Friday, March 23, 2007

Okada, Sukyo Mahikari, and the Japanese military - Part 3

Finally! We have now managed to find a list of all the graduates from the 34th class (1922) of the military academy. It can be found in Rikugun Shikan Gakko, by Akimoto Shobo (1970).

Yes, Yoshikazu Okada’s name does appear in that list. You may recall I was starting to wonder if Okada was actually in the military at all, since we had not managed to find any war records for him. We still don’t have any other records, but at least we now know for sure that he was in the military.

The other reason we wanted that list was to double-check that the Sukyo Mahikari Tomomori was the war criminal Tomomori. If you read Part 2 of this series of posts, you’ll remember that we cross-referenced between various lists to show that the war criminal Tomomori was from the 34th military academy class, and Mahikari publications tell us the Tomomori who was Okada’s friend was in the 34th class. Therefore, logically, if there was only one graduate from that class with the name Tomomori, then the Sukyo Mahikari Tomomori was the war criminal.

The short answer is, yes, we are now 100% sure that the Sukyo Mahikari staff member, Kiyoharu Tomomori, was a war criminal.

Just to complicate matters a little, we know from Japanese Internet sites that Kiyoharu Tomomori’s name was originally Kiyoharu Baba. We don’t know why he changed his name. One possible reason is simply that he might have taken his wife’s name when he married (not uncommon in Japan). In any case, the list of 34th class graduates includes the name Kiyoharu Baba, and there is no-one in that list called Kiyoharu Tomomori. So, the Mahikari Tomomori was definitely the war criminal.

Since we now know the above, we no longer need photographic proof, but we have some photos anyway. The following photo is a group shot showing a man who we think looks like Tomomori. The man on the right edge of the photo, next to Keishu, looks quite a lot like photos we have of Tomomori from his war trial, but there is a difference of about 20 years, so it is difficult to be certain.



This photo shows Okada on the left, then Sadataka Matsudaira (also from the 34th military academy class), then Keishu, then the man who we think looks like Tomomori. Can anyone help us out with a positive identification of this man? Is it Tomomori, and if not, who is he?

Next we have two photos taken at Tomomori’s trial at Yokohama. (In the top photo, he is the one seated on the left.)
 
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Next we have the slips identifying the above photos.



You will notice that the above slips say that Tomomori was sentenced to death, but his sentence was changed to life imprisonment at a retrial, and he was released from Sugamo along with all the other war criminals by 1958 at the latest.

Finally, we have a couple of photos from Tomomori’s prison records.
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Tuesday, March 20, 2007

真光の世界とは — その3:アトランティス大陸 (Atlantis)

The legends of Atlantis, as told by Yoshikazu Okada and Sukyo Mahikari:


岡田良一(光玉)は、『歴史の迷信』と称して、一般の人々が学んで来た普通の歴史を『嘘』『でたらめ』『捏造』と言って、否定し、代わりに『正しい歴史』として、実際は偽史を押し付けました。恵珠もこの光玉の教えを念頭に入れて、次のように言っています。
 
  歴史迷信に陥っております現代人のほとんどの方は、その真実の歴史すら知らずにおる訳でございます。ーー真光誌246 昭和58年(1983)3月号 P.12

『真実の歴史』とは、光玉の説くところの偽史の歴史です。これが『真実の歴史/正しい歴史』になり、普通の歴史が『嘘/でたらめ』になる、という転換が起こるのは真光の虚構の世界ならではのことです。

この偽史には、ムー大陸やアトランティス大陸が絡めてあり、光玉は、「ムー大陸や、アトランティス大陸の研究と日本の古文献とはよくつながっています。」(神向き讃詞解説』P.218−219)と言っています。
  
繋がっているというよりも、『竹内文書』が、ムー大陸説やアトランティス大陸説を取り込んだ、と見る方が妥当でしょう。アトランティス伝説が何から始まり、どのように膨らんでいったのか、については、http://www.nazotoki.com/atlantis.html を、ムー大陸については http://www.nazotoki.com/mu.html / http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/dic/mu.html を参照願います。

その上で、次の恵珠の教示(実際は手島泰六が書いたのでしょう)の一部を見て下さい。

   そもそも「アトランティス大陸」の伝承は、紀元前四世紀の大哲学者プラトンの著書により明らかにされております。ーー真光誌374 平成5年(1993)11月号 P.13

