● 昭和二十年四月七日、沖縄に上陸した米軍攻撃のため出撃した帝國海軍第二艦隊の旗艦『大和』は、米軍機多数の攻撃により東シナ海に沈んだ。
『大和』の出撃を無駄死とか海軍の面子を保つためとか論じている者が多いが、これについて靖國神社の機関紙「靖國」第632号に沖縄出身の作家・惠隆之介氏が一文を寄稿されている。
従来は米軍攻撃任務だけが強調されていたが、『大和』の船倉には沖縄県民への救援用民需物資が大量に積載されたというのである。
それによれば、昭和五十八年八月二十日発行の中央公論増刊「歴史と人物」(太平洋戦争秘話)に、当時シオノギ製薬原料課農水産係長兼特需原料係長で海軍嘱託だった市橋立彦氏が『大和』出撃前に海軍から受けた特命を証言している。
内容は「歯磨き、歯ブラシ各五十万人分、美顔クリーム二十五万人分、メンスバンド(月経帯)十五万人分」の調達特命で、市橋氏は某海軍大尉と共に大阪の中小零細企業をまわってかき集め、三月下旬の深夜に大阪梅田貨物駅から十数両の貨車によって
おそらく海軍はこれ以外にも、各民間企業に救援用民需物資の調達特命を発していただろう事は想像に難くない。残念ながら敗戦で殆どの機密文書が焼却されてしまったので、今となっては確認が難しくなってしまった。
思えば海軍は沖縄を取られれば終わりという認識から、可動特攻機の殆どを投入している。『大和』の出撃も「面子」云々の俗説を排すべきで、やはり本気で沖縄を守るためだったのである。
● 戦後の米軍統治時期から復帰後しばらくにかけて、沖縄県人には一種の矜持と誇りがあったように思える。また本土の人々にも、唯一地上戦の渦中にあった沖縄県人に対する暗黙の畏敬があった。
ところがここ十数年でどうなったか。マスコミが取り上げる沖縄県民の「感情」の奥底には、本土の捨石だった、犠牲者、被害者だという怨念部分が顕著になっている。
しかも沖縄防衛戦の構図を「日本VSアメリカ軍」から「沖縄県民VS日本軍」にスリ替えようという卑劣な企みが試みられているのである。
そして左翼主導の行動は、まさにシナや朝鮮流のやり口。終いには「中華“琉球”特別行政区」を樹立しようとするだろう。ま、その報いは自分自身に返ってくるだろうが。
被害者ヅラして泣き喚く連中に対して、少なくとも私は畏敬の念なぞ抱かない。ただ惜しむらくは、冒頭に上げた証言にあるように海軍は、本土は決して沖縄を米軍上陸の時点で見捨ててはいなかったという事が、もっと世に、沖縄県人に知られてもよいのではないか。
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おそらく海軍上層部の頭の中には、姉妹艦『武蔵』が魚雷20本以上を受けても直ぐには沈まなかった事が刷り込まれていたのではないだろうか。沖縄は近場でもあるし、何とかなると甘く考えていたのかも知れない。
しかし航空支援の無い水上艦艇単独による出撃は、やはり無謀であった。
見かねた第五航空艦隊(鹿児島県鹿屋)司令長官の宇垣纏中将が独断で途中まで護衛戦闘機を付けたが、本来ならば聨合艦隊司令部なり海軍軍令部なりが「航空支援せよ」と指揮下航空部隊に命令すべきではなかったろうか。
その一方で『大和』の出撃日時まで決める等、現地部隊(第二艦隊)の指揮裁量まで奪って計画を進めているのだから、当時の海軍上層部には正常なマネジメントとリーダーシップが失われていたのだろう。
当時の天候は、『大和』沈没翌日の八日が風雨強く大時化。米軍機は飛べず、従って『大和』と軽巡『矢矧』以下の第二水雷戦隊が沖縄に到達する可能性は高かった…
(大和ミュージアムの1/10『大和』)
by tom-h
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