MIO 〜輝く季節へ〜
第22話 『悠空』
――今日も私は放課後の廊下を歩く。
私がこの学校の高校生として正式に入学してから、もう3年が過ぎようとしている。
もうすぐ、この学校も卒業してしまうコトになる。
幾度目かの月日を突き抜けるように流れてきた――
校舎中に鳴る放課後を告げるチャイムの音。
放送室から放送される声。
リノリウムの床を上履きでキュッと踏む音。
同級生や後輩達の喧騒。
それらすべてが、卒業を間近に控える私にとっては懐かしい“匂い”だ――
その僅かに残された時間を惜しむように、私は屋上へと通じる扉を開ける。
途端、私の身体に、ほのかな暖かさが射し込んできた――気がした。
「やぁ」
――今日もこの人はここにいた。
最近放課後になると、いつも屋上にいるこの人――ただし浩平くんと一緒にいるときを除いてだけれど――私が屋上に辿りついた時には必ずやってきているこの人。挨拶の言葉を言うなり、たん、と給水塔のあるハシゴを降りる音。
「こんにちは」
男の人に向かって私は、愛想よく気を配りながら微笑み挨拶を返す。ここまでの動作は、いつも同じ。なに1つだって変わらない。――まるでレールの上を走る電車のように。言葉の発音、タイミングから、言動のニュアンス、たったひとつの狂いもない。まさにそれは“作業”だった。
「くすくす・・・」
そんな私に対してだろうか、男の人は何故か笑っていた。
理由を聞いても、いつもはぐらかされてマトモな答えを返してくれないから、私は敢えて何も聞かないけれど。この人と初めて出会った時の第一印象は“何だかよく分からない人”だった。普通なら第一印象というものは何度か会ったり、お話をしていくうちに段々変わっていくものだけれど、ここまで何も変わらない人は珍しい。けれどこうして何度も会っているうちに私はすっかり“なれっこ”になってしまっていて、この男の人の態度を特に気にしたりはしない。
「今日の夕焼けは、何点かな」
――そんな私の思惑も関係ないかのように、男の人は言葉を継ぐ。
「今日の夕焼けは――72点」
私はすぐさま、自分が感じたままの点数を言葉にして返す。けど本当は、私自身の体調や気分などを夕焼けの空に投射して、それを口にしているだけに過ぎないのだ――ということを、私は浩平くんにも打ち明けていないのだけれど。
「・・・随分と辛口の点数だね」
男の人はやや声を落とし、私が口にした点数についての感想を述べる。すると男の人は――
「どうして、今日はいつもより低い72点なんだい?」
――などというコトを訊いてくる。そんなこと、私にだって分かるわけがない。だから答え様がないじゃない。
「どうしたんだい? もしかして、言えない様な理由でもあるのかい?」
食い下がる。男の人の質問の言葉。まるで私の心を見透かされている気さえして、私は思わず怖くなってしまう。
「――そうか、ごめんね。僕も悪気があってこんな意地悪な質問をしたわけじゃないんだ」
「僕は、ただね――」
数瞬、いや数秒の間があったのだろうか。男の人が考え事をするように辺りを歩く足音が、妙に私を焦らさせる。どうしてこの人は、いつも言葉に間を持たせるのだろうって。こんなところが私がこの人を苦手って思うところだ。
ややあって、
「君の漆黒い瞳の奥底にあるモノを――僕は見てみたいんだ」
――ぱたん。
そう言い終えると、扉が閉まる音と共に、男の人はいなくなってしまった。
・・・・・・。
それから辺りが肌寒くなるまで、私は誰もいなくなった屋上で一人ぼーっとしていた。
――卒業後の進路については、一応進学というコトにしてはいるものの、その前途は真っ暗闇だ。
