「我が妃をアッシリアへなどやるつもりはない。これは全てヒッタイト皇帝が自らの独断で為したこと」 突然の低い男の声にキャロルは一瞬息を止め、弾かれたように振り返った。己の耳を疑った。だが聞き違えることなどあり得ない。 ――この声は。まさか、でも……まさか。 風が吹き込むバルコニー。硬直し縺れそうになる足を叱咤してそこへ駆け寄り、彼女はふわりと舞い上がる紗に震える手を伸ばした。指先が薄布を引き寄せる一瞬前に勢い良く左右にそれが開く。鋭い焦燥に取り憑かれながら、キャロルは瞳を刺す白い光のまばゆさに思わず瞼を閉じた。 一つ呼吸した後で微風を耳朶にうけながら目を開くと、まばゆさに輪郭を失っていた世界が色彩を取り戻していた。 身を顰めて辺りをうかがう兵士らしき複数の人影。それを背にしながら黒衣を頭から纏って佇む、すらりとした長身。 鋭い、だがもの言わぬ黒曜石の瞳がそこにあった。 喉が凍りつく。 声が出ない。 ただ目を見開いて息を呑むこと以外に、キャロルに出来ることは何もなかった。 あれ程に会いたいと願った筈の人が今目の前にいるというのに、一方で彼女の中にわき上がったのは不可解な思いだった。単純な喜びなどではないそれが何であるのかを理解して、キャロルは我が身が竦むのを感じた。 怖れ。 メンフィスとの再会を怖れていたことを、今更ながらにはっきりと彼女は悟った。 あのオロンテスの暗い山の中を、このただひとりの存在を求めて走ったあの日。出産後の出血に意識が遠離る刹那、この人の名を何度も心に叫び、この黒曜石の瞳を恋い焦がれたあのとき。強い意志を内包した真っ直ぐな瞳に射すくめられれば、共に過ごし、愛し合い、子をなしたエジプトでの長い時間が一瞬にして呼び戻される。 あれ程愛し合っていた。二人で生きる明日という日がずっと続いてゆくのだと疑いもしなかった。それが、こんなにも呆気なく失われるものだったのか。失わなければ、明日という日が絶対のものではなかったことにすら気付かない。 エジプトの「あの日」のつづきは、もう永遠に来ることはない。 ――なのに。 細胞という細胞が沸き立つ感覚をキャロルは必死に抑えつけた。二人の男を愛しそのどちらとも決別することを決めた己に、それはもう許されぬ感情だった。皇帝の心に応えることも、別れも、そして――今ここにいる、苦しいぐらいに愛してきた人への想いをも断ち切ることも、誰に命じられたわけでもなく全て自らの決断でなしたこと。 じっとキャロルを見据えたまま、メンフィスはじりと足を踏み出した。 無言の押し問答が数秒続いたあと、キャロルはよろけるように後ずさった。有無を言わせぬ強い力が彼女の手を捉え、メンフィスは己の広い胸にキャロルを引き寄せた。まるで臨界を越えた男の感情が一気に噴出するように。 「キャロル……!」 あとは無言で、彼はキャロルを抱きしめた。抱きしめたという形容にはほど遠い、息が出来ぬほどの容赦ない力だった。 懐かしい肌の匂い――エジプトの太陽の匂いがキャロルを包み込んでいる。 エジプトでいつもこの匂いを感じていた。メンフィスがここにいるというあかしに、彼女はいつも抱擁で応えていた。熱い胸に抱きしめられ、広くて逞しい背に腕を回して。 けれど、もう。 ――この腕に応えることはもう出来ないのだ。 皇帝はライアを救うために捕らえられた。 メンフィスとの時間もイズミルとの時間も元に戻ることはもう決してない。 逞しく熱い身体に包まれながらキャロルは固く目を閉じていた。なのに開いてしまわぬように固く握りしめた掌がわななき、胸の鼓動がどんどん激しさを増してくる。 身動きできない身体を懸命に捩り、彼女は唯一自由に動く頭を何度も振った。その度にメンフィスはそれすら許さぬように細い背を押さえつけ、淡い金色の髪に指を埋める。 「暴れるな。加減が出来なくなる……そなたの身体を折ってしまうかも知れぬ……」 メンフィスではないような狂おしい声が、耳元で聞こえた。 ――やめて。お願い、そんな声を聞かせないで。 泉の底から絶え間なく沸き上がる清水のように、どれ程に禁じても止めどなく呼び覚まされる感情。己のものでありながら己の理性のままにならない恋慕の深さにキャロルは戦いた。 ――馬鹿。恥知らず。どうして? どうして、キャロル! 震える白い指先が、数え切れない己への罵倒の思いと共にゆっくりと広い背に向かい、メンフィスの黒衣に触れてびくりと離れる。厚い胸の感触が、幸せだった記憶を走馬燈のように蘇らせる。 嗚咽を殺しながらキャロルは何度も心に呟いた。 ――ごめんなさい。 何に対して謝っているのか、一体誰に詫びているのか、自分でも判らなかった。 「狼藉者!?」 ただならぬ気配を感じ取ったルカが部屋に飛び込んだ。素早く目を走らせた先、バルコニーの光のなかで一つになった二人の人影を認める。