今現在に至っても相変わらずで、とてもノーテンキなことは言ってられない状況が続いているだけなんですが、何にも言わないのも辛いので、ここでブツブツとどーでもいい独り言を言っていよう、と云うわけです。
 凝ったレトリックや多少は内容のあるような話はここではしません(出来ません)から、まあ、気が向いたら開いてみてください、と云うことで、よろしくお願いします。なお、このコンテンツはバックナンバーを作りません。ある程度経ったものや事情が変わったものや気が向かないものは削除し、ホームページ上には置きません。 要するに、ただの無駄話です。
 ただ、およそ私小説的なものは書きませんから、日記さえ付けません。それで、えっとー、あれがあったのはいつだったけかなあー、の思い出しに困ることがあります。そのための備忘録代わりにもここを使いますので、実にどーでもいいよーなことも書いてありますが、そのためです。

 ま、何の何が何であれ、深読みはしないでください。深読みする人もいないでしょうが。

(INTRODUCTION)



 もうとっくに松もとれちゃって、お正月ってわけじゃないですけど、私は年が越せませんでしたから^^;、お正月は無かったどころか、実はまだまだ新年じゃないんですけどね。

 とゆーその人その人の事情なんかはおかまいなしで、暦の日にちは当然に過ぎて行って今現在は寒の真っ只中。寒いですね。なんですが、実はこの地は暖冬。大雪の地方もあるそうですから「この地」と付けますけどここ数年でもっとも暖かい冬なんですよね。雪かきもこの冬は今までに1回やっただけ。冬は普通に寒くないと景気にはよくないとかとの話ですが、しかしもちろん、私にはこれは何よりです。

 去年の12月に自分に自分へクリスマス・プレゼントとゆーことでその初旬に買ったXEON3.8のサーバ用パソコン、ようやっと今になって普通に使えるようになりました。
 これを普通にwindowsで動かすにはそうたいした手間隙・試行錯誤じゃなかったんですが、その手間隙・試行錯誤の作業途中で汎用常用に使っていた2台のパソコンをそっくり駄目にしちゃったんですね。なにせどれもこれも普通にやったんでは使えないから格安で入手出来たそれらです。そうなると、再び動かすのにまた大変な手間隙・試行錯誤を必要とします。結局は1台はどうやっても駄目みたいで、記念にメモリーを外してあとはそっくり廃棄。もう一台は分解して組み立てなおしたらヨタヨタと(ホント、ヨタヨタと、です)動きましたから、しばらくそのこれをメインにしましょう、です。で、今それでこの文章を打ち込んでいます。XEON3.8が今現在マルチディスプレイにならないんですね。これはマルチなので。ちなみにこれはPentium4_3.2です。

 パソコンの(商品価値としての)寿命ってドッグイヤーどころかキャットイヤー(?)ですよね。ですから、5、6年くらい前なら最上級新製品が、家電廃棄手数料そのもの程度で買えるんですね。このXEON3.8もそれです。
 クロック競争は仕掛け人のAMDの方が先にリタイアしちゃったので当分3.8G、以上にはなりませんよね。それで3.8Gのパソコンが欲しかったんです。私が初めて買ったパソコンのCPUはZ80_4MHz。実際のクロックはたしか3.75MHzだったと思います。3.8Gならその1000倍。(1000倍だよなあ・・)としみじみ思いたい、そのために、で、3.8GHzのパソコンがなにより欲しかったんですね。でも、あんまりしみじみともしていませんけど。^^;
 そーゆー時代さ、だけのことです、でしょうかしらん、ですからね。

 体調がこのところ絶不調。絶不調としかし言うといまにも死にそうな息絶え絶えの表現かも?かな?なので、準々絶不調(?)くらいですけど。
 なので、このところはおよそ活動的なことはしていませんししませんね。寒いんで室外で倒れたら凍死するしかないから、と、こたつにもぐりこんでへたへたヒックラバッタラしています。だけど同居のバーさんの日常生活のあれこれはしないわけにも行かず、病骨(?)に鞭打って家事雑用はするわけで。自分こっきりなら、ほっといて済ませられる家事雑用は徹底的に放っておいて楽をするんですけどね。しかしバーさんは、夜昼かまわず起きているのも寝ているのもかまわず痛いのも苦しいのももちろんまったく意に介せずで、あーしろこーしろと私がそれをするまでぎゃーぎゃーこの世の終わりが来たかのように喚きチラシますから、しょーがないんですよね。(涙)
(2010/01/25)



