Saturday, September 30, 2006

真光 (Mahikari) の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』について ー その真偽 <その六>

Here is the 6th part of phoenix3000's series of posts concerning Okada's "first revelation" and the origins of the Mahikari organization.

<その六>

良一(光玉)の話には真偽のほどはともかく、ストーリーとしては一応それなりの形がありました。

宗教に素人である(つまり前もって宗教的知識のない、宗教的に偏っていない)光玉に突然、『最初の啓示』が降りる。初めは困惑する。最初の手かざし(=犬への手かざし)が行われる。それから人に手をかざす。病気が治る。何がきっかけか不明であるが、額へのお浄めを始める。霊動が出る。最初どうやっていいのかわからず、騒動があり、あわてる。「お し ず ま り」が編み出される。霊動を憑依霊のなせるところだ、と解釈する。

万人に初めて許されたとする真光の業(=手かざし)ですが、瓜二つの「浄霊」がそれ以前に存在していました。誰でも救世教に入信すればこの手かざしをしていました。
良一はすでに救世教の幹部までやっており、宗教的知識のない、宗教的に偏っていない『宗教の素人』ではありませんでした。『光玉』という名も救世教の幹部時代にすでに使っていた名でした。

以上のことに加えて、昭和34年の『最初の啓示』に関して良一本人や真光の主張には、事実に基づいた話であれば起こり得ない矛盾が多過ぎます。オミタマが何時、どのように登場したのかも不明です。額へのお浄めのきっかけも事実に基づいたような話がありません。『終戦後間もなく、犬へお浄めした』話のように、『ふとしたことから』額へのお浄めを始めたのでしょうか。それとも、『額にお浄めをせよ』との神示が降りた、とするのでしょうか。『天津祈言』もいつの間にか登場しています。

これらに「おしずまり」が加わり、一セットとして、研修会にて与えられ、信者は『天地創造の神』(実際には「光玉の描くところの神」と言い換えるべきでしょう。)から与えられたものとして当然のことのように受け入れてしまい、それ以上は考えないように仕向けられるのです。

『曇り切った人間(=信者)は言われた通りのことをやればよいのだ、それ以上のことは考えるな、また、知らずともよい』のでしょうか。ただがむしゃらに「手をかざし」て、教団のために尽くせばそれでよいのでしょうか。
教団にとってはそれが一番理想的であることには間違いないでしょう。

光玉自身の、冒頭のような「光玉像」と違い、光玉は終戦後間もなく手かざしを始めた、という崇教真光の主張では、この時期すでに額へのお浄めを始めていたのでしょうか。
額へのお浄めはこの時すでに始めていて、「おしずまり」の言霊に気付き、『必死に言霊の研究も始めた』のでしょうか。
それとも額へのお浄めなしに、八坂東明の『最後の岩戸開き』のように『次々に奇跡が起こった』のでしょうか。

実は「おしずまり」に関してはその始まりについて光玉の記述があります。

   ところが、当時の班長さん(私)は全く自信がない。最初のことをいうと、手をかざして霊が浮き出すとどうしていいものやらわからなくて、自分のほうがまっ青になってしまった。今の皆さんなら平然として、教わったとおり、『オシズマリー』と、こうやれるわけですが、私はその当時、言霊の研究などしていませんから、何といって鎮めたらいいのかわからなかったわけです。 
     ーー『30年史』73頁/ほぼ同じ文が『大聖主』83頁にもあります。

『大聖主』のほうでは『陽光子友乃会創設』の章にあります。両方とも「その当時」とは昭和34年立教の頃のこと、布教を開始した頃のことです。この時には霊動が起こってもまだ『何と言って鎮めたらいいのか、わからなかった』と言っています。つまり、光玉自身の話では、額へのお浄め開始は昭和34年の『最初の啓示』の後ということになります。ただしきっかけについては不明です。

