月姫SS ©TYPE-MOON
『W/DATE』







 ―――それは、放課後に起こった出来事から始まった。
 嬉しくもかなしき、受難の話。





 キーンコーンカーンコーン……

 半日の土曜。最後の授業の終わりを告げるチャイムの音が、校舎に鳴り響く。
 ようやく、授業が終わった――
 クラスメイト達の方からも安堵の空気が流れ、教室中にある種の開放感が広がる。
 俺も大きくあくびをして、机から立ち上がり、明日の日曜をどうやって過ごそうなんて考えながら、教室をあとにした。















 ―――校舎の廊下。

 下校に部活にと、生徒達や会話する声の喧噪の行き交う中、俺は靴箱に向かって歩いていると。
 ふと。
 後ろの方から、俺のことを呼び止める声が聞こえてきた。
 その声のする方を振り返ると、廊下の端でシエル先輩が俺の方を見て手を振っていた。

「遠野くん。こんにちは」
 どうやら俺が教室を出るのを待っていたらしく、俺の姿を認めると先輩は、『たったったっ』と俺の方に向かってかけてきた。

「こんにちは。いったいどうしたの、先輩?」
「実は、遠野くんにお願いしたいことがありまして。これから時間は空いていますか?」
「うん? 別に大丈夫だけど?」
「それでは、ここで立ち話もなんですから、今から部室の方に行きましょう」
























 …シエル先輩に連れられて、茶道部の部室にやってきた。

「それじゃ、お邪魔します」
 入り口の引き戸を閉め切って、俺は中に入る。

「ところで、俺に用って言うのは何だい?」
「ふふっ。とりあえずここでお茶を一杯いかがですか?」
 そういって先輩は笑みをこぼすと、持参してきた水筒から茶器にお湯を静かに注ぎ入れ、お茶を煎れはじめた。

「………」
 シャカシャカと、先輩が茶の湯をかき混ぜる音。
 とても慣れた手つき。
 …まぁ、茶道部員なんだからそれは、ちっとも不思議じゃないにしても……

 先輩の両手から延びた細くて長い指先。とても綺麗で、艶めかしくさえあるその動作。
 見ているだけで、どこか惹かれるものを感じてしまう。

 ……………。
 俺は、先輩のそんなきめ細かな一部始終に、すっかり目を奪われてしまっていた。

「? どうしたんですか遠野くん?」
 そんな俺の仕草に気付いたのか。先輩がにっこりとした笑顔をこっちに向けて訊ねてくる。

「い、いや。別に…」
 俺は照れくさそうに先輩から目を逸らしてしまう。

「ふふっ。おかしな遠野くんですね」
「………」
 気がつけば、俺の心臓はどきどきと音を立てて鳴っていた。
 どうもさっきから自分自身ヘンだと思う。
 さっきのだって、先輩の暗示にかかっていた…ってことはないよな?
 まさか、ね……





「さて。できましたよ」
 そんなこんなと考えているうちに、先輩が二人分のお茶を作ってくれていた。

「すみません。今ちょうどお茶菓子を切らしていて……」
「いいよいいよ。俺そういうの、全然気にしないし」

「でも大丈夫。こんな時のためにと、用意してきた物があるんです」

 嬉々として先輩は、鞄の中からいくつかのカレーパンを取り出した。
 そうか、それなら大丈夫……って。

「カレーパン?」
「はい。とっても美味しいので、遠野くんも食べてみてください」
 カレーパンに抹茶という組み合わせは、ちょっと合わない気が…

 と。
 先輩は既にカレーパンの包みを開け、抹茶をすすりながらカレーパンをもぐもぐと食べはじめていた。

 …相変わらず、先輩のこういう味覚にはついていけない。
 仕方なく俺もカレーパンと抹茶を食べることにした。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ……味については、敢えて感想は言わないでおくことにしよう。
 先輩はさっきからカレーパンを食べながら天井を仰ぎ見つつ、まるで幸せの中にいるような顔をしているけど……

