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この空の果て 11−2




























「……だれ……?」
か細い声に我に返れば、腕の中からライアが閉じそうになる瞼を懸命に押し上げて彼を見上げていた。瞳の色のほかは何から何まで彼に生き写しの小さな息子が、縋るように手を伸ばしてくる。
「……おねがい……です」
腫れ上がった頬におされて細くなったライアの瞳から涙が零れた。
小さな身体を自分の方へ抱き寄せて、ファラオは息子の耳元で静かに答える。
「何だ、何を願う。もう何も案ずることはないのだ、申せ」
「おねがい……たすけて……」
「……助ける……?」
「とうさまとかあさまを……はやく……おねがい……」
消え入りそうな小さな言葉は、大きな衝撃波となってメンフィスの動きを止めた。尚もライアは何かを言おうとしたようだったが、ファラオの返事を待たずに王子は意識を手放していた。

静寂が戻る。
冴えた星の明かりが流れる雲に遮られ、目を閉じたライアの顔は薄闇の中にかすんだ。
「……ライア」
頬に流れた涙を指先でそっと拭ってやりながら、メンフィスは息子の名を呟いた。己は一体どんな顔を息子に晒していただろう。少なくともファラオの顔を取り繕う余裕はなかった。
これまでの生涯でこれほどに激しい衝撃を受けたことなどあっただろうか――そう考えて彼は唇の端で嗤った。

……いや、一度だけある。

ナイルの畔で、ファラオになって初めての朝に出会った女。

息を呑むほど眩く輝いていた金色の髪と、大きく見開いた蒼い瞳と、透き通るような白い肌。清らかな朝日の中で出会ったただ一人の女は、この心の半分をもぎ取ったことも知らず逃げていったのだ。

「母子してわたしを驚かせてくれるわ……」

実の父を見て誰なのかと言った。
実の父に向かって「父を助けよ」と言った。

何という皮肉か。

「わたしはどう考えればよいのであろうな、ミヌーエ」
ファラオと王子の傍らに膝を折りつつ、将軍は静かに頭を垂れた。
眠りに入ったライアを悲痛な眼差しで見つめ、ファラオは自嘲に満ちた笑みを浮かべながら尚も続ける。
「わたしはエジプトからその男を殺すためにここまで来たというのに、その男の命を助けよとライアは言う。死んだものと諦めていた息子が、わたしの仇を父と呼ぶ」
「ライア様はイズミル皇帝を実の父と信じ、疑わずにお育ちになられたのでしょう。そして皇帝が自らの危険を省みず自分を救おうと手段を講じたことをおそらくは感じ取っておられる」
ファラオはもう一度息子の頬を撫でた。
「……あの男は、わたしの息子に実の子として接していたとでもいうのか。虐げることもなく『とうさまをたすけてください』と言わしめるだけの日常を、わたしの息子に与えていたと。……そんなことが」
ミヌーエが沈黙を持ってその答えとする。ファラオの低い声が静寂を拒むように響いた。
「……そのようなことがあるか。わたしの――敵国の王の子を、敵国の未来を担う子を、我が子として育てるなどと……そのようなことあり得ぬ、違うか!」


――皇帝よ。
何故そのように余計なことをしてくれた。
お前にとってわたしは、愛しいキャロルを手に入れるためにはどうあっても邪魔な存在だったはずだ。
キャロルが記憶を失っていた時期があったとはいえ、これ程までにわたしによく似たこの子の顔をみれば、嫌でもわたしのことを――わたしとキャロルが愛し合う様をも――思い起こさずにいられなかったはずだ。ライアの存在がなければ、やりようによってはキャロルはやすやすとお前の手に落ちたかも知れぬ。
そのライアを、なぜにそうも大切に育てた? 
大切に接してきたのだろうことは、ライアの今の言葉を聞けばよく解る。この子はお前を父と信じて疑わぬ。お前を助けよと涙さえ流した。虐げられ蔑まれる日常を送っていた子が、この様な言葉を口にするわけはない。

