MIO 〜輝く季節へ〜
第13話 『接近』




 ――陽の明るみが一段と朱みを増し、放課後の校舎を昏色に照らしゆく中。
 澪はスケッチブックをその両手に抱え、夢見心地で廊下を歩いていた。
 それもそのはず。
 彼女の歩く隣には憧れの浩平の姿があるからだ。

 幼い頃からずっとこうしていたかった。
 それが今、彼女のすぐ傍にいる。
 澪の頬も自然と高揚する、そんな朱の潤いに満たされた澪の表情。
 夕焼けの陽は、まるで彼女の心さえも明るく照らしているかに見えた。
(……♪)
 嬉しそうにする彼女の貌を見ていると、迂闊にも可愛いなどと思ってしまう。
 澪の世界は、そんな彩に染まる廊下の路の上を一歩づつ、ゆっくりと進んでいた。

『浩平君に見てほしいの』
 ある日。澪は浩平に自分が部活動をしている姿を見せたいと言い出した。
 澪は演劇部に所属しており、今は三学期の終わりに行われるという舞台演劇に向けて猛特訓をしているという。
 その部活風景を見せるためにと澪は今、浩平を連れて演劇部の部室に向かっているところだった。

「じゃあ、今日は澪が頑張っている所をじっくりと見せてもらおうかな」
『うんっ!』
 浩平のその言葉に、澪は力強く頷いてみせる。
 まかせるの! とその手にはガッツポーズを決めながら得意げな顔で胸を張って。
「そうか、頑張るんだぞ」
 言って浩平は澪の頭にぽんと手を乗せ、にこやかに微笑みを返す。
 それに心から嬉しそうに破顔する澪。

 …しかし、この時の澪にはまだ気づく由もなかった。
 浩平が澪に向けた、その笑顔の本当の意味を。








『ここが演劇部の部室なの』
 ”演劇部”と書かれたプレートの張られた部室に辿り着いた。
 コンコン。
 と、澪はゆっくりと扉をノックする。

「あら、いらっしゃい上月さん」
 扉ががらっと音を立てて開かれると、演劇部の部長である深山雪見が現れて澪達を出迎えてくれた。

 部室の中に入るとそこは、とても慌しい空間だった。
 春先に行われる舞台に向けて、部員達がせっせと台本や衣装を作る姿。
 配役の決まった部員達で、現在までに書き上がった分の台本で練習している姿などが見られる。
 そんな部室の中は正に足の踏み場もないほど、物という物が散乱しきっていた。

「上月さん、今日も頑張ろうね」
『がんばるの♪』
 雪見の激励に澪は力強く返事をする。
 澪の演技ぶりは、こうした場面でも見事に発揮されているのだった。

「ところで君は誰だっけ? どこかで会ったような気がするのよね…」
 と、澪の隣に立つ浩平の姿を見ると雪見は小首を傾げて訊ねる。
「ああ、オレは…」
「その声は…ひょっとして浩平君かな?」
 浩平が雪見の質問に答えようとすると、ふと浩平の立つ後ろから聞こえた声。
 声の主はみさきだった。

「みさき先輩じゃないか。偶然だな、先輩も演劇部なのか?」
「ううん、私は帰宅部だよ」
「じゃあ先輩はどうしてここにいるんだ?」
「それはね…涙なしには語れない悲しい事情があって……」
「事情?」
 そこまで言うと視線を床に落とすみさき。途端に暗い顔になる。
「ここの部長さんに、借金を返せないならしっかりと身体で払えって…ぐすっ」
 しばらく考え込んだ後みさきはそう言葉にすると、ハンカチを手に涙を浮かべながら悔しそうに臍を噛んだ。
「…あのねみさき、人聞きの悪いことを言わないでくれる? 私はみさきが昼食代を返せないって言ったからこうして働いて返せって言ってるだけよ」
 みさきのそんな話を聞いて雪見は溜息をつくと、心底呆れた様子でみさきを見る。
「雪ちゃん、だって私はいま貧乏なんだよ〜」
「だからって、親友のお金で5000円分も学食を食べる子がいますか」
「う〜…」
 どうやらそういう事情らしかった。

(…身体で払う…)
 ぼっ。
「おい、どうしたんだ澪?」
「澪ちゃんどうしたの?」
 一方想像力たくましい澪。
 みさき達のそんなやりとりを聞くと、やかんを乗せれば数秒で中の水が湯に変わるほど真っ赤に顔を染めてうつむいてしまった。
 彼女の脳内では今、そうしたとんでもない光景が繰り広げられているのだった。
(川名みさき…部長さんと…ぶつぶつぶつ……)
 澪は暫くの間ぱくぱくと、小さく口を動かしていた。
 そうして澪が向こう側の世界を紀行している事しばらく。

「上月さんは純真な子なんだから、あまり変なことを言っちゃダメよ?」
 宥める雪見。みさきはしゅんとしてしまう。それにしても…
 ”純真”。彼女はいったい誰のことを見てそう言ったのだろうか。
 そんな印象を持つ上月という人物など、この部室のどこを見渡してもいないように思うが…?

