After Mahikari...真光を離れて真光(Mahikari)の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』につ いて ー その真偽 (その八)良一(光玉)が世界救世教時代の経歴を隠蔽して、浄霊を「真光の業」という名称に変え、神より初めて万人に許された業であるとして真光を始めたことが何を意味するのか、真光信奉者は面と向かった認識を避けます。そして問題をすり替えます。 こんな書き込みがありました。 批判派の頭の中は救世教だけが宗教なのか。宗教では必ず共通する教義、用語などが出てくる。すべて『オリジナル』というものは皆無に等しい。茂吉だって、大本からかなりパクっている。批判派は宗教の常識を知らない。 光玉と崇教真光のやり方に倣って、真光と救世教とを切り離そうとしています。批判派が真光との関連で救世教のことを話題にする時には、宗教全般を論じているわけではありません。それなのに、この信奉者は話題を一般的な「宗教」に変えてしまい、真光と救世教との比較から焦点をそらそうとします。「宗教では必ず共通する教義、用語などが出て来る」というのも、漠然としてい過ぎです。救世教と真光とは、両方とも「宗教」なのだから、同じ教義や用語があって当然だと言いたいのでしょうか。これも、一般的な「宗教」を隠れ蓑に、真光それ自体が持つ問題から注意をそらそうとしているのでしょう。「宗教では比較論は全く無意味」と言っている書き込みもありました。誰にとって、何にとって「無意味」なのでしょうか。いや、「無意味」なのではなく、真光を救世教と比較されたら、真光に都合が悪いから、比較を無効のように見せて、やめさせたいのが本音なのでしょう。 救世教との比較をやめさせようとする一方、茂吉のほうに注意の向きを変えようともします。元大本教の信者だった、世界救世教の教祖茂吉を引き合いに出すことによって、元世界救世教の信者だった光玉が救世教の教えと業を借用して真光を始めたことが、あたかも正当化されるかのようです。この信奉者によれば、真光も宗教なのだから、すべて『オリジナル』ではもちろんない、教祖が以前に所属していた宗教をかなり「パクって」自分の宗教を始めるのは「宗教の常識」であるのだから、光玉が以前に入信していた救世教からかなり「パクって」真光を始めたことを問題にするほうがおかしいーーということになります。「宗教の常識を知らない」と批判派を攻撃していますが、「宗教の常識」をとやかく言う以前に、真光自体について、つまり、光玉自身の主張に関して、きちんと認識しているのか、疑問になります。真光を守ろうとして、自他の注意を他の話にそらそうとしたけれど、自分の足下を忘れてしまったようです。真光は他の宗教と違う、オリジナルなものである、というイメージを光玉自身が作って、強調していませんでしたか。それとも、自分の宗教は他の宗教とは違う、オリジナルなものである、と教祖が主張することも、どの宗教でもやっていることで、「宗教の常識」であるのだから、光玉が事実を隠して、自分のものはオリジナルであると宣言したことは問題にならない、ということになるのでしょうか。 次の書き込みでも、「パクリ」の行為を取り上げ、ここでも「世の中の宗教」に話題を持っていきます。宗教では「パクリ」はみんなやっていることなんだから、光玉の「パクリ」を取り上げて問題にするな、ということでしょう。世 の中の宗教のなかに混じってしまえば、事実追求の手から逃れられるかのようです。 真光がパクリとわめいたら恥をかくよ。そんなこと言ったら世の中の宗教はパクリだらけだな。 ところで、「茂吉だって、大本からかなりパクっている」とのことですがーー 救世教の岡田茂吉は元大本教の信者だったことを隠していたのでしょうか。茂吉を明主様として仰ぐ、救世教の諸派でも彼のその経歴を隠し、さらには否定したのでしょうか。茂吉の人生は、いろいろな事実が隠されているため、事実を追跡するのが困難で、曖昧なことが多く、本人が実際の出来事に不正直であったばかりか、周囲の者が美辞麗句で茂吉像のイメージを作り上げたような人物だったのでしょうか。 真光信奉者が嫌がる救世教との比較と、正面からの認識を避けようとする光玉の『パクリ』行為とを、ひとまず脇に置いたとしても、もう一つ大きな本質的問題が残ります。事実を隠して―つまり、自分の経歴を隠蔽して—こそ成り立つ、光玉の昭和34年の『最初の啓示』から真光が始まった、ということです。 ある書き込みでの批判派の指摘です。 (イ)パクリが悪いんじゃない。パクリなのにオリジナルだと詐称するのが悪いのだ。 真光信奉者は、次の書き込みでも、一般的な宗教で光玉及びその真光を守ろうとします。 どんな宗教でも、その前に成立している宗教が土台になって教義を構築しているわけである。キリスト教はユダヤ教を、イスラム教はユダヤ教やキリスト教を、仏教はヒンズー教というように必ず基になるものがある。 信奉者はここでも光玉の経歴隠蔽・不正直という本質的問題から話をそらそうとしています。光玉の行為を擁護しようとして、宗教学的解説を持ち出し、図らずも、真光の教えは、『神から与えられたもの』ではなく、光玉がすでにあった教えを土台にして、光玉自身の解釈を加えて作ったもの、と認めているのと同じことになります。 