 2月って言いますと、暦の上では、だけであっても春。とはいってもなんかこの冬は1月は暖かかったですが2月になってからは寒波がひっきりなしで次々と押し寄せて来ましたね。植物のお正月、の立春も寒波。動物のお正月、のヴァレンタイン・デーも寒波。おかげで、例年程度には雪かきもしなければなりませんでした。
 同居のバーさん、どれほどの体調不良ってわけじゃないんですが、なんにもしないで寝っころがってテレビを見てるのが日課。そのせいかネガキになったんだそーで、その治療というか看護というかにバーさんの娘さんが毎日やってきています。来るときにはなにかしらの食べ物を持って来てもくれるので、私も昼食は作らなくてすむのでそれを食べています。そうはしかし簡単に治るとゆーものでもないようで、娘さんは来週病院に連れて行って入院させる、と言っています。本当にそうなってくれるのなら勿論私は嬉しい限りで、1週間や10日じゃ出てくるな。遠慮せず何年もが何十年でも入院してろ、なんですが(オイオイ・・)、さてどうなりますか。

 寒いんですが私の部屋は暖房をケチっていますからコタツだけ。そこから出るのが辛いので冬の間はディスプレイをコタツ板に乗せてパソコンは弄る、です。しかし苦痛とまでは言わないまでも色々と楽しくないわけです。特に音がもうホント気になるんですよ。筐体が音響的によくないんでしょうね、ウナルんです。まー楽しくないんで、それで小さくこじんまりと静かに使える中古のB5ノートを買った(送料を含めても3700円で)んですがマルチにならないし800*600が最大表示。テレビを見たりで使う分には十分なんですが、ホームページ作りにはこれではちょっと・・ですね、さすがに。
 今日からはでも暖かくなるんだそうですからホームページ作りは机に移動しよう、なんですが、さすがにウナったりはしないメイン・パソコンはメモリーエラーが出てwindowsが起動しません。なんでかなあ?またごちゃごちゃいじくんなきゃなのかなあ?
 もうこのごろは歳のせいかハードウェアをかまうのが恐ろしく面倒になってきていて。しかしいやなんですけど、しょうがないですか。このノートをメインに使うのはそれ以上に恐ろしくあれこれが面倒くさくなりますからねえ・・。
(2010/02/20)

 とゆーわけで、バーさん、めでたく入院。ネガキ(褥創)じゃなくて帯状疱疹だそうです。
 他の病名も出てきたんですが、ま、それは、言わんどこ、です。
(2010/02/22 追加)

 、しかし極めて遺憾ながら、バーさん、本日悲しいかな、退院。入院だ退院だなんてもんじゃないよ。人騒がせに行っただけかよ、お前は。ったくもう・・・。

(2010/02/28 追加)



 “うたたねに 恋しき人を見てしより 夢てふものを 頼み初めてき” 小野小町

 「眉毛を全部引っこ抜いて歯を黒く染め、引き目かぎ鼻下膨れ」が美女だったころの美女ですからいまどきではどうでしょうか、はありますが、まっそれは別論だとして。^^;
 世紀の美女、小野小町にこう片思いをさせた男って一体誰なんでしょうか?
 普通になら在原業平あたりになるんでしょうが、それではなんか文弱軟派の渡辺淳一(無関係な人の名前を出すな!)あたりの恋愛小説という名の通俗エロ小説にしかならないし。
 まあしかし、それが平安貴族世界の背景を持てば、生臭尼作家・瀬戸内寂聴(だから無関係な人の名前を出すんじゃねえって!バカッ!!)の、「もののあわれ」のセンチメンタルでウルウル法話にもなるのかも? アホくさ、だけですけどね、それは私には。
 恋愛に思想なんて勿論必要じゃありません。だけど、ご都合主義以外の他には何の思想も持っていない脳無し作家の恋愛論だけは真っ平ご免だ、ですので、だから、ですか、と。
 で、この小野小町、実は全くその人を語るところの資料が無いんですね。正に、「皆無」です。小野小町の作だとされる百首ばかりの歌があるだけです。それ以外には本当に何もありません。
 だからこそ、その歌を読む人の数だけ、「小野小町は実はこんな女だった(に違いない)」の歌物語というか伝説が作られるわけで。
 私はというと、しかし小町論をやって歌伝説をまた新たに作って加えたい、とは思いませんね。有名な深草の少将の歌伝説だけで、小野小町は十分でしょう。それ以外の歌物語なんかは、美女にはいらない、で。

