2008年10月
2008年10月27日
遺骨調査のため、フィリピン・レイテ島へ 3日目
いよいよ今日で最後の調査です。
早朝6時起床で、7時にはチャーターした漁船が目の前の港に昨夜から泊まっていたその船に乗り込む。












今回、この船の3時間ほどの時間が初めてのんびり出来たと思う。
それまでは、移動→ジャングル→移動→ジャングルの日々でした。
ここでゆっくりとみんなと話が出来た。野口さんとの話はこのブログでも言えない裏話がポンポンと飛び交って思いっきり笑わせてくれました。
でも彼は今回プライベートの参加で、彼のこの遺骨調査に対する想いや真剣さがバシバシと感じさせられました。
環境問題の話や、富士山の清掃活動なんかは
「富士山には現在、ゴミ一つ落ちていないですよ。またそのシステムづくりを国と行政を巻き込んでやりました。今年は8500名のボランティアで富士の樹海を清掃します。」
この自信とやりっ切った話と今でも継続している活動には本当に感動しました。
そんな話が、これでもかってくらいに野口さんの口から高い声で出てきます。
それも大阪人もびっくりするくらいに面白いんですよ。
この船の3時間が一瞬に感じました。





















最後に倉田団長が「実弾をこれから撃ちに行くから
」
「えっ
観光やないのに
」
と一瞬思ったが、実際に撃ってみると、これがハワイやグアムで撃ったのと違う怖さを実感できた。
こんなもんで撃ち合いしていた現場で撃ってみると、本当に怖い
という感情と音の大きさに驚かされた
倉田さんはどこまでも現場第一主義なのである。









