MIO 〜輝く季節へ〜
第16話 『別離』
そして、新たな年の訪れは幕を開いた。
――クリスマスパーティの夜。
浩平の家のベランダで2人は静かに見ていた。月の明かりが街並を蒼白の彩へと照らしゆく中を、粉雪が純白の輝きを放ちながら降り注いでいった、あの神秘的な光の夜景を。
"綺麗"――
見つめている間。それ以外の言葉では、この夜景の美しさを語ることは到底不可能だったに違いない。
そう思わせるほどにひどく、その夜景は美しく映えていた。
あの夜の時間の記憶は、澪にとってかけがえのない思い出のひとつとして、いつまでも残っていくことだろう。
――しかし澪にはもうひとつ、どうしても忘れられない記憶があった。
『"えいえん"は、あるのかな……?』
それは、あの夜景の中で浩平が呟いたその一言だった。
彼女の耳には、確かにそう、聞こえた。
彼が言ったその言葉自体に、何らかの意味が籠められていたかどうかは分からない。
…だけど。
"えいえん"――――
耳に聞くだけならば、単なる一単語に過ぎないはずのその言葉。
けれど何故か、パーティから帰宅した後になっても澪の脳裏で強く引っかかっていた。
(……)
確かに彼女は、その単語をどこかで聞いた憶えがあった。でもそれがどこで聞いた言葉なのか、彼女ははっきりと思い出せなかった。
幼い頃に読んだ本やテレビなどで聞いた会話の中に、そんな言葉があっただけなのかもしれない。
本当なら、その呟きは聞き流してしまってもよかったことなのかもしれない。でも、どこで聞いたのか気になって仕方がない。
あどけなさを多く残したその華奢な身体の中に、限りなく狡猾で悪魔的とも言えるその頭脳と、こと近接戦に関して並いる格闘家達をもってしても比肩する者がないほどの凶悪な力を持った澪。
そんな彼女であっても――
(…ひとこと多いの)
澪がまるで獲物を射殺すような視線をこちらに向けた途端、撮影カメラのレンズが乾いた音を立ててひび割れた。
この機材、すごく高かったのに。
(うーん、思い出せないの…)
そんなこんなと澪は記憶の糸を辿っていたのだが、ついにその答えは出ないまま、数週間の冬休みは明けていった。
――出会いが起これば、必ず訪れる悲しい出来事がある。
それは別れという名のエピローグ。
彼女達のそんな出会いにも、それは例外なくして訪れた。
「みゅ〜…」
今日は澪達の学校の始業式の日だった。
その放課後。
明日から自分の学校に復学すると言った繭。
その彼女を囲むように、校門の前では澪達が繭との最後の別れの時を惜しんでいた。
「そうか、明日は繭の学校の始業式なのか」
「うん、いなくなっちゃうの…」
(………)
「みゅー、寂しくなるよう」
繭は七瀬の側に歩くと、伸ばした手で長いツインテールのおさげをぐいぐいと引っ張った。
「っ。…まぁ、今日だけは特別よ」
普段ならその途端、怒りだしていた七瀬だったが、もう繭に会えないという想いもあってか、おさげを引っ張られる痛みに耐えながらも七瀬は、寂しそうな表情で繭を見ているのだった。
(…お子様。言っておくことがあるの)
ひと呼吸おいて、澪は繭の目の前までやってくると、真剣な表情をしながら、繭と目を合わせて言った。
「おねえちゃん…」
(こうして私達はお別れになるけど、私が教えてきたことを忘れずに、強く生きていくの)
「うん」
