MIO 〜輝く季節へ〜
第19話 『双思』
――夢を、見ていた。
辺りに薄いもやが立ちこめる夢の中を。彼女は虚ろな眼差しをしながらそこに漂っていた。
「澪――」
聞こえる声、それは――澪が想って止まない最愛の、彼――浩平の声だった。
響き渡る声とともに、彼女の意識はゆっくりと覚醒を始める。
それは彼女が待ちに待っていた、逢瀬の瞬間だろうか。
目の前にうっすらと、少年のシルエットが浮かび上がる。澪に近づいていくに連れて、その姿は明確に映しだされてゆく。
しかしまだ手の届かない場所にそれはあり、はっきりとその姿を見ることができない。
浩平君……
どきどきと、高鳴る心音はこれから訪れるものへの心の準備の証。激しく脈打つ胸の鼓動がとても苦しい。澪は深呼吸をしてなんとか心を落ち着かせながら、その瞬間の訪れを静かに待とうと思った。
ゆっくりと――だけど確実に。その足音は段々と澪のいるその場所に向かって歩みを寄せていた。
そうするまでに、果たしてどれほどの瞬きの間が経ったのか――やがて澪の心の準備が決まった。
――ずっと言いたかった言葉を、今こそここではっきりと言おう。
受け止めてほしい。受け入れてほしい。
だって私の気持ちは今までも…そう、これからもずっと貴方の――――だから。
お願い、もっと早くそばに来てほしい――――
澪が浩平と呼んだシルエットが、やがて目の前ではっきりとその姿を現した。
「愛してるわよ、澪ちゃん〜〜〜♪」
…そこでなぜか詩子の顔が。
『ぎゃーーーーーーーーーーーーなの!!!!!!!!』
その声帯さえ満足であるならば、およそ130デシベルを超えたであろう、澪の雷鳴のごとき絶叫のあと。澪はベッドから跳ねるように身体を起こした。
(はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――――)
全身からは玉のような汗が噴き、吐く息は大きく荒い。まるで身体中の血液がその一箇所に収束したかのように高鳴るその胸腔は、ぶるぶると小刻みに震えながら上下していた。
(悪夢なの、アンビリバボーなの、ゲシュタルト崩壊なの、ちりちり毒電波なの…)
彼女は相当混乱しており、訳の分からない言葉をぶつぶつと呟きながら、混濁する意識を何とか元に戻そうとして身体をゆらゆらと揺り動かしていた。俗に言うピヨリというやつである。
うろんな頭のまま彼女はベッドから離れると、ふらふらとした足取りで部屋の外に向かう。
歩くたびに壁や家具にごん、ごんと頭をぶつけていく。
歯磨き、朝シャン、顔洗い、髪型のセット、軽い朝食――これらを済ませるまでに、澪はその頭にどれほどの"こぶ"を作ったことだろうか。
そんなこんなで……澪が正常な意識を取り戻すまでに、およそ1時間を要した。
(ふぃー、なんとか元通りに戻れたの。とりあえず学校に行って来るの)
澪、まだ制服に着替えが済んでいないぞ。
――これはマーフィーの法則というか。
嫌なことは何故か続いてしまうものらしいというか。
(…えぇいっ! あの夢が頭から消えないのっ!!)
澪は昨夜に見たあの夢の内容が、頭に焼き付いて離れないらしい。
(さっきから全然気分が優れないの。こういう時はどこかで思いっきり暴れ回るに限るの)
朝っぱらから恐ろしい事にその情熱の炎を燃焼させてくれる澪であった。彼女の炎に"あてられた"草花が、しおしおとやつれたように倒れていく。小鳥達もそれで身の危険を察知したのか、バタバタと逃げるように飛び立つ光景が見て取れた。それに心なしか、澪の周りだけ気温が3℃ほど高く感じられる。
――そんな、微妙な朝の通学路。
殺意のオーラをあちこちに振りまきながら歩く澪の目に、浩平と茜が並んで歩く姿が飛び込む。
2人は互いに笑みを交わしながら、楽しそうに会話をしていた。
(!? 里村茜…この女、まさか……)
そこで澪の脳裏に女としてのカンが閃いた。いやこの場合、傍目に見ても十中八九明らかなのだが。
(むー。ここからじゃ二人の会話が聞き取れないの)
澪は電柱の影から2人の様子を窺い見ることにした。しかし距離が離れ過ぎていて上手く聞き取ることができない。
それでも澪はなんとか二人の会話を聞き取ろうと尾行の要領で、電柱の影から影へと移っていく。
(…………)
もしも最愛の浩平をかどわかすような言葉が茜の口から一言でも洩れるならば…その瞬間この手でお前の身体に後悔の名を刻み、血飛沫の華を咲かせてあげるの――と、そう思った時だった。
「澪ちゃん。おっはよー♪」
(!!――――)
垢抜けた、屈託のない明るい声。その聞き覚えのある声を耳にした澪の背筋に戦慄が走った。
「こんな所で会うなんて偶然だねー。折角会えたわけだし、一緒に学校に行こうよ?」
いつもの澪なら(お前とは学校が違うの)とか、(いきなり出てきてびっくりさせるななの)などと言うところだが、あんな夢を見た後である。目の前に突然現れた詩子に言い返すだけの余裕など既になくなっていた。
「澪ちゃんは何か部活とかやってる?」
(……)
「あたしはバレーボール部だよ。というより、身体を動かす事なら何でも好きなんだけどね」
(……)
「ちっちゃい子って、あたし好きだなあ……ぼそ」
詩子が時折見せるその視線が、その言葉が、澪にとっては悪夢以外の何物でもなかった。
冷たい刃で皮膚をそっと撫でられるような感覚。
「澪ちゃんさえその気になってくれれば、いつでも良いんだよ? あたしはいつでも準備OKなんだから… って、あれ?」
詩子が澪を誘惑しようと甘い声を出すのも束の間。澪はとっくにいなくなっていた。
(まったく、朝からひどい目に遭わされているの!)