上の画像の野口さんと彼の専属のカメラマンの平賀さんです。
野口健さん「おまえは邪魔なんだよ〜
ちょっと下がってろよ
」
最高に面白いコンビです。彼はヒマラヤ、エベレストも同行しています。
そのエピソードも目茶苦茶笑わせてもらいました。
空援隊の倉田団長のすばらしいリーダーシップで今回の調査も無事に終えることが出来ました。本当に感謝しております。
スタッフも役割分担がきっちり出来ていて最高でした。
倉田さんも野口さんも「現場第一主義
」
これって活字で書くと伝わりにくいんですが、今回、実際にジャングルに入り暑さや湿度やその64年前の空気を実感できたことや、ご遺骨を目の前にした気持ちはVTRやこのブログだけでは伝え切れないものです。
特に第二次大戦は白黒のフィルムと活字と地図でしか見ることが出来なかった。
それで頭の中で自分勝手にイメージを造っていた。
それが今、その現場へ来て同じ空気を吸い、8万名以上もの尊い命が亡くなった現場へ足を入れると様々な事が五感で感じる(第六感も含む)。
それが今までのイメージとのギャップがありすぎて消化できない。
余りにもリアルすぎて景色は綺麗なのである。
空はどこまでも青く、海は青く透きとおり、ジャングルの緑もヤシの木も凄く綺麗なのである。
沖縄の宮古島で見た感動と同じ感動するロケーションで、大量殺りくが国家同士で行った現場とのギャップがあり過ぎるんです。
そこで野たれ死んだ彼らの当時の気持ちは絶対に理解出来ないですが、数%でも少しだけでも近づけた気持ちになりました。
あのジャングルへ半日でも辛かったのに、それを食料なしに数ヶ月、キャンプ道具もなく洞穴で、あれだけの蚊や虫が多いのに「蚊取り線香」なんて無かっただろうし、どんな気持ちで最後を迎えたのか
人間は追い詰められると、安全のために山を背にして、飲料水のある川の近くに潜むことも現場に行くと実感できた。
食料が無く、かえるやへびやイモリを生で食べる、火をおこすと煙で米兵に見つかる為だ。そのためにアメーバー赤痢になり、強烈な下痢になる。体力が益々なくなる。
もうこれで最後と手榴弾で自決を覚悟する。
そんな中、一人の痩せこけたボロボロの軍服を着た日本兵がカンギポット山のふもとの村へ降り、家族の写真と手紙を現地人に託すが、その女性は怖くなって村人を呼び、彼らに捕まったその日本兵は、ナタで頭を落とされる。
余りにも切ないし、むごすぎる
でも彼らもゲリラと土民(当時の現地民の呼び名)との区別がつかず、手当たり次第に土民を見たら女、子ども区別無く殺りくしたのも事実だった事を知らされたこともショックだった。
戦死した名前もわからない彼らの事を想像しか出来ないですが、それが間違っていても、彼らの気持ちを汲むその努力は少しは慰霊になるのかとも思う。
それすら、いや、その存在すら見捨てている今の繁栄した日本の社会を思うと、本当に命がけで日本の為に死んでいった彼らは恨めしいだろう
この活動は今回の事実を知ってしまった以上、一回で終えることができない。
周りの友人からは「理解不能
」「変わり者」と言われる。
しかし、今の平和な日本に生まれて、当時敵国だったアメリカ人と毎日連絡ができ、Harley-Davidsonを直接アメリカから輸入出来て、それを扱って生活をしている私にとって、その礎になられた犠牲者を無視は出来ない。
当時の証言者も80歳を超え、時間的なタイムリミットもあと5年くらいだ。私一人の力は微々たるものだけれど、1体でも内地に帰ることが出来たならばとつくづく思っております。
早朝6時起床で、7時にはチャーターした漁船が目の前の港に昨夜から泊まっていたその船に乗り込む。
今回、この船の3時間ほどの時間が初めてのんびり出来たと思う。
それまでは、移動→ジャングル→移動→ジャングルの日々でした。
ここでゆっくりとみんなと話が出来た。野口さんとの話はこのブログでも言えない裏話がポンポンと飛び交って思いっきり笑わせてくれました。
でも彼は今回プライベートの参加で、彼のこの遺骨調査に対する想いや真剣さがバシバシと感じさせられました。
環境問題の話や、富士山の清掃活動なんかは
「富士山には現在、ゴミ一つ落ちていないですよ。またそのシステムづくりを国と行政を巻き込んでやりました。今年は8500名のボランティアで富士の樹海を清掃します。」
この自信とやりっ切った話と今でも継続している活動には本当に感動しました。
そんな話が、これでもかってくらいに野口さんの口から高い声で出てきます。
それも大阪人もびっくりするくらいに面白いんですよ。
この船の3時間が一瞬に感じました。
最後に倉田団長が「実弾をこれから撃ちに行くから
「えっ
と一瞬思ったが、実際に撃ってみると、これがハワイやグアムで撃ったのと違う怖さを実感できた。
こんなもんで撃ち合いしていた現場で撃ってみると、本当に怖い
倉田さんはどこまでも現場第一主義なのである。
上の画像の野口さんと彼の専属のカメラマンの平賀さんです。
野口健さん「おまえは邪魔なんだよ〜
最高に面白いコンビです。彼はヒマラヤ、エベレストも同行しています。
そのエピソードも目茶苦茶笑わせてもらいました。
空援隊の倉田団長のすばらしいリーダーシップで今回の調査も無事に終えることが出来ました。本当に感謝しております。
スタッフも役割分担がきっちり出来ていて最高でした。
倉田さんも野口さんも「現場第一主義
これって活字で書くと伝わりにくいんですが、今回、実際にジャングルに入り暑さや湿度やその64年前の空気を実感できたことや、ご遺骨を目の前にした気持ちはVTRやこのブログだけでは伝え切れないものです。
特に第二次大戦は白黒のフィルムと活字と地図でしか見ることが出来なかった。
それで頭の中で自分勝手にイメージを造っていた。
