Saturday, December 22, 2007

崇教真光のホームページに見られる表現「真光の業は病気を治すという業ではありません」について

To the English reader,
If you have been involved in Sukyo Mahikari, you may have heard Kanbu say that the Internet is manipulated by evil spirits and that lots of things on the Internet are lies.
Sukyo Mahikari (SM), which has long been discouraging its followers from going to the Internet to check information, started its own Japanese website in Feb. 2007, this year.
It shows, however, problems of oddities, contradictions, deceptions and so on, despite its intention of making Mahikari and its "light" sound wonderful.
SM says, for an example, that Mahikari-no-waza (the method of purification, tekazashi, or okiyome) is not a method of curing illness, though it does promote "miraculous stories", including those of illness being cured.
However, if your sickness does not improve, or gets worse, you will hear Kanbu and even ordinary members say, "Mahikari-no-waza is not a method of curing illness."
In the past SM also said, "Mahikari-no-waza is neither just a method of curing illness nor a temporary means of salvation." This implies that Mahikari-no-waza is a method of curing sickness.
Getting confused? The problem is with Mahikari, not with you.
This article deals with the above deceptive claims made by SM.
----Phoenix3000



勉強会で、インターネットは邪霊に操られているので嘘でいっぱい、といった類いの説明を幹部がしているのを聞いたことがありますし、ネットでも、「幹部によっては口頭で『インターネット上の情報はほとんど(9割)が嘘』などと教えている」との声がありました。〔注1〕 教団がコントロールできないインターネットを邪霊視して、インターネットから信者(組み手)を遠ざけておくというのも、信者を己の情報統制下に置いておきたい教団の意図の現れだったと見てよいでしょう。

長い間信者にインターネットに関わらないよう牽制し、自身もインターネットを拒否していた崇教真光も、ついに今年(2007)2月にホームページを立ち上げました。ところが、このホームページ、あれこれと問題を見せています。そのうちの一つ、「真光の業は病気を治すという業ではありません」とあることを取り上げてみます。

ネットで次のような書き込みがありました。
 
 真光が誤摩化し教団だというのは、例えば崇教真光の公式ホームページを見ればわかる。
 「真光の業」の項目で「病気を治すという業ではありません」と書いてあります。

 これは教団が「表向き」言っている事と同様です。
 しかしQ&Aの質問1を見てみましょう。

 「早い人は数回の手かざしで、長年苦しんだ胃腸病などが良くなっています。また、切り傷などの外傷も、手かざしで嘘のように元通りになっています。」

 これが病気治しではないという手かざしの説明なのでしょうか。

 医師法違反にならぬよう表向きは「病気治しではない」といいながら実は病気治しを宣伝しているのですよ。
 
 これは詐欺師の良く使う手法です。  ーー真光関係者集合(50)ー305


何時頃だったのか、お導き(人を真光に勧誘すること)の際、「手かざし(お浄め)で病気が治りますよ、とは言うな」との幹部の指示がありました。医師法違反を避けるためでした。医師の資格がないので、診断してもいけない、とのことでした。やがて、道場に「真光の業は病気を治すという業ではありません」との旨の張り紙が掲げられるようになりました。こうして、真光の業に関して、「表向き」の表現が出て来ました。「真光の業は病気治しの業ではありません」との断り書きは、病気が治らなかった場合の言い逃れとも聞こえました。

崇教真光の初期の頃の小さいパンフレット、「愛の光ー幸せへの招待」を見ると、『おわりに』のページが次の文で始まります。

 ”真光の業”は、単に病気を治す業ではありません。また、一時的な、その場限りの救いを与えるものでもありません。〔注2〕

「編集責任 崇教真光」とあります。岡田光玉(良一)の死後、世界真光文明教団の二代教え主の座に恵珠を就けることに失敗した恵珠派は、光玉の設立した教団を離れ、1978年に崇教真光を設立しました。このパンフレットはそれ以後の発行物ということになります。「真光の業(=手かざし、お浄め)は病気治しの業ではありません」との表現と比べると、「単に」がはいっているだけのように見えますが、この「単に」が入っているか、いないか、で意味が全く違ってきます。

「単に」とあることにより、「病気が治る」ことを一見ありきたりの、小さな出来事であると感じさせ、「病気が治る」こと以外にも効用があるのだ、という示唆です。病気に関して見れば、このパンフレットでは、崇教真光は「真光の業は病気を治す業である」ことをごく当たり前のことであるかのように肯定していたと言えます。

この初期の頃のパンフレットより後の発行(1989年)の『崇教真光30年史』のp42には次の文があります。

 「真光の業」は只単に病気治しや、憑霊を取り祓う霊媒信仰ではなく、治病現象、家庭の不和の解消、経済的救われ等々、あらゆる奇跡的現象を通して霊魂の実在を認識させ、「神は光なりき」を証し、そして神様の御実在を体感させるものであります。