繭は澪の言葉を聞きながら、澪との思い出を少しずつ反芻していた。
澪との思い出を、繭は思い出していた。
大事にしていたみゅーが死んでしまい、一人で泣いていたところを澪は助けてくれた。そうして息を吹き返したみゅーのお礼をいう間もなく、彼女は走り去っていった。
それが、澪との出会いの始まりだった――
――彼女との思い出は、決して楽しいだけのものではなかった。澪の厳しい訓練は本当に容赦がなく、時には泣き出しそうになったことも少なくない。それでも繭は頑張って耐えてきた。
訓練が終われば、澪は繭のために美味しいものを用意してくれたものだ。その時のごちそうが、とても暖かい味がしたことを繭は覚えている。
――また繭が困った時は、澪は必ず力になってくれた。
繭がわがままを言って澪と同じ学校にいたいと言い出したとき、澪はその願いを叶えてくれた。
学校でみゅーがいなくなり、木の枝から振り落とされそうになったみゅーの姿を見たとき、澪は身を挺してみゅーの命を救ってくれた。
そんな、とても頼もしいおねえちゃん。だからこそ繭は、澪に付いていこうと心に決めたのだ。
澪と一緒に過ごしてきた、かけがえのない思い出の数々――
心の中に秘めた、大切な宝物。
繭は目の前にいる澪の表情を見て、その全てを改めて胸の内へと刻み込んだ。
(とても辛いことだって起きるかもしれないけど…それでも絶対に、お前らしさを失くしたらダメなの)
「うん」
繭は澪のその言葉を噛みしめるように、ゆっくりと頷く。
(もし、お前のことを泣かせるやつがいたら、私が駆けつけて必ずそいつの息の根を止めてやるの!)
「…ありがとう、おねえちゃん」
これは、どうつっこめばいいのか。
(…繭)
「みゅ?」
(これは私からの餞別なの。受け取れなの)
そして澪はポケットからブローチを取り出すと、繭の胸元につけてあげる。
(…よし、なの)
「みゅ〜っ♪」
澪につけてもらったブローチを見て繭は大喜びした。
胸元できらきらと輝く、ブローチ。
そんな繭の、はしゃいだ様子を見て澪は小さく微笑むと、自分の胸元に止めてあった、同じ形をしたもうひとつのブローチを繭に見せた。
「おそろいだ…」
(これで離ればなれになっても私達は一緒なの。ブローチを私だと思って大事にするの)
「うん。まゆ、これずっと大事にするね」
繭の満面の笑顔をした。
(これからがお前の新しい出発なの。思い切って頑張ってこいなの)
「うんっ!」
そして繭は力いっぱいに頷くと、踵を返して帰途についた。
「じゃあね〜」
元気良く手を振りながら、繭が帰っていく。
浩平達はそれを見て、繭の姿を静かに見送っていた。
「澪、繭が帰っていくぞ。ちゃんと見送ってやれよ」
…ふるふるふる。
浩平が澪の肩に手をおくが、澪は俯いたまま首を振るだけで顔を上げようとはしない。
「おねえちゃん、ばいば〜い♪」
繭は手を振っている、しかし澪は強く握りしめた拳をぶるぶるとふるわせたまま、繭の姿を見ようとはしなかった。
「おい澪、本当にいいのか? もう会えなくなってしまうんだぞ?」
そういって浩平は澪の肩に片手をそっと触れた、その時。
――ぽたり。
澪の足下に、一滴の小さな滴が落ちた。
「…泣いているのか、澪?」
(……)
繭の姉貴分として、妹の前で泣いている顔を見られたくない。
澪はその意地で、今まで必死に涙を堪えていたのだ。
「そうか、よく頑張ったな。澪」
(!!)
