(cache) 真光(Mahikari)の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』につ いて ー その真偽 <その五>

After Mahikari...真光を離れて


真光(Mahikari)の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』について
 ー その真偽 <その五> 御み霊





ところで、『御み霊』なるものが登場するのは何時からなのでしょうか。何がきっかけだったのでしょうか。昭和34年6月19日の最初の研修会で、すでに御み霊が用意されていたのでしょうか。
過去の真光出版物で、御み霊の始まりについての記述に出くわした方、いらっしゃいますか。

宗教に素人である良一(光玉)に突然の『最初の啓示』が降りる。初めは困惑する。最初の手かざし(=犬への手かざし)が行われる。それから人に手をかざす。病気が治る ーーー この光玉の話の設定では最初からあるとは考えられません。光玉の神は、「御み霊なるものを作って、首にかけろ」とは指示していません。犬に手かざしした時も、『次々に人に手かざしした』時も、御み霊のことには一切言及していません。「手をかざせ」との指示に困惑したけど、「御み霊なるものを作って、首にかけろ」といったような指示に困惑したのではありません。このような指示は『最初の啓示』に含まれていません。もし含まれていたら、二重、三重の『困惑』であったはずです。そして、「科学をやって来た人間だ」と自負するのなら、御み霊に対して、ひどく懐疑的になってもよいはず、そしてそのことが口にのぼるはずです。

『手をかざせ』との指示には、『そんな聖者みたいな真似が出来るとはいくら馬鹿でも考えられない。 そんなことを考えるのはそれこそ気違いだ』  (『御対談集』P280 ー 「真光と犬の話」参照と光玉は言っているのです。それなのに御み霊に対する言及が一切ないということは、犬へ手かざしした時も、次々に人に手かざしした時も、御み霊なるペンダントをすでにかけていたとは到底思えません。 御み霊なしで手をかざし、奇跡が起きたのでしょうか。御み霊なしで、額にお浄めしたのでしょうか。御み霊なしで、霊動が出たのでしょうか。

それとも御み霊のことは、光玉にとってあまりにも「当たり前」だったので、付けていたけど、言及するのを忘れた(?)のでしょうか。もしそうなら、 言及しないほど、または言及し忘れるほど「当たり前だった」のはどうしてでしょうか。

もしすでにかけていたのなら、「科学をやって来た人間だ」と自負するのに反してしまいます。つまり、ここでも彼の言うことには現実味を伴った一貫性が欠如してしまうことになります。ただし、御み霊に関する疑似科学的説明は初級研修テキストに出ています。

皆様の拝受されました御み霊は、主の大神様と皆様組み手のお一人お一人に御神霊より霊波線がつながれており、その霊波線を通して神の「真光」「御加護光」「神秘光線」を四六時中お送りいただいております。
このことは卑近な例でいえばテレビ、ラジオの放送に対し、そのセットを家に置いたのと同じ原理で、今までの諸々の、俗にいうお守りとは全然内容が異なって、一瞬一瞬のご守護はもとより、人の命をもお救いさせて
いただけるものであり、行の必要がなく万人生きたイエス化の可能時代が来たのですから、命より大切にお取り扱いいただきたいと存じます。(初級研修テキスト P67 )
 
光玉は『地上代行者』だから手かざしするのに『御み霊』は必要がなかったのでしょうか。
『最初の啓示』の後、最初の研修会前に「御み霊なるものを作って、信者に首からかけさせろ」といった指示が降りたのでしょうか。
『御聖言』には御み霊に関する指示、記述は出てこないから、これは「光玉の神」ではなく、光玉自身の考え出した物なのでしょうか。その念の入った扱い方も彼の考え出したことなのでしょうか。

光玉が『御み霊』を三つも首からさげていた、とのことは、真光裁判の資料を調べて、初めて知りました。甲子(恵珠)によると、光玉もかけていたのです。
1)父のおみ霊  2)二代用のおみ霊 3)ラー ム氏から頂いた分とのことです。

『御聖言』に御み霊に関する指示がないことについては、『御聖言』は「これまでに公開発表を許された御聖言をここにまとめ、新たに刊行することのお許しをいただいた」もの(『御聖言』P4)だから、『御聖言』に載っているのは神示の全部ではない、御み霊そのものと御み霊に関する指示はあったのではないか、でも含まれなかったのだろう、と信奉者は抜け道を見つけそうです。
でも、御み霊は真光にとって必須のカルトアイテムなのに、その公開を許されないとはどういうことでしょう。初級研修テキストにはちゃんと御み霊のことが5頁にもわたって書かれているではありませんか。
その項目だけでもあげると、
 
1)お取り扱いについて  2)御容器は開けない様に  3)お取り扱いの心得について 4)おはずしされる時の心得  5)御み霊を落とした時の心得
6)失った時、水につけてしまった時、遠方に置き忘れた時その他の注意事項 ...(P67−71)

それに『御聖言』が神示の全部ではない、とは便利です。『ヨのみ霊もちて娘に与えよ』との紙切れと似たり寄ったりのことをすればよいのです。「最近になってこれが見つかった」とか、「実はこれもあったのだが、いままでは公開が許されなかった」と言って、後に過去の日付をつけて発表すればよいのです。それが実際いつ、誰によって、何に書かれたものであるか、文意は明白か、前後の文脈が合うか、などという検証は神の領域つまり、信心の領域を侵すもので、霊障である、邪神邪霊の妨害である、と信者に思わせればよいのです。