小学生だった頃、事故で私の両目は光を失ってしまった。あれからずっと、私の相貌は目の前の景色すら映し出すことはない。あの日を境に、私が過ごしてきた年月は決して平坦と呼べるモノではなく、私はあらゆる場面で不自由を強いられた。
つい先日、私が病院に通った日の事だ。医療の技術は子供の頃とは比べ物にならないくらい発達していて、私の目は相応の手術をすれば治るってお医者さんが言ってくれた。私の両親も、是非私に手術を受けるように勧めてくれている。
だけど、私は手術を受けることに積極的ではなかった。この手術の成功率は必ずしも高いものではなく、万が一でも失敗すれば、そのまま私の目は見えないままになってしまうそうだ。
私は怖かった――ううん、今でも怖い。だってそうじゃない。手を伸ばせば掴めるかもしれない可能性と、失敗すれば永久にそれを失ってしまうという両天秤の中に現在の私はあるのだから。
私は苦悩していた――
――それは学食でのことだった。
「先輩。今日はオレが特別に学食をおごってやるよ」
「えぇっ、いいの?」
「ああ、こないだ住井達との賭けに大勝ちしたんだ。だから今日はこんなに金持ちなんだぜ?」
突然私に学食を奢ってくれると言う浩平くん。
浩平くんって“賭けに勝ってお金持ちになった”だなんて、凄いコトを言ってる。男の子達って、こういうものなのかなぁ。でもご飯をたくさん奢ってもらえるのなら私も万々歳。
「じゃあねぇ・・・今日の日替わりセットと、特盛フルーツドリンクと、カツカレーライス。それとねぇ・・・」
「ははは。先輩は相変わらず食欲旺盛だな」
次々と追加注文を頼む。私は私自身の食欲にはとても正直だった。
「ぷはー。もうお腹いっぱーい」
「先輩もう全部を食い終わったのか。オレも澪も、まだ自分の分を食い終わっていないんだぞ」
「だって、美味しいから仕方ないじゃない」
「それもそうだな、その方が先輩らしくていいや。ははははっ――」
「むーっ。それってどういう意味だよ浩平くん〜〜!!」
「なんでもないぞ。な、澪?」
『なの』
――確かに楽しい。すごく楽しいんだ。
こうして同じ時間を一緒に過ごし、お互いに楽しく笑いあえる、気心の知れた友達がいてくれること――それは私には勿体無いくらいの――幸せだった。
・・・貴女も、おいでよ
え・・・。
突然、背の小さい女の子の声が、私の耳にハッキリと聞こえてきた。
私は思わず聞こえてきた方を振り返る――けど、考えてみたら、私は目が見えないんだ。当然誰の姿かも判るワケがなかった。だけど声の主が背の小さい女の子の声だなんて、どうして分かったんだろう――――?
「やぁ」
放課後の屋上――やっぱりというか。
この人は今日もまたここにいた。挨拶の言葉を言うなり、たん、と給水塔のあるハシゴを降りる音。
「こんにちは」
ここまではいつもと全く同じ。言葉の発音、タイミング、動き方のニュアンス。何ひとつ変わらない。
あまりに同じコトの繰り返しだったから、私でも流暢にすらすらと言えるようになっていた。
「君のコト――見ていたよ」
この人は・・・いきなりなんてことを言うんだろう。この人の突飛なモノの言い方には慣れているはずなのに、この人の言葉は、いつも私の心をドキッとさせる。
「今日の夕焼けは――90点だ」
「どうして今日の夕焼けは90点なんですか?」
この人の言葉に、私は透かさず質問を返す。私がすごく答えにくい質問――いつもこの人から聞かれる質問を、たまには私から訊き返してもいいと思ったからだ。
「それはね――」
だけどこの人は、あっさり答えを返そうとする――
「――出逢えたからさ。それだけのことだよ」
出逢えた? いったい誰に?
