この空の果て7−7
「済まぬな、ハサン」
夕日が林の向こうに沈もうとしている。御用達の商人達が行き交う中に紛れて、商人の格好をしたルカは歩きながらそう言った。
夜明けまでに戻ってくるつもりだった。
どこに間者の目があるかもわからぬなかで、キャロルとわかる衣装ではこの屋敷を出ることすらままならない。キャロルはハサンから受け取った質素な衣装を身に纏い、頭からすっぽりとベールを被っている。
カレブと別れただ一人ダマスコに残ったハサンは溜め息を吐きながら答える。
「……俺は、お前に手を貸したわけじゃない」
駱駝の手綱を引き寄せながら彼は、キャロルに向かってぎこちない微笑を浮かべた。
「それよりお姫様が正気を取り戻してくれて嬉しいよ」
「ありがとうハサン。心配かけてごめんなさい」
「……ほんとうは、行かせたくない。俺はメンフィス王の処へあんたを連れていきたいんだ。だけど……お姫様が自分でそう決めたのなら――」
ハサンはルカに向きなおった。
「どこまで行くのかは知らないが、あまり時間はないんだろ」
「……ああ」
低く答えるとルカは屋敷を振り返った。
キャロルもまた後ろを振り向いたがすぐに前方に顔を戻した。この行動が後々に一体何をもたらすのか、それを思うと胸が詰まる。
一体自分はいま、正しいことをしようとしているのか、そうではないのか。だがイズミルがライアを本気で奪い返そうとしていることを知って、安穏とそれを待っていることなどどうして出来よう。
きっかけはどうであれヒッタイトとアッシリアとの、大国同士の戦だ。命を落とす可能性のあることを、彼が思わぬはずがなかった。
それでもイズミルは動いたのだ。自分とは血の繋がらぬ幼子を救い出すために。まかり間違えば皇帝という地位すら失いかねない出兵だったはずなのに。
心は既に決まっている。
共に生きてはいけないこともわかっている。
張り詰めたような焦燥がひたすらに彼女を突き動かしていた。
東へ向けて走り去る駱駝をハサンは悲痛な眼差しで見送った。
キャロルが一体どんな思いを胸にイズミルのところへ向かおうとしているのかを考えれば、手助けなどするべきではなかったかも知れない。自分のするべきはキャロルをエジプトへ帰すための手助けではなかったのか――その為に、カレブと別行動を取ってまでこのダマスコに留まっていたのだ。
苦い思いが込み上げてくる。
――もしかしたら俺は、エジプトとお姫様にとってとんでもない手助けをしてしまったのかも知れない。
「お姫様……」
ハサンの唇が微かに動く。心に絡みつくもやもやとした不安感は如何様にしても消えなかった。立ちつくす彼のはるか前方でキャロルとルカの駱駝は瞬く間に遠離り、やがて見えなくなった。
◇
指輪に刻まれたヒッタイト王家の紋章がささやかな灯火に浮かぶ。イズミルは顔の上に手をかざしてじっとそれを見つめていた。
軍議を終えてからもうどれだけの時間が経ったのか。辺りは静寂に包まれ、聞こえるのは虫の音と、天幕の外で見張りの交替が行われるやや抑えた声のみだった。
厚みのある指輪から目を離し簡素な寝台に身体を横たえる。神経が高ぶっている所為なのか、彼は一向に寝付けずにいた。
男の声が仕切り布のむこうから聞こえたのは、何度目かの寝返りを打ったときだった。
一度目は空耳かと疑った。
ややあって再び同じ声を耳にしたイズミルは傍らの剣に手を伸ばした。聞き覚えがある――だが、ありえない。
「陛下、わたくしです」
まるで辺りをはばかるような、顰めた声だ。
「……ルカなのか」
「はい。どうしても会って頂きたい方をお連れしております」
「会わせたい者? この様なときに何と言うことを。そなたには、姫の元を離れるなとあれ程言い置いて――」
「私が無理に頼んだのです」
彼の言葉の終わらぬうちに、寝所と僅かな居間との境にかけられた布を引き上げて、すっぽりとベールで顔を覆った人物が進みでた。
ゆっくりと身を起こしながら、イズミルは刹那言葉を忘れてその人物を見つめた。彼女の白く細い指先が顔を隠すベールをはらりとおとすと、そこには深さを湛えた蒼瞳が姿を現す。
「……何故だ」
微かにイズミルの声が掠れた。
「なぜここにそなたがいる」
何も言わず、彼女は彼の前に膝を落とした。
大きな手のひらが細い肩を掴む。
「答えるのだ。この様な時刻に何故かような場所へ来る必要がある。どこにアッシリアの目があるかも知れぬというのに……そなたまでもが捕らえられては、なすすべがないではないか!」
「……ごめんなさい」
思わず荒げた声にキャロルは消え入るように答える。上向いた睫毛の下に潤んだ瞳が覗いた。
「夜が明けないうちにダマスコへ戻ります。ただ、逢いたかった……今あなたに逢わなければ一生後悔する、それが……わかったから」
「後悔?」
「あなたの戴冠が執り行われた頃です。全ての記憶が元どおりになったのは……」
全ての記憶。イズミルは心で反芻した。
ならばあの男との生活も全て思い出したということか。
「なれば尚更のこと、何故そなたはここまで来た。……メンフィス王のことも思い出したのであろう」
