After Mahikari...真光を離れて真光の世界とはーーその4:真光信奉者の弁「真光の世界とはーその2」で「イエス・キリストの墓は日本の青森にある」「真光の業を天皇家にお返しする」といったようなことは批判派の作り話であるかのような信奉者の書き込みを紹介しました。自分が『知らない』『聞いたことがない』から、これらのことは批判派の作り話だと決め込んでしまったのか、それとも、知っていても知らない振りをして、批判派が『嘘』を言っているように見せかけたかったのか、いずれにしても、真光を守ろうとしての発言です。 前回の「その3」で「一万二千年前、ムーとアトランティスの原水爆戦争で亡くなった人の霊が、子孫の現代人に取り憑く『集団霊障』が原因で、不幸現象が起きる」との光玉の教えに触れました。ネットでこの引用部分が載っている時には、真光誌・昭 和60年7月号(274)の20ページ、とたいてい明示してあります。にもかかわらず、下記のような書き込みがあったことを紹介しておきたいと思います。 ネットで一万(二千年前ムー大陸、アトランティスがあり、日本の天皇がムー大陸を統治していたなんてアーホナ事がよく書かれています。将来日本の天皇が世界を治めるのが真光の目標のようなことも書いてありました。 ここでも、「そんなこと、聞いたことがない」と言い、だから存在しないことにし、このような教えは批判派の捏造空想であるかの如く、見せようとしています。これらは中・上級研修の項目なので、初級研修だけを受けた信奉者なら、「知らない」ということも考えられます。でも、初級研修だけでも、自分の属している教団のことです。「知らない、聞いたことない」=「存在しない」と短絡的に結び付けていいものでしょうか。それに、真光の書籍に手が届かないのでしょうか。ネットで指摘されていて、都合の悪い箇所が載っている出版物は拠点ではもう展示されていないのでしょう。 私が初級研修だけの組み手だったころには、中・上級研修受講者が時々上記のようなことを話題にしました。今のように様々な情報を身近で調べられる時代ではなく、知識不足で、その上、疑うことも知らず、古代大陸、超古代史等と聞くと、胸がときめくような思いがしたものです。それについて語る側も、実際には信憑性のないこと(もっとハッキリ言って荒唐無稽なこと)だとは夢にも思わず、晃弥代理(手島泰六)やA.T.氏のように、光玉及び真光の言うことを信じ切っていました。 でも今は、ネット時代。ネットで話題になってもいますが、光玉の『神』も、その『地上代行者』であったはずの光玉も、ネット時代を予知できませんでした。『教え主』の絶対性を強調し、信者に伝わる情報を制限・操作し、信者の思考を簡単にコントロールしてきた教団も、ネット情報の社会が進むにつれ、情報操作がしにくくなってしまいました。光玉及び光玉の『神』は、「暴きの世がくるぞ」と警告を発しましたが、皮肉にも真光そのものが暴かれることになってしまいました。元組み手を中心に、情報や意見の交換もされてきています。少しでも疑問を持ち、調べようとすれば、教団では隠されてしまった情報を含め、現実の世界での情報を引き出すことが可能です。 真光の世界にはまり込んでいる人々は、現実の事実がどうあっても、「光玉・真光・教団が正しい」と信じ、そう信じるが故に、事実をねじ曲げても、詭弁を使っても、真光の正当性を主張する態度が見られます。自分が属する教団の実態やその歴史を知ろうともせず、また、物事を客観的に見ることもできなくなっていて、『正しい』情報源として教団を頼り、教団に正誤の判断を頼り、その思考も人生も教団に委ねてしまっている『組み手』と称する信者を見ると、哀れにも思えてしまいます。自分も、そんなふうに閉じられた、異常な世界にいて、虚と実の認識を歪められていたのか、と今更ながら思います。 暴露された事実は『批判派の空想、妄想、捏造である』と言う信奉者の言い分には、究極的には真光自体のゆがみと、その産物である信者の認識のゆがみとが凝縮されている、と見ることも可能です。 真光信奉者が、元々光玉の教えの一部だったものを、真光の教えではないと言ったり、批判派の空想、妄想捏造にして済ませようとしているような実状では、真光が『清明正直の組織』『清明正直の社会』を目指す教団であるとはとても言えないでしょう。ここに紹介した書き込み(5071)は、 「そんな教えは存在しない」と主張するのに、さらに、アーホナ、とか、マヌケな、とかの形容詞を使っています。「とんでもない、真光ではそんなバカなことを信じてない」と強調したかったのでしょう。しかし、光玉は事実そういった教えを説いたのですから、批判派がこのような形容詞を使うのならともかく、信奉者が、このような形容詞を使ってよいものでしょうか。自分たちが崇める、真光の教祖である光玉の教えをアホなこと、とか、マヌケなこと、アーホナ空想物語、と図らずも言っていることになるからです。 真光擁護派は、日本語音痴だと指摘されてもいますが、「真光被害報告啓示板」(一つの例)にやって来て、執拗に真光の宣伝をしたり、教団信者向けの説教を書き込みます。常軌を逸した、勝手な理屈を振り回して批判は無効無意味であるかのように見せかけ、何が何でも真光を正当化しようとします。また、真光の表看板の標語である、利他愛感謝心の下座、よい言霊等はどこへやら、しばしば言葉汚く批判派を攻撃します。それで、次のような書き込みがありました。 板違い多すぎ- - - 一般市民だけど - - - 上記の5071の書き込みは、まさに「自分たちにツバする」例でしょう。 「真光の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』についてーその八」で「パクリ」の件を話題にしました。