プラトンの著書で『明らかに』などされていないことがおわかりになるでしょう。後世になってアトランティスは伝説の大陸として独り歩きを始め、人々の想像力を刺激して来ました。そして、様々な土地がその候補地になってきました。

ヨーロッパ旅行から帰って来た恵珠の教示の中で、延々4ページに渡って、『ティラ島』のことを話題にしている箇所があります。上記の真光誌374からの引用はその一部です。

「サントリーニ島は、元は『ティラ島』と呼ばれておりました。」(同上P.12)で始まり、島の中心部が一夜のうちに沈んでしまった、キクラデス文明が、一瞬にして歴史の舞台から姿を消した、等と言いつつ、アトランティス大陸の伝承に触れ(上記引用部分)、その理想国家が一昼夜にして海中に没してしまったとの伝承に触れる、などして、いかにもその地形や古代史に博識があるように見せます。

   そこで、このティラ島がアトランティス伝説の島ではなかったかと言われております。
   しかし、ここがアトランティス大陸であったということは、歴史的にも地理的にも問題がございます。アトランティス大陸は、ヘラクレスの柱の外側を意味する大西洋のほぼ中心に位置し、面積はアフリカ大陸のように巨大  であったからでございます。ーー(同上P.13−14)

結局は『ティラ島』がアトランティス伝説の島ではない、との結論です。しかしながら、ここで披露した知識と結論に、『ス神』から新たに教えられたような目新しい視点や内容が混じっているでしょうか。皆無です。幻の大陸にロマンを求める人々があれこれ考えた事柄の幾つかを羅列しているだけです。ではその意図は何だったのでしょうか。『忽然と/一昼夜にして/一瞬のうちに』起こった天変地異の怖さを畳み込み、天変地異には『神の怒り』が介在していると示唆し<下記注>、二十世紀末に来るはずだった『火の洗礼』に結び付けて、信者の意識にすでに植え付けられている恐怖心を煽るためだったと考えられます。この教示の中でも恵珠は『火の洗礼の大峠に突入しております今日』(同上P.16)と、「終末思想」から来る表現を使っています。

   <注>この天災地変により失われたティラ島の中心部と、残されました三日月型の島から人類が学ぶべき“教訓”は非常に大きなものがあると存じます。
      吾が国でも、九州の雲仙普賢岳は依然として不気味な噴煙を上げております。”神のお怒り”の顕現(あらわれ)でございます。ーー(同上P.15 太字原文のまま)

話をアトランティスに戻しましょう。アトランティスが実在した、という前提が真光の教えにあることが明白だと指摘して、先に進みたいと思います。光玉も『神向き讃詞解説』(P.295)で言っています。

   それからもう一つは、アトランティス大陸というのがあります。今日のドーバー海峡とアメリカの東海岸との間は、やはり以前は陸続きだったわけです。

真光ではムー大陸と同様、アトランティス大陸が存在しなくてはならないのです。さもなくば、次の教えは明らかに光玉の妄想か作り話になってしまいます。すなわち、ネット上でよく話題になってもいますが、アトランティス大陸文明とムー大陸文明が原水爆戦争をしたことが原因で、『集団霊障』が現代人に影響している、と説く光玉の教えです。

   結局、原因は恐るべき「集団霊障」である。アトランティス大陸文明とムー大陸文明とは、嘗て、原水爆を使ってさえやったほどのものすごい大戦争をしたのですが、さらには、金星や他の遊星にいた霊と現界に肉体を持った人間界との闘争もあったのです。
   それで、負けた方の霊統は、現在地上で幸福を味わっております現人種に対して霊的に非常な憎しみを持ってしまった。実を言いますと、それが随分憑依している。
   神の力でもなかなか霊が脱けないことがありますが、その理由をある程度申しますと、実際の人類史としては非常な興亡に関係した霊統の争いが、実は今日も存続をしているからです。
   そこで、現在の人類が幸福な世界をつくり上げていくことを非常に憎んでいる方の霊が一体化する。いわゆる組織化して活動するのです。
   それから、もう一つは、その霊が、他の星からでさえ、人間に転生をして現代人の中に混じってきている。
   例えて言えば、ムー大陸に滅ぼされたときのアトランティス文明人は、こんにち憑依しているばかりではなく、実を言いますと、現界人に再生をしてきている。
   これらに怨みの集団霊が憑かるのですから、ますますひどい憎しみの世界をつくっていくという関係があります。ーー 真光誌274 昭和60年(1985)7月号P.20−21 太字原文のまま