「ところで、話って言うのは何だい?」
「あっそうそう。あまりにカレーパンが美味しくって忘れてしまうところでした」
 ・・・・・・・・
 忘れないでくれよ。



「遠野くん。実はですね…」
「ふむふむ」
「明日一日。私と一緒につき合って欲しいんですよ」
「うんうん…って、えぇっ!!」
 俺は思わず、昔マンガで見た出っ歯のフランス人がするような決めポーズを取ってしまっていた。

「つまりそれって…?」
「はい。平たく言えば、デートのお誘いです」
「デ、デート!?」
「はい」
「そ、それは、ちょっと、俺の、その、心の準備というものが……」
 突然の言葉に俺はしどろもどろになって、返事を返しかねていると……

「…だめですか?」
 先輩はほぅ、とため息をついてから、
 両の手の指を絡め、眼鏡の切れ目から上目遣いに切なげな視線をのぞかせてくる。

 う…そんな目で見られたら、断ることなんてできないじゃないか……
 …仕方がない。

「あ、ああ。わかったよ。先輩がそこまで言うのなら…」
「わぁ、ありがとうございます。それでは時間と場所は……」


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ・・・・・・・・・・・



















 そして、俺達は明日のデートの約束を交わし、学校を出た。

「それじゃあ俺は、この辺で」
「はい。それでは遠野くん。また明日お会いしましょう」
 俺と先輩は互いに手を振って別れ、家路につく。
 それにしても、今日はまんまと先輩のペースに乗せられっぱなしだったな。

 …あれから部室で先輩と何時間も話し込んで、時間も遅くなってしまった。
 すっかり陽が落ちていて、辺りもだいぶ暗くなっている。
 門限には多分間に合うと思うけど…
 と、俺は通学路の坂道を抜け、なだらかな斜面の路地に入ったところで。





「あら志貴。こんなところで会うなんて奇遇ね」
 そこには、アルクェイドが立っていた。
 いや。待っていた、といった方が正しいかもしれない。

「ひょっとして、俺が来るのを待っていたのか?」
「ううん。そんなことないわよ」
 訊ねると、そんなに熱くもない気温なのに、アルクェイドはあさっての方向を見ながら
 両手で胸のあたりをぱたぱたと扇いでいる。
 …あからさまに怪しい。

「用がないのなら、俺は行くけど」
「あ、待ってよ志貴」
 ……やっぱり俺に用があって、ここで待ちかまえていたらしい。
 このにやにやとした表情。また何か企んでいるな…

「で。何の用なの?」
「その…明日。私とデートしてくれないかな、と思って」
 ほら、やっぱりな…って、おい。

「デート!?」
「うん。わたしたちって、初めて会ったときからずっと吸血鬼と戦ってばかりだったじゃない? だから、たまにはゆっくり二人で過ごしたいなぁと思ったわけ。もちろんOKよね?」

「いや。せっかくで悪いけど、明日は既に別のスケジュールがあるから…」
 そう。
 明日はシエル先輩とデートをする約束があるんだ。
 アルクェイドには悪いと思うけど、ここでアルクェイドの頼みを聞くわけにはいかない。

「へぇ。あの女からのデートの誘いなら聞けて、このわたしのお願いは聞けないんだ?」
 うんうん…って、何でこいつがそんなことを知っているんだ?
 そういえば昼間に先輩と話していた時、茶道部の部室の窓が不自然に開いていたような気が……

「…もう一度訊くわ。明日はどうしても、このわたしとはデートしてくれないのね?」
「ああ」
 アルクェイドから鋭い目線を向けられたが、俺だって先輩の約束を破るわけにはいかない。
 断固として俺はそう答えた。