それが今、その現場へ来て同じ空気を吸い、8万名以上もの尊い命が亡くなった現場へ足を入れると様々な事が五感で感じる(第六感も含む)。
それが今までのイメージとのギャップがありすぎて消化できない。
余りにもリアルすぎて景色は綺麗なのである。
空はどこまでも青く、海は青く透きとおり、ジャングルの緑もヤシの木も凄く綺麗なのである。
沖縄の宮古島で見た感動と同じ感動するロケーションで、大量殺りくが国家同士で行った現場とのギャップがあり過ぎるんです。
そこで野たれ死んだ彼らの当時の気持ちは絶対に理解出来ないですが、数%でも少しだけでも近づけた気持ちになりました。
あのジャングルへ半日でも辛かったのに、それを食料なしに数ヶ月、キャンプ道具もなく洞穴で、あれだけの蚊や虫が多いのに「蚊取り線香」なんて無かっただろうし、どんな気持ちで最後を迎えたのか
人間は追い詰められると、安全のために山を背にして、飲料水のある川の近くに潜むことも現場に行くと実感できた。
食料が無く、かえるやへびやイモリを生で食べる、火をおこすと煙で米兵に見つかる為だ。そのためにアメーバー赤痢になり、強烈な下痢になる。体力が益々なくなる。
もうこれで最後と手榴弾で自決を覚悟する。
そんな中、一人の痩せこけたボロボロの軍服を着た日本兵がカンギポット山のふもとの村へ降り、家族の写真と手紙を現地人に託すが、その女性は怖くなって村人を呼び、彼らに捕まったその日本兵は、ナタで頭を落とされる。
余りにも切ないし、むごすぎる
でも彼らもゲリラと土民(当時の現地民の呼び名)との区別がつかず、手当たり次第に土民を見たら女、子ども区別無く殺りくしたのも事実だった事を知らされたこともショックだった。
戦死した名前もわからない彼らの事を想像しか出来ないですが、それが間違っていても、彼らの気持ちを汲むその努力は少しは慰霊になるのかとも思う。
それすら、いや、その存在すら見捨てている今の繁栄した日本の社会を思うと、本当に命がけで日本の為に死んでいった彼らは恨めしいだろう
この活動は今回の事実を知ってしまった以上、一回で終えることができない。
周りの友人からは「理解不能
しかし、今の平和な日本に生まれて、当時敵国だったアメリカ人と毎日連絡ができ、Harley-Davidsonを直接アメリカから輸入出来て、それを扱って生活をしている私にとって、その礎になられた犠牲者を無視は出来ない。
当時の証言者も80歳を超え、時間的なタイムリミットもあと5年くらいだ。私一人の力は微々たるものだけれど、1体でも内地に帰ることが出来たならばとつくづく思っております。
2008年10月26日
遺骨調査のため、フィリピン・レイテ島へ 二日目
第1日目は時間がなく途中まで書き込んだんですが、
昨日完結しましたので、それからお読みください。
フィリピンはレイテ島、セブ島、ルソン島、ミンダナオ島が最も多くの戦死者を出した地域であり、いまだ40万人のご遺骨が野ざらしになっている。激戦地となったレイテ島では8万人以上の日本人将兵,軍属(民間人)が犠牲となり、その大半が収集されていない。
しかし戦後63年間、建て前論では日本政府も遺骨収集については一応は終了した。ということです。
で、昨日の初日の遺骨調査は参加者全員が疲労困ぱいしたので、今日のコースは更に厳しいコースかどうか、メンバーが非常に気になっていました。
最年長者の間島さんご夫妻は、絶対にギブアップされると想像していました。
ところがご夫婦が元気なお声で「今日も行きます
」って。
すごいなあ
昨日「人生で一番死ぬほど苦しい登山だった
」と言っていた間島さんのご主人も元気そうです。
「これハワイかどっかでオプショナルツアーだったら誰も参加しませんよね
」
って私が言うと全員大笑いでした
それだけ今回のツアーに参加された方々の想いは一つで、全員気持ちがぶれないんです。
これって凄いです
私も前日の疲れや筋肉痛が出ないかどうか
昨日のこともあり、全体に迷惑を掛けてはいけないので、体調を非常に気にしておりました。
が、朝からお腹がヤバイ
もしかして何かに当たったのか
アメーバ赤痢というのになると散々注意を受けていたのに、
えっ
昨夜のちょっとしたミスでシャワーで口をゆすいだ位で、他の食べ物はみんなと一緒だったはずなのに・・・・・
様子を見ながら朝の7時に集合です。朝食を取り、すぐに車で移動。
今度の場所は急な山道で、世界の野口健さんも滑って上りにくそうです。
そこへ我々混成部隊が上るのですから、えらいことです









やっとのことで山を登りきると、そこには1体のご遺骨がありました。
地元の方がバナナを植えようとしたときに出てきたそうです。
そこから見える景色は当時と一緒だと思うと、言葉が出てきません。
今回、ビデオカメラだ2台同行したのですが、カメラを向けられてコメントが欲しいようなんですが、適当な日本語がないんです。
これはきっと、この状況というのが日本の文化になかった為に起こる現象だと思います。
日本の御国の為と戦場へ赴き、誤った情報を元に陸軍の指令に翻弄されて、制空権、制海権も米軍に奪われ、補給船も次々に沈められ、結局はその国から見捨てられて食料、弾薬だ尽き、飢えとマラリアと病魔と戦い、それでも尚、「自活自給して最後まで戦え!」との大本営の命令により撤退できないまま、最後には自決、野垂れ死にに
その彼らが64年ぶりに日本人と再会して、やっと帰れると思いきや
「えっ
64年も待ったのに日本に連れて帰ってくれないのか
」って聞こえてきそうでした
遺灰は見たことはありますが、遺骨を実際この手にすると、彼らの恨みの声が聞こえてきそうです。そんな歴史的背景とこの現状のご遺骨を目の前にして、適当なコメントなんて出てくる訳もありません。
そぐにまた違うポイントへ移動です。