「……思い出したわ。どんなにメンフィスを愛していたのか。どんなに大切にされ、愛されてきたのか……全て……」
キャロルの言葉にイズミルは微かに唇の端を上げながらほんの僅か視線を落とした。痛みが肌を通して骨の髄にまで届いてくるようだ。
――あの男を愛していた記憶を取り戻したと、そんなことをわざわざ私に言うために来たというのか。
「……死なないで」
長い沈黙をうち破ったそれは小さな呟きだった。イズミルは彼女の方へ顔を向けた。
見つめる彼の前でキャロルは俯いている。その姿勢のまま何かを言いかけては口を噤み、また口を開きかけてはやめる。
――聞き違いか。
再び静寂が立ちこめる。もの言わぬキャロルに半ば諦めかけて立ち上がろうとしたときだった。
「死なないで……!」
今度ははっきりとした声だった。
イズミルが思わず視線を戻した先で、蒼瞳がまっすぐにこちらに向いている。
「そうよ、何もかも思い出したの。メンフィスはきっと今も私を待っている。なのに……私は」
ともしたままの小さな灯りにキャロルの影が震えるのを、イズミルは黙って見つめていた。二人が今、危うい均衡の中に居るのがわかる。ほんの僅かなきっかけさえあればこの腕に掻き抱いてしまうであろうことも。
「死んで欲しくないの。私は……わたしは、あなたのことを――」
「ならぬ」彼は毅然と言い切った。「それ以上申してはならぬ」
「……皇子……」
「皇子ではない。ヒッタイト皇帝だ。もう――皇子ではないのだ」
イズミルは低く、まるで呻くように呟いた。
愛している。
愛している――。
そう囁きたいのを唇を結んで耐える。
意識が鋭く研ぎ澄まされている。柔らかな白い肌、花のような髪の香り。一体どれ程の長い間、彼女がこうして己を受け入れてくれるその時を待っていたのか。
だがもう、自分たちを取り巻く全てはめまぐるしいほどに変わってしまった。
共に生きてはいけない。
――私達の進む道は、既に分かれてしまったのだ。
口にすることを禁じた本心の代わりにイズミルの両腕は、キャロルの身体を引き寄せていた。
きつく締め上げるように抱きしめる。
「私はもう己の未来を決めた。二度と後戻りはせぬ。そなたの心に応えることは……もう出来ぬ」
「それも……みんな判っていたわ……」
僅かな沈黙の後でキャロルが答えた。無理に笑おうとしているのか、その声は震えている。
イズミルは瞼を固く閉じるとキャロルの身体を一息にもぎ離した。上下する細い肩を掴んだままで言う。
「一時の感情に酔ってはならぬ。私が挙兵したのは別にそなたのためにでもライアのためにでもないのだ、そのことに責任を感じずともよい」
「責任なんかじゃないわ」
「私はもうそなたを妻には出来ぬ」
「そんなことどうだっていい。あの屋敷であなたは私とライアに穏やかな時間を与えてくれた。あなたはライアを愛してくれていた、それで充分なのに……どうしてそんなことばかり言うの。共に生きられないことは、わたしにだってわかっているわ」
肩に置かれたイズミルの手をキャロルは身を捩って振り解いた。蒼瞳が涙にきらきらと輝いていた。今にもこぼれ落ちそうな雫を、キャロルは上を見上げて堪えている。そのまま大きく息を吐き出した彼女はぎゅっと瞼を閉じた。
「……それでも、逢いたかったの」イズミルを見上げながら涙を浮かべて笑顔をみせる。「……もう行きます。今までありがとうございました。どうぞご無事で。そしてどうか、あの子を――言えた義理ではないけれど、あの子の命を――」
言葉の途中でキャロルは背を向けた。口元を覆いながら足早にイズミルから遠離ってゆく。
伸ばした指先が彼女の背を追う。
今にも足を踏み出しそうになる。
――もう一度抱きしめてどうなるというのだ。この腕に抱けば、過去に戻れるとでも思っているのか。
この戦の後に待っているのは別々の道。もう二人の運命が男と女として交わることはない。彼女にもそれはわかっているはずだ。己が自分自身に決着をつけなければ前へ進むことが出来なかったと同様に、彼女も又前へ進むためにここに来たのだ。
わかりきったこと。
なのに、何故これ程苦しいのか。哀しいのか。
何年ものあいだ身近にありながらキャロルを抱くことを自らに禁じ、己を律し続けた彼の理性は細く引き延ばされ、既に限界に達していたのかも知れない。気付けば身体は本心のままに動いていた。
後ろからキャロルの白い手を掴み、力任せに己の胸に抱き寄せる。嗚咽しながら抱き返してくる華奢な身体に絡みつく彼の腕には、容赦というものが失われていた。
この世でただ一人愛しいと思える女。
共に生きたいと願いながらもそれが叶わぬ女。
彼女が欲しいと叫ぶ狂おしいほどの恋情の前に、理性は全くの無力だった。
震えているのが自分なのかキャロルなのかすら、もう彼にはわからなかった。
生涯にわたって、イズミルはその夜のことを忘れることはなかった。
燃える灯火の音。彼女の涙の流れるさま。天幕の向こうから聞こえる虫の音。
「愛している」という互いの掠れた声。
――そしてさいごに泣きながら彼女が小さく呟いた「さよなら」という声を――。