「………」
 その瞬間。アルクェイドの瞳の色が突如変貌する。
 それは金色に輝く眼。
 以前アルクェイド自身が言っていた、魅了の魔眼というヤツだった。

 おい。いくらなんでも、それはやりすぎ……

 …あれ?
 その言葉さえ、俺の口から発することはできなかった。
 喉からチリチリと灼けるような感覚が走る。
 そして、まるで世界そのものから押しつぶされそうにも思える強烈なプレッシャーが訪れる。
 既に視界は魔眼による支配に閉ざされ、何も見ることができない。
 絶対的な恐怖というものを、俺はかろうじて自由に残された僅かな意識の中で感じていた。

「…どう? 貴方はこの期に及んでも、まだ首を縦に振らないつもり?」
 その闇の中からアルクェイドの声が聞こえてきた。

 その僅かに残された意識でさえ、その言葉に無理矢理頷かされそうになったとき。

 どががっ!!!

 何かが目の前で突き刺さるような音が聞こえてきた。
 それと同時に魔眼に囚われていた全ての感覚が解放され、俺の身体は何とか自由を取り戻す。
 ぼう、とした意識の中で、目の前に釘のように細い3本の剣が突き立っているのを見て、俺ははっとする。
 そういえば、アルクェイドの姿が見あたらない。

 だんだんと視力が回復していく中、俺は辺りをきょろきょろと見回す。
 すると、視界の遠くで、アルクェイドと剣を持ったシエル先輩が戦っている姿が見えた。
 そして俺は、二人が戦うその場所へと駆け寄った。





「何をやってるんだ。ふたりとも!!」

「見て解らないの? この女がいきなり私に襲いかかってきたから、返り討ちにしようとしているんじゃない?」
「なっ…そんなことを言って、遠野くんに邪眼をかけようとしていたのは貴女の方じゃないですか! 今日という今日は、絶対に許しませんよ!」
「望むところよ!!!」

 きぃん!!

 俺の制止の声も聞かず、二人はそれぞれ携えた爪と剣とを重ねて、戦闘を再開した。

「お、おいっ!!」
「邪魔しないで志貴。わたしはコイツと今、決着を付けるの!!」
「遠野くん。心配しなくても、こんな吸血鬼なんかに負ける私ではありません。明日の朝、改めてお会いしましょう!」
 そう言ってアルクェイドとシエル先輩は、それぞれの得物を交え戦いを繰り広げながら、路地の向こうへと走り去っていった。
 …まあ、あの二人のことだから、大丈夫だとは思うけど。

 心の底で一抹の不安はよぎりながらも。
 そして俺は、屋敷へと家路についた………



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
























 ―――そして、翌朝。

 夜は明けてベッドの上で。
 小鳥のさえずる声と、カーテンから差し込む太陽の明るみとに照らされて俺は目を覚ます。

 今日は日曜日。シエル先輩とデートの約束の日だ。
 いくら先輩とはいつも学校で会っているとはいっても、やっぱり女の子とデートをするんだ。
 緊張はするものだな。

 と。
 …コンコン。
 あれこれと考えているうちに、ドアがノックされる音が聞こえる。

「志貴さま。お目覚めでいらっしゃいますか?」
「うん。どうぞ、中に入って」
「失礼します」
 翡翠が部屋に入り、うやうやしく一礼をする。

「おはようございます。志貴さま」
「あ、うん。おはよう」
「今朝は、ずいぶんとご機嫌うるわしゅう……」
「?」
 どうしたんだろう? 翡翠の態度がいつもと比べて随分と余所々々しい。
 それに俺のことを睨んでいるように見える。まるで非難されているような…

