2010年03月19日

本日のネタオチ

神の詩―バガヴァッド・ギーター を読んで。

神の詩―バガヴァッド・ギーター。私はもうこの本を通算で5回ぐらい読んだが、最高神の霊感を受けて書かれた本という意味では、新約聖書の4福音書と並ぶ。
ギーターを読んでインスピレーションを受けたのは、新約聖書で出てくる聖母マリアの偉大さだ。おいおいヒンズー教とキリスト教ではちゃうやろ、と思うだろ。
面倒くさい説明はしないが、ラーマクリシュナがいうように、全ての正教の行き着く先は同じだ。
話を戻すと、プロテスタント教徒の毛嫌いする彼女だが、彼女を真に偉大ならしめているのは、ルカの福音書に出てくる「おおせの如く我になれかし」だ。彼女は大天使ガブリエールにこの返事を返すことによって、人類の歴史に永遠に名前を覚えられる女性となった。
実のところ、我々は映画のDVDをみているうちに催眠状態になって、自分がその映画の中の主人公なのだと信じてしまった「私は私であるもの」である。
だから、あなたがこの催眠状態から目覚めて、自分が「私は私であるもの」=モーセに神が名乗った名前=であることに気がつかなければならないのだが、気がつくことそのものは一瞬で簡単に起こることでも、そのきっかけを掴むことがむずかしいのである。
だから人はDVD屋とテレビの前を何回も往復し生まれ変わり死に代わるという錯覚をするのだ。
本当はあなたはDVDを観ている人で、その中で、例えばそのDVDの中であなたと自己同一化している登場人物が、侵略してきた人民解放軍に殺されるという結末を迎えたとしても、その映画を観ているあなたは全く傷つけられていない。
問題は繰り返し指摘するが、自分が観照者であるということを自覚するそのきっかけを掴むことがむずかしいことなのだ。
しかし生きているうちにこの世界は映画のようなものであり、そこに一切の自由意志は存在せず、ゆえに善も罪も存在しないならば、この世界がこのようであるのは全ては神の責任であり、神が面倒をみるべきものなのだ。
そして何が起ころうと、聖母のように「おおせの如く我になれかし。」と言えたら、あなたは解脱し、神と同一化するのである。
この点が我々のようなレベルの低い波動にしばられていた霊魂と異なるところで、彼女は男とセックスをせずに妊娠することで、不義密通婚前交渉で石打ちで殺されるかもなどという心配は一切しなかったのである。
これがギーターでイエスと同じ最高神のアバターであるクリシュナから友とまで呼ばれたアルジェナ王子と異なるところだ。彼は私は軍人としての任務を果たしたくないなどと、神を前にして泣き言を言うのだ。イエスの12弟子たちもそうだった。
私もそうだろう。
だからカトリック教徒がやるロザリオの祈り、あれはマントラの一種だが、カトリック教徒が行うなら、実にいいものだ。
全てを神に任せて、何が起ころうとあなたに従い受け入れます、と心からいうことは、神と一つになる(実は自分はもともと神であることを思い出すだけなのだが)最高の修練であろう。なぜなら、そこに自我は存在しないからだ。

「ザ・コーヴ」監督「知能が高いイルカの殺害はアウシュビッツに等しいが、家畜は問題ない」(痛いニュース)

人間胎児の中絶はどうなんだ?
知能が高かろうが低かろうが生あるものは殺されようが病死しようがいつか死ぬ。
私ははっきり言うが、動物にしろ、戦争で人間を殺すにしろ、刑務官が死刑囚を処刑するにせよ、オバマ大統領が中国に対して核ミサイルの報復攻撃を命ずるにせよ、葛藤なく自分の任務としてそれを行うなら、その人間はカルマを積むことはない。
クリシュナが古代インドを二分する大戦争で親族との戦闘はできないと泣き言を垂れるアルジェナに対して「彼らの命はすでに神である私が殺した。それゆえ彼らはもう死んでいる。君は軍人としての任務を遂行し彼らと戦い殲滅せよ」と教えたように。
要点は罪悪感を持って殺すことが応報のカルマを積むことになり、最悪なのである。
捕鯨問題でネタバレを言うと、反捕鯨活動家は過去生で動物や人間を屠殺したり、殺害したりして、それを仕事として矛盾なく行うのではなく、いやいや行っていた者が多い。要するに例えば、家畜屠殺人Aの生涯とかいうDVDを借りて見ていた奴が、そのビデオを見ながら、俺はこんないたいけな仔牛を殺すなんてなんてひどいことをしちまったのだろう・・・って感じだ。
そしてそのDVDが終わって(死んで)、死後の世界で次のDVDを借りるときに、「シーシェパード、動物愛護の不滅の戦士!」とかいうクサいタイトルの奴を借りるのだ。

だたアイツは、この人生を変えたいと宇宙に願った。今までの人生をやり直したいと宇宙に願ったのだ。宇宙はその願いを引き受け、彼の環境を変えると同時に、彼の考え方を変える援助をしている。彼が変わったら、彼の宇宙も変わるから。ボクはその壮絶な変化を近くで見ていて、宇宙の本気を感じている。彼の葛藤を、宇宙は固唾を飲んで見守っている。宇宙は彼の存在の全てに注目して、優しく慈愛を持って運んでいる。(いろとかたち)

念仏の新しい考え方(ITスペシャリストが語る芸術)

