Thursday, November 26, 2009

真光とスワミ・ラーマ <5>; 皆が奇跡を出す?  Mahikari and Swami Rama < 5 > ; Everybody performs miracles?

前回の『真光とスワミ・ラーマ <4>』(2009/09)の『御対談集』の引用部分(p306ー307)に関しての続きです。

♦ヨガの究極の極意 

「真光とスワミ・ラーマ <3>」(2009/07)でも『ヨガの真髄』について話題にしました。『御対談集』の引用部分(p232)で、<「ヨガの極意」と「真光の業で病気を治す」ことは一致する>とラーマが言ったとほのめかし、前回での『御対談集』の引用部分(p306ー307)では、<私は実際岡田さんと同じようにこの行力でどんな病気も治せる。それは今も弟子に究極の極意として教えているが、それはヨガの極意なんだ>とラーマの言葉そのものとして述べています。しかし、このヨガ行者が実際にそう言ったのかどうか、また、仮にそれらしきことを言ったとしても、光玉の描写するのと同じ意味・状況で言ったのかどうか、聞き手は知り様がありません。ですから光玉の思いのままに脚色や改変をしてもそれで通ってしまいます。ラーマという人物を借りて、光玉の言いたいことが述べられていると見てよいでしょう。

この二つの引用部分で光玉が聞き手に印象付けようとしていることは、<真光の業でどんな病気も治せる。これは「ヨガの極意」でもあるんだ。だから、真光の業は凄いんだぞ>ということです。しかし、実際には「ヨガの極意」と「真光の業で病気を治す」というのは一致しません。〔注1〕

第一、崇教真光によると、『真光の業は病気を治すという業ではない』のです。〔注2〕 従って、『真光の業』は、光玉が話している『ヨガの極意』からは増々かけ離れたものになります。『真光の業は病気治しの業ではない』と宣言することによって、崇教真光は、ここでの光玉の印象作りを無効にしている上に、『真光の業』を増々訳の分からないものにしています。


♦皆があちらこちらで奇跡をだしちゃう

光玉の話し方では、真光で『三日間教えると、皆があちらこちらで奇跡を出す』のは事実である、とラーマが積極的に認めたように聞こえます。しかし、そうでしょうか。現実の事実を嘘だと言い、自分の説く、根拠のない説を『正しい』『神理である』と宣言した光玉にとって、出来事をちょっと歪めて自分に都合の良い様にしてしまうのは簡単なことだったでしょう。

例えば、ここでは、光玉が「三日間教えると、皆があちらこちらで奇跡をだしちゃうんだ」とラーマにまず話し、それを受けて、『どうやったら、たった三日間教えるだけで、皆があちらこちらで奇跡をだすようになるのか』とラーマが尋ねた、といった具合です。この場合には、光玉の話が事実である、とラーマが積極的に認めたことにはなりません。

ついでに 「真光とスワミ・ラーマ」(2009/04)で紹介した、ラーマの弟子側によるサイトでは、真光を説明するのに、『奇跡』『霊術』といった言葉は使われていません。参考まで。

光玉は、真光の業でどんな病気も治せる、この業のインスタントの効用として無病化の肉体にする、等、相当期待を抱かせることを言いました。〔注3〕『奇跡』に関しても、次の弁があります。


    理論はいらない!! 手をかざせば神の光が必ず放射されますから、奇跡は必ず起きる。  −−真光誌185(昭和53年2月号)p30


<手をかざせば、奇跡は必ず起きる>と光玉はここで言い切っています。何とも頼もしいではありませんか。が、ちょっと待って下さい。『理論はいらない!!』というのは、真光では「筋道のある思考はするな、真光以外の考え方はするな」ということです。筋の通った思考はせずに、ひたすら、自称『地上代行者』の弁を本当であると信じろ、ということです。つまり『手をかざせば、神の光が必ず放射され、奇跡が必ず起きる』と何が何でも信じろ、ということです。

手をかざしても現実に『奇跡』が起こらなければ、『神の光』など出ていないことにならないか ... などと考えてはいけないのです。

光玉は、「手をかざせば、必ず奇跡は起きる」と断言しているように、真光の手かざしと奇跡とを結びつけました。「奇跡を万人が見せつけられるようになる」(『御対談集』p14)、「今までのカビの生えた宗教では悪いけど奇跡続出というわけにはいきません」(『御対談集』p82)とも言いました。

