MIO 〜輝く季節へ〜
第14話 『撹乱』
――今日、この日の早朝。
ここに"奇跡"と呼べる出来事が起こった。
"奇跡"――それは、不可思議な因果の課程を介して訪れた現象。
あるいは、常識の範疇を越えて生まれた偶然の中の必然。稀有な巡り合わせによって発生した出来事を指す。
"神の所業"とも呼ばれるそれは、確率論的に言えばまず"ありえない"と言えること。
いくつもの可能性達の中で起こったひとつの現象でありながら、果たして誰がそれが起こる可能性を予想できたであろうか。
そんな、普段では"ありえない"ような出来事が起こる事こそ人は"奇跡"と呼ぶのであれば、
この状況は正にその"奇跡"と名づけるに相応しいと言えよう。
『起こらないから"奇跡"というんですよ』
とある少女が言った、あまりにも有名なこの銘言。
なるほど納得のいく言葉である。
今、我々の眼の前にある"それ"を見ていると、無神論者でさえ神という存在を感じずにはいられない。
その"奇跡"というのは――――なんと、"澪が風邪を引いた"というのだ。
(………)
うーんうーんと。
夕べの雨に打たれた事が響いたか、澪は自分のベッドに仰向けになってうなされていた。
氷のうに入っていた氷もすでに液体に溶けており、39℃の高熱に苛まれる澪の表情は見ていて痛々しい。
当然ながら、今日行われるはずの学校には登校できるはずもなく休みをとっている。
(熱いの、苦しいの…)
澪はうわ事のようにその言葉を繰り返す。その様子は本当に苦しそう。
しかしそれは同時に、ひとりの巨悪の不幸が多くの人々の心に安らぎを与えるものであると実感できる瞬間でもあった。
今までの彼女の行いを考えると、せせら嗤いが止まらない。
あの澪が風邪を引く……なるほど、鬼の撹乱とはよく言ったものである。
(おのれおのれ、好き勝手に言ってくれるの…)
激昂した澪は、棚の引き出しに忍ばせていたシャーペンをダーツのように投げる…が、それは力無く床に落ちる。
その後にも何本か投げているようだが、結果は同じ。
投げるたび、床に落ちるシャーペンが重なっていく。
彼女が普段の力を発揮できないと分かると、今までにやられてきた若手のスタッフ達がそれぞれの得物を手にベッドに立ち向かっていく姿が確認される。
現在、残された人間だけで彼らを抑えることに必死の状態。
そんな澪の部屋は、既に一種の戦場と化していた。
振りかざす武器、彼らの心の叫び、然るべき主張。混然として諸々と連なり続ける乱戦模様。
まさに怒りで怒りを染める修羅達の宴。
確かに、彼等の気持ちは痛いほど解るのだが――――
(うぅ。お前達、後で覚えてろなの…)
そんな我々の姿を後目に、澪はその苛々の感情を抑えつつ、そのままふて寝をしてしまった。
…………………
……………
………
(……クリスマスも近いのに…くやしいの……)
陽もゆっくりと落ちかけて、スタッフ達の騒乱にも一通りの鎮静が見えた頃。
目を覚ました澪は、辛そうな顔をしながらベッドの上から窓の外を眺めていた。
ふと、電話が鳴り響く。
澪はまるでそれを待っていたかのように急いで受話器を取る。
すると電話口からは繭の声が聞こえてきた。
「…もしもし、おねえちゃん?」
(お子様なの? 今日は風邪の所為で構ってやれなくて済まなかったの)
「まゆのことより、おねえちゃんのことがとてもしんぱいだよう」
(心配してくれて嬉しいの…ごほごほっ)
「いまからおねえちゃんのお家に、おみまいに行ってもいい?」
(ダメなの。いま家に来たりしたらお前にも風邪が伝染ってしまうの)
「…えっとね、浩平おにいちゃんも来てくれるんだって」
(!!)
浩平の名を聞いた途端、目の色を変える澪。
まったく現金なものである。
(わかったの、くれぐれも気をつけて来いなの……)
「うんっ! おねえちゃん、またね」
がちゃん。
元気良く受話器が切られる音。
澪の言葉が繭には聞こえていたのかは別として、繭は浩平を連れて澪の家に見舞いにやってくるらしい。
――しばらくすると、ピンポンと呼び鈴が鳴った。
その音を聞くと澪はベッドから無理やり身体を起こし、重い身体を引きずりながらなんとかといった感じで玄関へと向かっていった。
「みゅ〜っ」
「よお、澪」
(いらっしゃいませなの)
ガチャリとドアを開けると、浩平と繭がそこに待っていた。
「澪、調子は大丈夫か?」
『うん、私はこんなに元気にしているの』
訊ねる浩平に澪は、身体に無理をさせながらも浩平達を心配させまいと元気良く浩平に腕まくりをしてみせる…が。
ふらふら〜〜
と体のバランスを崩し、
ぱたん。
澪はそのまま床に倒れ込んでしまった。
「…昨日は悪かった、オレが無理に連れていったばっかりに…」
『気にしないでほしいの』
「おねえちゃん、はやく良くなってね」
『ありがとうなの』
倒れた澪は、浩平に抱きかかえられながらベッドに運び込まれる。
そのことが照れくさかったのか。澪は顔を真っ赤に染めたまま浩平達と目を合わせようとしないまま、鼻柱を指で掻きながら、スケッチブックに黒いマジックを走らせていた。
「えっとね…」
繭は持ってきた買い物袋の中に手を入れて、ごそごそと何かを取り出す。
(んっ、何なの?)