(「ある方とお話をして夜をすごしますの」と言って、でも一人きりで夜を明かした日の朝「こんなに長い夜に一人で一晩中またなんで起きていたんだ?」と野暮を言う人に)
 “秋の夜も 名のみなりけり 逢ひと逢へば ことぞともなく 明けぬるものを” 小野小町

 ま、春になりましたね。今年も。でも数日後かには寒波がまた来るとか。ここの天気予報ではまだまだ最低気温が氷点下になる日も多いそうです。

(2010/03/05)



 もー真夜中だっつう夜、夜中、バーさんがおもゆを作れなんぞと例によって言いだして。
 基本思想として“食べ物に関してのいかなる自分勝手のわがままは、しかしなんびとといえどもこれは許す”、ですから、こんな夜に何か食べたがるな、とは言いません。とはいえおもゆは面倒くさいし、そのおかずも作んなきゃ、ですから、それはいやだ、と応えます。ソーメンにしよ(もち、これなら簡単)、で、「そんなものは食いたくない」「じゃあなんにも食うな」「ならソーメンでいいよ」とこれも例によってのやりとりがあってなにを食べるかは決定。
 ソーメンだけってのもしかしなんだ、でトッピング(?)に、と庭で育っているかき菜を取りに外へ。
 いつも見ている夜の外。でもなんか、夜ってどこも同じだよなあ、といつもながらでしかしさらにちょっとしんみりと。
 この時期の夜の外気って、私はあたるとその夜気の温度がセンチメンタルな感慨をひきおこすんですよね。

 トボトボトボトボ歩いてた。立ち止まると寒いから。帰る家なんてないから。だから、トボトボトボトボ歩いているしかなかった。手にひとつだけ紙袋を下げて。中に入っているのは、ティッシュペーパーとタオルとコンピュータから外したハードディスク。そして心臓薬。それだけ。
 もうなんにもないんだ。資料もつれづれの感慨のための小道具も。鉛筆一本紙切れ一枚ならあるけれど、もうそれじゃなんにも書けない。つまり、もう誰とも話せない。誰かに語ることがもうない。それだけがただ思い浮かぶ考えなだけ。
 てっぺんに警告灯が点滅している高層ビルが何本も立っている下だって、タクシーなんかの車が次々と走り去って行く道路の歩道だって、真夜中でも学生さんの出入りがある学校の横だって、コンビニの前だって、飲食店のネオンの脇だって、ただトボトボトボトボ歩いて通り過ぎてゆくだけ。行く先なんて勿論ない。立ち止まっているのが寒くてつらいから。それだけが、歩いてゆく理由。
 今はともかくも、しかし、帰る家はあるし、とにかくは止まっていても寒さはしのげますし、ひととおりの資料はそろいましたけど。だから何も書けないわけじゃありません。ですけれど。
 でも、と、ちょっとセンチメンタルになるしかないひとりきり。バーさんいたって、どれほどの何を話すわけじゃないし、なにより、現実にいる人のおよそ誰とも語らない。そっ、ひとりっきり。
 だから、自分にとっての夜の景色は、肌が感じる夜気の温度だけ。だから、夜の外気があたるといつも思う。夜の景色って、どこもおんなじだよなあ・・・って。

 と、年甲斐も無くいい歳こいての感傷に浸って過ごしていた折、バーさんこんどは「焼きそば!」とのこと。ちなみに真夜中3時。。。
 まあ私もなんか夜食を、なので私の分も。さらにちなみに。このバーさんの食事をつくるようになってから、私、生肉(非加工肉)を食べるようになりましたね。バーさん、肉食系ですからね、それにあわせるようになってからは。で、キャベツだけでなくたっぷりと豚肉も入れてジュージャーと。

(2010/03/14)