「いったいどうしたの翡翠? 何かあったの?」
「…それは、ご自身の目で直接確かめられた方が、よろしいかと思います」
「??」
 ますますわけが分からない。

「失礼します」
 それだけ言うと翡翠は、ぶーとした表情で俺に一瞥を残し、ドアのノブに手をかけると、そのまま部屋をすたすたと出ていってしまった。

 …なんだったんだろう。いったい?
 頭に疑問符を浮かべながら俺は、部屋をあとにした。
























 ―――居間にやってくると、秋葉が腕組みをしながら立っていた。

「おはよう。秋葉」
「…………」
 しかし秋葉は、俺の挨拶の言葉には答えず、そのままの姿勢のまま、俺をキッと睨み付ける。
 俺、何か悪いことをしたのかな?
「お、おい。秋葉…?」
「………」

 う……。
 空気が重い。翡翠は壁際に立ち、俺が声をかけても、ぷいとそっぽを向いたまま。
 琥珀さんも今はキッチンにいるらしく、姿が見あたらない。なんか今日はみんな様子がおかしい。
 いったいどうしたっていうんだろう?





「…おはようございます。兄さん」
 かなりの間をおいて。
 ようやく秋葉から挨拶の言葉が返ってきた。しかし変わらずその声からは、かなりのプレッシャーを感じるんだが…

「どうしたんだよ秋葉。なんかいつもと様子が変だぞ?」
「まったく。休日の朝早くから羨ましいご身分ですね?」

 ?
 明らかな非難の意志を帯びた視線と言葉。
 その意味を理解しようとしても、まったく身に覚えのないことなのだから。
 俺は困惑した。

「ところで。兄さんのご友人の方々が、そちらにお見えになっていますよ?」

 えっ?
 秋葉の移した視線に倣い、俺はソファーに向かって視線を動かすと。
 そこには。

「………」
 シエル先輩と。
「………」
 アルクェイドが、ひとつのソファーに並び、互いに睨み合うようにして座っていた。
 双方の交差する視線からは、まるで火花を散らしているかのように見えた。

「なんで二人とも、こんな所にいるんだ?」
「おはようございます遠野くん。これには深い事情がありまして」
「深い事情?」
「はい。昨日の約束通り、公園のベンチに向かおうとした所、この女が現れて、『私もついていく』などと言い出したことが事の始まりでして」
「はぁ?」
「つまり、この女が私達ふたりっきりのデートを妨害しようとしているんです!」
「ちょっと何よいきなり。人聞きの悪いことを言わないでよ!」

「昨晩。この女をうっかり逃がしてしまったことが、そもそもの間違いでした…」
「いいじゃない? 減るものじゃないし。面白ければそれで」
「興味本位で、私達2人の間に割り込んでこられたら困りますっ!」
「志貴は、いつから貴女だけのものになったのよ?」
「う…それは……だからっ……」

 ・・・・・・・・・・。

「ねぇ志貴。女の子は1人よりも2人いた方が色々楽しいと思わない?」
「なっ、なんて事を言うんですか、貴女はっ!! 遠野くん、何とか言ってやって下さいっ」
「……」
「どうして何も答えてくれないんですかっ!?」
「ほらね。やっぱり自分に素直なのが1番よねー」

 ・・・・・・・・・・。
 いや。さっきから色々と言ってやりたいって気持ちはあるんだけどな。
 どうしてか、開いた口から言いたい言葉が出てこない。

「……」
 秋葉は、俺達のそんなやりとりを聞きながら、片眉をぴくぴくと上下に動かしている。
 その表情だけが、屈託のない緩やかな笑みを浮かべていた。
「……」
 翡翠から向けられる、刺すような視線も痛い。
 琥珀さんは、さっきからずっと姿を見せてこないようだけど…?
 うう…誰か助けてくれ。



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・結局。
























 俺は、シエル先輩と一緒にデートすることになった。

 秋葉は玄関先で別れるまで、終始俺のことを睨み続けていた。
 別れ際、
「詳しい事情につきましては、後ほどゆっくりと聞かせて頂きますので」 という言葉を残して。
 これは帰ってきた時が恐ろしいな……覚悟をしておこう。
 そして。

