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基地問題など

【米軍普天間飛行場の名護市への移設問題】

「勝連」再び 怒るうるま/98年にも浮上

2010年03月18日

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 米軍普天間飛行場の移設先として沖縄本島中部の勝連半島沖合案が浮上した。環境を汚染しかねない埋め立てと基地負担の増大への懸念から、地元のうるま市では困惑が広がっている。10年以上前に浮かんでは消えた経緯もあり、怒りの声も上がる。

 「とんでもない話だ。そんな話に乗るやつがどこにいるのか」。勝連漁業協同組合の赤嶺博之組合長(57)は憤りをあらわにした。

 怒りの矛先は平野博文官房長官の発言。民主党県連代表の喜納昌吉参院議員が記者団に明らかにしたところによると、平野氏は10日、勝連沖を埋め立てる案について「漁協が反対していない。ベターな案」と述べたという。

 勝連沖はモズク漁が盛んだ。健康ブームが一息つき、売れ行きはピークを過ぎたが、県内一を誇る。赤嶺組合長は「補償金を出せば我々が納得するとでも思っているのか。埋め立てられたらこの海はおしまいだ」という。

 勝連沖案が最初に浮上したのは1998年12月。勝連半島から西に5キロほど離れた沖縄市の商工会議所が「本島中部の活性化の起爆剤に」と提唱した。半島の東沖に人工島を造り、普天間飛行場を移設するとともに、民間機の整備場を建設する構想だった。

 中心になったのは、当時会頭だった建設会社会長(82)。今も「遠浅の勝連沖なら、他とは比べものにならないくらい早く安く埋め立てられる」と利点を強調する。

 しかし、日米間で最有力だった名護市辺野古案の陰で、勝連沖案はいつしか忘れられた存在となっていく。

 そんな案に、新たな移設先探しを迫られた鳩山政権が飛びついた。昨年9月の政権交代からまもなく、会長は民主党側からの求めで小沢一郎幹事長と面会。今年2月にも北沢俊美防衛相らと会い、勝連沖案を説明したという。「普天間の危険性を早くなくしたいのなら、この案しかない」。会長はそう言う。

 しかし、うるま市では反発が強まる一方だ。

 市の面積の7%は、海兵隊キャンプ・コートニー、キャンプ・マクトリアス、海軍・陸軍のホワイトビーチなど米軍基地が占める。嘉手納町などにある嘉手納基地に発着する戦闘機の騒音も深刻だ。1959年には、米軍機が現市内にある小学校に墜落し、17人が死亡する惨事もあった。

 「基地があるゆえの犠牲を痛いほど知る我々に、また新たな負担を押しつけようというのか」。99年に反対運動の先頭に立った宮城貞雄さん(78)は、鳩山政権を批判。島袋俊夫市長も「あれだけ言っていた県外・国外はどうなったんだ」と怒りを隠さない。

 80年には、勝連沖を埋め立てて造った平安座島に石油備蓄基地が操業を開始したが、計画が持ち上がった70年代には、水質や土壌の汚染を恐れる農民、漁民らが激しい抵抗運動を展開した。うるま市を選挙区に持つ民主党の玉城デニー衆院議員は、こうした歴史も踏まえ「勝連沖案なら、反政府ののろしが上がりかねない」と警告する。

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