MIO 〜輝く季節へ〜
第17話 『焦燥』
そういえば――と、澪は通学路を歩きながら考えていた。
(まだ肝心の浩平君と、らぶらぶになれていなかったの!!)
今までは妹分である繭の教育と、ライバル達の始末のことばかりを考えていた澪であった。
そのため、もっとも彼女にとって肝心な――浩平との逢瀬のことをすっかり失念してしまっていたらしい。
一度落ち着いて考えれば、簡単に気づけたことなのに…と、澪はほぞを噛んでいた。
まさにそれは、"灯台もと暗し"といったところか――――
(このままだとまずいの。いくら浩平君に近づくライバル達をこの手にかけて、たとえ何人を闇の底に葬り去ったとしても、大好きな浩平君が私に振り向いてくれないと全く意味がないの!!)
澪はそんな危険な焦燥にくれていた。
それ以前に、澪はもっとも肝心なことを見落としていたのだが。
彼女の凶悪で恐ろしい小悪魔の本性に、浩平がもし気づいてしまえば――!!
――今日も澪の拳は絶好調だった。
吹き荒れる風が、その周り一帯を塵へと消し飛ばしたのは僅か一瞬の出来事だった。…つまりはそういうことだ。
間もなくして、彼女は通学路への歩みを再開した。
彼女の立ち去った辺り一面に拡がる朱色に染まった無惨な迷彩模様が、その一部始終を如実に物語っていた。
澪の両手からは、深紅の液体をひたひたと滴らせながら。
(そんなことは別にいいの)
…全然よくないのだが。
(早く浩平君と一緒になれないと、後から後から浩平君に近づく女達が…)
澪はその心の中で、徐々に不安を募らせていった。
(浩平君はとても甲斐性なしだけど、それでも何故か周りには沢山の綺麗な女の人が寄ってくるの)
不安の消えない心は、さらなる不安を呼び覚まし、それはやがて大きな危惧へと膨張していく。
(浩平君のまわりには綺麗な女の人が沢山。優柔不断な浩平君、ついに一人だけを選ばずに、みんなと仲良くしていって――)
しかも想像力の旺盛な澪のことである。澪の抱いた想像は、彼女自身の顔色に徐々に赤みを帯びさせていく。
それが澪のレッドゾーンに突入するまで、そんなに時間はかからなかった。そして。
くら〜〜っ。
ばたん。
――と。この娘はいったい何を考えていたのか。
自ら描いた妄想に目眩を起こし、彼女はそのまま失神してしまうのだった――――
「あら、目が覚めたみたいね」
(ん……)
――次に目を覚ました澪の視界には、真っ白な天井が映った。
そして気がついたとき、澪は学校の保健室のベッドの上にいた。体を起こすと澪はぱちくりと目を開いて、彼女に声をかけてくる女性の方を見た。
澪を心底呆れた顔で見ているその女性は、澪の学校の保険医である。
年齢は20代半ばと言ったところか。
目鼻がすっきりと整った端正な顔立ちをして、肩口まで伸ばした髪はウェーブをかけてまとめてあり、きっぷのいい姉御肌を思わせる物腰が印象的だった。
「あなたが学校のそばで顔を真っ赤にして倒れてたって、担任の先生から聞かされたときは流石に驚いたわよ。『またか』ってね」
彼女はため息をつきながらそう言った。
澪がこうして路上で倒れたケースは今までにも数多くあり、次に目を覚ました場所が病院のベッドの上であったことも珍しくなかった。
その原因は、今朝のように妄想の渦に巻き込まれて…なのだが。
澪がこうして倒れる度、この保険医の女性が電話で呼び出され、その対応に追われることを繰り返していく中、2人はすっかり顔なじみになっていた。
最初は澪は意固地になり、なかなか胸の内を明かすことはしなかったのだが、何度かそうしているうち、ツーカーとまでは行かないが澪はこの保険医の女性に対し、胸の内を明かせる関係になっていった。
「昼休みの時間まで寝ているなんて、いい身分よね澪ちゃん」
保険医の女性はそう言ってデスクの上からメモ用紙の束とペンを持ってくると、そのままベッドに座る澪に手渡した。
「――で? 今日もまたいつもの"あれ"かしら?」
『先生には関係ないの』
「関係あるわよ。ちゃんと原因を取り除いておかなきゃ、またいつ倒れてここまで運び込まれるか分かったものじゃないでしょ?」
(う……)
それを言われると、澪には返す言葉がなかった。
流石に過去に何度も面倒を看てもらっているからだろう。そこにどこか負い目を感じる部分があってか、澪はそのまま俯いてしまう。
あの澪が、やけにしおらしい態度ではないか。
そして思い切ったように、澪はメモ紙にペンを走らせる。
『でもやっぱり恥ずかしくて、とても言えないの』
「やっぱり恋の悩み? あの浩平クンって子がなかなか振り向いてくれないからとか、そういうことでしょ?」
(!!)