「…アルクェイド」
「なに?」
「私たちの2人っきりのデートに、いちいちついてこないで下さいっ!!」
 俺達の後ろを、アルクェイドがぴったりとついてきている。
 彼女は現在、俺の隣にいるシエル先輩と交戦の真っ最中。

「私はただ、ぶらぶらと散歩しているだけよ? 散歩で、どこに行こうと勝手じゃない?」
「こう言えばああ言いますね。貴女は……!!」

 相変わらず、この2人は相当仲が悪いようだ。
 飛び交う言葉の応酬が、俺の耳にとても痛い。





 ふと俺は、上着のポケットに手を入れ、屋敷を出かける時に琥珀さんが『がんばって来てくださいね♪』と渡してくれた、小さく折りたたまれたひとつの包みを取り出す。
 俺はその中身をこっそりと開けてみる…と。俺は酷く後悔した。

 ……なんて物を渡してくれるんですか。琥珀さん。
 これでいったい何を『頑張れ』と? しかも2つも……。



「何を見ているんですか。遠野くん?」
 と。
 唐突に先輩が、俺の手に持っている物を覗き込もうとする。
「いや。何でもないよ。先輩っ!!!」
「???」
 …ふぅ、やれやれ。
























 ――そして、俺とシエル先輩。アルクェイドの3人で映画館へとやってきた。

 ちょうど見通しの良さそうな席を見つけたので、俺達はそこに腰を下ろす。
 俺を挟んで向かって右側にシエル先輩、左側にアルクェイドが座ることになった。

 ・・・・・・・・・・。

 今、上映されているのは、「Under the GLASS MOON」という、ありふれた夜の街並を舞台とした伝奇物語。

 主人公は、敵の吸血鬼を殺すためだけに目を覚まさせられ、役目が終わればそれまで新たに見てきた記憶は全て消され、再び敵が現れるその時まで、ただ永き眠りに就かされる。そんな連綿とした繰り返しの中で生きる、吸血鬼の一族の姫君でありながら、そんな哀しい運命を背負った女性と、ある事件を境に、「モノの切れやすい線」というものが見えるようになってしまった少年。

 街で次々と起こる猟奇殺人。そして眠りの中で幾度となく見る奇妙なユメ。不意に語りかけてくる謎の声。
 そんな異質な日常の中、少年は自身の葛藤に苦しみながらも、街に突然現れた吸血鬼達との死闘を経て、そこで出会った吸血鬼の女性と、やがて恋におちていくという内容のものだった。
 まぁ、どこかでそれと似たような話を俺は、実際に体験したような気はするが……

 …しかしこの映画を観ていて俺は、鬼気迫るものを感じた。
 途中に起こったアクシデントによって、力を消耗した姫君を守るため、ナイフ一本を手に吸血鬼と相対する少年の行動と、それに至る心理の描写。そこから織りなされる数々のドラマがとてもリアルに描かれていて、こうしてスクリーン越しに観ているだけでも、その作品の世界に吸い込まれてしまいそうになる。





「…っ、ううっ……」
 ふと。
 近くから女性のすすり泣く声が聞こえる。

 ・・・・・・・・・。
 俺は声のする方をちらっと見てみる。
 と。
 その声の主は、アルクェイドだった。
 アルクェイドは、映画のスクリーンに映し出されるその悲しみに向かって涙を流していた。

「そんな…2人は愛し合っているんでしょう…?」
「…ダメよ。貴女はそこで、素直になるべきなのよ…」
「彼のことを心から想っているのなら、なおさら……」
「姫…うっ、ううっ……」
 映画の内容に感動しているためか、涙するアルクェイドの口からそんな言葉がもれる。
 アルクェイドって、こんな一面もあったんだな……