ここでは野口健さんが自ら、この洞穴へ入ってきます。と志願されました。
無線で
健さん「本当に毒蛇はいないんでしょうねえ
」
倉田団長「いないって地元のガイドが言ってるわ
」
しばらくすると・・・・・
健さん「うわぁ〜
こうもりだらけですう〜
」
倉田団長「ここのこうもりは噛まへんから気にするな
」
健さん「・・・・・・・・・・
」
暑かったあ〜
って叫びながら洞穴から出てこられました。
彼の服も靴も泥だらけです。
本当に野口さんは深い意味でも男前です。
3体のご遺骨を発見しました。
そこの遺骨調査を終えて、また次のポイントです。
今度は民家にすでに集めてもらっておりました。

言葉を無くして立ち尽くす空援隊メンバー。






この民家にご遺骨はありました。
上の水筒には「本宮」とナイフで削ってありました。
調べればどこの方かわかると思うのですが・・・・・・・。
認証票がありましたが、解読不能な状態でした。
弾薬やマシンガンのマガジンには弾薬はそのままです。
手榴弾や迫撃砲の弾薬もそのままです。
約10体のご遺骨がありました。
またすぐに移動です。レイテ島戦没者慰霊碑に手を合せてから、
それから10月21日偶然にも64年前のその日にマッカーサーがこのレイテ島に上陸した記念日でした。



現地空援隊スタッフのジェシーさんです。彼がいないと現地の遺骨は見つかりません。本当に縁の下の力持ちです。
野口さんは「エベレストでのシェルパと同じです。」
その通り





なんと明日のマッカーサー上陸記念日に日本のフィリピンの領事館から大使が呼ばれて歓迎の垂れ幕です。
なんで日本領事館から大使が呼ばれてどんなコメント内容で挨拶されたのでしょうか?
倉田さん「今度、会ったら何て挨拶したか聞いといてやる。」
みんな不可思議な気持ちになり、「空援隊のステッカー」をその垂れ幕に貼り付けて帰りました。
倉田さんを始め、スタッフ全員、その大使とよく遺骨収集の件でしょっちゅう会っているんだそうです。
この空港も元は日本軍の滑走路です。



