〜エピローグ〜












 ◇ この空の果て ◇ 










――――十数年後。




「陛下、ファラオがお見えです」
ルカが階の下で傅いた。皇帝は鷹揚に頷くと彼にこの広間の人払いを命ずる。
ダマスコの屋敷を、ファラオはヒッタイト皇帝との会見の場として指定していた。
威風堂々とヒッタイト皇帝の待つ接見の間へ足を踏み入れたファラオは、階の上から穏やかに見下ろすその男の前に頭を垂れた。
「人払いをしてあるゆえ、面を上げられよ。堅苦しい作法は無しとしようではないか」
「お心遣い忝ない」
褐色の肩から漆黒の髪が流れ落ち、威厳ある低い声とともにファラオが顔を上げる。
母親譲りの蒼い瞳が僅かに微笑んだ。


四人目の子を出産した直後にキャロルが亡くなって僅か半年後、メンフィスも又後を追うようにして風のようにこの世を去った。二人は今、共に王家の谷に葬られている。


「早いものだ。メンフィス王と王妃が亡くなられてからもう二年とは。……それで、そなたが申されていた父君からの遺言とは一体……」
「その気になればもっと早くに皇帝陛下を訪ねることも可能でした。ですが正直迷いに迷い、此処まで来るのが遅くなってしまいました」
「ファラオのそなたが自ら来なければならないわけがあったと?」
「――他の者の耳には断じて入れられぬ話です。父メンフィスと母キャロル、そしてあなたの間にあった事を知る者、即ちわたしでなくてはならないと、父上自らが生前わたしに命じられました」
「メンフィス王が……?」
「まずは……これを」
立ち上がると、ライアが黄金造りの小箱を差し出した。淡い朱色の蓮が色鮮やかに彫刻されている。

一体メンフィス王が、わたしに何を渡そうと……イズミルは静かにその蓋を開けた。
「……これは……」
たった一房の黄金に輝く髪。イズミルは言葉を無くした。
見間違うはずがあろうか。キャロルの髪。今は亡きそのひとの細い肩で揺れていた光色に輝く髪。
若き日に封印した想いが、あの日々が、走馬燈のように蘇ってくる。

「父上は母上が亡くなった直後、わたしにこの小箱を託されました。父上の手で切り取られた母上の髪です。『わたし亡きあと、皇帝にそなたの手からこれを渡せ』と。
今にして思えば父は、母が亡くなられたあと既に自分の死期を察しておられたのかも知れませぬ。父は、母が無くては文字通り生きてはおれぬ人であったのだと思います。
母も亡くなるその時まで父を静かに愛しんでおられた。無論母の心にはどの様な想いが沈められていたのかは誰にも解りませぬ。母一人にしか解らぬ事。
ですがわたしは――たとえどの様な想いがそこにあったのだとしても、わたしは二人は幸せであったのだと信じております、陛下」

「……そうか。姫は幸せであったと……」

あのアッシリアの別れのあと、イズミルとキャロルはただの一度も顔を合わせることはなかった。
潜ませてある者からの報告では、王妃がエジプトに帰ったときの民の悦びは大変なものだったらしい。その後数カ月して彼女が第二子――王女――を無事に産んだと知らせが入った。
ファラオはその前には後宮を廃し、ただ一人いた側室は将軍の奥方になったという。
王妃への寵愛ぶりは些かも変わらないとの間者からの知らせが続いたが、それでも実際に目にしたわけではなく、心のどこかでは常に、彼女が本当にファラオに大切にされているのか、愛されているのかという気掛かりがあった。

「……メンフィス王は何故この髪をわたしに届けるつもりになったのであろう」
光を受けてきらきらと輝く髪にそっと触れながら皇帝はふと呟いた。本来憎い恋敵であったはずの男に、愛してやまない妃の遺髪を届けさせるとは一体どの様なつもりで。
「わたしは父母や陛下との間にあったような激しい恋情は幸か不幸かまだ知りませぬ。ですから想像でしか申し上げられない。
おそらくあなたに心を残しながらも生涯を父と共に生きてくれた母への、父なりのせめてもの感謝の証だったのかも知れない。……父だけが知ることです。わたしは、ただ父の遺言を果たしているだけだ」
ライアの言うことは全くの見当はずれというわけではないだろう。皇帝はメンフィスによく似た面差しを見つめながら頷いた。

「陛下、バルコニーに出ても宜しいか」すらりとした肢体を穏やかな風の吹き込むバルコニーへ向けてライアは振り返った。「これからお教えすることが、わたしが二年ものあいだ父の遺言に従うべきか否かと逡巡し続けたことなのです」
「構わぬ。このバルコニーからは幼い頃そなたが遊んだ庭が一望できる。みてみるがよい」

ライアが進み、そのあとに皇帝が続いた。
手すりから見下ろす広大な庭には、一面に白い花が咲き乱れていた。息を呑んで見下ろすライアに皇帝が告げる。
「あの白い花はオロンテスの山中で摘んだものをここへ植えたものだ。今の季節、少し強めの風が吹くとまるで雪が舞ったようになる」
「オロンテス山……そこで母上は、わたしを流産するところをあなたに救われた」
「……昔のことだ」

そうだ、昔のことだ。あの時彼女の腹の中にいてまだ姿形もなかった赤子が、いまはこの己よりも背丈が高くなっている。
なんと長い月日であったことか。今はもう憎しみも哀しみもなく、己が一人の女を愛したという事実がそこにあるだけなのだ。