 その手は、悲しみのためか小さく震えていた。
 そんなアルクェイドの手を、俺はそっと優しく握ってあげる。

「………」
 そうすることで、心なしかアルクェイドの顔が和らいでくれたようだった。
 そしてアルクェイドは、俺の手を静かに握り返す。



「…!」
 ぎゅっ。
 その様子を見ていたシエル先輩に、俺の右手が強い力でつねられる。

「痛いよ先輩。何をするんだ」
「……」
 しかし先輩は答えない。
 先輩が黙って何も話さない時は、決まって何かに腹を立てている。
 俺がアルクェイドのことを気遣ったのが、よほど気に入らなかったのか。

「……」
「……」
「……」
 こうして握り返すアルクェイドの手と、つねってくる先輩の手の板挟みに遭い、俺は映画自体を楽しめるいとまの持てないまま、その上映は幕を閉じた。
























 ――そろそろお昼と言うことで、俺達は近くのレストランに入ることにする。

 先輩はナンにカレーを付けたもの。
 アルクェイドは、ハンバーガーとフライドポテトの組み合わせ。
 で。
 何故か俺は、先輩きっての要望により、スタミナランチのフルコース。
 スタミナランチって、先輩……



「はい志貴。あーんして」
 アルクェイドが、ポテトを一本つまんで俺の口もとに向けてくる。
 つられて俺は、大きく口を開け、アルクェイドがポテトを俺の口の中に放り込んだ。

「もぐもぐもぐ…」
「あはは。じょうずじょうず」
 それを数回噛んで飲み込むと、小さく拍手を加えながら、アルクェイドはころころとはしゃいでいた。
 …俺は犬か?

「おやおや遠野くん。ほっぺたにご飯つぶが付いていますよ?」
 今度は先輩が俺の頬に付いていたご飯つぶを手につまんで、そのまま自分の口の中に入れる。

(なかなかやるわね、貴女…)
(…………)

 ・・・・・・・・・。
 なんか、妙な緊迫感。

 バチバチバチバチ…………

 やがて訪れた、二人の視線から飛び散る火花が、とても痛い。
 俺は終始、まさに食べ物が喉を通らない心境でいた―――――
























 ――そして、公園。

「遠野くんは、私とデートしてくれているんです! 邪魔しないで下さい!!」
「別に邪魔なんてする気はないわよ」
「じゃあ、どうして私たちの後を付けてくるんですか?」
「だって楽しいじゃない?」
「立派に邪魔しているじゃないですかっ!!」
「人聞きが悪いわねぇ」
 先輩とアルクェイドは、さっきからずっとこんな調子で口論を展開していた。
 まったく、どうしたらいいものか…

「遠野くん。結局貴方は、私とこのアーパー吸血鬼と、どっちがいいんですか?」
「まさか志貴。私よりもこの偽善者娘の方がいいなんて言うんじゃないでしょうね?」
「な…遠野くんの優しさにつけ込んで、酷い目にばかり遭わせている貴女なんかに言われたくありません!!!」
「なんですってー!!」

「まぁまぁ、二人とも。とりあえず落ち着こう。今から俺、アイスを買ってくるよ」
「あ…ちょっと待ちなさいよっ!!」
「遠野くんっ!?」

 そういって俺は、とりあえずこの場を離れることにした。
























 はぁ、はぁ、はぁ――――

 二人には悪いけど、しばらくここで落ち着こう。
 まさか、こんなことになるなんてな…二人の仲が悪いのは、だいぶ以前から分かっていたことなんだけど…
 先輩もアルクェイドも、俺にとってかけがえのない、大切な友人だ。
 なのに『どっちがいい?』 なんてそんなこと、決められるわけがないじゃないか……
 まったくあいつらは……