<只単に病気治しではない>と言っていますから、崇教真光の初期の頃のパンフレットと同様、「真光の業」の効用に病気治しを含めています。「治病現象、家庭の不和の解消、経済的救われ等々、あらゆる奇跡的現象」と並べて、「病気治し」の面を小さく見せることによって、さっと通り過ぎていくような感じがなぜかします。

病気治しという点を中心に取り上げてみると、<「真光の業」は只単に病気治しではなく、治病現象等、あらゆる奇跡的現象を通して霊魂の実在を認識させ...>となります。

もっと簡単に言えば、真光の業で病気が治るといった『奇跡的現象』によって、霊魂や神の実在が認識、体感できる、という主張です。「真光の業で病気が治るといった奇跡的現象が起きる」ということが前提であって、そういった現象が起きなかった場合のことはここでは考慮にはいっていません。まるで「治病現象を初めとする、あらゆる奇跡的現象」が日常茶飯事であり、起きなかった場合など、考えなくていいかのようです。しかし、実際はどうでしょうか。そんなに頻繁に起こっていることなのでしょうか。それに、真光の業で病気が治るといった『奇跡的現象』を通して、霊魂や神の実在を認識、体感させる、というのであれば、病気が治るといった『奇跡的現象』が起きない場合には、真光の業では、霊魂、神の実在を体感させることはできない、ということにもなります。

病気が治るといったような『奇跡的現象』がなければ、真光の甘い言葉ー人類救済、人類幸福化、無病化、愛和、利他愛、神の大愛、神の子、等ーに誘われて真光をやったところで、『神の光』とやらが、教団の主張するように手から出ているとひたすら信じて、この手かざしで人類救済の役に立っているのだ、との集団錯覚に巻き込まれるだけになってしまいます。

ですから、真光をやれば、病気が治るといったような奇跡的現象、信じられない現象が起こると主張して、真光をやる価値がある、と思わせねばなりません。それで、『奇跡体験談』の役割が重要になってきます。ところが、ホームページのように「真光の業は病気を治すという業ではありません」との完全な否定文が来ると、病気で苦しむ人は真光の業に期待しないほうがよい、ということになるでしょう。実際、『奇跡的現象』『信じられない現象』が起こっていると聞いて真光にはいっても、症状が良くならず、「真光の業は病気治しの業ではありません」と冷たくあしらわれた人々もいるのですから。

病気が治るといったような奇跡的現象の話があったとしても、広い現実世界でそれらがどこまで通用する話なのか、大いに疑問です。大ざっぱに問題点をあげてみます。

奇跡的に病気が治った、いや治らなかった、ということに関する客観的データがないことが一つの問題。さらに、個人が真光のおかげで病気が治った、と信じて疑わない場合でも、病気が治ったことが、真光の業によるものかどうか、客観的な判断は非常に難しい、という問題があります。さらに、過去50年近くの間に真光をやった、とにかくお浄めを受けた、と思われる幾十万、幾百万という人の、ごく一部に治病現象が起こったからといって、それをもって、真光の業が、神・霊魂の実在を証明するものになるのか、という問題。こういった問題がある以上、「真光の業で治病現象が起こる、治病現象が起こるから、霊魂の実在が証明され、神は光なりが証明される」という主張は実は非常に根拠の薄弱な主張なのです。

その上、これまでにも指摘しましたが、真光は事実を忠実に、正確に伝えることには関心がない、ということがあります。個人の体験談においても、然り、です。こじつけでも、誇張・誇大化されたものでも、教団の編集の手が加わったものでも、さらには捏造されたものでも、一般組み手(信者)にはわかりませんし、確かめようがありません。そもそも教団の言うことは疑わないよう、信者は仕向けられているのです。教団の発表する「奇跡体験談」をそのまま「本当のこと」として受け入れてしまいます。『真光の業がいかに素晴らしいか』を教団や信者が語る時、このようなことも考慮に入れて聞く必要があります。

真光が宣伝する『奇跡的現象』について、情報統制下にある真光の世界の外の、現実世界から見たときの見解として、ネットでいろいろ参考になる書き込みがありました。ほんの一部ですが、ここにちょっと部分抜粋しておきましょう。

大勢の信者の中から、「御利益が在った」、「救われた」人間を拾い出し、それを「宣伝」に使い、「教えを盲信し、悲惨な結果に至った人間」は、「切り捨て」たり、「信心が足りない」などといい、
 「苦しんでいる人間の傷口に塩を刷り込む」ような真似をしますからインチキと言われて当然の理ですな。 ーー真光関係者集合(44)ー596

 「あるある」みたいに捏造された奇跡体験談ばっか聞かされて
 妄想に浸っているけど、それは現実じゃない。  ーー真光関係者集合(44)ー944

 その(=奇跡の)確率は普通社会と同じなのですが、「真光のおかげだ」と言い、クローズアップさせることでそう思わせてるだけ。ーー真光関係者集合(44)−945

 奇跡というより統計のトリック。
 大勢人が居れば、良いことが起きたり、病気が治ったり、偶然が重なって不思議みたいに思えることは、必ず誰かが体験している。そういうのだけを取り上げ、あたかもあちこちで毎日起きてるかのごとく誇張する。
 こんなのどこの新興宗教団体もやってるトリック。  ーー真光関係者集合(44)ー946