批判者側の見解の一部を紹介しておきます。 (ハ)パクリを認めるのであれば、真光は既成宗教と同じであると宣言しているのですよ。宗教でなく崇教でなかったのかしら。 真光の業や教えは神から特別に自分に与えられたものである、と光玉は常に主張します。『御聖言』の序文を参考に見てみましょう。あらゆる機会に、他者(人や既成の宗教)が介在しない、『神』と自分との特別の関係を強調しています。例をあげてみます。 2頁 本聖言集に収められた、かずかずの御聖言もまた、...御使いの神を通して天地創造の主神から私に賜わった啓示であった。 3頁 それらの御聖言の内容は、私の夢にだに想像し得なかった驚くべきもののみであった。 3頁 そこには史上いかなる聖雄聖者にもいまだお伝えいただけなかった、広大深遠にして幾億万年にわたる、神のご経綸上の仕組みがここ二、三千年前に比すると一段と明らかにされていたのである。.. 4頁 これらの御聖言は、このようにして神が私に与え給うた切々の啓示であり、教義、教理の源泉となってきた... 5頁 本書には....重大なみ仕組み上のみ教えが述べられている。..これまでの人類界には知らされていなかった、天界の秘めごと、秘義の公開でもある。 5頁 超太古からの神仕組みの秘めごとであり、既往五大宗教にも片鱗以外は一切伝えられていないはずなのである。 8頁 人類史上初めて明らかにされた神界の秘義 光玉の主張は、神が自分を選んで、『業』とともに、これまで秘密にされていたことを人類で自分に初めて明かしたのである、というものですから、「パクリ」元などないはずです。 「史上いかなる聖雄聖者にもいまだお伝えいただけなかった神の仕組み」「既往五大宗教にも片鱗以外は一切伝えられていないはず」「人類史上初めて明らかにされた神界の秘義」等といった表現が意味するのは、光玉の教義、教えのほとんどがー甘く見ても相当部分がーこれまでの人類には明かされていなかった、知らされていなかった事柄、つまり、目新しいことで、『オリジナル』であるはずです。にもかかわらず、光玉の教義・教えの相当部分が、以前に所属していた救世教から『業』とともに借用したもので、それに真の道、生長の家等の教えがブレンドされたものであったなら、華やかな言葉を使って、真光の業も教えも神が人類で自分に初めて明かしたものである、と強調する光玉の主張には現実味がないということになります。 「私の夢にだに想像し得なかった驚くべきもののみ」という表現にしても、自分もそれ以前には夢にも思わなかった、想像もできなかったことを聞き、自分も驚いた、人類にとっても驚くべき内容である、と言っているわけです。自分も初めて聞くことばかりで、その時までは聞いたことも想像したこともなかったならば、それ以前に成立していた宗教に知識があってそれを土台にした、などという経過はあり得ないことになり、光玉の主張に従えば、ここでも「パクリ」元などないということになります。また、自分さえ夢にも思わなかった、想像もしなかったことを知らされ、驚いた、と本人が言うんだから本当のことだろう、と思いがちな人間の心理を巧みに使った表現であることにも留意すべきです。『自分も疑ったんだから/信じられなかったんだから』という話法と同じ類いです。(「その四」参照。) 『これまでの人類界には知らされていなかった、天界の秘めごと、秘義を神が自分に初めて明かした』という光玉の主張は、真光は他の宗教と違う、オリジナルなものであるというイメージと重なります。これらは実際の事実ー光玉が幹部まで勤めた救世教から教えと手かざしを借用して真光を始めたことーとは明らかに一致しないものです。さらに「光玉の始めた真光は土台にある教えがあって、光玉が自分の解釈を加えて作ったものである」などという現実に沿った第三者的表現とも全くかけ離れています。このような光玉の主張やイメージは現実とは両立しないということです。光玉の言ったことのほうが絶対真実である、と信じて、その虚構の世界にとどまっていようとするのなら、現実の事実のほうを否定するか、問題をすり替えようとすることになりま す。 光玉の主張を奉じる教団にとって、光玉が経歴隠蔽した事実を指摘され、真光をそれ以前からあった救世教と比べられるのは面白くないでしょう。真光の主張の基盤が崩れるからです。光玉及び教団の言うことを信じて、己の人生を託して来た信奉者にとっても現実を直視するのはつらいことでしょう。ですが、歴史上の流れからいったら本家/分家のようなこの関係は、分家(真光)のほうで、あれは本家ではない、自分の本家は『天地創造の神』以外のなにものでもない、と主張して、救世教との関係を切ろうとしても、切れないものがあるのです。でも救世教が本家であったことを認めれば、天地創造の神から与えられた真光であるという、光玉の主張が崩れてきます。真光が説く『御経綸』もその他の教義も『真光の業』も疑わしくなってきます。 ある書き込みでの意見です。 「経歴詐称」する人間(岡田光玉)の教えを、どうして信じることができるのでしょうか? ーー火の鳥Phoenix3000 |
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Last updated : 28 April 2007 |