『御祖師御講述ー初級 眞光研修用テキスト』には『全世界的な奇跡の続出はもう何百万という方々が体験をされ』(p3)との表現が見られますし、真光誌の「本誌を初めて手にするあなたに」のなかにも次の文があります。


     ...全世界の神組み手(信者)が奇跡の霊術<真光の業>によって連日巻き起こしている<奇跡と救済>の生々しい事実を紙面の許すかぎり紹介しています。


あたかも奇跡が日常茶飯事の如くに信者間に続出しているかのような印象(=幻想、ファンタジーとも言える)を作り出し、『奇跡』という言葉で人の関心を引こうとしています。

しかし、実際に元組み手の体験者を含む外部から真光を見てみると、真光の主張とは違った現実が存在することが浮き彫りにされてきます。「崇教真光のホームページに見られる表現『真光の業は病気を治すという業ではありません』について」(2007/12)でも、真光の言う奇跡についてネットでの見解のほんの一部を紹介、「光玉曰く、『どんな病気でも治るんです』(2008/01)でも、〔付加〕でネットでの書き込みを紹介しましたが、ここでさらに幾つか挙げてみましょう。合わせて参照してみて下さい。 


    ●真光組み手(信者)は、とても奇跡にこだわりありがたがるよね。
    真光には、星降るほどの奇跡体験談があるとかさ。
    でも、奇跡体験談の殆どは、自分の体験したことでなく、
    他道場の体験談や他人から聞いた話ばかり。  ーー真光関係者集合(51); 459

    ●私は崇教真光に20年いましたが、本当の奇跡を目の当たりにしたことがありません。
    人から伝え聞いた話ばかりで、切断された指がくっついた話とか ...どこまで本当か確かめた事もありませんでした。   ーー真光の業(手かざし)で奇蹟は起こるのか ...検証しよう!; 0

    ●浄霊系教団のお得意の手かざしで病気が治ったり、奇跡がおこったら
    なぜ病人がいなくならないんだ?逆に手かざしに頼りすぎ手遅れに
    なって死んじまった話は結構聞くよ、俺の親戚のオジサンみたく。
    んなもんで奇跡が起こるわけないだろう〜   ーー真光の業で奇跡は起こるのか...検証しよう!; 204

    ●よく眞光誌に奇跡奇跡と載るが、試しに周りの友人達に『ここ数年で、自分に奇跡!と言える体験はなかったか?』と聞くと、数人は危うい難を逃れたとか、突然の臨時収入があったりだとか、無事結婚妊娠出産就職転職できたのと、よく眞光誌に載りそうな解答がかえってきた。オミタマなくても入信しなくても世の中奇跡だらけだ。 
        ーーココが変!真光の本!;18

    ●私の知っている組み手は月並祭で発表する体験談を道場長に手直しされたものを読まされたとか。
    その日以来、真光誌の体験談も信用出来なくなったと言っていました。
    どこまでが本当でどこまでが改訂されたのか分からない真光誌の体験談。
    100パーセント信じる組み手が滑稽ですね。さすが嘘つき教団真光。 ーーココが変!真光の本!;953 

    ●私のいた道場では小さなことを誇張して無理矢理奇跡にして体験談発表していました。
    本山で発表されているのも、大袈裟に言っているだけで実際は
    それほどのことは無かったことが多いようですね。
    拠点では体験談発表しろと幹部がうるさいので捏造も起こりやすい。ーーココが変!真光の本!;954

    ●よくよく考えてみると、奇跡が起きたという話はほとんど過去の話ばかりだけであって、
    目の前で直ちに奇跡を起こしたという話はあまり聞かないのはなぜだろうか。  
    過去に奇跡が起こせたと、それを信者に対する説得の材料として使っているのであれば、 
    遠慮せずに奇跡を起こしてみればいいと思うのだが、そうできないのが現実であって、  
    まことにおかしな話といわなければならない。

      「儲かる宗教ビジネス」 田中一京 著 P47−48  ーーココが変!真光の本!;255


    ●私が組み手だった頃の話ですが、お導きに際して「他人の奇跡体験を自分が体験したように語ってもよい。」という指示が出たことがありました。嘘を言っても良い、ということでした。自分の身の回りに、奇跡を体験した人がいなかったので、語り様がなかった。.(笑    ーー真光関係者集合(43);265