幻の大陸文明が、架空の大陸文明と原水爆戦争を使った大戦争をする、この架空の出来事が原因となって、滅ぼされた方の、幻のアトランティス人が『集団霊障』となって、現代人に取り憑いている ーー 光玉の教えの架空さが浮き彫りにされて来ませんか。光玉は、ご丁寧にも、それに『金星や他の遊星にいた霊』も付け加えているのです。自分の説くことは、自分の作り話ではなく、『神』に導かれて、示されたものである、との光玉の主張を考え合わせてみて下さい。もし、仮にこの光玉の主張を認めるならば、このように架空の要素がいっぱいの「教え」を光玉に伝えるような『神』はちょっと変だな、と思いませんか。


  ーー火の鳥phoenix3000ーー

Friday, March 09, 2007

真光の教祖岡田光玉、崇教真光、日本軍 (1)

This is a Japanese translation of the English post entitled "Okada, Sukyo Mahikari, and the Japanese military - Part 1", posted on February 16.

翻訳です。( )内の数字は『大聖主』での該当箇所。最初英語版、次に日本語版でのページを示しました。


「この人物について我々は何を知っているのか」を11月に書いて以来、岡田光玉の軍歴についてさらに調べようとして来ました。崇教真光では詳細を明らかにしないので、昭和の時代の日本の戦争の歴史と生活に関する書物を読みました。

普段は戦争に関する書物を読むのは避けます。嫌なのです。広島・長崎に落とされた原爆と、アジアの諸地域で市民や敵軍捕虜を扱った日本軍の非人道的なやり方とを比べて、そのひどさにおいて、どちらのほうが上回るのか、決められないからです。

私が組み手になった時、岡田光玉(良一)に軍人の過去があることを聞いて気持ちに引っかかったのを思い出します。今振り返ってみると、私も人を信じやすかったのだと思いますが、崇教真光も、光玉は実戦には関わらなかったという印象を上手に作り出していましたから、「それなら」と思ったのでした。

種々の真光の出版物によると、光玉は特に自分からそう望んだというよりも、父の死に際の願望を尊重して、陸軍士官学校へ入学しました。1922年(大正11)に、陸軍士官学校を卒業、宮城守護が役割の、近衛師団歩兵大一聯隊に配属になり、聯隊騎手を命じらた。(『大聖主』P.19/P.60)ここではたいした戦闘行為はなかったでしょう。1931年(昭和6年)、近衛歩兵第一聯隊第六中隊長に任官した後、陸軍歩兵学校教官となった。(P.21/P.62)1931年直前に彼が何をしたのかは言っていませんが、日本は当時すでに中国での「事変」に関わっており、1931年に満州に侵入しています。

『大聖主』によると、1937年(昭和12)、大本営第一鉄道輸送司令部課長となり、「上海作戦、杭州湾作戦、南京攻略の輸送作戦責任者として、活躍された。」とあります。(日本語版p.62)日本軍が杭州湾に侵入している時、「当時、私は、後方鉄道の一部を預かっていた。或る時、高熱のため止むなく、寝台の中に、電話機を引き込んで、指令や連絡に、眠る暇もなかった。」と光玉は記しています。(日本語版P.63)上海の仏蘭西人の聖路加病院にしばらく(どのくらいの期間いたのか記してありません)過ごす。入院中、「今南京の、血みどろの、動の極地にある友軍も、今宵の今は、将に静なるか、動なるか。」と考える。(日本語版P.66)言い換えれば、南京強奪事件には光玉自身は加わらなかったと、崇教真光では回りくどく言っているのです。

しかしながら、さらに読み進むと、光玉は病室で「『今一度だけでも、戦の庭に立たねば』と念じ」ているのです。(日本語版P.66)戦の庭?どの戦場のことでしょうか。光玉が戦場で闘ったということはどこにも述べられていないのに。