あっさりと図星を突かれ、身体を一瞬強張らせる澪。
その様子を見逃すことなく捉えた保険医はなるほど、と頷いて、
「そっかそっか〜。初々しいなぁ澪ちゃんは」
澪の肩に手をやりながら、けらけらと声を弾ませながら笑っていた。
「いま、まさに青春真っ盛りってわけだ。先生応援しちゃうぞ?」
『かわかわないでほしいの!』
ほっぺを指でうずまきの形に弄られながらそう言われて澪は、顔を真っ赤に染めながらそっぽを向いてしまった。
「まぁ、そうねぇ…」
顎に人差し指をそっと当て、少し考えるようにして彼女は言う。
「恋はいつだって直球勝負よ。ああなったらとか、こうなったらとか、うじうじ考えていたら駄目。彼氏のことが好きなんでしょ? なら思い切ってアタックしなきゃ!!」
そして握り拳を決める彼女。
(ふん…)
しかし澪はそんな言葉に聞く耳を持たないように明後日の方向を向きながら、終始ベッドの上でぶーたれていた。
「また倒れるくらいに悩んだ時は、いつでもいらっしゃい〜」
(もう来ないのっ!!)
もうすっかり癇癪を切らしてしまった澪は、ハンカチを振りながら見送る保険医の姿を振り返ることなく、ずかずかとした足取りで保健室を後にした。
(まったく。この私、一生の不覚なの)
――澪はいつにも増して機嫌が悪かった。彼女は人一倍、説教を受けることが嫌いなのである。
もっとも彼女の場合、そのうちの半分は照れの気持ちから来ているのだろうが。
どしん。
突然目の前が真っ暗になる。それと同時に誰かとぶつかった感触がした。
(誰なの。廊下のそんな所で立っていたら、ぶつけられても文句は言えないの)
ぶつけた弾みで赤くなった鼻を手で押さえながら澪は、目の前に立つ相手を問い質す。
(そんなところで立ち止まって、かよわい乙女が怪我でもしたら、どう落とし前をつけるつもりなの?)
かよわい乙女のイメージから、およそ遙かに遠いだろう、澪のセリフ。
(…やいやい! 何とか言ったらどうなの!?)
「あ、ごめんね」
しばらくしても返事がないために、ついに堰を切らした澪は、怒気を振りまいて少年に因縁をふっかける。
それでやっと気が付いたのか、振り返った少年は澪の痛そうにする顔を見ると、左手でゆっくりと髪をかき上げながら舌をちろっと出して微笑んだ。
(そんなスマイルを見せられても、この私は誤魔化されないの…って、お前は…)
澪はその少年に見覚えがあるのと、過去の記憶の糸をゆっくりと辿る。
すると。
(お前はこの間の、電波のお兄さん!)
「おや、君とは前にも会ったようだね」
(こんな所で、いったい何をしているの?)
「うん、ここから彼のことをじっくりと見ていたのさ」
(彼って?)
言うと澪は、シュンが廊下の角から覗き見るように視線を移したその場所を見た。
(! 浩平君なの)
そこには浩平の姿と、その隣で一緒に雑談している長森の姿があった。
(おのれ長森瑞佳、相変わらず浩平君にべったりなの……)
「…そうか、君も彼のことが気になるんだね?」
(浩平君は私だけのダーリンなの! 気になるのは当たり前なの!)
澪はそう言ってふん、と大きく息をつく。
(…!?)
