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晴れ舞台の陰の歴史 日系人強制収容のニュース本文

02/19 20:18更新

【五輪の中の世界】
 第2次世界大戦中にカナダで起きた日系人強制収容は、米国のケースほどには知られていない。が、身柄の移転と同時に残された資産を没収されたり、戦後も長く元の住所への復帰を認められなかったりと、内容は過酷なものだった。
 その収容所が設置された場所のひとつに、ブリティッシュコロンビア州の内陸部に位置するサンドンという村がある。視覚障害者としてバンクーバー五輪ノルディックスキー距離男子のカナダ代表を射止め、パラリンピックとのダブル出場を果たすブライアン・マッキーバー選手の祖父母は、このサンドン収容所に入れられていた。
 「捕虜収容所みたいなものだったと思う。本当に、なんにもない場所だから」。そう話すマッキーバー選手はサンドンをしばしば訪れ、トレーニングを積んできた。彼にとって「特別な場所だから」だ。
 輝かしい晴れ舞台である五輪。その表面を一枚めくると、思いがけない歴史が埋もれていることがある。
 フィギュア会場となるパシフィック・コロシアムが立つ場所は、第二次大戦当時、強制収容される日系人たちを一時的に集めておく仮設収容所だった。
 「仮設収容所は家畜小屋を改造したもので、臭気がひどく、とても人間の住むような環境ではなかったということです」と、バンクーバーにある「ナショナル日系ヘリテージセンター」の荻原にこらさんは話す。
 こうした苦難の歴史に思いをはせつつ、日系人たちは五輪を見守っている。マッキーバー選手に思いを聞くと「祖父母は僕が小さいころに亡くなってしまったけれど、毎年夏に会いに行くのが楽しみだった。そこでしばし日本語と日本文化に浸ったことを、今でも鮮明に思いだすよ」と語ってくれた。
 (バンクーバー 松尾理也)