また、「私はその当時、言霊の研究などしていませんから、何といって鎮めたらいいのかわからなかった」との表現は、昭和34年の『最初の啓示』で初めて『手をかざせ』と言われて、手かざしするようになった、という光玉自身の「光玉像」に便乗している表現です。宗教の素人であって、言霊の研究や神霊の研究などしていなかった、そんな自分に『最初の啓示』が降り、いつの間にか額への手かざしを始めており、浮霊現象にあって、あたふたとした、というものです。

崇教真光では、この引用部分の光玉の話は維持していくのでしょうか。つまり、光玉は戦後間もなく『ふとしたことから』犬に手かざしして救ったあと、神霊の世界の勉強も他宗教も研究したけど、言霊の研究は全くせず、額へのお浄めは全く思いつかず、『最初の手かざし』から10年以上経った、1959年の『最初の啓示』のあと、突然額へのお浄めを始めた、ということになるのでしょうか。
『最後の岩戸開き』によると光玉は終戦直後、手かざしを始め、奇跡が次々に起こり、びっくりして、必死で心霊科学から宗教や超心理学の研究に参入したそうです、とあることも思い出してください。(<その三>参照)

もしも崇教真光(八坂東明も含めて)が『終戦後間もなくの最初の手かざし』と『昭和34年の最初の啓示』との間に額へのお浄めを始めたのだとするのなら、『犬への手かざし(=最初の手かざし)』の話と同様に、冒頭の光玉自身の話の設定を完全に崩すことになります。また、『昭和34年の最初の啓示』後に「全く自信がなかった」が額へのお浄めを開始、自分で「オシズマリ」を見つけたとする光玉の上記引用の話も宙に浮いてしまいます。

最終的には、『最初の啓示』さえ表看板として押し通して、真光が始まったとすれば、他の光玉の話はどうとでもなる、というのが、崇教真光の態度なのでしょうか。

崇教真光が自らの出版物の文献にすら、どの程度忠実であるか、疑問ですが、一般の常識(真光の『常識』ではなく)からすると、『大聖主』83頁/『30年史』73頁の記述から、光玉が額へのお浄めを始めたのは、『最初の啓示』の前とするのは不可です。あとでやるようになった、とすると、崇教真光の主張するところの、『最初の啓示』以前の光玉の手かざしというのは、増々浄霊に近づく、というか、本来の浄霊そのもの、といっても過言ではないでしょう。

これまで集まった情報ー教団内では伏せられていますがーをもとに、現実の出来事をまとめてみると、次のようになります。もっと明確な事実があればお知らせください。

良一の胸椎カリエスが、世界救世教の浄霊(おひかりさま)で、奇跡的に完治。
戦後間もなく救世教に入信し、浄霊を習い、やってみると不思議な現象に出会った。
やがて、手かざしの実践の功績が認められ、幹部の職に就く。
書類上では「仲道」という名を使ったが、茂吉の「光の玉」の話になぞらえて、信者に自分のことを「光玉先生」と呼ばせる。
浄霊を続けているうちに、特に祝詞を唱えて、目をつむった相手の額に手をかざすと、「浮霊」しやすくなることに着目。
この現象は救世教内で知られ、禁じられていたが、良一はこの現象の虜になっていった。
『霊』への興味を注意されたが、救世教の教祖岡田茂吉の教えについて違う見解を度々述べるようになっていた良一は、『霊』に異常に興味を持ち続け、浮霊現象や霊査を追求し続けた。
浄霊中相手の女性信者の体を触り、その人が悲鳴をあげた事件が直接のきっかけとなり、幹部の職を解雇され、一般信者となった。
浮霊現象、霊動現象の虜になっていた良一は、やがて浮霊、霊動現象は憑依霊の実在を証明するものである、との設定で、他宗教からも、宗教外の所からでも自分の主張に合うもの、役に立つものを借用、取り入れ、言い換えもして、自分の主張する世界を膨らませていった。
救世教では危険だとして避けるよう指導されていた浮霊現象を逆に最大の呼び物にして、徹底して『霊障』を強調した、目に見えない世界を構築。
『光玉』の名と『手かざし』が天地創造の神より、特別に自分に与えられたものであると宣言(=『最初の啓示』)、浄霊を「真光の業」と言い換えて、全く新しいものであるかのように見せ、この業こそが人類に与えられた最後の救いの業で、自分を通して全人類に初めて許されるようになったのだ、と主張して(『30年史』31頁参照)、自分の業、自分の宗教として出発させた、ということだと思われます。