「おねえちゃんに、はやく元気になってもらおうと思って」
そう言って繭が手に取りだしたのは、リンゴの実がひとつ。
それは、繭が澪に食べてもらおうと思い、浩平に無理を言い商店街で買ってもらった物。
「これをかりるね」
そして棚の上に置いてあった果物ナイフを手に取って、繭はリンゴの皮をむき始めた。
そろそろと、慣れない手つきで繭はナイフとリンゴを動かす…。
「うんしょ、うんしょ…」
が、時々変に力が入って手に持つナイフが妙な方向に動いたりと、その様子は見ていて危なっかしい。
「あっ…!」
反れたナイフが手を紙一重で掠め、繭はうっかり怪我をしそうになる。
「おいおい、オレが代わりにやろうか?」
しかしそれでも繭はそんな浩平の手を振りきって、
「…がんばるもぅん」
その一言だけを言うと、繭は再びリンゴの皮をむき始める。
(おねえちゃんのためなんだもん…がんばるんだもん)
一心不乱に真剣な表情で手に持つリンゴとにらめっこをしながら、繭は澪のためにとリンゴの皮をむいていた。
そうして、一枚の小皿には皮むきを終え、食べやすい大きさにカットされたリンゴが並べられる。
リンゴは所々が歪な形をしているが、しかしそれは繭が心を込めてやっていたことが見て分かる。
「さあ、おねえちゃん。召し上がれ」
そう言って繭は、切ったリンゴのひとつに爪楊枝を刺すと、それを澪の口に向かってゆっくりと運ぶ。
シャクシャク。
澪はそのリンゴを、口の中で頬ばるように食べた。
「…おいしい?」
『うん美味しいの。ありがとうなの、繭』
「みゅ〜っ♪」
繭の切ってくれたリンゴの味に感想を述べると、澪は繭の頭にぽんと掌を乗せてあげる。
澪のために力になれたと繭はとても嬉しそう。ほのぼのとした空気が広がっていく。
浩平もそんな2人の様子を見ながら和やかに笑う。
彼女たちはそんな情景の中で、ひとつの幸せを感じていた。
…その後澪たちは、簡単なゲームやトランプなどで遊んだりして、しばらくの間盛り上がっていた。
「じゃあな澪。しっかり寝て早く元気になるんだぞ?」
「おねえちゃんばいば〜い♪」
陽もすっかりと落ちた頃。
浩平と繭はそう言って手を振ると、それぞれの家へと帰っていった。
そんな2人の姿を澪は優しげに見送ると、そのままぐっすりとベッドの上で眠りにつく。
――澪は、繭と浩平の見舞いに元気を分けてもらったおかげもあり、次の日にはすっかり体の調子を回復させることができた。
しかし澪はその晩、奇妙な夢を見ることになる。
――澪の意識が降り立ったそこは、途轍もなく不思議な空間だった。
………。
見渡す限り、果ての見えない地平線。視界の奥が霞んで見えた。
だけど双眸を見下ろせばハッキリと映る、緩やかに緩衝する波打ち際。
その胡乱な水面は、まるで鏡のように澪の輪郭を映し出す。
耳を澄ませば聞こえる波の音。音というよりは、むしろ声のような。
ざあざあと流れるその音は、けれど心に安らぎを与えてくれる響きがあった。
そして何よりも――蒼穹より降り注ぐ、朧ろでいて「何か」を想起させるような――そんな光が印象的だった。
澪はその中を、さまようように進んでゆく。
あてどなく、歩いた。
まるで流浪する旅人のように。
ただそこにあったのは、"そうしなければならない"という感覚。
あるいは錯覚なのか――その真意さえ確かめることを許さないほどの"歩かなければならない"強い衝動――だけどそれは確かに、今の彼女を突き動かしていた。
――そうしてどれくらいの時間を経ったことだろうか。
彼女の歩く先――彼女の見る視界の中――に人影がひとつ、見えた。
"人影"は、ただその頭上に光を見上げるのみで、ただ静かに、何も語ることなくそうしていた。
………。
澪はその人影に、どことなく見覚えがあった。
どこで出会ったのかは思い出せないけど、彼女の中の記憶の断片が『だけど私はこの人を知っている』と、澪にそう直感させた。
澪はそれを確かめようと、その人影に近づこうとそっと足を向ける。
その瞬間。
頭上より降り注ぐ光が突然大きくなり、やがてそれは澪の身体を包み込んで澪の視界を塞いで…しまった。
「…あっ、待つのっ!」
「……」
澪の口から紡がれたその"音声"が、耳に聞こえたためだろうか。
最後に見たその人影が、澪に振り向いたような――そんな気がした。
だが、その姿を澪は確かめることの出来ないまま、彼女の意識は現実の世界へと引き戻されてしまうのだった――――
…………………
……………
………
…
――そして、次の日の朝は訪れた。