批判派が、光玉のパクリの行為を取り上げ、パクリをしておきながら、自分のところがオリジナルであると主張したことを問題にすると、信奉者は、前半の「パクリ」の行為だけに目をやり、パクリをして何処が悪い、どの宗教だって、やっているではないか、と光玉を擁護しようとします。ところが、他宗教を持ち出して話を広げ、パクリは皆がやっていることだ、と、光玉のパクリ行為を正当化しようとすることによって、「真光の教えは神から与えられたものである。これまでの宗教と違い、崇教である」という光玉自身の主張を否定したことになります。つまり、真光の教えは、『これまで人類界に隠されて来た天界の秘儀で、神より特別に光玉に賜ったもの』ではなく、光玉が既にあった教えを土台にして、光玉自身の解釈を加えて作ったものである、ということをこの信奉者は宣言したことになり、光玉の言葉に偽りあり、と、期せずして、逆に認めたのと同じことになります。これも、「自分たちにツバする」例でしょう。 信奉者の開き直りはさらに進み、神が光玉にパクラせたのだ、パクリは大いに素晴らしいことだ、と言うものまで登場しました。 手かざしにしても、古代の歴史にしても、尊い先人達が苦労をなされた歴史があると私は思っています。 これに対する批判派の見解です。 文化や技術じゃあるまいし、あきれてものが言えないゾ。ーー真光関係者集合 45ー425 こんな書き込みもありました。 教義のパクリや(手かざしの)無断盗用しておきながら、人類ではじめて岡田良一(光玉)に真光の業を使うことが許されたと、これまた嘘の上塗りです。 パクリはどの宗教だってやっていることだ、だから光玉のパクリを騒ぎ立てるほうがおかしい、と同じ論法で、他宗教全般を引き込んでの「インチキ」正当化もありました。 真光をインチキ扱いにするのであれば、他の宗教も全てインチキです。ー真光被害報告掲示板 6011 パクリの件にしても、インチキの件にしても、「他宗教」を隠れ蓑に、「その他大勢」のなかに紛れ込んで、光玉の不正直な行為とその意味するところを目立たなくしようとしています。考え合わせて頂きたいのは、光玉は他宗教を『真如(注)の教え』とか、『ブレーキ宗教』等としていることです。簡単に言えば、他宗教、既往宗教は仮の教え、ゴマカシの教えであって、自分の教えこそ本物である、という主張です。 (注:光玉はこの『真如』という漢字を当てこすって、釈尊は、自分の説いた教えは『真の如き教えである(が、真ではない)。真理は説いてない』と言った、と解釈しています。光玉の神も『御聖言』でその意味で通しています。が、辞書を幾つか調べてみると、そのような意味はなく、「あるがままにあること。存在の本質。存在の究極的な姿としての真理そのものをいう」とあります。仏教の歴史からも、ずっとこういう意味だったのだと思われます。つまり、『真如とは真のごとき教えであり、真理ではない』というのは、光玉の(そして光玉の神の)勝手な解釈ということになります。 もっとも、これも何処からかパクリして来たものなのかも知れませんが。こういった勝手な解釈や説が、光玉の虚構の世界にはばらまかれています。 そういう虚構の世界が『神理正法の世界』と思い込まされていれば、事実認識や思考に歪みが起きても不思議ではないと言えます。) 「インチキ」との言葉に、ここでも信奉者は開き直って、 インチキでもいい、救われればそれで本物だ、ーー真光関係者集合45 これに対する意見です。 よねさんは崇教真光の信者さんですか。あなたは、崇教真光をインチキだと認める訳ですね。 さて、光玉(良一)が嘘をついたということは、次の擁護派の書き込みでも確定されたと見てよいのではないでしょうか。 ...パクリ・パクリって過去のすべての教祖はパクリでなりたってるんじゃない???教義教理はそのおおもとを辿っていったら不思議な神がかりに入ってしまうじゃない??? 光玉の神は、光玉に他宗教をパクラせて、万人に始めて与えられた業、人類に始めて明かされた神界の秘儀として発表せよ、と耳打ちしたのでしょうか。人を引きつける為には『嘘も方便』との方針で、光玉の神は、そのような不正直なことを平気で言わせるような神だったのでしょうか。それとも、嘘を言うのは、光玉自らの考えだったのでしょうか。この二者のうち、どちらが不正直なのでしょうか。それとも、二者とも不正直なのでしょうか。 結局は一人の人間光玉が、「昭和34年2月27日に神示を受け取った」と宣言して始めたのが『真光』の始まりです。この本人だけによる宣言を「自己申告」と表現した方もいます。経歴隠蔽を含め、現実の事実にそぐわない事柄を主張し、嘘を本当のこと、実際のことを嘘とするような人物が、かけがえのない私達の人生を託するのに値する人物であるかどうか、また、彼に続く教団(特に崇教真光の場合、自分たちの教団の歴史をごまかして、光玉が設立した教団であるかの如く見せている)が、盲目的主従の関係に自らを落として仕えるのにふさわしい対象なのかどうか、少し距離を置いて検討する必要があるのではないでしょうか。 愛和、人類教、世救い人救い、利他愛、感謝、地上天国、等といった言葉が、真光を粉飾しています。これらの言葉に引かれた人もいるでしょう。また、これらの言葉があるのだから、真光は悪い宗教ではないはずだ、と思う人もいるでしょう。しかし、一例として『感謝』をあげてみると、真光で説くところの『感謝』とはどういうものかをもっと知っておく必要があるでしょう。 崇教の基本は「全てに感謝」することなんです。 -----火の鳥Phoenix3000----- |
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Last updated : 7 May 2007 |