっていた。それは、互いに感じあっていたものだが、彼は、友情を何より重んじ、私のためなら貯金を全部はたく男だった。
ロシアへの密入国を隠さなければなおさらだ。彼は、ロシアの豪胆な国柄に憧れていたからだ。父親とうまく行かなかった彼は、母の国、ロシアのほうを愛していた。また、私の密入国を決して人に言わない男だ。
私は、彼の伯父がレニングラードで役人をやっていることも思い出し、伯父の住所を聞き、推薦してくれるよう依頼しておいた。女が出かける直前に、私は、追伸を付け加えた。
「僕は “党” に加わりたいのだ。“党” で偉い人間になりたいのだ。」
それは、復讐ともなるものだった。
女は、友人の家の前で待っていたが、幸運だった。彼は二時に帰ってきたからだ。友人は、彼女を信じ、荷物を手渡した。そこには私への暗号書簡と、伯父に宛てた推薦状と、かなりの額の金があった。本当にいい奴だ。
私は、彼の伯父がロシア政府でどんな要職についているかは気にかけなかったが、隠し隔てのない付き合いをすることに決めた。望む階級につくには、ユニークなこの男と、率直に付き合ったほうがいいと考えたのだ。
最初に会ったときに、伯父は私をたいそう良く理解し、私は彼を喜ばせたと思う。伯父は、まず、“党” の原則と語学を勉強する必要を説いた。全ては、私の勉強にかかっていた。私は、どんなことでも一番になり、先生を追い越すでしょうと答えた。
自分の心の内を話せる人を持つのはいいことだ。私には彼しかいない。そう伯父に話した。彼は、皮肉な笑いで答えながらも喜んだ。その瞬間、伯父を出し抜いた気がした。
逃亡して以来、はじめての快感だった。この気持ちは長く続かなかったが、自分にとっては良い兆しだった。
私は六年間、わき目もふらずに勉強した。唯一の楽しみは、学期の休みごとに伯父を訪問することと、「世界無神論」の党首になるという確信に立って神を憎むことだった。
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