浩平はそう言って、澪の頭に優しく手を乗せる。
そうすることで今まで何とかこらえていた緊張の糸が一気にほぐれたのか。
うわーん。
澪は浩平の上着を両手で掴みながら、しばらくの間その胸の中で泣いていた――――
――翌朝。
部屋の目覚まし時計がベルを鳴らした頃。
(ふぅ。朝なの)
澪は目を覚まし、ベットから降りて支度を済ませると、学校に行くために家をはなれた。
(これであのお子様とは別々に過ごすことになるの。気分が清々するの)
眩しい陽光に照らされながら、澪はそんなことを心に思った。
(…ふん、別に寂しくなんかないの…)
誰に向かって言ったわけでもない言葉をそう言い捨てると、澪は通学路の中をひとり歩いていた。
(繭、お前もがんばれなの)
遠い空の向こうを見上げながら澪は、これからの繭へと向かって心の中でエールの言葉を送った。
それが果たして、彼女に届いたかどうかは――
「みゅ〜っ」
――と。
澪の耳に、そんな声が聞こえた気がした。
しかし澪はかぶりを振って、
(そんなはずないの、繭とは昨日ちゃんとお別れをしたはずなの)
気を取り直してと澪は、大きく深呼吸をする。
「…おねえちゃん?」
再びそんな声が聞こえた。
(また繭の声がするの。起きたばかりだからきっと、頭がぼーっとしているの、しっかりするの)
ふるふるふるふる。
澪は大きく首を振って、頬を両手でぱんぱんと軽く叩く。
そして自分にそう言って聞かせながら、学校へと向かうことにした。
…どしん!
その時、後ろから突然誰かに鋭い角度でタックルされる。
今度は紛れもなく現実の確かな痛みを伴って。
(い、いったい何なの……)
澪はよろけかけた身体の体勢を戻すと、ぶつかってきた相手の方をゆっくりと振り返る。
(…お子様?)
「おねえちゃん、おはよう〜」
するとそこには、繭の姿があった。
繭は澪と目が合うと、元気良く手を挙げて挨拶をする。
(どうして、お前がここにいるの?)
当然の疑問だった。
確かに以前、澪が風邪を引いたとき、繭は一度澪の家にやってきたことがある…とはいえ、この時間にこんな場所で繭に会うのは不自然だ。
見たところ、繭の学校のものであろう制服を着ているが……
もしかして繭は、自分の学校に行くのが嫌になって澪の所に戻ってきたのだろうか?
そんな考えが澪の頭をよぎった。
「まゆのおうち」
澪はそうして考え込んでいると、繭はそう言って澪の家の隣にある一軒家を指さす。
(…へ…?)
何のことか分からなかったので、澪はもう一度言って欲しいのと繭に向かって視線を投げる。
そして、返ってきた一言。
「おとなりさん」
(…………)
ぽかーん。
繭のその言葉を聞いて澪は、口を半開きにしながら、そのまま放心していた。
その言葉の意味をはっきりと理解するまでに、およそ数分の時間を要していた。
――そして。
澪の両手が繭に向かってゆらりと伸びて、それが彼女の肩を包み込んだ。
(そういうことは早く言うの! 昨日の私がバカみたいだったの!!)
「痛いよ、おねえちゃん」
嬉し涙が零れていた。
いつもより数倍の力を込めて澪は、繭の身体をぎゅっと抱きしめる。
それはしばらくの間、続いていた。
(またお前と会えて嬉しいの…)
「く、くるしい、おねえちゃん」
繭は澪の強い腕力をかけたクリンチの締め付けに本気で苦しんでいたが、澪はそんなことなどお構いなしに、意外な形で訪れた繭との再会を心から喜んでいるのだった――――
(これからも私達は一緒なの)
「……うん……」
抱きしめていた繭の身体から澪は両手を離す。
クリンチからようやく解放され、ぐったりと力無く路道に項垂れた繭の手を、離さないようにしっかりと握りしめながら、澪はこれからも変わらないだろう繭との絆を確かめるのだった。
(お子様、学校を頑張ってこいなの)
「いってきま〜す!」
通学路の分かれ道にさしかかり、そして繭は元気に手を振って澪と別れた。
澪はそんな繭の姿を、手を振りながら見送っていた。
(…まったく、どこまでも世話を焼かせるお子様なの)
澪はため息をつきながら、そう心にごちる。
でも、そんな内心で嬉しそうに微笑む澪も確かにそこにいるのだった。
繭の姿が視界の向こうに消えた頃。
澪も新たな気持ちに切り換えると、ゆっくりとした足取りで自分の学校へと向かっていった。