 ヴァン・ダイクって昔から好きなんです。割とシブ好みだったんですよね^^、若いときから。でも日本では、この画家はそんなに人気のある画家じゃないみたいですよね。私の知る限りでは、ですが。こんなに上手い画家なのに、なんでかなあ?と考えて、多分、詰まりはその「余りに上手すぎる」が他の大画家ほどには人気がない原因なんだろうな、って結論になりました。
 今時のネット風の言い方で言えば、「上手いって、それがなに?」の応答で終わりにされてしまう、と。
 上手すぎますよね。一つ上の女性の肖像画なんて完璧でしょ? それに限らず、およその肖像画のモデルがそのように描かれています。

 肖像画のモデルから、こんな絵全く似てないと抗議されて「そのうちオマエの方から絵に似てくるさ」などと嘯いてすませてしまうピカソ(しかしピカソに肖像画を描いてもらおうなんて人も人ですが^^)とはまるで違って、聖女のように描きあげていますからね。そりゃこんな風に自分の肖像画を描いてもらえるなら、誰だってヴァン・ダイクに描いて欲しいとおもいますよ。
 でも、だからこの人の肖像画は全く本人に似ていないんだ、が、逆にあるんでしょうね。

 こういった完璧な容貌を持つ人はいるかも知れない。そしてその人は、その肖像画からイメージされるような完璧な人格を持ち、そうだとして世から尊敬をかちえ、誰からも愛されて、その人の感情は怒り・猜疑・権力欲名誉欲物欲・嫉妬・利己心などなどといったこととは全く無縁で、公平で鷹揚で謙虚で優しく、驕り高ぶらず、慈悲慈愛に満ち、敬虔で寛容で心に憂いの無い日々を送っている。それしかこの肖像画はイメージさせない。。。
 だ、け、ど、、そんな人がこの世にいるわけないじゃないか! です、と。
 上手いから詰まらない、ですね。 つまりもっと下手(?)だったらむしろそのモデルに思い入れができるんだけど、ですね。
 でも私は、正にその、「完璧に描いたがゆえに全く似ていない」「こんなに上手けりゃ詰まらない」のその絵が好きなんですね。理由は「全く似ていないし上手くて詰まらない」から、です。渋好みだということです。^^;

 でもこの段にある絵、「エジプトへの逃避」はちょっと違った感じですよね?
 老人(ヨセフですかね?ものすごく老けてますからとてもこの若い女の亭主には見えませんけど)が何かをマリアに言って促している風ですね。マリアはしかしそれに言葉では答えていません。表情はなんか硬いというか思い詰めているとさえ言っていいようなものに見えます。ただ目だけで老人の指差す方を見ていますが、それが指し示す何かにはしかし全く無関心なようすにも見えます。
 この一瞬を描いている絵が、一編の短編小説を、それを見るもの見るものに作らせているんですね。こういった「短編小説を見る者見る者に作らせる」って絵は、でも少ないですよね?その意味で、これは私は、大変な名画だと思っているんですが。そう思うのも、しかし、渋好みってやつですかしらん?^^
 さて短編小説作りですから、ある状況設定を置いてその中に、あるキャラクタを持つ人物をその人の否応無しで無理矢理放り込みます。その時にそこでその人は何をし、何を語り、どう行動して周りの状況と相互作用をするだろうか? そう、そのお話を作るということですね。
 私はキリスト教徒ではありませんし、それどころか大変にバチアタリなので、それはバチアタリな短編小説になります。曰く、マリアの自我の芽生え、です。

 「いやよ。行かないわ。あなた一人で行って。あなたとは別れるわ。もうあなたにも誰にも振り回されない。私をねんねえだと思って散々いいようにしたわね。でももういやよ。あなたたちの言うとおりになんかならないわ。何が神よ。何が精霊よ。何が天使のお告げよ。みんな私の知らない、そうだってあなたたちが勝手に言っていただけのただのお話でしかないじゃない。あなたたちがそうしたいからって、でもそんなもののヒロインなんかには私はならないわ。一人にして。決心したの。一人になるわ。さよなら」

 などなどとなってしまうその短編小説を作る、これはその絵なんです。^^;
 ではあなたなら、どんな短編小説をこの絵から作りますか?

(2010/03/22)