――詩子から逃げるようにして校舎の昇降口に駆け込んだ澪。
靴箱を開ける。すると中には一通の手紙が入っていた。
澪は不思議に思い手に取った手紙を開くと、それにはこう書かれていた。
『上月澪さん。いつも遠くから見つめていました…率直に言います。貴女のことが――好きです。
貴女のことを想うだけで、胸の奥が締め付けられて苦しいの。
こうしている間にも、その一瞬一瞬がまるで永遠に続くように感じられるんです。
もしも私のこの想いにお返事を聞かせてくださるのでしたら、
今日のお昼休み、校舎中庭の木の根本で待っています―― かしこ』
(――――!!)
手紙はパステルカラーの紙にまる文字の書体で可愛らしく書かれており、かしこと書かれた辺りには薄紅色のキスマークがしてあった。
明らかに女性の筆跡。差出人の名前は書かれていない。
この手紙の内容を見て青筋が走る――なんとなく差出人の予想がついているだけに――澪はヒクヒクとひきつった表情で手紙を握りつぶすと、疲れ切った足取りで教室へと向かっていった。
冷汗をたらりと流しながら澪は教室の席に鞄を置くと、自分の机の中に封筒を見つける――
『上月澪さん。いつも遠くから(以下略)』
ビリビリビリビリ――――ッ!!
――澪は速攻で封筒ごと手紙を破り捨てた。
予鈴のチャイムが鳴り、担任の教師が教室に入ってくる。
「よーし、昨日提出させた課題のノートを返すぞ」
そして自分の手元に返されてきたノートには僅かな厚みがある。
気になった澪は、そのページの部分をぱらぱらと開いてみる――と。
そこには例の封筒が入っていた。
…ぷちん。澪は完全に切れた。
(おのれストーカーめ。そこまで言うのなら、お望み通り中庭の芝生のマットに沈めてくれるの…)
かつて、浩平に対して同じような事をしてきた澪の台詞にしてはどうかと疑念がよぎるが、昼休みになると澪は手紙の差出人が指示した場所へと向かっていった。右手にはいつでも戦闘状態に突入できるよう使い慣れたグローブを填めて。
――中庭に出る。
僅かに寒さの残された微風が、怒りのオーラに火照った澪にはかえって心地よかった。
空気に含まれる微細な水分が、澪の身体に触れた所から水蒸気に変わり中空へと舞い上がっていく。
澪は手紙の差出人に『返事』をするため、手紙に書かれた通り木の生えた場所に行く、と――
(………汗)
案の定というか――そこには肌寒そうに両手を擦り合わせながら待っている詩子の姿があった。
スタスタスタスタ――――スタスタスタスタ。
「どうしてそんなに逃げるのよぉ?」
(無視、無視なの)
澪と詩子は廊下で追いかけっこをしていた。
「あたし澪ちゃんのこと、こんなに愛しているのにぃ!」
(…えぇい、そんな歪んだ愛なんかいらないの!)
「澪ちゃんのこと好きだから、もっともっと澪ちゃんのことが知りたいな」
(私は知りたくないのっ!!)
「あたし達、お友達から始めましょうよ?」
(――くどいのっ!!!)
