Thursday, July 10, 2008

真光の祖師、岡田光玉の借金返しの件についてーその2 (Regarding Kotama Okada's repayment of his debts - Part 2)

To the English reader,

The previous post showed what Okada said, according to Sukyo Mahikari publications, about his business and repayment of his debts.

Okada's story about the debt and the repayment goes roughly like this: he lost everything as a result of a war time raid and became penniless. Then he remembered his family's gods and his ancestors. He set up their alters and worshiped them again. His tide started to change. Giving himself up to repaying the debt, he went through hardships for many years and completed paying it off in 1959.

However, his story is lacking factual elements and is too vague. There is some confusion, which wouldn't have happened if the story were based on facts, and there is some concealment of Okada's actual career history around that time.

Sukyo Mahikari, which was founded by Ms Okada in 1978, four years after Okada's death, doesn't tell you more about the facts, either.

This article draws attention to some dubious claims Okada and Sukyo Mahikari have made and some discrepancies in their claims.

- - - - Phoenix3000


借金の件について光玉が言っていることを簡単に言えば、戦災で全部失った、神と先祖のことを思い出し、また熱心に拝み始めたら好転し、借金を返せるようになった、そして、借金返しに夢中となり、昭和34年に完全に返済した、ということです。しかし、光玉(本名:良一)の話には事実に基づいているのならあり得ないような混乱が見られ、あやふやで、曖昧なことが多過ぎます。

光玉の死の4年後、1978年に恵珠によって設立された崇教真光も、光玉の話の域を出ず、終戦直後から昭和34年の『最初の啓示』の時までの光玉の具体的動向に関して、『大聖主』と『崇教真光30年史』を見ると、〔注1〕「多田建設株式会社へ取締役として、昭和28年に入社。光開発株式会社を設立して社長に就任」の件だけが述べられています。終戦直後から8年間の空白があり、突然、建設会社へ重役として入社、との件が現れるわけです。この建設会社で何をし、いつまで勤めたのか、光開発株式会社は何をする会社だったのか、その会社はどうなったのか、等については全くの沈黙です。その一方で、次の二つの別件が登場します。

(ア)昭和24年にある宗教家から「あなたは、今、神かくしにあっている。どんな苦しいことがあっても、十年間辛棒すれば神様に使われる」と言われた。 (『30年史』p66参照。)
(イ)昭和23年12月24日「ヨのみ役」について、大峰老仙より塩谷博士、神示を受く。 ーー『大聖主』p304/初級・中級真光研修用テキストにもある。 〔注2〕

(ア) の逸話は、実は現実世界においては何の威力も意味もないのに、わざわざ述べられています。これは光玉を神話的人物に仕立て上げるための話の一つでしょうが、身元さえはっきりしない「ある宗教家」がそう言ったからといって、それで光玉が神に選ばれる運命の人物であったという裏付けにはなりません。このような「当たるも八卦、当たらぬも八卦」的類いの話は、そう珍しいわけでもなく、また、どうとでも解釈できたりします。光玉は真偽とは無関係に物事を自分に都合の良いように表現する傾向がありますから、自分向きに解釈した言葉かもしれません。それに、「神に使われる」と言っても、どういう「神」かわかりません。正神を名乗る邪神かもしれません。ひょっとすると、この人は光玉の野心を感じて、新興宗教を自分で始める、という旨でそれらしいことを言ったのかもしれません。実際には光玉はこの頃世界救世教に入信していて、幹部だったようですから、「ある宗教家」もそれを知っていた上でそのようなことを言ったのかもしれません。それに、この「宗教家」は似たり寄ったりのことを複数の人に言っていたということだってあり得ます。

教祖を知る上で大事である筈の実際の出来事は曖昧で、年月が明示されないどころか、出来事そのものさえ隠されていたりするのに、このような話が大きく提示され、年が明示されているのも不自然です。ちょうど10年後に『最初の啓示』が降りた、などと言ってはいますが。 〔注3〕 仮にそのような予言めいたことを言われたとしても、その年を『最初の啓示』が降りたとする年に合わせて「ちょうど10年前」とするとか、或いは逆に、その年から10年後に『最初の啓示』があったとする、など、人為的操作がいくらでも可能です。

(イ) の日付までついた記述は『大聖主』の巻末の「岡田光玉師年譜」に割り込んでいます。〔注4〕 これを自分達に結び付けて重大な出来事として扱っているのは、光玉と彼に続く真光教団とその関係者だけです。第一「大峰老仙」って誰ですか。「塩谷博士」とは誰ですか。光玉や教団はこれらの人物について、きちんと説明していますか。「誰だかわからないけど、偉そうな人達のように聞こえる」というだけではありませんか。そう言えば例のセント・デニス・ザンテ勲章も、「なんかよくわからないけど、偉そうな勲章に聞こえる」というだけではありませんか。

