今になっても自分がなぜこんなにのめり込むことになったのか、
さっぱり判らない。きっかけがとても些細なことで、
単純な興味からはじまったのだけは確かだけど、
こんなふうに幸せな結末をひとつ得られることになるだなんて、
1年半前のあの日には想像すらもしていなかった。
2005年の正月が明けて、何日めのことだったか──。
僕は自分の部屋の玄関に飾ってある、イラストレーターであり
ティーポのデザイナーでもある鈴木克己君が描いた、
エンツォ・フェラーリが楽しそうに笑っているイラストを
ボケ〜ッと眺めていた。つまりは暇だったのだと思う。
そのときに、ふと頭の中に余計な疑問がポコンと湧いてきたのだ。
エンツォ・フェラーリって、自分のサインを書くときに
必ずパープルのインクを使ってたんだよな。
それはいったいどうしてパープル?
そのパープルって、どんな色だったんだ……?
自宅にあった関連のありそうな洋書を10冊ばかり引っ張り出し、
電子辞書を片手にナナメ読みをしたが、何も書かれてなかった。
資料オタクといえる知人に連絡して
彼の書庫を漁らせてもらう算段をつけ、次の週末を費やしてみたが、
やはり何も見つけられなかった。
紫のインクを好んだ理由どころか紫を使っていたことさえも、
綺麗サッパリすかんぴんといえるほどに全く記載されていなかった。
そうなりゃ意地で、だんだんムキになってくる。
インク方面から何か判ることはないかとデパートや文具店などを
何軒か回ってみたが、当然のごとく不発に終わり、
何人ものフェラーリに詳しい人に連絡をしてみては不発に終わり、
新たに妖しげな書物を発見して紐解いてみては不発に終わり、
無駄な足掻きとおよそ2ヶ月の時間を通じて判ったことはといえば
「さっぱり判らない」ということだけだった。
ところが、嬉しい知らせというのは突然届くものだ。
フェラーリの日本の総輸入元である
コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドを通して問い合わせた、
フェラーリ本社からの回答である。
『エンツォ・フェラーリは、好んで紫色のインクを使っていました。
彼の父はいつもカーボン紙を使っていました。
転写用の表面の文字は、いつも紫色でした。幼い頃から見てきた
父の姿やそのイメージが、彼の心の中の記憶に残ったのでしょう。
エンツォが紫のインクを使ったのは、
そうしたとても人間的な理由なんだと思います。
残念なことに今となっては、彼が使っていた
そのインクのメーカーを特定することはできませんけど』
数日後、再びコーンズ広報の河野さんから連絡を頂戴した。
マラネロの広報から、何の前触れもなくメイルが届いたのだという。
そこにはインクのメーカーの名前と、
そのインクをフェラーリに収めていた文具店の名前が書いてあった。
インクのメーカーは『Gnocchi(=ニョッキ)』、
文具店の名は『Olivieri(=オリヴィエーリ)』というらしい。
ここまで判ったら、そのインクで文字を書いてみたいと思うのは
特別な感情でも何でもないと思う。
僕はミラノ在住のコーディネーターである野口祐子さんに連絡をし、
メーカーの名前と念のために文具店の名前も伝えて、
そのインクを手に入れて欲しいとお願いをした。
だが、それから少しして届いた野口さんのメイルを読んで、
僕はガックリを肩を落とすことになった。
Gnocchiというメーカーは5年ほど前に消滅していて、
同じインクを手に入れるのは不可能ということを知ったからだ。
僕はそこで一度、諦めた。ないモノをねだっても仕方ないからだ。
けれど、野口さんが夏を前にして送ってくれたメイルを読んで、
僕は唖然としながらも興奮を隠すことができなくなった。
「当時フェラーリにインクを収めていたオリヴィエーリに
連絡をとってみました。また、別の方向から、
当時ニョッキでインクを作っていた職人さんを探し当てて、
お話をすることもできました。製造番号など
何かしらのヒントがあれば、当時と全く同じ製法で、
全く同じ色のインクを作ることもできるそうです。
まだ興味はありますか? よければイタリアに来ませんか?」
小さな疑問符が浮かんでから10ヶ月後の秋、僕はイタリアに渡った。
取材を兼ねて様々な人に会って話をうかがい、裏付けもとって、
滞在最終日にインク職人のオヤジさんを訪ねてみることにしたのだ。
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