このビーチから米軍が上陸しました。
この浜には無数の日本陸軍守備隊16師団が守備するも、米軍の物量と艦砲射撃でレモン峠まで追いやられる。
そこへ再度、日本軍は防衛線を張るが、結局我々が調査したカンギポット山へ2万の兵が集結し、補給もままならず、餓死していくのである。
まだまだ続く
昨日完結しましたので、それからお読みください。
フィリピンはレイテ島、セブ島、ルソン島、ミンダナオ島が最も多くの戦死者を出した地域であり、いまだ40万人のご遺骨が野ざらしになっている。激戦地となったレイテ島では8万人以上の日本人将兵,軍属(民間人)が犠牲となり、その大半が収集されていない。
しかし戦後63年間、建て前論では日本政府も遺骨収集については一応は終了した。ということです。
で、昨日の初日の遺骨調査は参加者全員が疲労困ぱいしたので、今日のコースは更に厳しいコースかどうか、メンバーが非常に気になっていました。
最年長者の間島さんご夫妻は、絶対にギブアップされると想像していました。
ところがご夫婦が元気なお声で「今日も行きます
すごいなあ
「これハワイかどっかでオプショナルツアーだったら誰も参加しませんよね
って私が言うと全員大笑いでした
それだけ今回のツアーに参加された方々の想いは一つで、全員気持ちがぶれないんです。
これって凄いです
私も前日の疲れや筋肉痛が出ないかどうか
昨日のこともあり、全体に迷惑を掛けてはいけないので、体調を非常に気にしておりました。
が、朝からお腹がヤバイ
アメーバ赤痢というのになると散々注意を受けていたのに、
えっ
様子を見ながら朝の7時に集合です。朝食を取り、すぐに車で移動。
今度の場所は急な山道で、世界の野口健さんも滑って上りにくそうです。
そこへ我々混成部隊が上るのですから、えらいことです
やっとのことで山を登りきると、そこには1体のご遺骨がありました。
地元の方がバナナを植えようとしたときに出てきたそうです。
そこから見える景色は当時と一緒だと思うと、言葉が出てきません。
今回、ビデオカメラだ2台同行したのですが、カメラを向けられてコメントが欲しいようなんですが、適当な日本語がないんです。
これはきっと、この状況というのが日本の文化になかった為に起こる現象だと思います。
日本の御国の為と戦場へ赴き、誤った情報を元に陸軍の指令に翻弄されて、制空権、制海権も米軍に奪われ、補給船も次々に沈められ、結局はその国から見捨てられて食料、弾薬だ尽き、飢えとマラリアと病魔と戦い、それでも尚、「自活自給して最後まで戦え!」との大本営の命令により撤退できないまま、最後には自決、野垂れ死にに
その彼らが64年ぶりに日本人と再会して、やっと帰れると思いきや
「えっ
遺灰は見たことはありますが、遺骨を実際この手にすると、彼らの恨みの声が聞こえてきそうです。そんな歴史的背景とこの現状のご遺骨を目の前にして、適当なコメントなんて出てくる訳もありません。
そぐにまた違うポイントへ移動です。
ここでは野口健さんが自ら、この洞穴へ入ってきます。と志願されました。
無線で
健さん「本当に毒蛇はいないんでしょうねえ
倉田団長「いないって地元のガイドが言ってるわ
しばらくすると・・・・・
健さん「うわぁ〜
倉田団長「ここのこうもりは噛まへんから気にするな
健さん「・・・・・・・・・・
暑かったあ〜
彼の服も靴も泥だらけです。
本当に野口さんは深い意味でも男前です。
3体のご遺骨を発見しました。
そこの遺骨調査を終えて、また次のポイントです。
今度は民家にすでに集めてもらっておりました。
言葉を無くして立ち尽くす空援隊メンバー。
この民家にご遺骨はありました。
上の水筒には「本宮」とナイフで削ってありました。
調べればどこの方かわかると思うのですが・・・・・・・。
認証票がありましたが、解読不能な状態でした。
弾薬やマシンガンのマガジンには弾薬はそのままです。
手榴弾や迫撃砲の弾薬もそのままです。
約10体のご遺骨がありました。
またすぐに移動です。レイテ島戦没者慰霊碑に手を合せてから、
それから10月21日偶然にも64年前のその日にマッカーサーがこのレイテ島に上陸した記念日でした。
現地空援隊スタッフのジェシーさんです。彼がいないと現地の遺骨は見つかりません。本当に縁の下の力持ちです。
野口さんは「エベレストでのシェルパと同じです。」
その通り
なんと明日のマッカーサー上陸記念日に日本のフィリピンの領事館から大使が呼ばれて歓迎の垂れ幕です。
なんで日本領事館から大使が呼ばれてどんなコメント内容で挨拶されたのでしょうか?
倉田さん「今度、会ったら何て挨拶したか聞いといてやる。」
みんな不可思議な気持ちになり、「空援隊のステッカー」をその垂れ幕に貼り付けて帰りました。
倉田さんを始め、スタッフ全員、その大使とよく遺骨収集の件でしょっちゅう会っているんだそうです。
この空港も元は日本軍の滑走路です。
このビーチから米軍が上陸しました。
この浜には無数の日本陸軍守備隊16師団が守備するも、米軍の物量と艦砲射撃でレモン峠まで追いやられる。
そこへ再度、日本軍は防衛線を張るが、結局我々が調査したカンギポット山へ2万の兵が集結し、補給もままならず、餓死していくのである。
まだまだ続く
2008年10月23日
遺骨調査のため、フィリピン・レイテ島へ
先日10月17日よりフィリピン・レイテ島へ日本兵のご遺骨の調査へ行ってきました。
以前から硫黄島や南方諸島の戦地へ行ってみたいという気持ちは持っていたのですが、JTBや他のツアーがあるわけもなく、遺族会でも戦友会のメンバーでもない私が、そこへ行くのは不可能だと思っておりました。
しかし、日本の為に赤紙一枚で死んでいった兵士の遺骨が野ざらしでそのままで、その数はレイテ島だけでも8万人以上もの日本兵、及び軍属の方々が亡くなっています。回収されたご遺骨はわずかで、今だそのままでご遺骨はジャングル深くに眠っています。
日本は1945年8月15日に敗戦国となり、以後、侵略戦争だの当時の日本の軍部(大本営)の指導者が悪い等々の話以前に、今の平和な日本の礎となられた歴史的事実は変わりません。私は前から彼らの尊い犠牲の上にこの平和な日本があることに感謝しています。
私が今、日本人として彼らに出来ることと言えば、本当に微力ですが、1体でもご遺骨を母国である日本の地へ返すことが出来るのであればという気持ちで参加させていただきました。
今回、偶然にNHK教育の「視点、論点」という番組で「先の大戦、今だ終わらず」という題名で、朝の4時30分からやっていた、超マニアックな番組を録画していたのがきっかけでした。
そこにはアルピニスト野口健さんがヒマラヤで吹雪が続き遭難しそうになったとき、酸素ボンベもあと1本となり、もういよいよこれで死ぬ
と覚悟したときに、「日本に帰りたい
」と強く思った。そのときに遺書を書きたくなり、手持ちの紙に遺書を書き、足りないのでテントの内側へマジックで書き残した。そのときに先の大戦で亡くなられた兵隊さんの気持ちを思出し、南方諸島では殆どの兵隊さんは飢え、マラリア、病死で亡くなられた事実があり、もし日本に無事に帰国できれば遺骨の収集活動をしたいと、衛星電話でスタッフに連絡してこの空援隊の存在に出会い、今年セブ島へ行き200体以上もの日本兵の遺骨を発見した。しかし、今の日本の法律では持って帰ることが出来ない。調査のみで後は政府が遺骨収集団を結成して回収する。
という話でした。
この番組で京都にあるNPO法人「空援隊」の存在を知り、次回の遺骨調査を募集しているとの情報を得ることができ、すぐに参加申し込みをしました。
空援隊の今回の調査団はスタッフ合わせて10名で初めての参加者は4名でした。
レイテで父親が戦死されたご夫婦や、おじいちゃんが戦死された方で、私だけが戦死した肉親がいなく、全く関係の無い参加者でした。
関空からは私一人が香港経由でセブ島へ行きました。
セブ空港で待っていてくれるはずのスタッフが誰もいなく、タクシーの誘いだけが、やたらにうとましいかったです。
約1時間も一人で誰もいない空港で「ポツーン
」と音がするくらいに心細くなっておりました。行くホテル名も住所も連絡先もない状態でした。
「プチドッキリ
やなあ
」
と「海外旅行ではトラブルはあとで、良い思いでになる
」と呪文のように自分自身に言い聞かせておりました。
やっとのことでスタッフの方が迎えに来てくれました。
フゥ〜
やれやれ
で、ホテルへ着き、1階の日本食レストランすし屋へ案内され、すぐに食事をしてください。
とのことで、そんなにお腹も空いていなかったので、寿司を注文しました。
それが、フィリピン現地スタッフから驚くアドバイスがドンドンと飛んできます。





それが、寿司みたいな生ものを食べるのは自殺行為や
ということです。
必ずアメーバー赤痢で下痢を起こすと言うんです。
「ちょっと待ってくださいよ〜
ここは寿司屋やんかあ
」
1人前と思ったのが、これほどの量にも驚きましたが、フィリピンの衛生状況は中国の比ではないようです。
シャワーでも絶対にうがいは禁止
です。
このお寿司はあとで、鍋に入れられ海鮮鍋になりました。
非常にこれからの旅の危険度を象徴しているようでした
翌朝、4時に集合して、フェリーでセブ島からレイテ島へ渡ります。
朝も空けないうちにフェリー乗り場につきました。
野口さんは目茶苦茶「軽装」でした。世界のアルピニスト野口健さんはさすがに持って行く装備が違うと勝手に想像していたのですが・・・・・・
私「野口さん、すごく軽装ですねえ
荷物はそれだけですか
」
野口さん「うっ
うん
・・・・・
」
と浮かない返事、それからフェリーに着いてから彼の態度が急変し、
「ホテルに着替えをざ全部忘れて来ました
」
と隊長の倉田さんに言ったところ・・・・・・
「もう時間がないので、着替えは現地調達すべし
」
いきなりのハプニングです。
私も着替えを沢山持ってきたのですが、最小限に留めてリックと手提げバッグに収まる程度でレイテへ行くという指令があり、私も少し戸惑いました。
左がセブ島で右がレイテ島でポイントは空援隊が遺骨を発見した場所です。