「お前は何と残酷な願いを口にしたのだ」

メンフィスはたがが外れたようにライアの軽い身体を胸に掻き抱いた。腫れていない方の柔らかな頬に己の頬を押し当て、何かに耐えるようにじっと目を閉じる。

「何故にお前は、わたしのもとで育たなかったのか……!」

見ればライアの手足には枷をされていた跡がうっすらと残っていた。このアッシリアで、この子は一体どれ程の思いを味わっていたのか。確かにあの男は自分の子としてライアに接していたのかも知れぬ。そしてライアを助けるために自らを窮地に追い込んだのかも知れぬ。
だがそれも、すべてはあの男自身がたぐり寄せた運命ではなかったか。
あの男がキャロルを隠したりしなければキャロルはエジプトで出産し、ライアはこのわたしの手元で育っていたに違いないのだ。

「全てはあの男の自業自得だ。わたしが恩を感じることはない。違うか、ミヌーエ」
「仰るとおりでございます。皇帝が我が国に対してはたらいた不実は消し去ることなど出来ぬ重罪。……ですが」片膝をついた姿勢で、ミヌーエが続ける。「ですが皇帝は流産をしかけたキャロルさまを助け、その上本来なら手にかけても不思議ではないライア様の命を助けた。これも動かしようのない事実」
「……キャロル」
目を閉じるライアを見つめながら、ファラオは呻くような声を絞り出した。その脳裏にいつかキャロルが口にした言葉が蘇る。

『……流産しかけたわ……皇子が手を尽くしてくれなかったら、ライアは流れていた……そして出産後の出血……そのせいで……わたしは記憶を――』

あの男がそのときキャロルの傍にいたお陰でライアは流れずにすんだ。流れずにこの世に生を受け、命を絶たれることなく――こうしてこの腕の中にいる。

「ライア。わたしの声が聞こえるか」
「お待ちを、メンフィス王」
小さな身体を揺り起こそうとするファラオに、ハサンが緊張した面持ちで告げる。
「王子様は仮死状態から目覚めたばかりで体力が極限まで落ちています。その上に受けた暴力が身体と心に大きな負担を掛けたのでしょう。自然に目覚めるまで眠らせた方がいい」
元気な頃を見たわけではないが、息子の身体が痩せていることはよく判った。誰がライアを殴ったのかは聞くまでもない。この様にか弱い、満足に抵抗も出来ぬ幼子を相手に。

「許さぬ……」

父として初めて生じた感情は、アルゴン王への憤怒だった。
イズミルに向けてどれ程の怒りを掻き立てようとしてみても、もはや以前のようにはいかない。

「決して後悔はなさいますな。ファラオがどの様な決断にいたりますとも、我等エジプト軍、ファラオへの忠誠に変わりはございませぬ」
傍らからミヌーエの柔らかい声がする。
この男にだけは、己がもう既に決断していることなど――そしてどの様な決意に至ったのかなど――全て解っているのだろう。



借りは返す。



あの男がオロンテスの山の中で、キャロルとキャロルの腹の中にいたライアを救ったこと。そして出産後の出血により命を落としかけたキャロルを救い、その時に殺していても不思議ではなかったライアを手にかけなかったこと。アッシリアの虜囚という屈辱を味わいながらもライア救出の手だてを講じたこと。


その借りは返してやろう、ヒッタイト皇帝よ。


「ウナス」メンフィスは立ち上がると、短髪の青年にライアを手渡した。
「これまで離ればなれでいたのだ、ライアのみを今から城外へ脱出させるつもりはない。第一、今からその猶予があるとはとても思えぬ。ライアはこのままわたしと行動を共にする。
ここでわたしと共に斃れるならばそれも宿命……だがウナスよ、心して守れ。わたしの息子、エジプトの未来だ。決して死なせて良い命ではない」
「はい」いつもは柔和なウナスの面差しが、別人のような緊張を帯びる。「命に代えましてもお守りいたします」
ライアとウナスの護衛役に、ファラオは剣術に長けた男達を指名した。

夜明けまであと二時間と言ったところか。星空を覆っていた雲はいつの間にか、綺麗に取り払われている。




待っていろ皇帝。今から借りを返しに行く。
剣の柄を握り、ライアの安らかな顔を見遣るとファラオは心に呟いた。



――ただ一度だけ、我が息子ライアのために。