大峰老仙、塩谷博士 --- これらがどういう人物であるか、教団を離れてから、教団外の情報で知るようになりました。信者(組み手)はむろん気付かないのですが、教団内にいると、教団から与えられた、限られた情報、歪んだ情報にそれと知らずに頼り、矛盾も認識せずに、教団に誘導された価値観の範囲内でしか物事を受け取らないようになります。ネットでの擁護派の書き込みを見てもおわかりになるでしょう。

塩谷信男氏の方は実在の人物なのですが、この人が「ヨのみ役とは、君の役だよ、光玉君」と言ったわけではありません。真光では「ヨのみ役」とは「ヨニマス大天津神のみ働きを現界にて代行する役、与(ヨ)である」と説明されます。そのような役があるのかどうか、疑わしい限りですが、随分と重大な役目のように聞こえはします。この役が光玉の役目であると塩谷氏も認めたのならば、光玉を全面的に支持し、公に応援してもよさそうなものですが、そのようなことがあった様子はなく、重大に聞こえる『ヨのみ役』であるはずの光玉に従って、『人類を救う業』であるはずの『真光の業』を実践したわけでもなく、塩谷氏は彼独自の治療法(真手)をずっと続けていたようです。 〔注5〕

終戦直後から昭和34年までの光玉の具体的動向に関して、光玉も崇教真光も曖昧で、「借金返し」が入っているわけですが、崇教真光が『30年史』(p66)で言っていることを見てみましょう。


  ・<何としても借金をすべて返済しよう。それが人の道だ>と、神様のお導きのままに夢中で借金返しの日々を過ごされるようになりました。行商もしました。
  ・昭和29年、 ...五十三歳。
   建設会社の重役をなさる等、ご苦労をされながらも借金返しは殊の外順調に進んでいきました。
  ・人知人力では及びもつかないことが度々起きての返済であったのです。
  ・借金返しのかたわら神の世界の勉強もされていました。
  ・人間の力では及びもつかないところからのお陰を沢山いただいての借金返しが進むにつれ ...
  ・借金の返済が終了したのは昭和34年1月のことでした。常識的には一生かかっても返しきれないほどの借財を十三年にして返済が終了しました。ーーそれはまさに奇跡だったのです。


「常識的には一生かかっても返しきれないほどの借財を十三年にして返済が終了」ということは、終戦後間もなく借金返しを始めた、その巨大な額の借金返しという重みを背負って13年、ということですが、「借金返しは殊の外順調に進んでいった」「借金返しのかたわら神の世界の勉強もしていた」「人知人力では及びもつかないことが度々起きての返済であった」等の表現は、借金返しに関してもっと余裕のあった感じがします。

余裕のある借金返しだったならば、「借金返しに夢中だった」「無我夢中で働いて借金を返し終わった」という光玉の言葉も、言葉通りの価値を持たなくなります。「それがため十何年間、人にいえない苦労をした」 〔注6〕「血みどろで借金返しをした」〔注7〕 という光玉の言葉も単なる飾りで、実体はないことになります。

「十何年間、人にいえない苦労をした」というのは、非常に漠然としたイメージしかありません。「人にいえない」というのは、「人に言いたくない」のか、「人に知られたくない」のか ...人に知られたくないこと、隠しておきたいことがあるのでしょうか。それとも単に思わせぶりの表現でしかないのかもしれません。

もし本当に苦労をしたのなら ー それが経済的なものであれ、精神的なものであれ、あるいは両方かもしれませんが ー 光玉が実際どんな苦労をしたのかという現実の逸話の方が、よほど訴える力があるはずです。「大変な苦労はした」けど言及するほどの出来事がなかったというのもおかしなことです。あるいは、何か(たぶん都合の悪いこと)を隠しているとも考えられます。

「十何年間」というのも、変に曖昧な表現です。終戦が昭和20年、「借金の返済が終了したのは昭和34年1月だった」と上記引用部分でも明言しています。〔注8〕「十何年間」とぼかさずに、『30年史』他の中の文章のように13年とはっきりさせてもよかったはずです。