3時間ほどでようやくレイテ島へ上陸しました。
すぐ目の前にホテルがあり、そこで荷物を置いてすぐに出発です。








それから車ですぐに出発です
市街地を抜けると、至る所で道路にお米を乾燥させていて、必然的に車は中央線をまたいで走ります。
前から車が来ていても、おかまいなしで80kmで走ってくれます。
犬やヤギも飛び出すわ
もうヒヤヒヤでした



ようやくガタガタ道を走り抜けて、これ以上は車は無理なところまで入り、そこからは徒歩でジャングルへ入って行きます。
これからの道のりもわからないまま、1リットルの水のみで今からジャングルへ



なんと隊長の倉田さんはサンダルばきです
そのサンダルがジャングルに入る前に悲鳴を上げてしまいました。
倉田隊長「もうこんなもんはいらんねん
」
野口さん「ゴミを出したらダメじゃないですかあ
ガムテープでも巻いて何とかしましょうよ
」
隊長「・・・・・・
」ポリポリ
最高のショットです。
上の中央のカットは村の売店です。昔、日本でもあった「何でも屋」です。
日本では考えが及ばない程、貧しい村で、バラック以下のような民家が点在してます。


ガイドの地元の方です。




もう初めてのジャングルで道がなく、あってもヌカルミで思うように前進出来ません
ジャングルは日本では想像出来ないほどの、灼熱の中でしかも湿度は洒落にならないほど高いんです。60年前の当時も同じであっただろう。
そこへマッカーサー率いる米軍に追われた敗残兵がここカンギポットという350mほどの山目指して1万余名もの日本兵が最後に立て篭もった山へ入りました。
そこは余りにもリアリティーがありすぎる場所でした。
2時間くらい歩いたところで、私は急に体調がおかしくなり、息が苦しくなり始めました。
これは何
自分でも理解できません。滝を上っているときに、急に意識が遠くなってその場にへたり込んでしまいました。
「もう私はいいです。このまま置いて行ってください。」と口走る始末です。
私は日本兵の霊に取り付かれたように感じました。そこの滝は日本兵が見張りをしていた場所だったそうです。
まずは人間は飲み水の確保が第一で、それから山を背に立て篭もるという人間の基本的な感情が現地に行くと五感でヒシヒシと感じました。
また、今の私以上の重い装備をして、この灼熱のジャングルへの行軍もきつかったろう
また、刺されるとマラリアにかかる蚊も飛んでいるわ
すぐに噛まれると痛いアリの大群はいるし、コブラもいるそうです。
そこには、日本人を見れば絶対にお金になると考えるゲリラも沢山いるとのことです。現にこの村では現金収入がなく、日本円で10万もあれば1年一家族が暮らせる紙幣価値の落差があります。
だからスタッフは絶対にここにはこの巨体の私を置いて行けるはずもなく、本当にその場で面倒をお掛けしました。現地スタッフの富田さんスミマセンでした。
本日のご遺骨は1体分でした。
よく見ると手榴弾のピンがありません。きっと自決しようとされたのが、不発だったんでしょうか
名前もわからない日本の兵隊さんのお気持ちを察する事しか出来ませんが、御国の為と赤紙一枚で兵隊にとられてこんな南方まで連れて来られ、その御国から見捨てられ補給を絶たれて、米軍から教育され武装した地元のゲリラと米軍に怯えながら、ジャングル深くに身を潜め、飢えとマラリアと戦い、最後に自決しようと手榴弾のピンを抜き最後を遂げようとしたときに、なんと不発弾だった彼の気持ちは・・・・・・。
私は本当に乏しい想像でしか彼の最後の気持ちを察することしか出来ませんでした。
日本語で表現できない気持ちです。すべてが初めての経験で消化出来ておりません。
ここのレイテ島へ上陸した日本兵は約8万人です。
その内97%は戦死しました。
ここのカンギポットへ立て篭もった日本兵は100%戦死されていて証人が誰もいない状態です。
その彼らのご遺骨は現在、その平和になった日本の政府からも「もう終わった事」としてしか扱われていない現状に憤りを感じます。
彼らも63年経った現在の日本政府から見捨てられた存在です。
後で述べますが、このご遺骨が帰るためのハードルが高すぎる現状があります。

何とかご遺骨を回収して帰り道に、いきなりのスコール
誰もカッパ等持っていません
これで足元が洒落にならないほどの、ぬかるみ状態です。
カメラマンの平賀さんもビデオカメラは雨に弱く、それをかばうので、足も遅くなり、野口さんと平賀さん、ガイドがジャングルに取り残されて、無線も届かなくなり、一瞬緊張が走りました。
我々が、木陰で雨宿りしながら、先に村まで戻り信じられない程、質素な教会で雨宿りさせてもらいました。



もう全員、朝5時ごろに食べたホットドッグ1本だけです。
昼食も食べないで、午後の3時を過ぎています。
私は全く空腹感はなく、1リットルの水も飲み干していて、思いっきり冷たい水を飲みたい
タガログ語が話せる現地スタッフの富田さんが、村人に「この辺で売店ある?」
「となりにが売店だよ。」って地元の子どもに教えてもらいました。
富田さんが買ってくれたのが、なんとホットペプシ
この村には電気はありません。
でもこのホットペプシがどれだけみんなが、「美味しい
」
って叫びながら飲ませてもらったことか
日本では考えられない状況でした。

彼らに「ヤシの実」を採ってきて
とお願いして、その採り立てのヤシの実を彼のナタですばやくサバキ、その場で飲んだヤシジュースがたまらなく上手かったです。
しばらくして、野口さんと空援隊スタッフ、そして森田さん野間さんのお父さんが帰ってこられました。ご高齢にも関わらず、今回のジャングル死の行軍
を制覇されました。本当に凄いです。
帰ってこられたときには奥さんと涙の再会です。
「お父さん
無事に帰ってきてくれて
・・・・
私の父さんの為にありがとうね
」
感動のシーンでした。










今日のご遺骨調査は、いきなり超ハードな行軍になりました。
全体の安全を常に気を配っていただいた倉田隊長に感謝です。
でも、あの野口さんも疲労困憊
勿論、私の含め全員クタクタでした。 この日は昼食抜きでした
その日は夕食も胃が痛くって沢山は食べれませんでした。
疲れ切っていて、その日に浴びたシャワーの水でなんと歯を磨いて、うがいをしてしまいました。
それが後で、えらいことに・・・・・




