Friday, January 16, 2009

相沢忠洋氏と真光の岡田光玉 <1>: 関東ローム層、岩宿遺跡   (Okada, the founder of Mahikari, and Tadahiro Aizawa <1> : Kanto Loam Layers, Iwajuku Remains)

To the English reader,

Tadahiro Aizawa was an archeologist, who discovered the existence of the old stone age in Japan. According to Sukyo Mahikari publications, Aizawa and Kotama Okada met each other for the first time in June, 1966. Okada approached him, as you can guess.

Okada had the wrong idea of dates concerning Aizawa's findings in Kanto loam layers. After his first meeting with Aizawa, which included the "research on the Iwajuku remains and Kanto loam layers in the actual areas with Aizawa," he didn't fix his wrong dates. On the contrary, he continued to promote the wrong dates in his teachings. He claimed that Aizawa had discovered the old stone tools which dated 300,000 years ago. The actual dates of the Iwajuku remains were around 30,000 and around 20,000 years ago.

Okada's fantasy goes further when he claimed that the Tsukuba civilization existed 10,000,000 years ago, and that the Akagi civilization existed at least 5,000,000 years ago. Tsukuba and Akagi are place names in the Kanto District.

Okada also said that there would be an eruption without fail within 30 years, according to calculations based on the Kanto loam layers, implying that his prediction of the coming of the baptism of fire at the end of the century was backed up by this calculation.

We are in 2009 now. Mahikari members who raise their hands, believing that the light comes out from the palm, should learn more about what Okada said, and what kind of man he was, from a fresh and realistic viewpoint.


--Phoenix3000


相沢忠洋(1926-1989)は日本の旧石器時代の存在を発見した考古学者です。崇教真光の出版物によると、相沢氏と岡田光玉(本名:良一)の最初の出会いは昭和41年(1966)6月とのことです。もちろん光玉の方から近づきました。

「日本の旧石器時代研究の曙」と題して、『真光』誌368と369(1993ー平成5年5月、6月号)に、相沢千恵子夫人の話が載っています。369の「II」の方に2人の出会いの経緯が描かれています。それによると、相沢氏は、自分にとって恩師である、古墳の研究家として知られる群馬大学教授より次のような、「意外な依頼」を受けたそうです。


  「相沢君頼みがある。ある人物に会ってくれないか。何でも日本の超古代を研究されている方で、私の古墳研究より更に古い時代の日本列島について知りたいとのことだ。これは相沢君の分野だから、会って話をしてくれないか」とのことだった。尾崎先生を通してのことで相沢は断るわけにもいかず「お会いしましょう」と返事をした。 .... p34−35


前橋市の旅館で〔注1〕、相沢氏は光玉と「運命的な出会いをした」と夫人は語ります。その時の光玉の言葉で始まる部分を抜粋してみます。


     「私は宗教歴史を古文献の方から見てきました。最近、新しい人類学的な証明がされだしています。先生のご探索成果も私の研究を強力に裏付けて下さるものなので、今日は超古代史、古石器の調査をしたいと思って参ったのですが、お話をお聞かせ頂きたい」というものであった。
      その時の会談で、相沢は「関東ローム層の堆積という過去の地球の火山活動が示す通り、現代は黒土の堆積から推察して大爆発期に入っている」と述べたところ、その考察は岡田光玉師の「火の洗礼が来る」というご予言と一致したのである。この事実は驚くべきものであった。 ....(略)...
     以後、岡田光玉師は相沢のよき理解者となってくださった。夏井戸遺跡については、試掘による資料が昭和四十七年の『科学朝日』(十一月号)に ” 三十万年前の石器を発掘(群馬)” という表題で発表された。そして、後の昭和四十八年に行った夏井戸遺跡の発掘にあたり、岡田光玉師の多大な協力を得たのである。 ーー p35