と同時に、彼女の脳裏にはとある一抹の不安がよぎるのだった。
("も"って、まさか――)
澪の額から、ひと筋の冷汗が滴る。
「実は僕も、彼のことが少し気にかかっている…」
(!!!!)
シュンが視線を落とし、憂いの籠もった表情で呟いた一言に、澪は瞬時に凍りついた。
「彼…浩平君は一見笑っているように見えるけど、その瞳の色はしかしどこかで、うつろう寂しさの影を漂わせている。
彼の目は、もう決して手に入らないと心が理解した、失ってしまった何かを敢えて求めるような、そんな虚ろな輝きをはらんだ目だ。
…僕は知りたいんだ。
彼の心が何を欲して"ここ"を彷徨っているのか。そして彼自身の心の内に潜む苦しみの枷を。
もしそれができるなら、僕は親友として彼の側でその心に開いた空白を埋めてあげたい。
そのために、僕は今こうして彼のことを見ている」
(………)
すっかり放心状態になっている澪をよそに、シュンは話を続ける。
「彼にとっての、安息の地がどこかにあるのならば――
そこでは何の不安も苦しみも起こらない、久遠(くおん)の安らぎを約束された大地。
もしそんな場所が本当にあるのなら、僕は彼をそこまで導いてあげたい。
浩平君の乾いた瞳の奥を見つめていると、僕の胸はまさに締めつけられる想いだ…!!」
その双眸から切なそうに涙の輝きを洩らしながら、自分の胸に手をあててぐっと握り締めた。
(こ、このお兄さん…"そういうタイプ"の人だったの……)
駆けめぐる妄想の渦の中、澪はシュンをそのように位置づけることにした。
驚愕をしながら彼女は、がたがたと震える足で彼の前から少しづつ距離を開けていく。
「? …どうしたんだい、そんなに怖がったりして?」
(よ、寄るななの!)
差し伸べるシュンの掌を、まるで獣(けだもの)を見るような目をして振り払う澪。
「?? そうか、僕は相当嫌われているみたいだね……」
そう落胆して溜め息を吐くと、シュンは澪から視線をはずして廊下を立ち去ろうとしていた。
(ま、待つの。よく考えてみたら…)
澪は一歩立ち止まって考える。
(この電波お兄さんを放っておいたら…このまま、こいつが浩平君に襲いかかったりしたら……)
冷汗がだらり、だらりと流れる。
(まずいの! 浩平君が大ピンチなの!)
澪はこの瞬間、シュンをこの"世界"から始末する事に決めた。
(覚悟なのっ!!)
澪はスカートのポケットから取り出したグローブを右手に填めると、狙うさまシュンに向かって跳躍を開始した。
10メートル弱の距離を寸時に詰める彼女の洗練された力は、シュンの歩く背中を瞬く間に撃ち砕いたかに見えた。
しかし――
「…どうしたんだい?」
その刹那、何が起きたのか。澪には分からなかった。
しかし現実にはこうして、シュンの目の前で澪が転んだ体勢になっていたのだ。
「こんな場所で走ったら、危ないよ?」
何食わぬ顔でシュンは、澪の身体を起こそうと手を伸ばす。
(私の攻撃を、かわされた…なの?)
その拳には、空を掴んだ感覚があった。
確かに、あの変態ムードな電波のお兄さんに向かって私は一撃を放ったはず――なのに、それをかわされた上に、けろっとした涼しい表情――そこに、彼がただ者ではないという予感が駆け巡った。
シュンの手を取って澪は起きあがった。
『とりあえず、言っておきたいことが…』
澪はスケッチブックに書きかけた時。そこにはシュンの姿はすでになかった。
きょろきょろ。
辺りを隈無く見渡しても、それらしき姿はどこにも見あたらない。
(一体何者なの、あの男は……?)
澪の中で、そんな疑念がわいた。
ぎゅっと、グローブを填めていない方の手を握り締める。
その手には、シュンに身体を起こしてもらったときの手の感触が残っていた。
キーンコーンカーンコーン…
そして、まるでその疑問への問いかけすら許さないかのように。
昼休みの終了を告げるチャイムの音が、重々しい音色を伴って校舎中に響き渡った――――