 とりあえず、これからどうしたらいいものか……



 と。
 …くいっくいっ。
 唐突に。
 後ろから、俺の服の袖を引っ張る感触がする。
 いったい誰だよと振り返ると、そこにアルクェイドが立っていた。

「アルクェイド。どうしてここに。先輩はどうしたんだ?」
「あの娘なら、さっきの所のベンチで待っているわよ? それに…」
「それに?」

「わたしたちが二人っきりになれる、いいチャンスじゃない?」
「えっ…?」

「こらーアルクェイド! そんなところで何をやっているんですか!!!」
「ちっ、もう気付かれたみたいね。いくわよ、志貴!!」
「お、おい。ちょっと…」
 俺の言葉も待たず、アルクェイドは俺の手を無理矢理に引っ張りながら、そのまま先輩から逃げるように走っていった。



「二人とも、待ちなさーい!!」
 俺達が走る後ろから、先輩が怒濤の勢いで追いかけてくる。
 アルクェイドが俺を引っ張る手は、手首からしっかりと掴まれているため俺は、仕方なしにアルクェイドと一緒に先輩から逃げる羽目になっている。
「もう志貴ったら! もっと速く走りなさいよ!」
「無茶言うなって!」
「待ちなさーい!!」

 そうやってしばらくの間、そんな追いかけっこを続けていると……



 …ざんっ。
「!!」
 突然アルクェイドの動きが止まる。
 彼女の方に視線を移すと、その足下の影の部分に何か短剣のようなものが突き立てられていた。

「…まったく。ちょっと目を離すとこれです。油断も隙もありませんね」
 そして、シエル先輩がゆっくりとこっちに向かって歩いてくる。

「ちょっと、何これ。動けないじゃない。早く解きなさいよ!」
「自業自得です。少しはそれで反省していてください。では行きましょうか、遠野くん」
「あ、あぁ…」
 俺はそこで何かを言いかけたが、先輩から向けられる視線があまりに恐ろしかったので、何も言わず素直に従うことにした。
























 ――そして、先輩に連れられて、俺達二人はボートに乗ることになった。

 不慮の事故で、殆どのボートに原因不明の穴が開いてしまって浸水していた所を、運良くちょうど一隻だけ無事なボートがあったため、それに乗ることにした。



 ぎぃ、ぎぃ…
 櫂を漕いで俺は、静かに公園を見渡せる池の中央へと進んだ。

「…ふぅ。やっと二人っきりになれましたね」
「アルクェイドをあのままにしておいて良いの。先輩?」
「吸血鬼は、こういった水のある場所が苦手なので、この池の中に侵入することができません。これでひと安心です」
「いや、そういうことを訊いてるんじゃなくて…」
「…遠野くん?」
 その次の言葉を言おうとした途端。
 先輩から、獲物さえも一目で殺せるような目線がやってくる。
 俺はその目線に戦慄し、しばらく何も言えずにいた。

「今はふたりっきりのデートの時間ですからね」
「…………」

「まずはどんな話からしましょうか。いざこうなると、結構緊張しちゃいますよねー」
「あはははは…」

 そうやって、俺達が二人でゆったりとした時間を過ごしていると――

「ちょっと待ったーー!!!」

 遠くから、そんな声が聞こえてきた。
 アルクェイドだった。彼女は、他の人の乗るボートに次々と飛び移りながら、俺達の乗るこのボートを目指して追いかけてきている。

「ななな何て非常識なっ!!! 遠野くん、早くボートを漕いでくださいっ!!」

 いわずもがな。
 俺はただ恐ろしくなって、ただ無心にボートを漕ぎだしていた。

「遠野くん。もっと早く漕いでください!!」
「志貴。何で逃げるのよ〜〜〜!!!」

 ――俺は必死になってボートを漕いでいる。が、アルクェイドのスピードの方が僅かに早く、その距離は徐々に詰められていく。
 そして、

「いい加減に…」
 アルクェイドが、高く跳躍する。その姿は太陽の逆光に照らされて、目に捉えることができなかった。

「…しなさーいっっ!!!」
 そして、落下の勢いにまかせたアルクェイドの跳び蹴りが、俺の頬に炸裂する。
 その衝撃で俺は、ボートから引き剥がされ、

 どっぼーーーん!!!
「志貴!?」
「遠野くんっ!!」
 俺は、そのまま池の中へと放り込まれた。

「なんてことをするんですかっ。アルクェイド!!」
「なにって…自業自得じゃない?」
「…もう許しません。今、この場所で決着をつけてみせます!!」
「あら、やる気なの?」