「それで折原浩平君だったかしら、用件は何なの?」
 …救急隊が駆けつけ現場のひと仕事を終えた頃。
 まるで思い出したように雪見は視線を浩平へと移し訊ねた。
「ああ、それは部活の見学を…」
「澪ちゃんのためなんだよね?」
「!」
 浩平の言葉に割り入るように、そう言って悪戯っぽく笑ってみせるみさき。
「な、突然何を言い出すんだ先輩?」
「だって浩平君。澪ちゃんと話してるときは嬉しそうにしてるし、それに食堂じゃいつも澪ちゃんと向かい合うように座ってるし…」
「あのな、それはな先輩…」
 何故か狼狽えた様子の浩平に、みさきは追い打ちをかけるように言葉を続ける。
 その様子はどこか楽しんでいるように見えた。

「ふんふん、なるほどなるほど…」
 2人の会話を聞いて、雪見はしばらく考え込む様子を見せる。
「いいわよそういう事なら。しっかりと上月さんのことを見てあげてね?」
 すると何かを納得した様子で、雪見は浩平にあっさりとそう言った。





 ――そして、澪の今日の部活動は始まった。

 澪は雪見から台本の冊子を渡されると、頁をパラパラと捲りながらじっくりとその中身を読んでいる。
 話によると、澪はどうやら舞台の主役を仰せつかっているらしい。

「澪はいったいどんな役になるんだ?」
『それはあとのお楽しみなの』
 訊ねる浩平に、ちろっと舌を出して澪は答える。
 浩平が相手といえど、澪はまだ手に持つ台本を見せたくないようだった。
「ちょっとくらい良いじゃないか、台本を見せてくれよ?」
『だめなの〜♪』
 浩平が澪の持つ台本に手を伸ばそうとすると、澪はひょいと手を動かしてそれをよける。
 さらに浩平が手を伸ばすと、澪は再びそれをよける。

 しばらくの間それは繰り返す。
 そんな2人の光景を端で見る他の部員達は、思わず微笑を洩らしていた。





 ――部活動の時間が終わる。
 正確には一部の部員達にとっては、だが。

 まだこの時期、小道具の製作班以外の部員は軽い打ち合わせを行う程度で終わるため、
 あれから小一時間ほどしか経過していないこの時間。
 配役を務める澪達はここで今日は解散となる。
「お疲れさま。また明日も頑張りましょう」
 雪見がそう言って締め括ると、半数くらいの部員達が鞄を持って帰途についた。

「じゃあ俺達も行くか澪」
『うんっ』
 それに続いて浩平達も家路につこうとすると。
「えっと折原君だっけ? 君にちょっと話があるの」
 雪見によって浩平は唐突に呼び止められた。

「んっ、オレに何か用があるのか?」
「もしもその気があればだけど…うちの部に入ってみるつもりはないかしら?」
「入部だって?」
「ええ、君にはぜひ…」
 訊ねると雪見は真顔でそう答える。
 そして澪が他の部員達と話をしている所を確認すると、雪見は浩平の耳もとにそっと顔を寄せて言った。
(君が一緒にいてくれると、上月さんはすごく落ち着いてくれるみたいなの…)
(あの子、普段はものすごく鬱いだり暴れたりして手に負えないのよ)
(えっ、あの澪が? 信じられないな…)
(本当の話よ。彼女は君とは特別親しそうにしているみたいだったから、こっそり教えてあげるんだけど)
(……)
 思わず口を閉ざしてしまう浩平。
 そんなひと通りを話すと、雪見は浩平からそっと顔を離した。