このためには自身の救世教所属の過去は邪魔になったので、そのことを正直に公にすることはしなかったのでしょう。(その三参照) 

ここに、救世教での霊動に関しての情報を付け加えておきます。これは光玉の昭和34年の『最初の啓示』より十年も前の記録です。つまり、光玉は霊動が出て、どうしてよいかわからず、あたふたとした様子を記述していますが、光玉の教えはかなりが救世教の教えとそっくり、真光の業も浄霊とそっくり、救世教でも霊動現象が起こっている、おしずまり、とか、しずまって、という言葉が使われた、ということを考え合わせてみてください。
おまけに、崇教真光では、光玉は「熱心に神霊の研究をした、他宗教を勉強研究した」といっているわけですから、その中にこれほど似ている救世教がなかったなんて変だし、救世教での霊動現象を知らなかったというのも変です。 

「全く自信のない班長さん」で、『その当時ー昭和34年『最初の啓示』が降りた時ーは、言霊の研究などしていないから、何と言って鎮めたらいいのか、わからなかった』という光玉の描写も作為的話になってきませんか。



121 真光は救世教のパクリ?
岡田茂吉全集講話篇第二巻四〇三頁
岡田茂吉氏と信者の質疑応答、昭和二四年八月一三日     

 (信者)
Q 最近ご浄霊中に患者が意識を失い、霊が浮かび出てくることがときどきございますが、
これにつき御教示をお願い申し上げます。

 (岡田茂吉氏の答え)
A これは霊界の浄化が激しくなってきたので、霊がどうしても落ち着けないもんだから、
早く救ってもらおうとして出てくるんです。だから、これからはこんなのが増えてきますよ。
こういうのは前頭部を一番よくやってあげるんですね。
 
そしてあまり出る場合には、「お鎮まりお鎮まり」って言って手で抑える格好をすると、
その言葉の働きで割合に効果のあるもんですよ。当人が半意識で、霊が出そうでなかなか
出ない場合も「鎮まって鎮まって」とか「お鎮まり」とかやると、元へ戻るのがありますよ。


ーー 火の鳥phoenix3000

Tuesday, September 26, 2006

The Mahikari "chosen ones"

Sukyo Mahikari members are taught that they have been "chosen" to be seed people for the new civilization that is supposed to appear after the Baptism of Fire, and that they are "permitted" to be members of Mahikari, because they have a special past-life connection with God, Okada, and other Mahikari members. Now, why do you suppose members are told that?

Members are also told they must be humble at heart, so I don't suppose the above "chosen" concept is intended to make kumite feel conceited. From my own past observations, I really don't think most kumite do feel conceited about being the "chosen ones"...I know I always felt somewhat embarrassed by the "chosen people" notion, and I don't recall this notion ever being used with the intention of building up a member's self-esteem.

So, in what context do Mahikari people talk about special connections, being "chosen", and being "permitted" to be members? As I recall, the main use of these teachings was to explain away why so many people did not join Mahikari, and why so many members eventually left the organization.

Remember, at primary kenshu, new members are told that Mahikari is the one path to health, peace, and prosperity (ken, wa, fu). If the practice of Mahikari really did bring about these things, shouldn't there be millions (or billions) of members? Okiyome is reported to cure cancer and other incurable diseases. Surely Mahikari members who believe those reports must wonder why there are not thousands of sick people flocking to Mahikari centers and being cured.

If a Mahikari member ever stops to think that it is strange that an organization promising such enormous benefits has so few members....and therefore starts to question whether Mahikari teachings are true...then the notion of being "chosen" and being "permitted" comes in very handy indeed!

If a potential recruit does not join Mahikari, current members need not think that there might be something unbelievable about Mahikari teachings. They need not ask why that person is not interested. They need not question the worth of Mahikari. Simply saying, as members do, that the person in question was "not permitted" to join, conveniently stops any further thought about whether or not Mahikari is worth joining.