 池に沈んでいく俺を後目に、二人は戦いを始めてしまった。
 ごぼごぼ、…頼む。早く…たすけ………

 きぃん、きぃん、きぃん――――

 ・・・・・・・・・・・・・・・。
 水の上から響く、剣とツメのぶつかり合う音を聞きながら。
 俺は、ただ静かに意識を手放していった………
























 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「――気がつきましたか。遠野くん」
 ここは公園のベンチの上。
 気がつくとシエル先輩の膝の上に乗せられていたため、俺は慌てて身体を起こした。

「あの吸血鬼を追い払おうとしていて、気がついたら遠野くんの顔がすっかり青くなっていたので、本当にどうなるかと思いましたよ」

 つまり俺は、死の一歩手前の所にまでいきかかっていた。ということらしい。
 もう少し遅かったら、俺が目を覚ます場所はここではなかった。ということだ。



 ・・・・・・・・・・・・・・

「志貴。無事だったのね?」
 アルクェイドがすまなさそうな顔をして、俺の顔を覗き込んできた。

「アルクェイド……」
「ごめんね志貴。わたしの所為で、志貴をあんな目に遭わせてしまって……」
「………」
「まったくです。後一歩で貴女は遠野くんのことを…」
「あんたには言ってないわよ」
「なっ。だいたい貴女は…」

「いい加減にしろ!!!!」

 遂に我慢の限界がやってきて、俺は不意に怒鳴り声をあげていた。
 二人はびくっと身を震わせ、俺の方を見る。

「二人とも。何かにつけていつもいつも喧嘩ばかりやって…その度に俺がどんな気でいたか……少しは俺の身にもなってくれよ!!」

「そ、そうよね…ごめんね。志貴」
「…確かに、自分の事ばかりにしか目を向けず、遠野くんの気持ちを考えていませんでした……」
 二人は俯いて、
「ごめんなさいっ!」
 と、同時に俺にそう言って謝った。

「ああ。分かってくれればいいよ」

 …これで、二人も少しは仲良くやってくれるだろう。
 そう思ったら、今までのことも、全部水に流せるような気がした。



「わたしたち、いままで何かが間違っていたみたいね」
「そうですね」
「シエル。とりあえず戦いの決着をつけるのは、おあずけだけど…」
「はい」

「志貴の心を掴む勝負は、これからよ!」
「はい! お互い、正々堂々と勝負しましょう!」
「絶対に負けないんだから!」
「こちらこそ!」

 えっ…?

「ということで志貴。わたし達の勝負はまた来週。その時はまたよろしくね♪」
「アルクェイドか、私か。今度こそどちらが良いか、ハッキリと決めていただきます」
「いや、だから。俺はな…」

「決着が付くまで、何度だって勝負してやるんだから!」
「何も来週までに決めてくださいとは言いません。どちらがいいのか、遠野くんの納得のいくまで。私達はその次でも、その次の次でも。何度だって、おつきあいしますから」
「そうそう。志貴が良いって言ってくれるまで、毎日だってデートしてあげるんだから♪」
「お、おい…?」
「その時は、恨みっこなしよ?」
「望むところです!」

 俺の言葉も聞かず、二人の間で勝手に話は進められていく。
 これから果たしてどうなる事やら。それは、誰にも解らなかった。

「はは…はははは……」

 休日の午後。夕方の公園で。
 ころころと。
 からからと。
 そこでは歓談に笑う二人の声と、俺の乾いた笑い声とが流れていた――――

 





−Fin−

 


/【to SS Library】