一方、ネットには次のような書き込みがありました。


  (光玉は)考古学に関心を示し、岩宿遺跡を発見した相沢忠洋を支援した。ただ真光の大祭では「関東ローム層の計算でいくと、必ず30年以内に噴火が起こる」(七周年大祭1966年Aug)とか
  「相沢氏は30万年前の石器を発見した」(67年立春大祭・相沢が岩宿遺跡で発見した石器は3万年前 ~ 2万年前のもの)と発言するなど、考古学の知識を理解していたか疑問に思える。 ーー道場長に質問しよう! -248


『火の洗礼が来る』という光玉の教えに千恵子夫人が触れ、また、ネットでの上記の書き込みでも、「関東ローム層の計算でいくと、必ず30年以内に噴火が起こる」との光玉の弁があったことが触れられていますので、『火の洗礼』についてちょっと取り上げておきます。

『世紀末に火の洗礼が来る』という自分の予言が『関東ローム層の計算』でも裏付けされる、と光玉は示唆しているわけですが、『関東ローム層の計算』とはどうやるのでしょうか。一体どう計算したら、『必ず30年以内に噴火が起こる』と、未来の出来事を正確に言い当てることができるのでしょうか。

1966年から1996年までの間、日本には数件の噴火がありましたが、これらが相沢氏の言った『大爆発期』の一環と言えるのでしょうか。『大聖主』(p100)〔注2〕によると、「地層学からみて、もう日本には、大爆発期が始まっている」「関東ローム層では、三ミリ土が積もりますと、千年と推定されていますが、そろそろ大爆発期に入ります」と相沢氏は言っています。 〔注3〕 しかし、「必ず30年以内に噴火が起こる」との具体的数字はありません。もし相沢氏がそう言ったのであれば、光玉(及び彼に続く教団)がそれを逃すとは思えません。『関東ローム層の計算』で『30年以内に必ず噴火が起こる』というのは、結局の所、『関東ローム層』という言葉を利用した、光玉の勝手な『計算』とも考えられます。

大天変地異が世紀末に来て、人類の二割しか生き残れない、と光玉は予言し、信者を脅し、せかしました。恵珠もそれを引き継いで、信者を脅かし続けましたが、真光で言う『大天変地異』は現実世界で起こりませんでした。崇教真光では「御経綸が変わった」と言ったり、「『火の洗礼』とは人類文明の行き詰まりのことである」と言い換えてもいるようです。〔注4〕

『神経綸が変わった』というのも変な言い逃れです。たとえ大災害が起こったとしても、それが『神経綸』であるという証明にはなりませんが、「世紀末に来る」と光玉及び彼に続く教団があれほど脅していた『大天変地異』『火の洗礼』なるものが現実には起こらなかったのです。『ス神の唯一の地上代行者』であるはずの崇教真光の教え主によって、『御経綸が変更になったと、ス神様より神示がありました』と事前に発表があったわけでもありません。

こういう予告の変更は事前に知らせてこそ意味があるのに、実際に起こらなかったから『経綸が変わった』のだ、と後で取って付けたように言うのでは、真光の神が真光の教え主を通して真光の信者(組み手)を導いているとは言えないことになりませんか。

真光への盲目度にもよりますが、現実世界を見つめれば、光玉の説いた『神経綸』など最初からなかったという、真光の世界を出た、新たな視点への転換をするきっかけの一つにもなります。

また、現実を見れば、『人類文明が行き詰まった』という絶対的状況でもないし、ましてや『人類文明の行き詰まり』で人口が二割に激減したわけでもありません。『火の洗礼』とは人類文明の行き詰まりのことである、というのも、言い逃れもいいところです。それに、光玉の言った『火の洗礼』とは大噴火といったような大規模な天変地異を意味していたことが、光玉や恵珠の教えで、また、上記の2つの引用部分でも明らかです。光玉のことですから、違った意味の説明をしたときもあったかもしれません。が、それは光玉の言うことに一貫性が欠如していた、と認識すべきです。

このポストの本題に戻りましょう。

「相沢が岩宿遺跡で発見した石器は3万年前 ~ 2万年前のもの」なのに、「相沢氏は30万年前の石器を発見した」と光玉は発言した、とあります。しかも、相沢氏と出会った翌年のことです。インターネットで調べてみると、確かに、相沢氏が岩宿遺跡で発見した石器は3万年前 ~ 2万年前のものです。〔注5〕 ところが、光玉はそれを「30万年前」にして自分の教えの中に取り込んでいるということです。