「とにかく澪ちゃんも君のことをすごく気に入っているみたいだし、部にとっても戦力になると思うのよ」
『浩平君、無理にとは言わないの。もしよかったら演劇部に入ってほしいの』
 雪見の言ったその言葉に続いて、澪もそう書いたスケッチブックを浩平に見せる。
「上月さんもああ言ってくれているんだから、考えておいてね?」
「…ああ、わかったぞ」
 それだけを返事に返すと、浩平は澪を連れて部室を後にした。










「…せっかくだから、どこかに寄って帰らないか澪?」
(えっ?)
 その言葉があまりに意外だったのだろう。
 浩平のそんな誘いに、澪の身体中に一筋の電撃が走った。

 ばくばくばくばく。
 …商店街の中を浩平と隣同士で歩く澪。彼女は緊張の真っ直中にいた。
 心音も普段の4倍(当社比)の速度でバクバクと音を立てて鳴っている。その音はこちらにまで聞こえてくるようだ。
 思ってもみなかった出来事に澪は相当緊張しているようだった。
 彼女は肘と膝を曲げない姿勢のまま、超スローの速度で歩いている。
「どうした澪、そんなに固まったりして?」
 訊ねる浩平に、震える手で持つスケッチブックに断固として『固まってなんかいないの』と主張する澪。

「今日は特別にオレのおごりだからな。何でも好きな物食べていいぞ?」
(!)
 おごってもらえるという言葉を聞いて、澪の目が爛々と輝く。
 先ほどまで澪を襲っていた緊張も一瞬のうちにどこへやら。

 うーんうーんと、澪が頭を捻りながら考え込むこと数十秒。
 そして澪は導き出した結論をそうスケッチブックにしたため、それをにっこりとした笑顔で浩平に見せる。
『お寿司』
「はい、お帰りはあちらから」
 速攻で返された。
(わわっ。冗談なの、冗談なの〜〜)

『それならそれなら…』
 澪はそれならと展望台レストラン、ふぐ料理、ショットバー、料亭などといった”超”がつく程のムーディなスポットを提案するが、そのいずれもが浩平によって却下(一秒)されることになる。





 ――結局、通りがかった喫茶店で落ち着くことになった2人。
 ドアを開けると、カランと軽快なベルの音が店内に響く。

「オレはコーヒーにするか。澪はどれにするんだ?」
『これがいいの』
 浩平に訊かれると澪は、メニューの中の店で一番大きなパフェの写真を指さす。
「ああ、じゃあそれにするか」

 やがてカウンターの方から、注文したものが運ばれてきた。
「…確かにこれはジャンボだな」
 澪の目の前に置かれたパフェのあまりの大きさに唖然とする浩平だが、澪は目を星のように爛々と輝かせていた。
『いただきますなの☆』
 はむはむはむ……
 銀色のスプーンを片手に遠慮も恥じらいも感じさせず、
 ただ元気良く目の前のパフェを口の中に入れていく姿は、澪らしいと言えば澪らしい。

「ほら澪、ほっぺたに生クリームがついてるぞ」
 そう言って浩平は澪にハンカチを手渡す。
 言われて初めて気がついたようで、澪は頬についた生クリームをごしごしと拭う。
 そんな澪を見て、浩平はやれやれと溜息をつきながら苦笑していた。








 ――そんなひとときを過ごして。

 店を出てしばらく歩いていると、辺りをぽつぽつと雨が降り始めた。
「まいったな…傘なんて持ってきていないぞ」
 この程度の小雨なら大丈夫と思い、雨宿りもせずに歩くも予想以上に雨足が強まっていき、2人は雨にずぶぬれになってしまった。
「仕方ない…ここからオレの家が近いんだ、しばらくそこに避難しよう」
(!!!)
 浩平が唐突に言ったその言葉に、澪の目が大きく見開く。
 これから浩平の家に行くことができる。
 そう思うと澪の心臓が早鐘を鳴らした。
(…ふ、ふつつか者ですがよろしくお願いしますなのっ!)
「?」
 澪が浩平にそうお辞儀をする。浩平は頭に疑問符を浮かべたままで。
 2人は浩平の家へと足早に駆けていった。





(お、おじゃましますなの)
「とりあえず、これで身体を拭いてくれ」
 浩平の家に入ると、浩平にバスタオルを渡される。
 タオルを受け取るもがちがちに緊張した澪の手は、雨にぬれた自分の身体を拭くことさえままならないようだった。
 とりあえずとタオルを頭にかぶりながら、ちらりと浩平の顔を見る。
「ん、どうしたんだ澪?」
『なんでもないの』
 浩平と目があうと、澪はぶんぶんと慌てて首を振る。