結局、光玉が現実に何をしていたのか、彼自身の言葉を追っても、崇教真光の記述を追っても、事実に関してぼやけています。「借金返しに夢中になった」と言っ ても、借金を返すために具体的に何をしたのか、言っていません。崇教真光も言っていません。それだけでもどこかうさん臭いと言えるでしょう。「無我夢中で働いて借金を返し終わった」「血みどろで借金返しをした」と一方で言いつつ、「そのかたわら、神の世界の勉強をしていた」というのも、互いになじみません。何処かに『虚』や『不正直さ』があるということです。

ある人物について、その本人自身の言うことやその人物を奉じる教団の言っていることに食い違いや不正直なことがあるなら、普通、それをどう受け取りますか。 また、自称『神の地上代行者』であり、『人類の師』であるはずの人物の実際の経歴を正直に伝えず、隠している事柄がある ー しかも教祖を知る上で重要な部分が欠けている、ということは、冷静に考えたら、その人物や教団が信用に値すると思いますか。

『大聖主』にもう一カ所、光玉が借金返しのことに関して言っているところがあります。例のインチキ勲章の叙勲式でのものです。〔注9〕 発起人総代の福田赳夫が祝辞を述べたあと、光玉がお礼の挨拶をしました。その一部です。


  福田先生とは、十年くらい前からのお知り合いで、私をかげながら、見ておって下さったのであります。実は戦後すぐに、先生のお世話になったことがございます。戦時中は、陸軍の飛行機製造会社の社長をしたり、ほかに繊維会社など三つばかりやっておりました。国家的事業ばかりやっておりました関係で、戦後は、即刻困ってしまいました。そこで、いま都民銀行の頭取をしておられます工藤昭四郎先生と、こちらの福田先生のお世話により、極めて敏速なご処置によりまして、事なきを得たのであります。 ーー『大聖主』p202


福田はその祝辞の中で、「私がはじめて岡田先生にお目にかかりましたのは、十年くらい前であります」と言っている箇所があります。〔注10〕 光玉はそれを受け、「福田先生とは、十年くらい前からのお知り合いで」と言ったのでしょう。ところが光玉が続けて言うのに、「実は戦後すぐに、先生のお世話になった」 とのことです。

「極めて敏速なご処置によりまして、事なきを得たのであります」 --- これが社交辞令に過ぎない ー つまり『嘘』ー とは考えられません。

「戦後すぐに、極めて敏速な処置によって、事なきを得た」のが本当のところならば、戦災で生じた借金の件は戦後すぐに解決し、膨大な額の借金返しに追われる事はなかったわけで、生長の家や救世教に入信し、救世教では給料をもらう専従幹部を勤めている余裕があったことになり、これが実際の事実として空白期間にすんなりと入って来ます。やがて幹部を罷免され、建設会社に就職し、自分でも会社を設立した、という一連の出来事が続くことになります。救世教にはその後昭和32年頃まで出入りしていたようで、真の道等、他の宗教も漁っていたのが実際の光玉の姿だったようです。〔注11〕

また、「戦後すぐに、極めて敏速な処置によって、事なきを得た」のだったならば、「借金返しに夢中だった」「無我夢中で働いて借金を返し終わった」「それがため十何年間、人にいえない苦労をした」「私はもうとにかく昭和三十四年まで血みどろで借金返しをした」との光玉の話は、ただの作り事でしかないことになります。「人知人力では及びもつかないことが度々起きての返済」「人間の力では及びもつかないところからのお陰を沢山いただいての返済」といった表現も単なる思わせぶりの表現でしかないことになります。崇教真光の、「13年にして返済が終了した」ことが「まさに奇跡だった」というのも嘘っぽくなりますし、「人間界の借金が終わった救い主様は、神様への借金をお返しせねばならない、何かお役に立たせていただきたいと強く念じてきたのです」(『30年史』 p67)という崇教真光の記述も、「待てよ、借金返しに夢中で自分は気が変になったのじゃないか」との光玉の言葉(『御対談集』p280)も空々しくなります。 〔注12〕

「借金返しに夢中だった」と言うことにより、浄霊という「手かざし」を実践していた世界救世教時代が光玉にあったという事実に蓋をしようとしたのでしょうか。「借金返しに夢中だった」と言えば、救世教時代のことを追求されずに済むと計算したのでしょうか。救世教の神を拝み、浄霊を実践し、そこで給料をもらう幹部さえして、自分のことを光玉先生と言わせた事実を闇に葬ることができる、と。また、そこでの浮霊現象に着目し、救世教の方針に反して額への「手かざし」を続けたこと、幹部の職を解雇されたこととその理由も闇に葬ることができる、と。〔注13〕