澪が早足で逃げるも、詩子は後をぴったりとついてきて離れない。
高速ドリフト走行で廊下の角を接触すれすれのラインで曲がりつつ、人混みの中を絶妙なステップと体捌きで巧みにかわしていきながら、澪は詩子を振り切ろうとするが、それでも彼女に距離的な差を付ける事はできなかった。
もしも出逢い方が違っていれば――彼女はきっと、自分にとって脅威的なライバルになったに違いない――澪はそう確信していた。
結局、二人のそんなチェイスは澪が食堂に入って行くまで続いていくことになり――――
「――で、今日はどうしてお前達がこんな所にいるんだ?」
「いいじゃない、細かいことなんか気にしなくても」
「少しも細かくないし、かなり気になるんだが」
食堂で。いつも浩平とみさき、澪の三人で囲っているはずの席に、詩子と――いつの間にか茜までもが同席していた。
「…ねえ、2人は浩平君のお友達? わたしにも紹介してよ」
「柚木詩子でーす。澪ちゃんの彼女に立候補していまーす」
みさきが浩平に訊ねると、詩子は元気良く自己紹介をする。
「へぇ、そうなんだ。澪ちゃんも隅に置けないね〜」
「…先輩、少しは驚いてくれ」
「ささ、里村、茜、です……」
顔中が満面の赤に染まっている茜。消え入るような声で、彼女も自己紹介をした。
(……)
澪はそんな彼女達のやり取りにふくれていた。
理由はもちろん詩子のこともあるが、それよりも――――
「……」
茜がこうして浩平にぴったり肩を寄せていることである。
「おい里村。熱でもあるのか?」
「……」
さっきからずっとこの調子である。浩平が呼びかけても、茜は目を瞑じて黙ったまま何も答えようとしない。
そんな2人の様子はすっかりと周りの視線を集めていた。
「ほら里村、いいから少し離れろよ。回りにじろじろ見られているぞ」
「…嫌です」
言われて辺りの様子が気になったのか、茜が少しだけ目を開けると、自分がしているこの大胆な行為に気が付いて、ますます恥ずかしくなってしまい、再び目を瞑じてしまう。
浩平はどうして良いか分からず、しどろもどろになっていた。
(……えぇい里村茜、さっさと浩平君から離れるの……)
澪もぷるぷると拳をふるわせながら茜を睨み付ける。浩平さえ目の前にいなければ、彼女がいつ暴発してもおかしくなかった。
「浩平さん。…はい、あーんして」
突然茜がそう言って、浩平のためにと作ってきた弁当を浩平の口に運んできた。浩平もそれに連られ、口を開ける。
「お、お味はいかがですか?」
「あ、ああ。さすが茜の作った弁当だな。かなり旨いぞ…」
「そうですか。とても、うれしい、です……」
どもりながら、上目遣いに浩平の顔を覗き込む茜。浩平は冷汗をかきながらも、そんな茜の弁当のおかずを食べていた。
それを見る茜は、赤くなるほっぺに手を当てて緊張しながらも、どこか嬉しそうだった。
「はい次、あーんして…」
「里村、恥ずかしいからやめろって」
「私だって、こんなこと……充分恥ずかしいんですよ……」
「…??」
いつもの茜の様子とは違うし…いったい何があったんだ?
と、きょとんと目を見開く浩平をよそに、茜は詩子に耳打ちする。
(ねぇ詩子。これで本当にうまくいくんですか…?)
(当たり前じゃない。このあたしの考えた作戦よ? これで落ちない男なんていないわよ)
(うぅ、とても恥ずかしいです…)
「じゃああたし達も負けないように。はい澪ちゃん、あーんして?」
自分の指示した作戦通り、茜が浩平にアプローチをかけていることを確認した後、詩子も澪に同じことをしようとする、が。
「あれあれ、澪ちゃんどこ〜?」
(えぇい、やってられるかなの)
澪はとっくに避難を終えていたようで、彼女たちの死角になる場所でひとり黙々と玉子入りのラーメンをすすっていた。
「??? なんだかみんな楽しそうだね?」
そんな彼女たちの様子に終始?マークを浮かべるみさきであった。
――放課後になる。
(ほら茜。しっかりがんばりなさいよ)
(う、うん…)
昼休みの食堂で見せつけられたと男子生徒達から受けた"洗礼"から見事勝ち抜いてきた浩平が、くたくたになった風体で校舎を離れようとしていた。
浩平の姿を認めた詩子がぽん、と茜の背中を押す。
わっ、と小さく声を洩らしながら茜が浩平の目の前に出てくると。
「…浩平さん」
「ん、どうしたんだ里村?」
「あの、えっと…、いえ、その……」
「???」
(どうしたのよ茜、早く言うのよ)
その一歩をいまひとつ踏み出せないでいる茜に、詩子は心でエールを送る。
それに応えるように、茜は胸いっぱいの勇気を振り絞り、浩平に向かって言った。
「あの、今度の休日…商店街で、その、デ、デート…しませんか?」
「――はい?」