 どきどきと鳴る胸がおさまらない。
 こんな自分を浩平君に見られるのは恥ずかしい。
 うー、困ったの…
 そう思った澪は思い立ったようにスケッチブックを取り出して。
『浩平君…よかったらシャワーを使わせてほしいの』
「ああそうだな、自由に使ってくれよ」
 それだけを訊くと澪は、どたどたと足早に浴室へと駆けていった。





 ――そして逃げるようにやってきた、バスルームの更衣室。

 澪は脱いだ衣類を乾燥機の中に放り込んでスイッチを押すと、バスルームへの扉を開けて中に入った。
 きゅっと蛇口の開く音がすると、温かいシャワーが雨に冷えた澪の身体をゆっくりと温めはじめる。

(…浩平君の家の中にいるの、ものすごく緊張しているの…)
 シャワーから降り注ぐ湯の音がバスルームの壁を跳ねる中、
 澪は浩平に借りた石鹸とタオルで身体を洗いながら、あれやこれやと想いを巡らせていた。
(でも、これはチャンスなの…)
 思えばいきなりの急接近。
 成りゆきとはいっても、今確かにこうして浩平の家でシャワーを浴びている……
 予想外に訪れたこのシチュエーションに、澪自身驚いていた。

(思い切って、私……)
 シャワーを浴びる澪の身体は次第に火照りを増してゆく。
 どきどきと脈打つ胸の鼓動が、そこに両手を当ててもおさまり切れず、文字通り澪の心を締め付けていった。

(…待っているの浩平君。そして私の心からの想いを受け止めて欲しいの!)
 掌をグッと握り締めて、澪は覚悟を決める。
 これから浩平に向かってアタックをするために。
 そして澪は浩平との過ごし方を頭の中でシミュレーション。その光景はここではお聞かせできないのが残念である。
 若干常識の欠落している部分も見られる澪だが、そんなことは彼女の脳内補完によってカバーされるというもの。
 今の彼女にとって、そうしたすべては些細である。

 そして、その後には数十もの営みのフルコースを……





 ――と。

(……)
「澪、気がついたみたいだな」
 気がつけば、澪はベッドの上で布団をかけられ横になっていた。
 起き掛けのまだボーっとした頭で澪はきょろきょろと辺りを見渡す。
 どうやらここは浩平の部屋のようだった。
(!)
 見れば自分が寝間着の姿になっていることに気づき、澪ははっとした目で浩平を見る。
「ああ心配するなって。着替えはオレの叔母さんがやってくれたからさ?」
 ……。
『浩平君。さっきは痛かったの』
 顔を赤く染め、潤んだ瞳で浩平の顔を見つめる澪。
 先ほどバスルームで湯あたりをして、その弾みで頭を強く打った為だろうか。
 その目はまったく焦点が定まっていない。
 彼女の意識はまだ完全には回復していないようだった。

「んー、熱はないようだな…」
(!!!)
 不意に浩平の暖かい掌が澪の額に押しあたる。
 掌の感触に澪の体温が見る見るうちに上昇する。澪は身体中が真っ赤に染まっていって。
「…なんだ、やっぱり熱があるんじゃないか…って、おい!?」
(……!!)
 きゅう〜…
 昂ぶっていく意識が遂に臨界点を突破し、澪はそのまま気を失ってしまった。

 ……………………

 ……………

 ……



「おっ、起きたか澪。そろそろ家まで送ってやるよ」
 再び澪が目を覚ましたとき、時計の針は既に夜の十時をまわっていた。
(………)
 澪は寝間着からすっかり乾ききった制服へと着替えを済ませると、浩平と一緒に家を出ることにした。







 ――外に出ると、雨はすっかりと止んでいた。

「もう、すっかりこんな季節だな」
『とても寒くなってきたの』
 冬の冷たい夜風の吹きつける街並。けれど浩平と繋いだ手のぬくもりが温かかった。

 しかしそんな時間もあっという間に過ぎ去る。
 浩平に送られていた澪は、気がつけば家の前に辿り着いていた。

「じゃあな澪、明日学校でな」
『また明日なの』
 澪は手を振って浩平と別れる。
 視界の奥に消えていく浩平の姿を静かに見送っていた。
 その顔には浩平とのせっかくの時間を逃したという後悔と切なさを残しながら。
 俯いたままの表情で、澪は自宅の玄関の扉をゆっくりと開ける。

 そうして、今日の日の夜は明けていった――――



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