崇教真光では、光玉のこのような「お礼の挨拶」を『大聖主』に載せたことも、無かったことにしたいところでしょう。光玉の言葉を歪曲して苦しい解釈をするか、上級幹部だったA.T.氏の著書の中の「イエス・キリストは日本で死んだ」という光玉の教えへの言及を含んだ章を、後の版では丸ごと削除して、そんな教えはなかったように著者さえとぼけたのと同じように、『大聖主』の改訂版を出す時には不都合な箇所は削除して、そんな光玉の言葉はなかったかのように振る舞うのでしょうか。 〔注14〕 いずれにしても、上記のような指摘は『嘘』であると、崇教真光は信者に伝えるのでしょう。




〔注1〕『大聖主』昭和58年(1983)発行。『御対談集』昭和60年(1985)発行。『崇教真光30年史』(『30年史』と略)平成元年(1989)発行。
〔注2〕1980年代頃使用されたテキスト。それぞれp2、p5参照。中級テキストでは、「ヨのみ霊」となっている。

〔注 3〕立教の十年前に妙な行者がわしに向かって「あんたは神隠しに会っとるな。だからあんたは十年間どんな苦しい事があっても我慢していると、きっと神が使う人間になる」と言う。そのときは妙な事を言う奴がいるなと思ったんですが、ちょうどその十年目が昭和三十四年なんです。 ーー『御対談集』 p280

〔注4〕『大聖主』p304、『岡田光玉師年譜』より

    昭和20年空襲のため工場全焼。借財返済に努む。
    昭和23年12月24日「ヨのみ役」について、大峰老仙より塩谷博士、神示を受く。
    昭和28年多田建設(株)の重役となる。
          光開発(株)を設立。
    昭和34年借財返済終了。
    
〔注5〕塩谷氏も大天変地異が来る、と唱えていたが、それを乗り越えるのに『真光の業』が必要だとは考えていなかったようである。ここ(http://f35.aaa.livedoor.jp/~shinri/shioya.html)を参照。
    『大峰老仙』については次の書き込みが参考になる。

     大峰老仙という神霊は、塩谷博士の枕元に毎夜夢の中で遭ったおじいさんに「大峰老仙」と名前をつけただけです。
     塩谷博士の夢の中の出来事を述べているにしか過ぎないのですから、客観性などありません。架空の神霊に過ぎません。  ーー「道場長に質問しよう!」
     (http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3760/1143383176/301-400 ) --321より

〔注6〕それぞれ『御対談集』p280、p279、p124/『30年史』p245。前回のポスト参照。

〔注7〕私はもうとにかく昭和三十四年まで血みどろで借金返しをしたのです。  ーー『真光誌』379・平成6年(1994)4月号p26

〔注8〕昭和34年1月に全部返済が終わった。 ーー『30年史』p245/『御対談集』p124。前回のポスト参照。
〔注9〕このインチキ勲章に関する情報はここ( http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/month?id=105004&pg=200103 --03/12/23)でよく考証されている。
〔注 10〕『大聖主』p198。福田赳夫の名は『瞻仰のことば』の中にも現れる。彼の寄せた『ことば』は、「私が岡田光玉先生に初めてお目にかかったのは賀屋興宣先生のお導きによるものでありました。丁度、貴教団の創立当初であり、私は自民党幹事長をしておりました。爾来、永らくご厚誼を賜ったのであります」(p258)との文で始まっている。福田が「戦後すぐに」経済面で「光玉の世話をした」時には二人が特に知り合いの関係になったわけではないようである。
〔注11〕光玉の救世教時代のことはここ(http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/month?id=104303&pg=200304 )とここ( http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/month?id=105004&pg=200104 )参照。
〔注 12〕『大聖主』には「借金返しで苦労をした」といった記述は出て来ない。この本には文責者の名はなく、「監修 救い主様伝記編纂委員会」とだけある。英語版では ”By Kentaro Shibata” (柴田剱太郎)となっていて、文責者が特定されている。ついでに言っておくと、原本も英語版も同じ光玉の写真が一ページ占めて掲げられている。しかし、1983年の日本語版では着物の左襟に房の付いた世界真光文明教団のバッジを付けているが、1993年の英語版の写真ではその房付きバッジが消されている。
〔注13〕救世教幹部罷免の理由はここ( http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/month?id=104303&pg=200304 03/04/29)参照。
〔注 14〕A.K.T.氏著の『探し求めた答えはここに』(原題:Thank God For The Answers At Last)。「真光を離れて」のシリーズ中の『真光の世界とはーその2』(2007/2)参照。英語版「暴かれた真光ーキリストは日本に埋葬された?」は ここ(http://members.ozemail.com.au/~skyaxe/tomb.htm)。


ーー火の鳥Phoenix3000