この人の言うコトは本当に分からない。
「まあいい。君にはどうやら、“資格”があるのかもしれないな――」
“資格”――いったい、何のことだろう。
「君にとっては恐らく天秤の姿で描かれている――二律背反の狭間に隠された真の解答のようなものさ」
・・・ますます意味が分からない。もともと私は難しいことを考えるのが苦手だけれど、この人の言うコトはそれに輪をかけて全然わからない。この人はそもそも私に話を分からせる気があるのだろうかとさえ思ってしまう。
「君はどうやら迷っているみたいだね。自分はどうするべきか――なら君なりの“結論”を出すといい。悩むことは良い。だけど無闇に迷うことは心を疲れさせるだけだ。だから君は早く“結論”を出すべきだ」
そんな私の考えを見透かしたかのように――この人は私にも分かる言葉でアドバイスのようなコトを言ってくれた。
「虚構でも誰かの真似事でもない、君自身の力でその“結論”を出すことが出来るなら――また僕と逢う事があるかもしれない」
そう言って、謎の言葉を残したまま、あの人はまた忽然といなくなっていた――――
――次の日の放課後。屋上にはあの人はいなかった。
いつもは私が困るくらい言葉を投げかけてくるあの人でも、いないと逆になんだか寂しい気持ちもする。
私はひとり、ぼーっとしながら夕焼けを見ていた。
そんな日が、しばらく続いた――
――明くる日のこと。
私は自分のクラスの席で考え事をしていた。教壇から聞こえてくる、進路や将来という話。
雪見は本格的に劇の勉強をしたいから、そういうことを専攻して学べる学校に進学するみたい。将来は劇団に入って、演劇の分野で活躍したいって言ってた。
クラスメイト達も、一人暮らしに向けて準備をしている人。就職が決定している人。
みんな、ちゃんと自分の将来の進むべき道を考えているんだ。なんて、羨ましい。だって私には到底できないことなのだから。
“はやく、おいでよ” ――またあの女の子の声だ。
「君は、こないだ食堂でも声をかけてくれた女の子だよね?」
なんてことを、私は思わず声が聞こえてきた方に駆け寄って――訊き返していた。
「?? どうしたの川名さん?」
クラスメイトが私に声をかけてくれるのが分かった。
“――――”
女の子ががっかりして走り去っていくような気がしたので、私はクラスメイトに構わず教室を出ていた。
“あははっ。はやくおいでよ――”
そして私は、女の子の声を追いかけて、廊下を駆けていた。
何人かの肩にぶつかったような気がしたけど、そんなことは気にしていられなかった。
私が気になるのは、あの女の子のこと。ただそれだけだった。
――声を追いかけて、私がたどり着いた場所は屋上だった。
扉を開けたときに流れ込んでくる開放感を伴って、私は屋上へと足を踏み出す。
だけど女の子はどこにもいなかった。
私は屋上で夕焼けを見ていた。いつも見てきた夕焼けの景色。今日の夕焼けはきっと100点満点。けれど、私にはそれを確かめることが出来ない。
そう、私には、もう・・・確かめる事さえ、できないんだ。
浩平くん・・・雪見・・・澪ちゃん・・・繭ちゃん・・・連続写真のように、みんなの顔が浮かんでくる。
一緒にいられて楽しかったこと。いっぱいあったね。私はみんなと過ごしてきた思い出を全部覚えているよ。
うくっ、うぁぁ・・・
涙が止まらないよ――あと一歩、たった一歩だけを、踏み出すだけなのに――そうすれば、何もかも全部終わることなのに。どうして私の足は、ここから先に動いてくれないの。
私は――――
私は――――
“さあ、おいでよ”
ふと、私に向かって手招きをしている女の子と、その声が聞こえる。
・・・・・・そうかも知れない。
あの遠い遠い空のむこう。あたたかい夕焼けの景色のもっともっと先。そこには私が本当にいたかった場所。そんなモノがあるのかもしれない。心の奥に閉じ込めた、本当の私の心が癒される、その場所がただひとつの世界なのかもしれないって。よく分からないけど、その考えにどこか確信めいた感じがしていた。
金網で出来たフェンスに足をかけ、私はそれを乗り越える。
フェンスの向こうへと降りた時、強い風が吹き抜けた。
“自分はどうするべきか――なら君なりの“結論”を出すといい”
あの人の言葉が脳裏に浮かんでくる。“結論”――もしかしたら、ここで私自身の幕を閉じる事が、私にとっての“結論”なのかもしれないって――心からそう、思えたのだ。
みんな、ごめんね・・・・・・本当に、ごめんね・・・・・・私、先に、行くね・・・・・・ばいばい。
そして私は、声は聞こえるけど、顔だけは決して見ることの出来ない友達のコトをひとりひとり思い浮かべながら――今、ハッキリと、その覚悟を決めた。――ときだった。
めきっ。
めきっ、めきめきめきめきっっ!!!
――え?
私の立っている真後ろで、金網が引き千切られるような・・・そんな変な錯覚がした。
もちろん、そんなことは気のせいだと思うんだけれど・・・って。
音がやむと、私の制服を無理やり掴まれて――真後ろに投げ飛ばされた。私は思わず尻餅をついてしまった。
あれれ、いったい何がどうなってるの?