真光の出版物を更に見てみましょう。

●1980年代頃の「祖師(聖凰眞光大導主様)御講述 - 中級真光研修用テキスト」ーー「第二十四 - 新考古学上の日本」という表を見ると、「新考古学」の欄に「30万年前 - 石器 - (岩宿遺跡)」とあります。岩宿遺跡に関してはこの表にはこれだけの記載しかありません。つまり、光玉は岩宿遺跡は30万年前のものだとしているわけです。

● 『神向き讃詞解説』(p212、213)には、「日本における考古学会の曙」—第四期(約60 - 1万年前)洪積世の化石等発見表(調査表作成、昭40.2)—と題した表が二ページの見開きで載っています。そこにはローム層から出土した石器に関して次の記載があります。①時代 ②発見場所 ③出土品名 ④発見年代 ⑤発見者名という順序で追ってみます。

 
①赤土層(ローム層)、 ②群馬県笠懸村岩宿  ③加工された黒曜石片  ④1946年秋(昭和21年) ⑤相沢忠洋、
①同上(最下位)(約60万年前?) ②同上  ③握槌 ..(略)..石片等50個、 ④1949年(昭和24年) ⑤明大、考古学、芹沢長介、
①赤土層(ローム層)約1万年前? ②群馬県新里村不二山 ③片刃谷形石器 ..(略)...  ④(空白)  ⑤相沢忠洋

 
1949年発見の岩宿の石器はここでは30万年前どころか、疑問符は付いているけれど、「約60万年前」となっています。現実の岩宿遺跡には『30万年前』『60万年前』というような年代は与えられていません。にもかかわらず、『60万年前』という年代を出しています。この表の作成は昭和40年(1965)となっていますから、相沢氏と出会う前年に作ったものということになります。

●「暴かれた真光日本語版」〔注6〕には下記の情報があります。


  岡田光玉師述み教え集(昭和42年)
   [立春大祭ご教示要旨](P32)
     相沢氏の発掘されました標本によると、三十万年前の石器、二十万年前、十万年前の石器はざらにあります。  ーー暴かれた真光日本語版 2003/12/17


明らかに光玉は実際とは違うことを平気で言っていたことになります。しかも、相沢氏と直々に会って、氏を伴って岩宿遺跡と関東ローム層の『現地研究をした』(『大聖主』p100)にもかかわらず、です。

千恵子夫人の文に、夏井戸遺跡のことが、”三十万年前の石器を発掘” という表題で雑誌に発表されたとありますが、相沢忠洋の『年譜』には、〔注7〕 1972年(昭和47)に発掘調査をした夏井戸遺跡には『30万年前』という年代は与えられてはいず、「約10万年前」となっています。


もう一件。上記に紹介した『神向き讃詞解説』(p212、213)の部分では、群馬県新里村不二山は「約一万年前?」となっていますが、『御対談集』には相沢氏の言葉として次の部分があります。

   相沢氏 ...赤城新里村の不二山文化は、二十万年前? に人間が居住していた古い所ですし、 ...ーー『御対談集』p162/『神向き讃詞解説』p605

ここで疑問符が再び使われています。相沢氏の抱いた疑問なのか、それとも、これを書いたという平塚前橋小道場長(当時)が抱いた疑問なのか、何の補足もありませんが、相沢氏がここで疑問を抱くというのも不自然なので、たぶん後者でしょう。平塚は光玉より「二十万年前、三十万年前」といった、大きな数字の年代を聞いていたのではないかと推測されます。平塚の頭の中で、疑問がかすめた、とも考えられます。「相沢氏は今『二万年前』と言ったようだが、『二十万年前』のことではないか」といった具合です。光玉の強い願望(または妄想)からの年代が現れているわけで、実際の年代が示されているわけではありません。〔注8〕