    ●真光は、よく「手かざしのお陰で大難が小難になった」といい、信者で無くても起こる現象を奇跡と誇張して吹聴する、何でもアリの教団    ...    ーー崇教真光ーー徹底討論しよう;576
 
    ● たまたま病気が治った人だけが「奇跡」を宣伝して信者を募る。
    取り込まれた人は救われを信じて教団の為に己を犠牲にする。

    どこに信心する価値があるのか。ーー真光関係者集合(51);395

    ●奇跡話、本当だとしても、その背後には効果がなかった人、亡くなった人がたくさんいる。 
      ーー真光関係者集合(51);249

    ●私は大きな道場に10年いましたが 
    <肝硬変が治った>
    そんな”奇跡”は あ り ま せ ん で し た。
    
    大病が治った人は確かいましたが、その方は手術もした。
    そして10人に一人ではなく、在籍五百人以上の中のたった一人です。
    早期ガンの方は早期手術で回復したけど、他は皆亡くなりました。

    大病の場合は、助かった人はほどんどいません(皆無に等しい)
    亡くなった人が断然多いのが真光の事実です。
   
    ま、プラシーボで治る程度の病気なら治るかも。
 
    *大病や難病の方へ
    くれぐれも505の書き込みを見て信じないように。
    時間とお金を吸い取られるだけ、真光には賭ける価値はありません。    
    (悪化するのがオチです)

    これはちなみに真光の話。
    他の手かざしの話は知りません。    ーー崇教真光を斬れ;513

    ●何もしなくても治る人は治る
    それを奇跡だと言い立ててご奉納をせびる
    情けない宗教    ーー真光関係者集合(51);444


真光の奇跡体験談はどうも信憑性に欠けるようです。私も奇跡と呼べる出来事を目の当たりにしたことは一度もありませんでした。他の人の体験談にしても、事実面を知ろうとすると曖昧で、主観的色彩の濃いものが多かったことは確かです。でも、本人がそうだと思っているのなら、本人にとっては一応本当なのだろう、と思っていました。『正法を奉じている』はずの真光で、『奇跡』の誇張、捏造等があるなんて長い間夢にも思いませんでした。

「それ、本当?」「そんなのが奇跡になるのかな?」「そういうことが本当に手かざしの結果と言えるのかな?」等、時々変に感じることはありました。別の新興宗教の雑誌の体験談を読んで、「真光と似て、ここでも奇跡の話があるんだな」と思ったこともありました。ただし、その宗教では「手かざし」行為はありませんでしたが。

教団の情報が絶対の世界では教団の言うことが『本当』であり、『正しい』のであって、実際の所はどうだったのか、ということへの追求・疑問はなく、光玉や教団が言っていることに自分の認識を合わせようと一生懸命で、それと違う見方は「邪霊に操られている」「正神を邪魔に思う邪神の活動である」「霊的な見方がわからないのだ」等といった説明をこじつけて拒否する世界でした。こうして真光の世界の外側から振り返ってみると、一見感動的な奇跡話でさえ、信者自身の思い込みや、教団や周囲の信者に思い込まされたことが多々あったということがわかります。

実際には「何百万の信者が奇跡続出を体験した」わけではなく、「奇跡の霊術<真光の業>によって連日巻き起こしている<奇跡と救済>の生々しい事実」があるわけでもありません。あくまで宣伝用の言葉であって、真光を飾っているに過ぎません。

<真光の業でどんな病気も治せる><そのインスタントの効用として無病化の肉体にする>〔注3〕という光玉の弁は現実の事実ではなかったと同様に、『手をかざせば ...奇跡は必ず起きる』、『奇跡を万人が見せつけられるようになる』、(ラーマという人物を借りてはいるが)『皆があちこちで奇跡を出しちゃう』という弁も現実のものではなかったということです。



〔注1〕「真光とスワミ・ラーマ <3>」(2009/07)参照。
〔注2〕「崇教真光のホームページに見られる表現『真光の業は病気を治すという業ではありません』について」(2007/12)参照。
〔注3〕「光玉曰く、『どんな病気でも治るんです』(2008/01)
    『真光とスワミ・ラーマ <4>』(2009/09)、本文及び〔注6〕参照。

    

ーー火の鳥Phoenix3000