――ぼこっ。
痛い。スケッチブックの角で叩かれた時みたいに痛いよ。って、えっ。スケッチブックって、まさか。
『みさきさんはバカなの。大バカなの!!』
小さなグーでぽかぽかと叩かれてる。きっと澪ちゃんだ、と思った。
「おーい、先輩っ。大丈夫かーっ!」
――浩平くんの声だ。
「な、なんだ? 屋上の金網が全部引き千切られてるっ――!?」
浩平くんが何を言っているのか良く判らなかったけれど、何かにとても驚いているようだった。
「先輩っ! 屋上から飛び降りようとするなんて、どうしてそんな馬鹿なコトをしたんだっ!??」
浩平くんが私の近くに駆け寄ると、私の両肩を掴み、激しく私を叱咤している。当然だ。私はそれだけのコトをしようとしていたのだから。私のコトを大切にしてくれる人達と、私自身に対する、ひどい裏切り行為。
「バカ野郎・・・死んでしまったら、何にもならないじゃないか・・・・・・」
浩平くんは私のために本気で泣いてくれているようだった。それだけ心配させてしまったのだ。情けなくて、私は言葉が出ない。
本当に私どうしてこんなこと――しちゃったんだろう。
「澪ちゃんゴメン。浩平くんのコト、ちょっとだけ貸してね」
私は澪ちゃんに一言そういうと、浩平くんを胸にそっと抱きいれた。
「お、おい・・・?」
「浩平くん。私ね――」
澪ちゃんが寂しそうな目で私を見ているのが背中越しに分かった。だけど・・・ごめん澪ちゃん。これだけは言わせて。
「――ううん。私ね、目の手術を受けようと思っていたの」
「とてもとても不安だったの! もしも手術が失敗しちゃったらどうしようって! 私はこのままずっと目が見えないままになっちゃうかもしれないって!!」
私は、胸のうちに籠めていた言葉を打ち明けていた。自分でも信じられないくらい、感情的になってる・・・
「あの夕焼けの景色を。また見られるようになりたいって!! 私はずっと前から思ってた!! 」
「先輩・・・」
「気がついたら私、あんなコトまで――」
「先輩・・・っ」
「やだよ・・・やだ、やだっ! これ以上、何も見えないままでいるなんて嫌だったのっ」
「・・・先輩っ!!」
「どうしよう浩平くん・・・もしも手術が失敗しちゃったら・・・っ!!」
「先輩っ!!!!!」
「・・・・・・」
浩平くんが大声で叫んでくれたおかげで、私は元通りになることができた。
「“もしも失敗したら”なんて・・・どうしようもないことを考えるな」
「浩平くん・・・?」
「安心しろ――きっと、手術は大丈夫さ――このオレが保証する」
浩平くんは私がずっと醜いと思って隠してきた部分を、優しく、あたたかく包み込んでくれた。
この瞬間の浩平くんが、なんだか頼もしく思えて。浩平くんは私より年下で、私のほうがお姉さんなのに、そんなコトはもうすっかりどうでも良くなってて。
「うあぁあああ〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!!」
私は頭がカラッポになるまで、浩平くんの胸の中で泣き続けていた。
「澪ちゃん・・・」
いっぱい泣いたあと。私は浩平くんから身体を離すと、
「澪ちゃん、浩平くんのことは君がしっかり支えてあげてね? 優しい澪ちゃんなら、きっとそれが出来るから」
うん、澪ちゃんならきっと、私よりもずっとずっと、浩平くんと幸せになれると思ったから。
私は心の奥底から、そう願うようにしたんだよ。
すると澪ちゃんは私の掌に、
『う』 『ん』
と書いてくれた。
「ありがとう」
私は澪ちゃんに向かって飛びっきりの笑顔で微笑んだ。
「――それで、君なりの“結論”は出たのかな?」
次の日の放課後。私は校舎の廊下であの男の人に会った。
「うんっ」
「そうか――それは何よりだね」
名前も知らないこの人に、私はそうはっきりと言葉を返す。
男の人は、その私の返事にどこか満足した様子で。そのままどこかに行ってしまった。
「じゃあね」
私はその人のことを、今はまだ見えない瞳で、小さく手を振って見送ってあげた。