それが誰であるのかを知ると、彼は驚愕に目を見開いた。 「まさか、ファラオ――」 「控えていなさい、ルカ」 動揺を微塵も感じさせない皇妃ミラの声。 一斉に自分に向いたエジプト兵らの突き刺すような鋭い目に晒されながら、立ち竦んでいたルカは慌ててその場に片膝をついた。 「……やはりな。ただ者ではないとは思っておったが……まんまとしてやられたというわけか」 キャロルを抱いたままルカを一瞥すると、メンフィスはキャロルを抱きしめる腕を解いた。だがそのまま彼女を解放することはなく、華奢な腕をきつく掴むと傍らのウナスにキャロルの身柄を預ける。呆然とルカに目をやっていたウナスは我に返ったようにキャロルを受け取った。 「余計な事を考えるな。キャロルを二度と放してはならぬ」 ウナスに言い置くと、彼はキャロルに背を向けゆっくりとミラに歩み寄った。 屈強な兵士達を従え、自分に向かってその力を誇示するように堂々と足を進めるエジプト王。しかしミラはたじろぐことなく澄んだ瞳で彼見据えている。 「メンフィス、何を……」 ウナスに腕を掴まれたまま、キャロルはメンフィスの後ろ姿に向かって不安げな声を上げた。ウナスがそんな彼女を見下ろし、次いでファラオにむかって視線を上げる。 些かもそれを気に留める素振りを見せず、メンフィスはそのまま歩き続けた。 ミラの前で、彼は頭に被っていたフードを下ろした。漆黒の艶やかな髪が肩から背に流れ落ちる。ミラはそれに応えるようにゆっくりと立ち上がると流れるように優雅なお辞儀をし、大国エジプトのファラオに臆することなく、大国ヒッタイトの皇妃としてその瞳をまっすぐにメンフィスに向けた。 「まずは完全な人払いをしていただこう。この部屋に通じる要所要所にはわたしの兵士達が控えている。近付くものあらば全て斬り捨てよと命じてある。よけいな犠牲を出したくなければ暫くの間何人もこの付近へは近付かぬよう、命じるがよい」 「……それで、わたくしを捕らえようとでも?」 「そなたを捕らえる?」 メンフィスは片頬で嗤った。 「面白いことを言う。捕らえて一体何の価値があるというのだ。このわたしが人質など必要とするような腰抜けだと申すか? そのような気は微塵もない、わたしは妃を迎えに来ただけのこと。そなたの夫が拐かし続けていた我が妻を――わたしの女をな」 凍えるような眼差しを容赦なく浴びせられ、ミラはほんの僅かたじろいだ様子で逡巡したが、間もなく決断を下すとルカに命じた。 「わたくしとナイルの姫との大事なお話があるということになさい。その間、衛兵も侍女も、回廊よりも先、こちらの部屋へは近づかぬように」 「しかし、ミラ様」 「命令です。わたくしの言うことが聞こえましたね、ルカ」 「……はい」 刹那キャロルに何かを訴えるような素振りを見せたが、ルカは直ちに立ち上がると走り去る。 たおやかな見かけからは予想できない毅然とした物言いに、メンフィスは僅かに目を見張った。 「皇帝がアルゴン王の奸計に陥ったことはこちらへも情報が入っている。だが先程も申したとおりこれは全てあの男がまいた種だ、自分で刈り取って貰う他はあるまい。我が国の王子は我が国で奪還する。そちらはそちらで勝手に皇帝を救い出せばよい」 「エジプトとヒッタイトが共にアッシリアを攻めるとなれば、アルゴン王は追い詰められて人質に何をするか判りません。その可能性についてはどう考えておられるのです」 皇妃の声音に僅かな必死さが滲んだ。メンフィスがそれに気付かぬ筈はなかったが、彼女への返事はあくまで冷ややかだった。 「かつて我が国との戦で片腕を落とされ、城を崩壊させられたアルゴン王にはエジプト軍の恐ろしさは身に染みている。あの男がわたしに真っ向から挑んでくるとは到底思えぬ。ゆえに我が国の王子に奴が危害を加えることはないと考える。 もしもあったとすれば、あの国そのものを草木すら生えぬ荒れ地にするまでのこと」 ――ただしそれは我が国の王子に関してのみ。皇帝の安全に関しては知ったことではない。メンフィスはそう続けた。 ミラが小さく嘆息する。 「……メンフィス……」 青ざめた顔でキャロルが自分を見ていることにも、彼は不自然なまでに気付かない風を装っている。メンフィスは更にミラに向かい言葉を続けた。 「そなたに申したところで詮無きことだが、この場に皇帝がいたならただでは済まさぬ。そなたの夫はわたしの妻を拐かし、この長い年月をここに隠し続けた。あまつさえ、わたしの息子をもだ。イズミルが運良くアルゴン王に勝利できアッシリアから脱出出来たとしても、わたしには勝てぬ」 メンフィスの言葉に、ミラは初めて顔色を変えた。 「……それは……」 「そなたはなかなかに聡明な女人のようだ、わたしの言っていることの意味は当然理解できよう。どちらにしても皇帝に未来はないということだ。奴の行動は――万死に値する」 |