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とにかく、色々とトラブルの多い今回の収集団。
結局、何故か突然湧いて出た住民の反対運動(しかも理由は公害!!※フィリピンでは、特に山岳地帯であるこの地域で公害という概念は元々希薄、何かの扇動かという疑念も・・・・)により予定地での焼骨をあきらめ、またバナウエに舞い戻り、またも町の町長以下の許可を取り直し、22日昼過ぎから23日朝4時半までかけて雨の降る中、諸事情により残念ながら離脱した政府派遣団以外の空援隊隊員と現地の子ども達で4370柱の焼骨をやり終えました。 そもそも4370柱という数は、ここ数年国が行ってきた収容数の約7年分にものぼる数字。 空援隊自体、これだけの数を焼骨したのも初めてなら、徹夜で、そして雨の降る中行ったのも初めて。 焼骨式をするには、山の頂上近くにある式場まで御遺骨を運ぶことはもちろん、焼くための薪を運び、焼いて終わった後の御遺骨を拾う作業まで、言葉にすると簡単ですが、大変な重労働を力を合わせてしなければなりません。 (山道を薪を運ぶ) (薪を組んで準備) 何度も壁にぶち当たりながらも、最後まで誰もあきらめず焼骨をやり遂げたのは、小西理事長や倉田事務局長、現地の冨田本部長の必死の行動を見て隊員みな発奮したこともありますが、何よりも、「60年以上お待たせした先輩方をこれ以上待たせるわけにはいかない。」という強い意志だったように思います。 (焼骨の前に杉若和尚が供養に廻ります) (もの言わぬ御遺骨。まだまだ沢山の皆さんがそのままに・・・・・) (焼骨開始 皆涙が止まりませんでした) (灰になった御遺骨を拾います) 粘土質の土がぐしゃぐしゃに足にまとわりつき、冷たい雨が一晩中体を打ちつける悪条件の中で、20代から60代までの隊員全員が、共に徹夜で黙々と作業をしたことは、何物にも代えがたい経験だったように思います。 そもそも我々空援隊メンバーは全員が自費での参加。 「どうしても日本にお連れしたい。」という、ただそれだけの純粋な思いを持って集まったメンバーの強さを感じました。 二度目の焼骨の直前、思いが通じたかのように突然雨が止み、満天の星空が現れた時のことは一生忘れることが出来ません。 煙は立ち昇り、日本の方へ向かっているように見えました。 焼骨が終わった後、灰になった御遺骨を一つ一つ丁寧に拾いながら、それぞれの隊員が思い思いに御遺骨に声をかける姿も・・・・・ (どうか安らかにとの思いでいっぱいです。言葉がありませんでした。) 最初の焼骨式では、丁度旅行でたまたま近くに来ていた日本人のカップルも驚いた様子で手伝ってくれました。 日本にいるもっともっと沢山の人にこの現場に来て欲しい。 この現実を見て欲しい、知って欲しいという思いに駆られます。 日本に帰って、動くこと沢山あります。 今日は寝る間もなく、そのままバスでマニラへ向かいます。
フィリピン遺族会会議終了後、突然大石さんが目の前に現れ、大変お忙しいにも関らず、遺骨収集の話お伺い出来ました。全身エネルギー溢れる行動力。脱帽しました。26日報告会が行われるそうで是非出席さしていただきたいと思っております。
ありがとう!(2009年12月13日 10時06分00秒)
AKIさんへ
先日はこちらこそ本当にありがとうございました。 色々と皆さんのお話をお伺いすることが出来て、有難く思っております。 26日、お手数かけますが宜しくお願い致します。(2009年12月20日 15時42分22秒) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |