MIO 〜輝く季節へ〜
第18話 『青天』
――ひとしきりの、雨。
シトシトと降り注いでいた。
雨の雫達が辺り一面を冷やかに協奏する音が響き渡る。
そんな雨のヴェールが、外の景色をすっかり閉ざすように覆い隠す薄闇の空間。
今日もそこに、彼女の姿はあった。
「……」
茜は、空き地でピンク色の傘を差しながらそこに佇んでいた。
無言のまま、その心はただただ静寂の中で。彼女はじっとしたまま、そこから動こうとはしない。
彼女は瞳を瞑じ、そしてあの日にいた少年のことを思い出していた。
茜の脳裏に去来していく――過去の風景。
――幼かった頃の記憶。
それは詩子ともう1人、いつも一緒にいた男の子と一緒に遊んでいた思い出の数々――
いつも三人は、何をするときも一緒だった。
三人で結びあったはずの、えいえんの友情の絆――いつまでも、変わらないと信じていたのに――だけど。
彼は突然、目の前で消えてしまった……
あまりにも唐突に訪れた過酷な現実は、楽しかったあの頃の思い出を、そして彼女の心を冷たく切りつけていった。
茜は少年を捜し回った。しかし返ってきたのは誰も少年のことなど知らないという言葉だけ。
自分と同じく、少年といつも一緒にいたはずの詩子でさえ、少年のことを覚えていないと言うのだ。
そして少年のことなど初めからそこにいなかったかのように、日常の歯車はカラカラと乾いた音を立てながら廻っていく。
彼女の思い出だけを、そこに残したままで。
「司…」
その呟きだけで精一杯だった。
いっそ私も忘れてしまえればよかったのに。だけど彼女の記憶から少年の姿が消えることはなかった。
茜は少年のことを忘れることなどできはしない。その想いが強くなるほどに。深くなるほどに。
彼女は今、冷めた心の檻の中にいる。
言いしれぬ孤独。
一番近くにいてくれた親友さえ憶えていないものを、どうして誰かに理解してもらえよう。
それは果たしてどれほどの苦しみであろうか。
「……」
それは雨のせいなのか。一縷の滴が、ゆっくりと彼女の頬を伝っていった。
………
……
…
――その閉じた静寂はやがて、唐突にかけられた彼の声によって開かれた。
「よう里村」
「…浩平…さん?」
浩平は茜にフランクな口調で話しかける。茜はハンカチで目元を拭い、ゆっくりと声のする方を振り向くと、突き放すような視線を向けながら浩平に言った。
「また来たのですか? ここにはもう…」
しかし自ら心の扉を閉ざそうとする茜の声を、浩平は遮るように言葉を続けた。
「それはオレの台詞だ。お前はどうして毎朝こんな所にいるんだ?」
「……」
「今日もここで待っていたのか? 来るはずのない奴のことを」
「…はい」
――空き地を離れ、浩平と茜は2人で通学路を歩いていた。不意に茜は浩平に話しかける。
「…雨の日は、いつもああして待っているんです。あの日もこんな雨の天気でした」
「そうなのか…」浩平はしばらく間を空けて言った。「…それにしても許せないよな」
「――何がですか?」
きょとんとした目を向けて、茜は問い返す。
「里村みたいないい奴を放っておいて、勝手にどこかに行ってしまうなんてさ」
「あいつは…」
「そいつは絶対どこかおかしいんだ」
浩平のその言葉に茜はむっとする。そして浩平を睨み付けるようにして言った。
「…どうして貴方にそんなことが言えるんですか?」
それに対して、
「なぜならオレがそいつの立場だったら、好きな奴のことを放っておかないからだ」
「何ですかそれは、もう…」
自信満々に答える浩平に、茜は呆れたようにため息をついた。
でもその反面、茜の表情には浩平の言葉にどこか安心しているような、ほっとしたような明るさがあるのだった。
「う〜〜〜〜〜」
――昼休みの食堂。
みさきは右手に持った銀色のスプーンをくわえながらぶーたれていた。
食堂に入って料理の盛られた皿をテーブルに置くなり、ずっとそうしているみさきの様子を見て、向かい側に座る浩平が訊ねた。
「さっきからどうしたんだよ、先輩?」
「私、雨の降る日って嫌い。だってこんな日は屋上から空を見られないから」
窓の外を見やると、雨が降り続いていた。今朝からずっとこの調子である。
淡々と降り続けるその雨は、午後に至っても一向に降り止む気配がない。
「食べ物がのどを通らないよ〜」
「…食欲がないのか?」
「うん。こんな雨の日は、あまり食欲が沸かないんだよ…」
「…そうなのか?」
言いつつも、既にテーブルの上には10枚を越える皿を積み上げているみさき。
「いつもは、この3倍は軽く食べられるのに…」
心底気落ちする。そんなみさきの言葉を聞いて、浩平は口の端をヒクヒクと動かす。
浩平の隣でそれを見る澪は、『…毎日雨が降っていてほしいの』と心にごちるのだった。
「…そんなことを言っても、こんな天気だからどうしようもないだろ?」
「う〜〜…」
でも納得できないよ〜とでも言いたそうにしながら。
みさきは、まるで子供のように駄々をこねていた。
「こうなったらわたし、食べる!」
堰を切らしたようにみさきはスプーンをぐっと握りしめると、目の前に盛られたカレーライスをがつがつと食べ始める。
瞬く間に、3皿もの料理がみさきの口中へと消えていった。
みさきのそんな目の輝きを見て、『時は来たれり』と固唾を呑みながら覚悟を決める学食のおばちゃん達。
彼女達の班長と思われる年輩のおばちゃんが、他の生徒達に気づかれないようにサインを出す。
これは"戦闘開始"という意味の暗号サインである。
そのサインを受けると、おばちゃん達の動きがまるでスイッチでも入ったかのように素早くなる。
常人の目には定位置で普通に調理をしているようにしか見えないであろう。
…だが違うのだ。一般生徒達に気づかれないよう、おばちゃん達は緩急をつけながらキッチンの中を肉眼では捉えられない程に目まぐるしく動いている。
人間の目とは、なんと錯覚に騙されやすいものであろうか。そう、今我々に見えているこれは、おばちゃん達の動く残像に過ぎないのだ。
彼女たちが極秘裏に所有する『大喰らいブラックリスト』のナンバー01に登録されているあの川名みさきが、本気で学食を制覇しようとしている。
それは今の彼女の目を見れば分かる。あれは食糧に飢えた修羅の目だ。
今日が雨の日であると安心していたのが迂闊だった。
一度火がついたら止まらない。それが修羅の修羅たる由縁だったはずなのに。
みさきが学食で一日に食べる量の平均は約50食。
だがしかし調理場にストックしてある分では到底そこまで足りはしないだろう――
しかし、みさきからのおかわりコールは絶え間なく続いていく。このままではすぐに鍋が底をついてしまう…
そこで班長のおばちゃんは黒電話をとり、緊急回線で本部へと連絡を取った。
すると即座に本部から数台のヘリやワゴン車が派遣され、陸から空から、学校に大量の食材が送り込まれる。
黒づくめの服に身を包んだ本部のスタッフ達によって、それが生徒達に気取られないよう俊敏な動作でキッチンへと運び込まれてゆく。
よかった間に合った。おばちゃん達の間に安堵の吐息が洩れる。
しかしここからがおばちゃん達の正念場である。おばちゃん達の目に炎がともる。そして電光石火の早さで調理は開始された。
おかわり! とコールするみさきの声が、食堂中に絶え間なく響きわたる。
おばちゃん達はアイヨ! と元気よく返事を返しながら間断なく調理を完了させてゆく。
流れ作業の要領よろしく、カウンターに置かれる料理の盛られた皿を運んでいく浩平と澪。
その光景に胸を打たれた生徒達は、感涙にむせびながら浩平達に混じり、みさきの元へ皿を運んでいく。
「いくらなんでも食い過ぎだろ先輩…」
「人間、食べていないとどうしようもない時があるんだよ〜!」
「せめて泣くか食うか、どちらかにしてくれ…」
もはや誰にも止められない。一度スタートラインに立てば、後はゴールへと向けて突っ切るのみ。
それは世界で最もシンプルで、かつ最もシビアなルール。
喰うほどに、飲むほどに。その食欲を更なる高みへと増大させてゆくみさきはまさに天才。
後世のとある偉人をして彼女は後に"食の神童"と呼ばれることになる。
そんなみさきの食べっぷりを見て、学食のおばちゃん達は感無量の境地にいた。目尻から溢れ出す涙が止まらない。
自分達の作る料理を、可愛い生徒達にお腹一杯になるまで、満足のゆくまで沢山食べてもらいたい。
それがおばちゃん達の料理人としての誇りであったからだ。
「おかわり、もっとおかわり〜!」
あれから優に30分は経過していよう現在に至ってもなお、みさきのおかわりコールは止むことなく続いている。
澪曰く、"人間ブラックホール"こと川名みさきの大食い無敗記録は、またも大きく塗り替えられている真っ最中だった。
――その頃。
「どうしたの茜。何か良いことでもあった?」
教室では、詩子が昼食を広げながら茜に訊ねていた。
「…はい」
うなずく茜の表情はほんのりと紅い。そんな茜の顔を、詩子はまじまじと覗き込む。
「ふふん、そっか〜」詩子は、茜の反応を見てニヤリと笑みを浮かべる。「茜、さては恋をしてるわね?」
「な…」
茜の顔が途端、真っ赤に上気する。
「ホントわかりやすいわね茜って。思ってることがすぐ顔に出るんだもん」
「………」
茜はそのままうつむいてしまった。
「で、その意中の相手って誰? 正直に教えなさいよ」
「まだそうと決まったわけでは…」
「…まぁいいわ。その辺は追々聞かせてもらうから」
言いながら詩子はケラケラと悪戯っぽく微笑む。
「なんかさぁ、茜って今までずっと思い詰めた顔してたから、心配してたんだよ?」
「そう…かもしれませんね」
「今の茜の方がずっと綺麗だよ? すごく輝いてる」
「…」
「あ、別にこれは変な意味で言ってるんじゃないからね?」
「…誰もそこまで言ってません」
茜は呆れてため息をする。
「大丈夫大丈夫。今のあたしには澪ちゃんという目標があるし」
「澪ちゃんって…詩子?」
「いつか、澪ちゃんのハートを射止めてみせるんだから♪」
「……」
そこで腕まくりをしてガッツポーズ。意気込む詩子の顔をじっと見る茜。
「なによぅ、さっきからその目は?」
「…詩子は相変わらずですね」
「へ? 何よそれ?」
「これからもずっと、変わらない詩子でいてください」
「はぁ? どういう意味なのよそれ?」
「言葉通りの意味です」
「うーん…気になるけど、茜のその笑顔に免じて、これ以上は訊かないことにするわ」
雲が晴れたように、茜の表情は清々しかった。
本人でさえ忘れていた、何年ぶりかの明るい笑顔。
「ありがとう」
茜は詩子に聞こえるかどうかの大きさの声でそう呟いた。
(…浩平さん。貴方のおかげで私は、前に向かって歩くことができそうです)
そして茜は照れた表情をしながらちらりと、浩平の席の方を見つめていた。
――食堂では、澪と浩平が同時にくしゃみをしていた。
(…くしゅん、なの)
「あれ、風邪か…?」
「ダメだよ2人とも? わたしみたいにもりもり食べてスタミナをつけないと!」
「いや先輩の場合、量が半端じゃないと思うけどな…」
「そうかな? これくらいが適量と思うけど?」
「………」
キッチンの大釜の中身は既にすべて空になっていた。おばちゃん達も、とっくにへとへとになって疲れている。
みさきは食欲を満足させると、お腹いっぱいというVサインを出す。
今日みさきが完食した皿の枚数は、のべ数百を超えていた。
その様子は写真にしっかりと収められ、本人のインタビューと共に高校学級新聞の第一面を堂々と飾ることとなった。
みさきの存在が"神話"となる日も、そう遠い未来の話ではなさそうだ――――
――その雨は、翌朝まで降り続いていた。
今朝も茜は、この空き地までやって来ていた。
だけど今日の茜は、いつもここに来る時とはどこか違っていた。
視線に宿る、迷いと決意の色が混じった瞳。
強い雨足の中。茜は清涼に澄んだ瞳を、厳かにその場所へと向ける。
それはまるで、そこにいるはずの誰かに語りかけるように。
彼女は、過去の想いを反芻していた。
………………………
………………
………
辺りに降り注いでいた雨は、もうすっかりと止んでいた。
傘を閉じると、憂いの籠もった瞳でこの雨雲の残った朝空を見上げる、彼女。
その眼差しの意味は彼女だけにしか分からない。
雨宿りを終えた小鳥たちが、さえずりの声とともに羽ばたいてゆく光景。
雲の切れ間から、朝露にぬれた陽光がゆるやかに射し込む。清涼な風が、彼女の頬をそっとなでていた。
「…いってきます」
茜はその誰かに向けて静かに、そしてはっきりとそう口にすると、雨の止んだこの空き地を跡にした。