健康を回復し、日本に戻った光玉は、1938年(昭和13),御前馬術大会で、障害飛越の際、馬もろ共に転倒し、脊椎骨折をおこし、陸軍病院に三ヶ月入院。(日本語版P.67−8)その後、1941年(昭和16)、「仏印軍司令部付、鉄道輸送責任者として、現地で任務中」病気になり、東京第一陸軍病院に18ヶ月入院。(P.29/P.68)退院し、「陸軍中佐であった師は、現役を退き、予備役編入となった。」(p.31/p.70)

以上です。10年以上に渡ってアジアで日本の侵略があった頃、陸軍に20年程いた光玉はその手を血で染めなかったのでしょうか。光玉は先祖が戦で積んだ罪穢のことは話していますが、自分が戦場で人を殺したという話を特にしていた記憶は私にはありません。しかしながら、2005年6月、コウヤ代理は、その教えの中で、---のちに、救い主様は、強い精神力のおかげで軍を率いることができ、最前線まで行きました。死を面前にして恐れぬヤマト魂の見本でした--- と述べています。これは私には美化された宣伝的なものに聞こえるのですが、光玉が直接戦闘に加わっていたことを示唆するものです。(もちろん、軍部に加われば、誰でもいつかは直接戦闘に巻き込まれたと考えられます。が、正確には光玉は何をしていたのでしょうか。そういう部分がどうして省かれているのでしょうか。)

戦争中と戦争直後の光玉について崇教真光が述べる詳細のなかには、本当とは思えないような節もあります。調査を試みてはいるのですが。上記の概略は本当かもしれません。でも、崇教真光は光玉の軍人歴をきれいごとで済ませたか、存在しない経歴をでっちあげたかしたのではないだろうか、と思わずにはいられないのです。一つには、光玉が行ったのは陸軍士官学校で、もう一つの、エリートが行く陸軍大学には行きませんでした。(陸軍大学卒業生の名簿あり。)しかし、光玉は1937年に大本営の部課長であったと聞かされています。ちょっと妙な気もするのですが、そうであったのかもしれません。日本の陸軍について私よりも知っている方なら、説明できるかもしれません。

もう一つ奇妙なことは、『大聖主』に、友森清晴が『真光』誌に書いた、光玉についての話の引用があることです。自分は士官学校で光玉の同期生だった、とのことで、あらゆる些細な事柄を広範囲に思い出します。士官学校卒業直後、良一(光玉)の方が階級が上で、「おい、友森、貴様俺の命令を聞かにゃならんなぁ」と言った話をします。(日本語版P.58)これはちょっと変です。というのは、二人は同時に卒業しているからです。それに、特に友森の場合、エリート中のエリートが行く陸軍大学を後に卒業し、結局は良一よりも階級が上になったからです。

一瞥すると、この友森の話は単に光玉を褒め讃えることと、多分、光玉に軍人歴があったことを『裏付け』ようとの意図があったように思われます。どうか誤解しないで下さい。光玉は軍になどいなかったと言っているのではありません。恐らく軍にいたのでしょう。今の段階で言えるのは、光玉及び崇教真光による嘘があれほどたくさんあることが暴露された後では、崇教真光の言うことはすべて疑ってしまう、ということです。日本軍を扱ったウエブサイトに良一の名をまだ見つけられないでいますし、他の人々が日本で行った調査でも、記録が見つかりませんでした。しかしながら、これで崇教真光の公言する光玉の軍人歴が偽だということにはなりません。何らかの理由で様々な軍の記録が差し押さえられているのかもしれません。が、単に光玉の軍人歴は取り立てていうほど重要ではなかったのではないか、という説明も可能です。崇教真光がそれを輝かしいものに見せようとしているのにもかかわらず、です。

しかしながら、『大聖主』に友森の話を載せたことには、もっと邪な理由があったのではないかと今思います。本当の目的は、友森が光玉の終生の、かつ、最も親しい友人であったということを「明示」することだったのではないでしょうか。他の真光の出版物で、友森について読んだ覚えがありません。日本人の名前にあまりなじみがなくて、気が付かなかっただけなのかもしれませんが。ともかく、1983年に日本語版、1993年に英語版が発行された『大聖主』には、友森の名が幾回か出てきます。最初友森の長い話があり、「アナタのお友達の中で、一番アナタを思って下さる、一番立派なお友達でしょう。」(日本語版P.60)という妻の言葉を語りさえします。後に1973年の光玉のヨーロッパ旅行への随行団長として、友森の名が出ます。(P.185/P.205)そして、光玉死亡の際、(P.223−4/P.241−245)「師の長年の友、友森清晴、松平定堯両氏が、師をお呼びしながら、お手をとった。」(日本語版 P.241)とあり、友森の作による光玉の死に関する詩が載っています。

