五人組 ( ごにんぐみ)
相互協力と相互監視
江戸時代における庶民の隣保組織。祖型は古代の五歩の制に認められ、豊臣秀吉による洛中の治安維持のための組織をへて、江戸幕府によって庶民の組織として体系化された。 年貢 納入 治安維持などに利用された相互検察 連帯責任の組織である。
〈村中一人も残らず五人組〉
江戸幕府は慶長8年(1603)はじめて京都において 十人組 という組織を作り、これをしだいに強化し、五人組として制度化していった。この五人組制度が全国的規模で実施されたのは17世紀中ころである。 臼杵藩 においては、寛永12年(1635)に「十人組」という組織が作られた。これは、 転(ころ)びキリシタン を監視することを主な役目としていた。そして、正保3年(1646)には、十人組が「五人組」に再編され、相互扶助を含む農民生活の基本単位とされている。また、 岡藩 においては、承応3年(1654)に「五人組」が編成されている。これ以前は「十人組」として編成されていた。このように、二豊の諸藩においても、17世紀中ころに五人組制度が随時採用されたのである。
〈五軒宛組み合わせ〉
五人組の編成に関して、例えば 府内藩 では、「村上み、町上みより五軒 宛(あて)組み合わせ、五軒に不足いたし候はば、最寄の組割りつけ六軒組にも致すべき事 」(大分市「 岡家文書 」)と命じられていた。五戸(軒)を基準とし、多少の増減は認めていたのである。 延岡藩 領見目村(香々地町)における天明6年(1786)の五人組の編成状況をみると、4〜5戸で組を編成している場合が多いが、 庄屋 家が1戸だけであるのをはじめとして、様々な事情で規模に差があった(香々地町「 松成家文書 」)。また、安政5年(1858)の延岡藩領南乙丸村(湯布院町)の五人組の編成状況をみると、11戸で1組を編成しているものもあった(湯布院町「 岩男家文書 」)。編成の仕方は、家の距離に応じて組み合わせるのが普通であったが、農民の持高の大小を考えて平均するように組んだところもあり、また仲の良い者や親類ばかりを組み合わせてはならないとしたところもあった。また、編成された五人組には責任者が置かれていた。臼杵藩では、責任者を「五人組頭」と称していた。
〈五人組帳の作成〉
このような五人組の編成状況について記した帳面が、「 五人組(改)帳 」である。この帳面の中には、農民の家族状況や持高 保有牛馬数など、農民の現況を詳しく記載している。また、この帳面には農民の守るべき事柄である「前書」がついている。あるいはこの前書のみ一冊に書き写したものもあった。前書は、時期 地域などにより内容に差があり、数か条のものもあれば、なかには百か条を越えるものもあった。この前書は、庄屋が農民に読み聞かせてその趣旨を理解させ、封建イデオロギ−の徹底を期したものである。例えば 佐伯藩 では、宝暦5年(1755)に始まった 宝暦の改革 において、庄屋が毎年1 5 9月の3回農民を集めて前書を読み聞かせ、その内容を堅く守る旨の誓約書を藩に提出させ、前書の徹底を図っている。また、前書は 寺子屋 の教材としても利用され、儒教倫理の浸透に利用されたものでもある。
〈農民のあるべき姿〉
前書について、幕府領農村に残る五人組帳前書のひな型「 御仕置五人組帳 」からみてみよう(日田市「 長家文書 」)。内容をみると、「公儀法度の遵守」、「農業への専念」、「 キリシタン の禁止」、「農民の分限」、「親孝行の督励」、「年貢の完納」、「田畑永代売買の禁止 分地の制限」、「田畑 用水 堤などの管理」、「徒党 一揆などの禁止」、「 喧嘩(けんか)口論 博奕(ばくち) 諸勝負の禁止」、「人身売買の禁止」、「農民の相互協力など」、全部で63か条からなっている。まず気付くことは、禁止事項の多いことである。農民の日常生活に関する制限 禁止の項目が並んでいるのである。また、農業生産活動を順調に行えるように、生産 耕地などに関する項目も多くなっている。これらを守っていくのが、農民のあるべき姿というわけである。農民は、前書の内容を強制的に受容させられることによって、体制を受け入れそれに拘束されていったのである。
〈五人組の果たした役割〉
五人組としての責務は、「組内に悪事をはたらく者がいれば申告すること」、「キリシタンの者がいれば申告すること」、「 欠落(かけおち) 人のないように注意し、もしあれば組内で探すこと」、「組内に病気などで耕作できない者がいれば、互いに助け合い年貢を完納すること」、「年貢の未納者がいれば組内で補完すること」、などである。このような五人組制度は、幕府 諸藩が農村支配をすすめるうえで、実生活 思想の両面から大きな役割を果たしたのである。そして農民は五人組制度により、前書という領主の規制と、五人組という村内の相互規制という二重の規制の中に身を置くことになったのである。
[佐藤 晃洋]
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