「ひとつ、聞いていただきたい。これからわたしは妹を呼ぶ。妹の顔を見れば、あなたには父がわたしをここへ遣わせたわけがお判りになる。ですが妹は何も知らぬのです。……ネフティに何も言って下さるな。ファラオとして申し上げる」
それまでの穏やかな表情を別人のような厳しいものに変えたライアは、まさに父メンフィスを彷彿とさせた。
「承知した。わたしを信用しろ、ライア」

「……ネフティ、ここへ」
ファラオの声に応えてベールを目深に被った一人の少女が進み出た。
肩に落ちる、キャロルの癖のある髪とは違う真っ直ぐな金色の髪。抜けるように白い肌。ライアがメンフィスの容姿を受け継いだというなら、彼女は紛れもなくキャロルの容姿を受け継いでいた。さらさらと紗の音を奏でながら皇帝と兄の前に立つと、彼女は静かに傅いた。
「父の遺言でした。ネフティを陛下に逢わせるよう……ネフティ」
兄に促され、ネフティがゆっくりとベールを上げ伏せていた瞳をイズミルへ向ける。イズミルは彼女を凝視し、今度こそ絶句した。
輝く金髪、癖のないまっすぐな髪。そして彼女の瞳の色は――。

琥珀色の瞳を上げ、ネフティは鈴の鳴るような愛らしい声で静かに告げた。
「ネフティと申します」
「ネフティ……殿……」
「――あの戦の九ヶ月後、ネフティは誕生しました。男児ばかりが生まれた両親の間に娘はネフティしか居りませぬ。ゆえに父は……」
顔を上げた皇帝の琥珀色の瞳に応えて、ライアははっきりと言った。
「……父は、ただ一人の娘であるネフティを、大層慈しんでおられました。まさしく目に入れても痛くないほどに」

あの戦の九ヶ月あとに生まれたネフティ。キャロルの髪質ともメンフィスのそれとも明らかに違う細くまっすぐな髪。琥珀色の瞳――。

全てを悟った。何か言わなければ、そうはやる心と裏腹に、イズミルの喉からはひとつの言葉も出てはこない。

――では、メンフィス王は。

己の死後にこの王女を自分に引き逢わせる事を遺言としたメンフィス王は、それを知っていたのか。知りながら、己の娘として慈しんでくれたということなのか。かつて自分がこのライアを慈しんだと同じように。
この躰にわたしと姫の血が流れている。あのとき全て断ち切ったと思っていたキャロルとの絆。それが己の知らぬ処で存在した――娘となって。

何かが溶けて流れていった。
それが何であったのか彼にもわからなかった。ずっと考えないようにしてきたキャロルへの恋慕なのか、それともキャロルをとうとう生涯手放そうとはしなかったメンフィスへのわだかまりなのか。


「礼を言おう。そなた達にも、メンフィス王にも。もう一つ聞かせてくれるか、ライア。姫は……そなたの母は……安らかに逝ったか」
ライアははっきりとした口調で答えた。
「眠るような顔でした。まるで少女のような――初めて出会った頃のような顔をしていると、父が微笑んでおりました」
「……そうか」
「母はきっと幸せであったのです。わたしはそう信じております……『父様』」







             







あの日オロンテスから植え替えた小さな白い花が一面を絨毯のように覆っていいた。時折吹く風に、甘い香りと共に白い花びらが雪のように舞い上がっては、空へと上ってゆく。
「まこと雪のようだ……」
その中に佇んで、イズミルは花びらに手を伸ばしながら呟いた。
見渡せばそこには十数年もの昔、この屋敷にいた愛しい人の様々な姿がある。彼は、手入れはされているが年月に晒されて古ぼけたベンチを見下ろした。ライアを身籠もっていた日々、ここに座って彼女は漸く目立ち始めた腹を愛おしそうに撫でていたのだ。
少し離れたところには大きく成長した大木が葉を茂らせている。
――そうだ、あの木の下だ。ライアを腕に抱いて庭を巡り、葉や花を摘んでやっては不思議そうに眺める幼子を、そなたは優しく見つめていた。
――そして夕暮れどきにここに佇み、ここではないどこか遠くにそなたが思いを馳せているのを、一体何度見つめたことだろう。

そのどれもこれも、ずっと昔のことなのに昨日のことのように覚えている。
彼女はもう、この世にはいないというのに。

  
ファラオとしての生を全うしたメンフィス。王妃としての生を全うしたキャロル。
同様に彼もまたヒッタイト皇帝としての生を生きていた。
ハットウシャには皇妃ミラとの間に三人の皇子と皇女。年が明ければ立太子の儀を執り行う運びになっている。
 
彼は口元に笑みを浮かべた。
今生はメンフィス王にそなたをまんまと浚われたが、来世はどうであろう。
生まれ変わってもわたしはまた、メンフィス王とそなたの愛を奪い合うのだろうか。       



――皇子。


                                      
「姫……?」


過ぎし日のキャロルの声をそこに聞いたような気がして、イズミルは白い花吹雪のなかでふと振り返った。



……そこにいるのか、姫よ。






――さようなら、皇帝陛下。


「別れは言わぬ。わたしもまた幸せだった。そなたと出会えたことが何よりの幸せだった。たとえ――」


白銀の髪が風に踊り、白く小さな花びらが高く、高く舞い上がって行く。
イズミルは澄んだ蒼穹を仰いで目を閉じた。




姫。


――姫。




――キャロル。






――たとえ結ばれなくとも――そなたは。
















白い花を敷き詰めた上に広がるこの蒼い空の果て――灼熱の太陽の下。






ただ一人愛した女は静かに眠る。































この空の果て 


 完




























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