崇教真光が、友森をめぐる、こういった情報を含めたのには特別の理由があったのではないかと思うのはなぜでしょうか。光玉の死後に起こった、後継者をめぐる真光裁判の資料を見てください。(リンクあり)このページの終わりの方に、光玉死亡の直後、恵珠が二代教え主用のおみ霊を関口氏に渡すところだったのを友森が割って入り、「今後は私(友森)に相談なく事を進めてはいけない」と恵珠に要求した、とあります。また、世界真光文明教団の代表役員に恵珠が自らの名を秘かに登記した動きにも友森が関与していたようです。また、後継者問題の論争には恵珠の側の代表になり、裁判では彼女に付き添ったということです。

正確なところは私にもわかりませんが、後継者問題、世界真光文明教団が二つに分かれたこと、究極的には恵珠による新しい教団崇教真光が設立されたこと(1978年)、これらの背後に友森の推進力があったように思われるのです。一年以上前に、この資料を初めて読んだとき、恵珠は表看板の人物であって、友森と多分他の助言者達がいて、彼女に何をすべきか指示していたのではないかと考えざるを得ませんでした。

恐らくご存知のことだと思いますが、裁判所の判決は、恵珠ではなく、関口が世界真光文明教団の正当な二代教え主である、というものでした。多くの文明教団の信者を自分の側につけておくために、恵珠は個々の忠誠心(それと情報の差し押さえ)に相当頼っていたように思われます。恵珠派の重要な助言者だったと思われる友森を、光玉の最も親しい友人だった、と宣伝することにより、恵珠派が自分たちの正当性を主張しようとしたのではないでしょうか。『大聖主』はその格好の機会だったのでしょう。

光玉の軍歴に関する話題の最中なのに、なぜ、友森や後継者問題について書いているのかと思われるかもしれませんが、実はショッキングなことがあるのです。

以前、 『大聖主』で読んだ、光玉についての友森の話や光玉の軍人歴に関する情報のことを考えていたとき、友森の名をグーグルで検索してみようと思い立ちました。最初に見つけたのは、後継者問題の真光裁判の資料でした。もちろんこの資料は以前に見ています。でも、友森の名前は覚えていませんでした。次の2件はこれこれでした。自分で読んでみてください。だだし、気の弱い方には、二番目のウェブサイトだけをお勧めします。私自身、気分が悪くなりました。

二番目のサイトを見ただけの人のために説明しておきましょう。油山は福岡市郊外にあり、米軍機搭乗員捕虜達を非公式に、残酷に処刑した事件と、もう一件の事件があった場所です。

手短に言えば、友森清晴は戦犯として有罪判決を受けました。最初は死刑を言い渡されましたが、再審で終身刑に減刑され、東京巣鴨の監獄に入っていました。いつ仮出所になったのか正確なところはわかりませんが、巣鴨にいた戦犯は1952年から1958年(巣鴨プリズン閉鎖)の間に、全員仮釈放されました。ですから、1959年光玉が自分の宗教を始める時までには、彼の良き友であった友森は監獄から出ていて、光玉の教団に入信したことは可能です。いや、その設立に主導的役割さえ果たしたとも考えられます。いずれにしても、私達が属した恵珠派において、背後で実権を振るっていたようです。気分の悪さは倍加してしまいます。

最初 上記の情報に出くわしたのは二ヶ月前ですが、同じ名前の人物が軍部に二人いたのかもしれない、と思いました。光玉の友人と戦犯は同一人物ではないかもしれないと。まず、それを確かめたいと思いました。英語と日本語でのウェブサイトを幾つも相互参照した結果、戦犯の友森は真光の友森である、と示すことができます。次のポストで扱いたいと思います。

追記:罪のない人を中傷したくありません。もし、ここに書いたことに、間違いがあるという証拠が崇教真光側にあるならば、どうか私に知らせて下さい。喜んで訂正文を載せます。