私は最近悟ったのだが、人生は映画監督がレンタルビデオ屋のDVDの映画を見ているようなものである。
本当は映画監督の人がレンタルビデオ屋からDVDを借りてきて、プレイヤーにセットして、生まれて、スタート。死ぬとき、終り。
そしてレンタルビデオ屋に返しに行き、きれいな店員のおねえさん(天使)に返却。ありがとうございましたぁ〜。それから他のビデオを借りるために店内(死後の世界)を散策。前回はホラーで怖い目にあったから、次はラブコメにしよう・・・店員さんのところにもっていき、きれいな店員のおねえさん(天使)に「お客様のポイントではこのDVDは借りることができません」とつっかえされる。仕方ないので別の作品を借りることにする。タイトルは「ホームレスになって生きる」。「本当にこのビデオでいいんですね?」と念を押される。前回の作品を見たときに積んだ徳と業のポイントを足し引きして残ったポイントで支払う・・・そして無限のエンドレス。次に死後のレンタルビデオ屋にいったときは、前回の作品でホームレスの主人公に感情移入して艱難辛苦を舐めるという徳を詰んだので、それまでのDVD観賞で積んだネガティブな感情である業がだいぶん帳消しになり、ポイントが増えている。今度はきれいな店員のおねえさん(天使)に「大富豪ロックフェラーの陰謀」でも「酒池肉林セックスし放題の一生」のどちらでもOKと言われる。
99%の大部分の人は、現実世界に生まれてきて、いざDVDが上映されると、自分が映画を見ている「観照者」であることを忘れて、その映画の中の主人公であるという催眠状態に入ってしまう。
そしてこんなことは俺が望んだことではないとか、なんでこんな目にあわないといけないのか?と文句を垂れるのだ。
しかしいったん自分が映画の中の登場人物なのではなく、自分に苦痛を与えている他人というものも映画の中の登場人物で、自分はソファーで映画を「観照」しており、その映画もはるか昔に自分が作ってレンタルビデオ屋の店頭に並んでいるものにすぎないと気がついたら、あなたは六道輪廻の世界から解放されるのである。
あなたは二度とレンタルビデオ屋に行くことはない。今上映されているビデオが終わったら、全ては終わる。今上映されている作品の主人公は自分ではなかった。あれは作品に出てくる俳優にすぎない。私を苦しめていたように見えた人も、同様に幻だった。私が一体化していた自宅も自動車も会社も、全ては映画の舞台装置の一つでハリボテの存在だったのだ。
以上からいえること。
自由意志は幻想である。ビデオ作品である以上、あなたがとることができるのは、上映されている作品に対してどのような感情をとることができるか、つまり面白い、楽しい、ワクワクするという感情を伴って生きることが出来るか、反対にネガティブな感情をいだいて生きることができるか、あるいは、自分が「観照者」であることに気がついて一切の自我なしにただ上映されている作品を眺めていくかだけである。
上映されているのは映画なのだから、自分が映画を観ているという自覚がある時、そこには主人公も脇役も関係ない。主人公に感情移入しないから、悪役を憎むこともない。全ては映画の中でそれぞれの役割を演じているだけであり、作品全体で見れば自我も他者も存在しない。DVDを観ている「私は私であるものである」が存在するだけだ。
そしてここまでくるとあなたはもう一歩でこの世から卒業できる。

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fgejtocfk4fk5j23dk5 at 07:45│Comments(6)この記事をクリップ!

この記事へのコメント

1. Posted by Q   2010年03月19日 11:03
なるほど!感情だけは自由なのですね。
2. Posted by 陳胡痒   2010年03月19日 12:08
感情というより、再生されているビデオテープに対する捉え方ね。
巻き込まれて思考に思考を積み重ねてああでもないこうでもないというのが俗人。
悟った人は、自分がビデオテープを観ている人であるということを理解しているから、例えば一見不幸と思えるような突発事件に巻き込まれても、悩まないんですよ。
だって、それはあくまでもビデオテープの再生されている内容にすぎず、自分の本質であるビデオテープを観ている者は何ら傷をうけていないのですから。
また、あなたに1億円の宝くじがあたったというニュースを耳にしても、瞬間的に喜ぶかもしれませんが、それだけです。
巻き込まれないんです。
3. Posted by 陳胡痒   2010年03月19日 12:10
極端な話、そういう人はアウシュビッツ収容所や北朝鮮に住まざるをえないとしても、常に心は平和なんですよ。
しかし逆説的な話なんですが、心が平和で幸せなら、今日のいろとかたちさんのエントリーにあるように、物質的な問題はおおむね解決の方向に向かうというのもこの世界の面白いところなのですよ。
4. Posted by Q   2010年03月19日 12:51
御教授、ありがとうございます。
しかし、その逆説を期待してしまうと、そうでは無くなってしまう。悟りとは意地悪なものですね。
5. Posted by 陳胡痒   2010年03月19日 13:01
悟りとは自我を殺すことです。
悟りたい、自我を殺したいというのも自我=思考の働きでしょ。
自我が自殺しようなんて思いますか?そこが罠なのです。
まず「自由になりたい」という熱烈な願望が必要なのです。これこそが全ての始まりです。
そして何か考えが思い浮かんだとき、「この思考を観察している私は誰か」何か感情が起こっても「この不快感を感じている私は誰か」と問いかけていきます。目の前に嫌いな人が現れても「この人に嫌悪感を感じている私は誰か」と。
そうすると思考、想念、感情のすべては答えが得られずフリーズしてしまうんですよ。
そうしたら、実はそれらのものは私ではなく、私の外部にあるものであり、私はそれらを観照しているものでしかなかったと気がつくのです。
そして「私は私であるもの」であるだけが残るのです。
そのとき、あなたはモーセが燃える茨の中で神に出会ったように、神を観るのです。
6. Posted by Q   2010年03月19日 13:48
5 重ねてご丁寧な説明、ありがとうございました。

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