真光を信じて、努力したけど、病気が治らず、死亡した例は決して少なくありません。ネットでもそのような例が話されています。「病気が治るといった奇跡的現象が真光の業では起きなかった」場合です。

『奇跡』が起こらず、亡くなっていった「組み手」の話など、教団は発表しません。安らかに『幽界誕生した(=亡くなった)』とか、あの世に行ってから、浮霊現象を通して、霊が御礼を言って来た、などといった類いの話なら別ですが。しかし、これらの話もまた、確かめようがありません。にもかかわらず、こういう話を聞くと、信者は本当のことだと信じ込んでしまい、感動さえして、「真光は本物」との信念を更に固めていきます。

真光をやれば、『奇跡的現象』『信じられないこと』が起きると謳って人集めをするわけですから、教団の取り上げるのは、『奇跡体験談』が主になります。真光の業が効果なかったという話はそのまま闇に葬られていきます。せいぜい、真光流の理屈で説明できるように思わされるぐらいで、真光の業そのものや真光の教えへの疑問は考えないように仕向けられます。真光の中にいると、その辺のことが見えなくなります。運良く病気が治ったら、「真光(の業)のおかげです」と信者に言わせ、症状が改善しなくても、悪化しても、最終的に亡くなっても、「真光の業は病気治しの業ではない」と言い逃れる仕組みがあるのです。



 〔注1〕『ココが変!真光の本!』( http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3760/1137721826/ )より
 506ーー「崇教真光の教団誌に見られるインターネットへの見解」が紹介され、<注>が付け加えられています。
 <注>教団誌において、インターネット上の情報を指して「流されることなく、正しく選別し」とか、「悪い方向に導くものがある」とか、「霊的に判断するように」などと、信者に訴えている。
 教団に対する批判情報、暴露情報に対して遠まわしに牽制している様子がうかがえる。幹部によっては口頭で、「インターネット上の情報はほとんど(9割)が嘘」などと教えている。

 62ーー61の「崇教では、インターネットを見るなとは一切言っていない」との書き込みに対し---
 今さら、「インターネットは見るなとは一切いってない」って???
 しょせん、コロコロ変わる玉虫色のご教示や教えや。そんなテキトーな御託、何も信じられへんて。

 インターネットがまだ今ほど普及してないころ「インターネットは邪霊の仕業。陰(イン)がつくから」とも
 また、インターネットだけでなく「テレビも見るな、一般の本も見るな、また他宗教の本を見たり、調べたりするのは絶対ダメ!サヤられる」とも言われた。
 (宗教関係の本を遠ざけようとしたのは、<<真光の悪の本性>>がバレてしまうからか?笑)

 ネットのこと、薬を飲むなと言ったこと、化学療法を否定したこと、教祖の素性を隠蔽したこと、教えと業をパクってきたこと..etc
 過去のことはみ~んな全く無かったことのように「今はそんなこと言ってない」と嘯く教団のいうことなんて、誰が信じるか。
 たとえ今は言ってなくても、『過去に一度でも断言して言って、多くの人を惑わしたことに”罪”がある』のだ。
 これは、泥棒をした者が過去の罪を詫び償いもせず「前はやったけど、今はしていないしー」と開き直ってるのと同じ。
 どうせ言うなら、いい訳ではなく、まずは過去のお詫びと訂正と償いが先でしょ。

 〔注2〕ホームページには「真光の業は、病気を治すという業ではありません。また、一時的なその場限りの救いを与えるものでもありません」とあります。これと「愛の光」からの引用文と比べてみてください。前半の文については本文内で扱いました。後半の文は二者共に全く同じです。この後半の文についてですが、『一時的な、その場限りの救い』と『一時的でなく、その場限りでない救い』との違いは何なのでしょう。どうやって区別するのでしょうか。「肩が楽になったり、職場の人間関係が良くなったり、事業が順調に運ぶようになったり..と、次々と信じられないことが起きてきたのです」と言っていますが、これらの例は皆、『一時的でなく、その場限りでない救い』になるのでしょうか。もしそうなら、楽になった肩は楽になったままでいるはず、ということになりませんか。職場の人間関係が良くなった、事業が順調に運ぶようになった、などというのも永続的な救いであれば、以後、人間関係にも、事業にも困らないはずになります。「いや、そういうことではない」というのであれば、「(真光の業は)一時的な、その場限りの救いを与えるものでもありません」との主張は、実質的な意味を持ちませんし、「肩が楽になったり、...と、次々と信じられないことが起きてきたのです」との主張とも相互関係がないことになります。中味のないものをあたかも中味があるように粉飾し、人々の気を引こうとしていると解釈してよいのではないでしょうか。


ーー火の鳥Phoenix3000