さて崇教真光の主張に沿って、『光玉の手かざしは終戦直後に始まった』そして『最後の岩戸開き』のごとく『奇跡が次々に起こった』ことにすると、光玉自身の描く「光玉」像とは相容れず、話が混沌として来ることは前述しました。 (<その三>参照)
一応ここでも同じ質問を出してみましょう。崇教真光の、この話では御み霊はいつ、どんなことがきっかけで登場するのでしょうか。

御み霊登場のエピソードがない、というのは本当に変だと思いませんか。
『30年史』には、昭和24年に「あなたは、今、神かくしに合っている...」とある宗教家から予言めいたことを言われた(P66)とか、光玉がある山に登って、神に『お伺い』したら、『金竜が出現した』と言い、その時の様子(P69)とかには、紙面を割いてわざわざ述べているのに、肝心の御み霊、『命より大切だ』と一方的に押し付けて来る、それほど大切な『オミタマ』の登場に関しては何の記述もないのです。そんな素性の知れない物を、信者になると押し付けられて、取り扱いに細心の注意を要求されます。そうして渡されたオミタマはいつの間にか信者の生活の中に食い込んで、その生活と思考を動かしていくのです。そればかりか、『御み霊があなたを守る』『死後も御み霊があの世で役に立つ』と本気で思わされてしまうのです。

崇教真光の言うところの「光玉」像では、終戦直後(または戦後間もなく)の犬への『最初の手かざし』は御み霊なしで行われた、ということになるのでしょうか。『最後の岩戸開き』の記述のように『奇跡が次々に起こった』勢いであれば、御み霊の必要性が生じてきません。御み霊なしで奇跡が起きたが、やがて、『神霊の世界を研究』しているうちに救世教の教えと浄霊(手かざし)と天津祝詞に加えて、そこのお守り(『おひかり』)にも目を付けたのでしょうか。

終戦直後、または戦後間もなく、救世教に入信し、 浄霊のお守りをもらい、さて、試してみよう、と犬に浄霊してみた、というのなら、現実味を持って来るのですが。

救世教で光という文字が書かれた紙を折り畳んで、お守りとして使っているのだから、それを発展させて、真光のペンダントを作り、『その辺の神社のお守りとは違うものである、命より大切なものである』とすれば、人の信仰心をもっと引き出すことができる、と見込んだのでしょうか。「イワシの頭も信心から」と言いますから。

「安物だけど..」なんて渡されても、「有り難み」は湧かないけれど、「家宝だよ」なんて言われて渡されたら、たとえ安物のつぼでも大事にする気にさせられるのが、真面目で、気が良い人々の傾向です。そしてその品の扱い方が込み入っていれば、 実際には何の価値がなくても、扱う人にとっては、 その品物に個人的なつながりと意味が形成されていきます。あれこれタブーがあれば、なおそれに拍車がかかるし、丁寧に扱わなければ、「悪いことが起きる」などと脅かされれば、なおのことしっかりと心が恐怖で縛られてしまい、一種の心理的隷従関係の奥深くにはまっていきます。こうなると、物品の方がその人の行動、思考、心理を操縦するようになります。この仕組みを「目に見えないものに操られている」と表現することも可能です。しかも真光のオミタマの場合は、現実と密着しているようでいて、実は現実とは違う、言ってみれば光玉の作り出した架空の世界に繋がっていて、そこから信者の行動、思考、心理、感情まで操ってきます。ということは、真光批判に時々見られる、「真光(=魔光)が信者にさやっているのだ」という、真光からは逆の見方も心理的現象として成立するのです。

崇教真光では、昭和34年の『最初の啓示』とともに、あるいはその後間もなく、御み霊に関する指示が降りたとするのでしょうか。
それとも『最初の啓示』の以前に、『声なき声』で「御み霊なるものを準備し、首にかけよ、かけさせよ」との指示があったことにするのでしょうか。

既存の『御聖言』のどこかに差し込むのが一番簡単かもしれません。『最初の啓示』に割込ませると、手かざしへの困惑にオミタマへの困惑も付け加えねばなりませんし、それ以前に持っていくと、昭和34年に『手をかざせ」と命じられた時の光玉の困惑が合わなくなります。「御み霊なるものを準備し、 首にかけよ」というのはそのためだったのか、といった反応が光玉にあってもいいはずです。それに教団が『声なき声』『姿なき声』を使い過ぎると、 光玉の主張する『最初の啓示』のインパクトがさらに色あせて来るし、幻聴傾向のある人間、ということにもなり、その精神状態が正常だったのかどうか、疑ってかからなくてはならなくなります。既に使い過ぎのようにも思えるのですが。

『御み霊』がカルトアイテムであり、マインドコントロールするのに実に巧妙な道具であり、信者に心理的首かせの役割を果たしていることは、外の世界から真光の世界を振り返って見ると明白です。実はもう一つ重要なことがあります。インターネットで次のような書き込みがありました。意味は自明でしょう。

  名前:岡田良一 俺は神の声を聞いた。確かに聞いた。"手をかざせ"と。  
          
          しかし考えてみれば御み霊については聞いてなかったな。
          どうしてあんなものが必要になったんだっけ?
          
          そうだ!誰にでもできたら俺が儲からないではないか!



  ------ 火の鳥phoenix3000
Japanese
Last updated : 28 April 2007