以前から硫黄島や南方諸島の戦地へ行ってみたいという気持ちは持っていたのですが、JTBや他のツアーがあるわけもなく、遺族会でも戦友会のメンバーでもない私が、そこへ行くのは不可能だと思っておりました。
しかし、日本の為に赤紙一枚で死んでいった兵士の遺骨が野ざらしでそのままで、その数はレイテ島だけでも8万人以上もの日本兵、及び軍属の方々が亡くなっています。回収されたご遺骨はわずかで、今だそのままでご遺骨はジャングル深くに眠っています。
日本は1945年8月15日に敗戦国となり、以後、侵略戦争だの当時の日本の軍部(大本営)の指導者が悪い等々の話以前に、今の平和な日本の礎となられた歴史的事実は変わりません。私は前から彼らの尊い犠牲の上にこの平和な日本があることに感謝しています。
私が今、日本人として彼らに出来ることと言えば、本当に微力ですが、1体でもご遺骨を母国である日本の地へ返すことが出来るのであればという気持ちで参加させていただきました。
今回、偶然にNHK教育の「視点、論点」という番組で「先の大戦、今だ終わらず」という題名で、朝の4時30分からやっていた、超マニアックな番組を録画していたのがきっかけでした。
そこにはアルピニスト野口健さんがヒマラヤで吹雪が続き遭難しそうになったとき、酸素ボンベもあと1本となり、もういよいよこれで死ぬ
という話でした。
この番組で京都にあるNPO法人「空援隊」の存在を知り、次回の遺骨調査を募集しているとの情報を得ることができ、すぐに参加申し込みをしました。
空援隊の今回の調査団はスタッフ合わせて10名で初めての参加者は4名でした。
レイテで父親が戦死されたご夫婦や、おじいちゃんが戦死された方で、私だけが戦死した肉親がいなく、全く関係の無い参加者でした。
関空からは私一人が香港経由でセブ島へ行きました。
セブ空港で待っていてくれるはずのスタッフが誰もいなく、タクシーの誘いだけが、やたらにうとましいかったです。
約1時間も一人で誰もいない空港で「ポツーン
「プチドッキリ
と「海外旅行ではトラブルはあとで、良い思いでになる
やっとのことでスタッフの方が迎えに来てくれました。
フゥ〜
で、ホテルへ着き、1階の日本食レストランすし屋へ案内され、すぐに食事をしてください。
とのことで、そんなにお腹も空いていなかったので、寿司を注文しました。
それが、フィリピン現地スタッフから驚くアドバイスがドンドンと飛んできます。
それが、寿司みたいな生ものを食べるのは自殺行為や
必ずアメーバー赤痢で下痢を起こすと言うんです。
「ちょっと待ってくださいよ〜
1人前と思ったのが、これほどの量にも驚きましたが、フィリピンの衛生状況は中国の比ではないようです。
シャワーでも絶対にうがいは禁止
このお寿司はあとで、鍋に入れられ海鮮鍋になりました。
非常にこれからの旅の危険度を象徴しているようでした
翌朝、4時に集合して、フェリーでセブ島からレイテ島へ渡ります。
朝も空けないうちにフェリー乗り場につきました。
野口さんは目茶苦茶「軽装」でした。世界のアルピニスト野口健さんはさすがに持って行く装備が違うと勝手に想像していたのですが・・・・・・
私「野口さん、すごく軽装ですねえ
野口さん「うっ
と浮かない返事、それからフェリーに着いてから彼の態度が急変し、
「ホテルに着替えをざ全部忘れて来ました
と隊長の倉田さんに言ったところ・・・・・・
「もう時間がないので、着替えは現地調達すべし
いきなりのハプニングです。
私も着替えを沢山持ってきたのですが、最小限に留めてリックと手提げバッグに収まる程度でレイテへ行くという指令があり、私も少し戸惑いました。
左がセブ島で右がレイテ島でポイントは空援隊が遺骨を発見した場所です。
3時間ほどでようやくレイテ島へ上陸しました。
すぐ目の前にホテルがあり、そこで荷物を置いてすぐに出発です。
それから車ですぐに出発です
市街地を抜けると、至る所で道路にお米を乾燥させていて、必然的に車は中央線をまたいで走ります。
前から車が来ていても、おかまいなしで80kmで走ってくれます。
犬やヤギも飛び出すわ
ようやくガタガタ道を走り抜けて、これ以上は車は無理なところまで入り、そこからは徒歩でジャングルへ入って行きます。
これからの道のりもわからないまま、1リットルの水のみで今からジャングルへ
なんと隊長の倉田さんはサンダルばきです
そのサンダルがジャングルに入る前に悲鳴を上げてしまいました。
倉田隊長「もうこんなもんはいらんねん
野口さん「ゴミを出したらダメじゃないですかあ
ガムテープでも巻いて何とかしましょうよ
隊長「・・・・・・
最高のショットです。
上の中央のカットは村の売店です。昔、日本でもあった「何でも屋」です。
日本では考えが及ばない程、貧しい村で、バラック以下のような民家が点在してます。
ガイドの地元の方です。
もう初めてのジャングルで道がなく、あってもヌカルミで思うように前進出来ません
ジャングルは日本では想像出来ないほどの、灼熱の中でしかも湿度は洒落にならないほど高いんです。60年前の当時も同じであっただろう。
そこへマッカーサー率いる米軍に追われた敗残兵がここカンギポットという350mほどの山目指して1万余名もの日本兵が最後に立て篭もった山へ入りました。
そこは余りにもリアリティーがありすぎる場所でした。
2時間くらい歩いたところで、私は急に体調がおかしくなり、息が苦しくなり始めました。
これは何
自分でも理解できません。滝を上っているときに、急に意識が遠くなってその場にへたり込んでしまいました。
「もう私はいいです。このまま置いて行ってください。」と口走る始末です。
私は日本兵の霊に取り付かれたように感じました。そこの滝は日本兵が見張りをしていた場所だったそうです。
まずは人間は飲み水の確保が第一で、それから山を背に立て篭もるという人間の基本的な感情が現地に行くと五感でヒシヒシと感じました。
また、今の私以上の重い装備をして、この灼熱のジャングルへの行軍もきつかったろう
また、刺されるとマラリアにかかる蚊も飛んでいるわ
すぐに噛まれると痛いアリの大群はいるし、コブラもいるそうです。
そこには、日本人を見れば絶対にお金になると考えるゲリラも沢山いるとのことです。現にこの村では現金収入がなく、日本円で10万もあれば1年一家族が暮らせる紙幣価値の落差があります。
だからスタッフは絶対にここにはこの巨体の私を置いて行けるはずもなく、本当にその場で面倒をお掛けしました。現地スタッフの富田さんスミマセンでした。
本日のご遺骨は1体分でした。
よく見ると手榴弾のピンがありません。きっと自決しようとされたのが、不発だったんでしょうか
名前もわからない日本の兵隊さんのお気持ちを察する事しか出来ませんが、御国の為と赤紙一枚で兵隊にとられてこんな南方まで連れて来られ、その御国から見捨てられ補給を絶たれて、米軍から教育され武装した地元のゲリラと米軍に怯えながら、ジャングル深くに身を潜め、飢えとマラリアと戦い、最後に自決しようと手榴弾のピンを抜き最後を遂げようとしたときに、なんと不発弾だった彼の気持ちは・・・・・・。
私は本当に乏しい想像でしか彼の最後の気持ちを察することしか出来ませんでした。
日本語で表現できない気持ちです。すべてが初めての経験で消化出来ておりません。
ここのレイテ島へ上陸した日本兵は約8万人です。
その内97%は戦死しました。
ここのカンギポットへ立て篭もった日本兵は100%戦死されていて証人が誰もいない状態です。
その彼らのご遺骨は現在、その平和になった日本の政府からも「もう終わった事」としてしか扱われていない現状に憤りを感じます。
彼らも63年経った現在の日本政府から見捨てられた存在です。
後で述べますが、このご遺骨が帰るためのハードルが高すぎる現状があります。
何とかご遺骨を回収して帰り道に、いきなりのスコール
誰もカッパ等持っていません
これで足元が洒落にならないほどの、ぬかるみ状態です。
カメラマンの平賀さんもビデオカメラは雨に弱く、それをかばうので、足も遅くなり、野口さんと平賀さん、ガイドがジャングルに取り残されて、無線も届かなくなり、一瞬緊張が走りました。
我々が、木陰で雨宿りしながら、先に村まで戻り信じられない程、質素な教会で雨宿りさせてもらいました。
もう全員、朝5時ごろに食べたホットドッグ1本だけです。
昼食も食べないで、午後の3時を過ぎています。
私は全く空腹感はなく、1リットルの水も飲み干していて、思いっきり冷たい水を飲みたい
タガログ語が話せる現地スタッフの富田さんが、村人に「この辺で売店ある?」
「となりにが売店だよ。」って地元の子どもに教えてもらいました。
富田さんが買ってくれたのが、なんとホットペプシ
この村には電気はありません。
でもこのホットペプシがどれだけみんなが、「美味しい
って叫びながら飲ませてもらったことか
日本では考えられない状況でした。
彼らに「ヤシの実」を採ってきて
しばらくして、野口さんと空援隊スタッフ、そして森田さん野間さんのお父さんが帰ってこられました。ご高齢にも関わらず、今回のジャングル死の行軍
帰ってこられたときには奥さんと涙の再会です。
「お父さん
私の父さんの為にありがとうね
感動のシーンでした。
今日のご遺骨調査は、いきなり超ハードな行軍になりました。
全体の安全を常に気を配っていただいた倉田隊長に感謝です。
でも、あの野口さんも疲労困憊
勿論、私の含め全員クタクタでした。 この日は昼食抜きでした
その日は夕食も胃が痛くって沢山は食べれませんでした。
疲れ切っていて、その日に浴びたシャワーの水でなんと歯を磨いて、うがいをしてしまいました。
それが後で、えらいことに・・・・・
2008年10月12日
東京、岩手県 納車の旅?
今週は、淡路島ツーリングの翌日から東京へFLSTSの納車と岩手県へ1979FLHの納車へ行ってきました。
往復2100kmの旅です。
今まではデリカトラックでの納車だったのですが、このクジラのようなデカイ
ハイエースは乗り心地も燃費も10km/Lで上々です。
東京への納車はスミマセン
写真を撮るのを忘れてしまいました。
もし、画像を送ってくれればこのブログにアップしますので、よろしくお願いします。
トラックだと寝るときはビジネスホテルだったのですが、このワゴンはリアが十分にスペースがあるので、寝ることが可能です。
10/6の午前中に鼓動館出発、高速で東京に夜の7時に時間指定で納車完了
すぐに再度、高速に乗り岩手県めがけてひたすら走り、眠くなった時点でSAで就寝
その足で岩手県の三陸海岸沿いの目的地まで走りました。
大阪人としては、非常に縁遠い北陸エリアです。
リアス式海岸は中学で教わったくらいで、実際に生の「東北弁」を大阪では耳にする機会が無かったもんで、SAでわんこを散歩させていると・・・・。
「めんこいでねぇかあ
」
ってライブで聞いたのは初めてでした。
ようやく目的地について納車終了
生まれ年にこだわって1979FLHを探しておられました。