If a member starts to think that Mahikari teachings might not be true because so very few people join the organization, and many of those who do join eventually leave, the notion that such people are not "chosen" or "permitted" puts a complete stop to any potential discussion about people's reasons for rejecting Mahikari.

We former members have very good reasons for rejecting Mahikari. For example, I believe that Okada's claim of receiving revelations from God is completely false. We have evidence of the organization telling lies about Mahikari's origins. We also have very little evidence of Mahikari delivering what it promises to deliver. We have evidence (anecdotal) of serious mind control. I imagine potential recruits who decided not to join Mahikari also had very good reasons for their decision. However, current members can simply ignore all such criticisms if they think that only the "chosen ones" are "permitted" to join Mahikari or stay in Mahikari.

The "not chosen" and "not permitted" notion effectively stops members thinking that there might be very good reasons why the vast majority of people do not belong to Mahikari.

Sunday, September 17, 2006

New Mahikari blog

I was about to post the following as a comment on the new Mahikari Mission blog, but I've just noticed that it does not have the comment function of blogger enabled, so I'll post it here instead.

Hi Daosu,

No-one is questioning the integrity or sincerity of members of Sukyo Mahikari (at least, I never have). I simply question the validity of the revelations Okada claimed he received. I admire integrity, sincerity, generosity, selfless and tireless efforts towards improving the world, etc., but logically these are wasted if the foundation of one's beliefs is not sound.

You seem to think that it is presumptuous for individuals to think that they can understand any sort of divine being or hidden divine truths (assuming these exist) without the aid of ....well, you didn't actually say of what. You did say: I can also confirm, insofar as my own understanding and appreciation permits, the veracity of the organization's claims to be in constant contact with an entity or entities... (I assume you mean God or gods).

I don't question the sincerity of that confirmation, but do you have some really solid reason for trusting those claims? Anyone can claim (as various spiritual leaders and cult leaders do) to be in contact with God and to therefore know divine truths that the rest of us don't know. If such claims are false, however, then the believers are being horribly misled.

You also say: What person dares claim to have a complete grasp on absolute truth, to be no longer in need of learning, research, discussion, development, or discovery? Well, I certainly don't claim that (and I think very few people would claim that), but there is an enormous gap between the admission that one does not know absolute truth and the assumption that it is therefore appropriate to believe someone (like Okada) who did claim to know "all the truth".

Can we really believe that Okada knew "all the truth" simply because he claimed he received revelations from God? For me personally, there are enough inconsistencies in the stories Okada told (or at least, in the stories the Sukyo Mahikari organization quotes him as telling) to suggest that he was delusional and/or telling lies. Should there really be any confusion concerning what Okada did and experienced in the years leading up to the founding of Mahikari? After all, it is not really all that long ago, and people who were in contact with Okada in those years are still alive.

Actually, I'm really glad you have started up a blog, because it sounds like you are in an excellent position to clarify some of the facts. You can perhaps answer some of the questions currently being raised on the Internet from your own knowledge of the organization's history, and if not, I imagine you are in a position to be able to clarify points with more senior members.

I won't swamp you with questions right now, but there is one quite basic point I hope you can clarify for us.

According to quotes from Okada published in Sukyo Mahikari literature, Okada was bewildered by the revelation to "raise the hand" and, therefore, first tried out tekazashi on a dog. According to Okada, this dog incident was sometime after receiving the first of the revelations in Goseigen on February 27 1959. However, Okada had already been practicing a form of tekazashi (jorei) during his years in SKK, so the general concept and expected effects of "raising the hand" were already very familiar to him. If the dog story actually happened, it must have occurred many years earlier (before he joined SKK in 1947), or the date given for the first revelation in Goseigen must be incorrect. Can you please clarify what actually did happen?

BTW, given the number of questions people must have about those early years, I think people would be delighted to be able to ask questions of someone with your degree of experience. Could you perhaps enable the comment function on your blog so that interested people can talk to you?

Thanks,
Anne