2003年11月25日

【金髪映画】

中華料理屋でラーメンをすすっていると背後からテレビの音声が。振り向かなくてもテレビ東京の日曜にやる金髪外人が出ている映画とわかった。そのとき、なぜ振り向かなくても金髪外人が出ている映画とわかってしまうのかと我ながら不思議だった。

理由は金髪外人が出てくる映画の、声優による吹き替えにある。金髪的日本語という存在は確実にある。アメリカンホームコメディの吹き替えの声を想像してほしい。アメリカンなパパの声、ママの声、娘の声、パパの勤める会社の上司の声、かならずある一定の水準に集約される日本語の声色をみんな思い浮かべるはずだ。私、金髪しています、とでもいうようなベタついたチープな色が特徴の声。日本語特有のメリハリを消している。

日本人の思う金髪外人さん幻想を日本語で忠実に声優は実行しているのだ。アメリカンホームコメディが日本人の我々からみたら、なにか浮いていると思わされてしまうのはそこに大きな原因があるのはいまさらいうまでもない。

役者になりきってしゃべるというときに、その国の上っ面のイメージを勝手に想像して声優は吹き込んでいる。声優が悪いといいたいのではない。たとえば、金髪外人の50代おじさんに扮する声優と中国人の50代のおじさんに扮する声優のちがいを思いくらべてみると、前者はハリソン・フォードを想定して吹き込んだらほぼイメージは統一されるように思える。
後者はというと、ジャッキー・チェンの酔拳に出てくる赤ら顔の拳法の師匠を想定したらほぼイメージは統一されるんじゃなかろうか。けっこう安易なところに落ち着くわかりやすい背景がみえてくる。

もし金髪外人が流暢に日本語を話したらこんな口調になると、家庭や会社での会話はこんなふうに小ジャレたものになると、エスプリだかウィットだかのしゃらくさいユーモアというやつを冷笑的に肩をすくめながらいうに決まっている!という、あらかじめ固定された世界観の基に、声優は集められ、声優は外人になろうとする。

パパは家ではいつもソファに座ってパイプをくわえ、ゴルフクラブを磨き、ママはオーブンでパイを焼き、娘のおてんばぶりに釘をさし、高校生になったばかりの娘は、学校に行くときは教科書をブックバンドでまとめ、バトントゥワリングのクラブ活動をし、ラグビー部の男子先輩に恋焦がれ、なのにその先輩は自分には振り向いてくれず、幼なじみのイケてない、さりとて仲も悪いわけではない同年代のそばかす男子といつも軽いケンカをし、新しい服をパパとママにねだる。朝食はテーブルをパパ、ママ、娘の3人で礼儀良く囲む。
パパとママのセックスのときは、「NO!」「YES!」のどちらかを連呼して、それしかいわない。

金髪映画はまだしも、これがミュージカルだったら、その域は奇天烈とも呼べるものになるだろう。私はフランソワとかベッツィーとかエディとかいう役名を与えられたような日本人のミュージカルをみたことがない。みてはいけないような気がする。昔から日本人はミュージカルはやらないほうがいいとさえ思っている。ただでさえ日本人は感情を豊かに表に出すのを差し控える文化の中で生きているのに。

歌いながら芝居をする、そんな日本人は変だ。「♪わたしはぁ〜、いまぁ〜、とってもお腹がいたいの〜、しくしくいたむぅ〜」「♪おおおおお〜、かわいそう〜、ほれ、正露丸でもお飲みよぉ〜」とか急に歌いだすわけである。といっても、これはどういうシチュエーションかわからないが。しかし、こんなもんだろ。

あるジャンルにおいて、日本語は歌詞とメロディとの融和点が限られてくる。洋楽を聴く人ならわかるが、向こうの国では政治色の強いロックを数多く歌う歌手はたくさんいる。それが日本人の我々にはさして不自然に聴こえない。理由は英語だからだ。英語を解して聴いている日本人はほとんどいない。日本のミュージックシーンで政治色の強い曲なんか作ったら笑いの種にされるだけだ。そしてまた私が先にあげた正露丸ソングも英語に直して適当に歌えば、きっと不自然に聴こえないだろう。これはあながち冗談ではないのだ。

英語をわざわざ日本語に翻訳しているというのになんでまたわざわざ英語のイントネーションに近い不自然な言い回しで日本語を話さなければいけないのか。それは妙だ、とはっきりいう人も鴻上尚丈やナンシー関など何人かいたが、それでも声優は今日も外人になってマイクに向かう。

Posted by bananahiroshi at 21:43