遠方なので、試乗は休みを使って1日走りました。
絶好調
で問題なし
でした。
大切に乗ってください。
下取り車両を引き取って、大阪へGO


でもせっかく岩手県まで来たのだから、美味しいものを食べて帰ろうと携帯で探しました。
近くに「田舎」という海鮮居酒屋があるらしく、ナビで目的地まで行き、入るってカウンターに座り、メニューを見ると、あんまり沢山のメニューがありません
「やばい
選択ミスったかも
」
と思ってネタケースを見ると、沢山の生きの良い魚が並んでいます。
「大阪から来たんです。お奨めは何かありますか?」
「カツオ、イカの造りとシメサバもお奨めですよ」って東北なまりで大将が言ってくれたので、それをお願いして、食べてみると・・・・・
メチャムチャ信じられないほど、脂がのっていて美味しいカツオです
イカもイカのわたを醤油と混ぜていただきます。初めてでしたが、これも絶品
焼き魚のたなごも最高でした
いつもそうなんですが、食べることに集中してしまい、カメラのことを忘れてしまいます。
今回もそうで、慌ててカメラを車から出してきて、大将が再度、盛りなおしてくれました





帰るときには、店内にいたお客さんもお見送りしてくださいました。
本当に美味しいかったです。岩手県が好きになってしまいました。
機会があれば行ってください
。
魚介類専門店 田舎
〒029-2205
岩手県陸前富田市富田町字大町37-4
TEL0192-55-2355
http://www.inaka-web.com/web/link.html
往復2100kmの旅です。
今まではデリカトラックでの納車だったのですが、このクジラのようなデカイ
東京への納車はスミマセン
もし、画像を送ってくれればこのブログにアップしますので、よろしくお願いします。
トラックだと寝るときはビジネスホテルだったのですが、このワゴンはリアが十分にスペースがあるので、寝ることが可能です。
10/6の午前中に鼓動館出発、高速で東京に夜の7時に時間指定で納車完了
すぐに再度、高速に乗り岩手県めがけてひたすら走り、眠くなった時点でSAで就寝
その足で岩手県の三陸海岸沿いの目的地まで走りました。
大阪人としては、非常に縁遠い北陸エリアです。
リアス式海岸は中学で教わったくらいで、実際に生の「東北弁」を大阪では耳にする機会が無かったもんで、SAでわんこを散歩させていると・・・・。
「めんこいでねぇかあ
ってライブで聞いたのは初めてでした。
ようやく目的地について納車終了
生まれ年にこだわって1979FLHを探しておられました。
遠方なので、試乗は休みを使って1日走りました。
絶好調
大切に乗ってください。
下取り車両を引き取って、大阪へGO
でもせっかく岩手県まで来たのだから、美味しいものを食べて帰ろうと携帯で探しました。
近くに「田舎」という海鮮居酒屋があるらしく、ナビで目的地まで行き、入るってカウンターに座り、メニューを見ると、あんまり沢山のメニューがありません
「やばい
と思ってネタケースを見ると、沢山の生きの良い魚が並んでいます。
「大阪から来たんです。お奨めは何かありますか?」
「カツオ、イカの造りとシメサバもお奨めですよ」って東北なまりで大将が言ってくれたので、それをお願いして、食べてみると・・・・・
メチャムチャ信じられないほど、脂がのっていて美味しいカツオです
イカもイカのわたを醤油と混ぜていただきます。初めてでしたが、これも絶品
焼き魚のたなごも最高でした
いつもそうなんですが、食べることに集中してしまい、カメラのことを忘れてしまいます。
今回もそうで、慌ててカメラを車から出してきて、大将が再度、盛りなおしてくれました
帰るときには、店内にいたお客さんもお見送りしてくださいました。
本当に美味しいかったです。岩手県が好きになってしまいました。
機会があれば行ってください
魚介類専門店 田舎
〒029-2205
岩手県陸前富田市富田町字大町37-4
TEL0192-55-2355
http://www.inaka-web.com/web/link.html
2008年10月11日
淡路島ツーリング報告 2
夜は遅くまでみんなで美味しいBBQとチゲ鍋で盛り上がりました。
私は途中まで、毎度毎度の給食当番及び日直なんで段取りに追われていたら、急にそこから記憶が無くなっていました。
幸蔵の大将が用意してくれた和牛の焼き肉が目茶苦茶美味しかった
との翌朝の報告を聞いたのですが、私は一口も食べた記憶がなく、途中でマークさんに叩き起こされて、起きたら何故かテーブルには「子アジ」が山盛りありました。
菅沼さんがサビキで釣ってきたそうで、それを私に「三枚にさばいてくれ
」というリクエストがあり、それを無視して寝てしまったことは覚えています。
反省
翌日は、天気予報は夕方より雨ということで、その日には温泉は入る雰囲気ではなく、翌朝に入る予定でした。
しかし
翌朝の3時か4時には雨がテントをけたたましく鳴り、殆どのメンバーは起きてしまったんじゃないでしょうか
朝の温泉企画も断念し、そのまま帰ることにしました。

それから明石大橋を渡り、ICを過ぎて全員を待っていたら・・・・・
鹿野さんのFXWGのクラッチケーブルか切れてしまいました。
キャンプ用具てんこ盛り状態だったので、詰めるかどうか?
まして4名乗りながら鼓動館までこのハイエースに乗るかどうか







鼓動館へ全員無事に到着すると、同時に幸蔵の大将がこられて、通称「ゴン太くん」との記念撮影です。


私は途中まで、毎度毎度の給食当番及び日直なんで段取りに追われていたら、急にそこから記憶が無くなっていました。
幸蔵の大将が用意してくれた和牛の焼き肉が目茶苦茶美味しかった
との翌朝の報告を聞いたのですが、私は一口も食べた記憶がなく、途中でマークさんに叩き起こされて、起きたら何故かテーブルには「子アジ」が山盛りありました。
菅沼さんがサビキで釣ってきたそうで、それを私に「三枚にさばいてくれ
反省
翌日は、天気予報は夕方より雨ということで、その日には温泉は入る雰囲気ではなく、翌朝に入る予定でした。
しかし
翌朝の3時か4時には雨がテントをけたたましく鳴り、殆どのメンバーは起きてしまったんじゃないでしょうか
朝の温泉企画も断念し、そのまま帰ることにしました。
それから明石大橋を渡り、ICを過ぎて全員を待っていたら・・・・・
鹿野さんのFXWGのクラッチケーブルか切れてしまいました。
キャンプ用具てんこ盛り状態だったので、詰めるかどうか?
まして4名乗りながら鼓動館までこのハイエースに乗るかどうか
鼓動館へ全員無事に到着すると、同時に幸蔵の大将がこられて、通称「ゴン太くん」との記念撮影です。
2008年10月09日
淡路島ツーリング報告
10月4.5日と恒例の淡路島へキャンプツーリングへ行って来ました。
土曜日は天気も最高でした
幸蔵の大将も参加予定だったのですが、仕事の都合で行けなくなり、行けない代わりに食材だけ用意してくれました
最高のBBQとチゲ鍋ができました。



私はハイエースの鼓動館号で先回りして、場所の確保と夕食の準備で現地に先に到着しておりました。
準備も終わり、先にちょっと一杯が、あとでトンでもないことになってしまいました。
記憶喪失に・・・・・
先日、長男が北海道ツーリングへ行ったときに、旭川の「タイムトンネル」のマスターからの頂き物の焼酎とコナンさんから頂いたの阿蘇の焼酎を淡路島をバックに撮ってみました



わんこも一緒に行きました。


















Markさんがスペシャルメニューの「手作りポップコーン」を作ってくれました。
まちゃくちゃ美味しかったです






今夜はここまで、明日また続きをアップします。
乞うご期待
土曜日は天気も最高でした
幸蔵の大将も参加予定だったのですが、仕事の都合で行けなくなり、行けない代わりに食材だけ用意してくれました
最高のBBQとチゲ鍋ができました。
私はハイエースの鼓動館号で先回りして、場所の確保と夕食の準備で現地に先に到着しておりました。
準備も終わり、先にちょっと一杯が、あとでトンでもないことになってしまいました。
記憶喪失に・・・・・
先日、長男が北海道ツーリングへ行ったときに、旭川の「タイムトンネル」のマスターからの頂き物の焼酎とコナンさんから頂いたの阿蘇の焼酎を淡路島をバックに撮ってみました
わんこも一緒に行きました。
Markさんがスペシャルメニューの「手作りポップコーン」を作ってくれました。
まちゃくちゃ美味しかったです
今夜はここまで、明日また続きをアップします。
乞うご期待