この空の果て〜1章〜
■ 1 ■ 月が雲間に隠れる。 松明を片手に天にも届かんばかりにそびえるレバノン杉を見上げ、イズミルは苛立ちと共に眉を顰めた。 「早く探し出さねば。獣に襲われればひとたまりもない」 暗闇の中を幾つもの松明が移動してゆく。 この明かりがなければ、足下はおろか伸ばした指先でさえも、濃い闇の中に飲み込まれていることだろう。屈強な男ですら出歩くことを躊躇う程の危険に満ちた山中。そのなかへ飛び出してしまったあの小さな体は、どこにそんな勇気を秘めているのか。 「そんなことを考える余裕もないほどに、わたしから逃れたかったということか……」 自嘲した笑みをかみ殺すと、イズミルは松明を片手に更なる闇の中へ踏み込んで行く。 「危のうございます皇子、お一人で奥へ踏み行っては……!」 「その危ないところに、姫はたった一人でいるのだ!」 配下の兵を従え、ハザズ将軍が皇子の後を追う。己のあとに続く兵たちの気配を背中に感じながら、イズミルは頭上高く生い茂る巨大な枝葉を再び見上げた。 どこだ、姫。どこにいる。声を出せ、そなたの居場所をわたしに知らせよ……! 細い木の根に引っかかり素足に血が滲むのに構う余裕すらなく、キャロルは鬱蒼とした闇のなかを走っていた。 立ち止まれば鋭い牙と爪が間違いなくこの身に襲いかかってくる。獣の足に自分のこの足が敵うはずが無いことは百も承知だった。だが走り続けるほかに己が生き延びる術はない。背後から近付きつつある低い咆哮は、獣が一匹ではないことを彼女の耳に知らせる。振り返る勇気はもうなかった。 『屈強な男でも一人でこの中を歩くことは出来ぬ』 涼やかな声が耳朶に蘇り、キャロルは一瞬唇を咬んだ。何故一つの武器も持って来なかったのだろう、イズミル皇子はあの時確かにそう言っていたのに。 一人で生きて行くと誓ったはずなのに、イズミル皇子の手を逃れてみれば、向かう先はエジプトより他に何も考えられない我が身。だがここに求めるその人の姿は無い。 やり切れなさが心の底からわき上がり、視界をぼやかせた。 泣いている場合じゃない、この獣から逃れなければならない。生きていなければ、泣くこともできないのだから。 「メンフィス……メンフィス!! 助けてメンフィス!!」 届くはずのない泣き声が、闇の中に消えて行った。 ――助けて……助けてえ!! 「姫!」 求める声をイズミルの耳が捉えたのは、何度めか闇の向こうに目を凝らしたその時だった。 ※ 牙に引き裂かれた衣装を隠す術もなく座り込みただ泣きじゃくるキャロルを、イズミルは無言で見下ろした。 鋭い牙と爪を間近にした恐怖が今になって全身を震わせるのか、それとも結局この手から逃げ切ることが出来なかった我が身を嘆いてのものか――どちらでも良い、とにかく死なせずに済んだと溜飲を下げながら、イズミルは言い放った。 「だから申し聞かせたであろう姫……危険だと。わたしが来るのがもう少し遅ければそなたはどうなっていたか」 無事でよかった。深い息を吐きキャロルの身体を引き寄せようとしたイズミルは、その時になって漸くキャロルの異変に気付いた。 震えかたが尋常ではない――息を詰まらせながら、キャロルが腹部を押さえている。 「……姫?」 返事はなかった。襲いかかる苦痛に耐えるようにキャロルは唇を噛みしめ、蹲っている。 「姫!! 如何致したのだ! 怪我をしているのか!!」 「……が……いた……」 「どうした、どこに傷を負った!」 「う……おなか……おなかが痛い……助け……メン……」 既に顔色は蝋のように蒼白く、キャロルの顔と言わず身体と言わず冷たい汗が流れている。 腹部を抱え身を折り曲げたまま、キャロルはその場に倒れ伏した。 「皇子、いかがされた!!」 異変に気付いたハザズ将軍が駆け寄り、一目キャロルを見るなりイズミルを視線で促した。将軍の視線の先に目をやってイズミルは息を止めた。 「姫……!!」 キャロルの下半身の衣装が赤く染まっていた。 ※ 「流産しかけております」 キャロルの診察を終えた軍医は淡々と事実だけを告げた。 「流産? 姫が妊娠しているというのか……?」 「安静を保てばもち堪える可能性も残されております。ですが動かせばこのまま流れまする」 医師を下がらせると、イズミルは横たわるキャロルの脇へ歩み寄った。彼女はまだ僅かに眉の間に皺を寄せ、目を閉じている。 この身体の中にファラオの子が……あの男の子供が宿っていると。 嘆息ともつかぬ息を吐き出し、彼はこれまでのキャロルの様子を思い浮かべようとして、幾分痩せたことと、薄紅色の頬の色もどこか精彩を欠いて見えたことに思い当たった。 「迂闊であった……」 独りごちながら、無意識にこぶしを握りしめる。 己が求める女は既に他の男のものとなって久しい。その男も又深い愛情を彼女に注いでいるからには、この日がいつか来ることは判っていたはずだったのだ。 考えないようにしていたのかも知れない。それを考えることは即ち、キャロルがファラオの逞しいあの褐色の肌の下に組み敷かれるという生々しい現実を、己に突きつけることに他ならないのだ。 彼の中のキャロルは王妃となってもなお、「おとめ」のままだった。 だが今、漸くその身柄を手にしてみれば、妊娠という現実が己の前に立ちふさがる。 混沌とした思考を振り切るようにイズミルは首を振った。好むと好まざるとに関わらず、直面したこの事態をどうするべきか。 『もちこたえる可能性もあるが動けば流れる』 軍医の声が耳朶に蘇った。 「考えるほどのことではない。この身体に宿っているのはわたしの子ではないのだからな」 キャロルの顔を見下ろしながら、乾いた自分の声を聞いた。 元々流れる運命であったのだ。さだめであったものがさだめの通り流れたところで、それが何だというのか。 眠り続けるキャロルはやはり眉間に皺を寄せ、時折辛そうに顔をしかめて身を捩る。 「姫……」 イズミルはキャロルの手をそっと握りしめ、頬にかかる金色の髪を耳にかけた。 腹の子の命などに何の興味もない。むしろ流れてしまえばいいと思う。だがその為にキャロルが受けるであろう心身への大きな痛みは察するに余りあった。 「何故そなたはあの男の妃なのだ……!」 愛する女を痛めつけると知りながらも敢えてそれ選択する――腹の子を葬る――非情さが、己には必要なのだろう。 今更ながらに骨身に染みる。 大国ヒッタイトと数々の属国をやがて束ねる立場にいながら己は、甘すぎるのだと。 |