パラリンピック:韓国、銀メダル獲得=車いすカーリング

「条件さえ整えば世界最強」

 まさに「ストーン一つ」の差だった。メダルの色は銀だったが、きちんとした練習環境がなくてもバンクーバー冬季パラリンピック車いすカーリングで決勝まで進んだ韓国代表チームの執念と鋭い感覚は、まさに世界最高だった。韓国は21日(韓国時間)、準決勝で米国を7対5で破り、カナダと戦った決勝では7対8で惜敗した。

 米国に勝利し、銀メダルが確定した瞬間、代表チーム唯一の女性選手カン・ミスクさん(42)は涙を流した。「パラリンピックでメダルを取れば、死んでも悔いはない」と話していた76歳の母親が思い浮かんだ。名前も聞きなれない車いすカーリングだが、慢性脊髄(せきずい)疾患で十数年前から下半身を使えない娘が韓国代表になり、幾つもメダルを獲得することに、母親は感心しきりだった。母親は今回の冬季パラリンピックを前に、江原道原州市の自宅の壁に自分で釘3本を打ったという。そこに、娘がこれまで獲得したメダルを金・銀・銅の「色別」に分けて掛けた。貴重なパラリンピック銀メダルのために、母親が釘をもう1本打つかもしれない、とカンさんは話した。カンさんは、軍に服務中の息子にも銀メダルのニュースを早く知らせたいと話した。

 チームの中で最も生活が苦しい生活保護受給対象者のカンさんは、「年金(パラリンピック銀メダルで毎月45万ウォン=約3万5900円)のために車いすカーリングをしたわけではない」と語った。たとえ交通事故、労災、病気など重症の障害でまともな職業に就けなくても、彼らにとって、パラリンピックのメダルは「カネ」ではなかった。障害と闘ってきた歳月と堂々と生きてきたプライドに対する報いであるだけだ。

 1990年に交通事故で障害を負ったチームの末っ子で副主将のキム・ミョンジンさん(39)は、「わたしたちがメダルを取れば、後輩たちが専用リンクなどより良い環境で運動でき、障害が重い人たちもカーリングをもっと簡単に接することができるのではという思いから、必ずメダルを取りたかった」と話した。

 韓国のカーリング専用リンクは、泰陵選手村と慶尚北道義城のカーリングセンターしかない。同好会チームの原州ドリーム(原州市障害者総合福祉館)の選手で構成された車いすカーリングの代表チームは、専用リンクがないため、春川市衣岩スケート場で練習した。カーリングをするためには氷上に一定の摩擦力を起こす「ペブル」と呼ばれる氷の粒をまかなくてはならないが、スケート中心の一般スケート場ではペブルを勝手にまくことはできない。代表チームは仕方なく、滑りやすい氷の上でストーンの方向と速度調節の練習を繰り返した。大韓障害者体育会が1月、京畿道利川の障害者体育総合訓練院のプールを臨時的に凍らせてカーリング場を作ってくれたおかげで、4週間は基本練習ができた。

 それにもかかわらず、韓国チームは決勝で、2006年トリノ・パラリンピックと2009年世界選手権のチャンピオンであるカナダと対等に競技を行った。韓国は8エンド中、最初の第4エンドまでは1対8と大きく出遅れたが、残りの4エンドで6点を追う底力を見せた。

 1991年に労災で足をけがした韓国チーム主将のキム・ハクソンさん(42)は、パラリンピックの前から「練習できる条件さえ整えば、韓国が世界最強」と常に話していた。この言葉が事実だということを、彼らは自ら証明したわけだ。

 代表チームで最も重症のチョ・ヨンヒョンさん(43)は銀メダルを首に掛け、喜びを隠せなかった。「わたしは手の機能しか残っていないが、車いすカーリングは上手くできる」と話し、カメラの前でポーズを見せたりもした。おどけた表情をしながら手で首を切る素振りをして、「これで全部終わったという意味」と説明した。チョさんと交代しながら試合に出場するパク・キルウさん(43)は、「体力をつけるため、選手同士で雉岳山渓谷わきの坂道を車いすで登った練習も楽しかった」と話した。

 歯科医師のキム・ウテク監督(46)は、「3月20日は韓国が冬季パラリンピック団体戦で初のメダルを獲得した日として記録されるだろう。選手たちに感謝する」と感激した。キム監督は「選手たちが障害を乗り越えて大韓民国の名でメダルを獲得したことについておめでとうと言いたい」と話した。

バンクーバー=成鎮赫(ソン・ジンヒョク)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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