ちなみに『大聖主』(p98)では、「相沢先生『 ...赤城新里村の不二山文化は、人間が居住していた古い所ですし、..』」となっていて、「二十万年前?に」はカットされています。

さらに、赤城文明に関して、光玉の教えが見られる箇所が次にあります。


   今日では五百万年前の赤城文明が研究されておりますが、 ...ーー『真光』誌261(1984(昭和59)年6月号)-「神霊界の実相と神経綸3|救い主様み教え」p31

   それから、これは赤城の探訪のとき一緒に行った人には話をしたことですが、古文献からまいりましても、私は、筑波が神都となっていた筑波文明の時代は、一千万年前でなければならないと思っています。また、赤城に神都のあった赤城文明の時代は、少なくとも五百万年前であろうと主張しておりました。  ーー『神向き讃詞解説』p208


光玉は少なくとも500万年前に赤城文明があったと主張しています。それよりももっと古く、1000万年前には筑波文明があった、と言っています。

現実世界を見てみましょう。人類の祖先の誕生は、多少の幅はあるけれど、約500万年前と推定されています。光玉の教えと並べてみると、人類の文明は人類の祖先の誕生の時すでにあったことになります。それどころか、人類の祖先の誕生をさらに500万年前さかのぼって、もう一つの文明があった、と言っているわけです。もちろん、何の根拠もありません。こうなると、「超妄古学」の領域です。光玉の言うことは、妄想、妄言である、との見解のほうが現実味があります。

手から光が出ていると信じて手かざししている真光信者は、崇教真光の、言葉で飾った光玉像をそのまま鵜呑みにして、それ以上考えない、また、知ろうとしないよう条件付けられています。しかし、真光の創始者光玉(「真光の創始者」と言っても、光玉は崇教真光の創始者ではない。崇教真光の創始者は恵珠)が一体どういう人物であったのか、現実的視点から、真光信者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。



〔注1〕『神向き讃詞解説』p607では、「群馬県桐生市の旅館にて」となっている。
〔注2〕『神向き讃詞解説』発行年1982年、『大聖主』発行年1983年、『御対談集』発行年1985年
〔注3〕この部分は『神向き讃詞解説』p605-607と『御対談集』p162−165にはない。なお、この2つは同一の対談文である。
〔注4〕「崇教真光ーー徹底討論しよう!」 −633

   終 末 予 言 を ハ ズ シ た 真 光 の 苦 し い 言 い 訳

   インターネットが急激に普及したせいでしょうか、掲示板に真光の矛盾点を書き込んでくれる方たちが増えたような気がします。例えば、「真光問答」という教団の小冊子において、<天変地異>や<薬に関する記述>が昔と今とで、大幅に変わっていることを知らせてくれた方がいらっしゃいました。
 
   旧「真光問答」においては、<人類の2割しか生き残れない>ような天変地異、すなわち「火(霊)の洗礼」が20世紀の末に来ると予言されておりました。

   しかし、それは来ませんでした。そこで教団はどうしたのかというと、新「真光問答」において、<「火の洗礼」とは、人類文明の行き詰まり、例えば環境問題などによって起こる<終末>>であると、言い換えるようになったのです。

  −286にも「真光が、無知な陽光子達を終末論で煽ったデマ!」で始まる書き込みがあり、『経綸が変わった』と言ったり、『真光問答』の「火の洗礼」に関しての説明が新版ですり替えられたことが書き込まれている。

〔注5〕例:ウィキペディア「岩宿遺跡」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%AE%BF%E9%81%BA%E8%B7%A1
    相沢忠洋の「年譜」 http://www.interq.or.jp/gold/waki/aizawa/tenji/nenpu/nenpu.html
〔注6〕暴かれた真光日本語版 2003/12/17
    http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/month?id=104303&pg=200312
〔注7〕〔注5〕の相沢忠洋の「年譜」参照。
〔注8〕相沢忠洋の「年譜」参照。1948年(昭和23)、不二山遺跡発見、 約6万 - 5万年前、とある。


ーー火の鳥Phoenix3000