評書の著者・鄭大均(ていたいきん)氏は、在日韓国・朝鮮人(以下「在日」と略す)の文化人のなかでは特異な存在である。氏はこれまで「在日」についての通説がもつ虚構性を、剥がす作業を重ねてきた。たとえば在日韓国人に見られる〈韓国籍を有しながらも韓国への帰属意識に欠け、外国籍を有しながらも外国人意識に欠けるというアイデンティティと帰属(国籍)の間のずれ〉(文春新書『在日韓国人の終焉』)の指摘がそれである。
これまでの「在日」文化人の多くは、「在日」を抑圧的な日本社会で苦闘している存在とみなし、その状況に抵抗するバネとして民族意識の確保を説いてきた。だが、それが現実無視のきれいごとであることは、当事者を含めて、みんな内心では認めていることであった。
だから「在日」は、もう帰属意識もない国に運命を託すといった偽善を排し、日本国籍を取得して、日本社会のフル・メンバーとして生きていくべきだ、というのが鄭氏の主張であった。
こんな発言は、民族精神を高唱する人々には、許し難いものであろうが、「在日」の一人として、鄭氏は「事実の語り手」であることを選び、その道を貫いてきた。そうした氏が、日本社会にはびこるもう一つの俗説「朝鮮人強制連行」に、メスを当てたのが評書である。
いまの日本では「在日」=強制連行の被害者ということが、動かし難い事実のように語られ、教科書や事典類にもそう記されている。先ごろは大学入試にも、それを正解とする問題が現れたくらいである。日本の近現代史は「犯罪の歴史」だというわけだ。本書の第一章には、その叙述例が総ざらえ的に挙げられているから、読者はその性格が概観できよう。そうした臆説に基づき「在日」には強制連行により苛酷な労働に従事させられたという「歴史的特殊事情」があるから、日本は「在日」の権利を積極的に保障すべきだ、という要求がなされてきた。
だが常識からして、強制連行で虐待酷使された者が、解放後も地獄だったはずの日本に残ったというのはおかしい。著者は第二章以下で各種のデータや批判論を紹介し、「在日」の多くは個別渡航者であり、強制で連れて来られた者でないことを示している。それは当事者たちの子供の団体である在日本大韓民国青年会の調査「一世たちの証言」からも見てとれるし、民団発行の『法的地位に関する論文集』のなかに「一世の大半が一九三〇年代初期に渡航して永住するに至った経緯からすると」といった文言があることからも証せられる。
そのせいか「在日」の論者には「強制連行」という言葉を使い、戦時期の朝鮮人労働者の動員を語りつつも、その労働者が強制連行の被害者であるとは明言せず、しかも読者にはそう思わせるような混同されやすい文章を書いている者がいる、と著者は指摘している。多年にわたって「在日」論をみつめてきた著者ならではの、キメ細かい診断である。
「強制連行」という言葉は、在野の研究者・金英達(キムヨンダル)氏も述べているように、歴史用語として厳密に範囲が確定されたものではない。強制による労働者動員といえば「徴用」しかないが、論者は故意にこの言葉を避けてきた。
同じ強制でも「徴兵」という言葉は、対象がはっきりしているから「兵事強制連行」などとは言わないが、労働者動員については、「強制連行」という言葉で、その範囲を曖昧にし外延を拡張してきた。「強制連行」という禍々(まがまが)しいイメージを喚起する用語を利用することによって「日本国の加害者性と朝鮮人の被害者性を誇張」してきたのである。この言葉が流行(はや)るようになったのは、強制連行論者たちがバイブル視している朴慶植(パクキョンシク)『朝鮮人強制連行の記録』の発刊後二十年ほどしてからで、日本の国家犯罪を高唱する左翼史観の高揚期のことだ、という著者の指摘は、その間の事情を物語っている。
このように著者は、「在日」にまつわる虚偽の外皮を剥がす作業をつづけているが、氏をそうさせているのは「在日」を被害者と規定しつづけたり、日本への対抗に生き甲斐を見いだしているような、「在日」文化人の生態であろう。日本のマスコミには、日本駁撃(ばくげき)の言説を喜ぶヘキがあるが、そんな風潮に乗っていては、自らの主体性はどうなる、というのが著者の真情かと思われる。
「被害者アイデンティティに人生の根拠と動機を見いだしている人間には、自己責任の感覚がない。自己責任の感覚が欠けているということは、自己検討の機会を自ら遠ざけているということであり、それは、北朝鮮に対する幻想が幻滅に変わった後になっても、北朝鮮との関係を持続させる契機になってしまう」と著者は書いているが、強制連行論の虚偽は、強制連行のみの問題ではないのだ。
著者は同族の宿痾(しゅくあ)として「自己検討の回避」を挙げているが、朝鮮民族全般に対してよく言われる「なんでも他者(ひと)のせいにする」という不名誉な批評を一掃するためにも、著者の意見は傾聴すべきであろう。 |