MIO 〜輝く季節へ〜
第8話 『宿敵』
――こうして澪は、完全に自信を取り戻した。
雨上がりの晴れた通学路の中を、嬉々とした足取りで歩いてゆく。
見た目こそ純真無垢で元気な澪。
その表情に広がる笑顔は、苦しみの壁を乗り越えた少女に相応しい、新たな強さの証ともいえる。
(浩平君は私のもの。浩平君は私のもの。浩平君は……)
屈託のない笑みを浮かべながら澪は、浩平への本心からの想いをまるで呪詛のように繰り返し呟いていた。
(くすくす。大好きな浩平君のために、あんなことやこんなこと……)
澪はすっかりと元の調子を回復させているようで、そして彼女は心の中であれこれと想いを巡らせる。
そんな彼女の笑みに満ちあふれた貌色を見て、思いの裏でひとつの予感がしていた。
世界は、少しづつ終わりへと近づいている…と。
(………♪)
そう、澪が向けた天使のような笑顔のあと。
早朝から多数の救急車のサイレンが街中に響き渡る騒々しさの中で、今日という日の朝は幕を開ける。
――この瞬間は決して、避けては通れない。澪にとってひとつの決着に対する衝動は起こった。
それは澪が普段より早く起床し、浩平の姿を見ようと彼の通学路を先回りしていた矢先のこと。
そこで浩平の歩く隣を楽しそうにして歩く、その人物の姿を見たからだった。
(…長森、瑞佳……っ!!)
長森瑞佳。
彼女は澪にとって、川名みさきをも越える最大の恋のライバル。
なぜなら浩平と彼女とは、子供の頃から一緒に過ごしてきた幼なじみの間柄である上に、住む家が隣同士なのだから。
そんな浩平達の話す声を聞いて澪は、とっさに電柱の影へと身を隠し、2人の歩調に合わせて彼らの見える死角へと次々に移動しながら、2人の様子を窺うことにした。
その双眸からは、まるで獲物を狩る野獣のような光を放たせて。
「そういえば長森。お前って昔、『だよだよ星人』って呼ばれていたときがあったよな?」
「えっ。そんなことを言っていたのは浩平だけだよ?」
「ほら、語尾に『だよ』ってついたぞ。これで『だよだよ星人』で決まりだな」
「だよだよなんて言ってないもん!」
「今度は『もん』って言った。今日からお前のことは『もんもん星人』って呼んでやる」
「うーっ。わたし、もんもん星人じゃないもん」
「ならどっちが良いんだよ? はっきりしないヤツだな」
「どっちもよくないもん!!」
「よし。それなら2つの間を取って、『だよもん星人』と呼ぶことにしよう」
「やだよ、そんなのーっ…」
(…くっ、長森瑞佳め羨ましいの。もし私が今、浩平君の隣で話をしていたら……)
澪はそんな2人の仲睦まじく歩くその様子を見ながら、”もし自分がそこにいたら?”という状況を頭の上に浮かべてみた。
「そういえば澪。お前っていつも、言葉の最後に『なの』って付けるよな?」
『うん。そうなの』
「じゃあ、今からお前のことは『なのなの星人』って呼んでやる」
『えーっ。私、なのなの星人じゃないなの!』
「ほらまた『なの』って付けた。これでお前のことは『なのなの星人』で決まりだな」
『そんなの、いやなのーっ…』
…ぶんぶんぶんぶん。
澪は、今浮かべた情景を頭をぶんぶんと振って追い払う。
(なんだかイヤなの…)
はぁはぁと息を切らして手に持つスケッチブックを両腕で抱きかかえながら、澪はその場で悶え苦しんでいた。
その間をつかせず、浩平達は歓談を続ける。
「そうだ長森。今度デートに誘ってやろうか?」
「えーっ。そんなのダメだよっ!」
「オレとデートするのがそんなに嫌なのか?」
「そうじゃなくて。ほらっ、体裁が悪いっていうかぁっ…浩平のことを好きな人とか、勘違いしてショックを受けちゃうよっ…」
「オレは別にかまわないけどな?」
(!! …………………)
ここにばっちりショックを受けている人が1人。
ぽかーんと小さな口を開けて。放心状態の澪がそこにいた。
「あ、でもでもっ」
「なに?」
「デートじゃなかったら、いいよ?」
「ふたりでどっかに行くのか?」
「うんっ」
「それってデートだろ」
「違うよっ。ただふたりで遊ぶだけだよ」
「立派にデートって思うけどな…」
「そんなことないってばっ」
そうして2人は学校の校門まで辿り着き、そのまま校舎の中へと入っていった。
(…………)
めらめらと。
わなわなと。
すっかりと怒りゲージをMAXにさせた澪の身体から、炎のようなものが吹き出した。
(おのれおのれ長森瑞佳…お前だけは絶対に、この私が直々に引導を渡してやるの……)
周囲にその炎によって黒く焦げつく跡をつけながら。
(私だけの浩平君をたぶらかす女は、誰であっても絶対に許さないの……)
澪は長森に向かい地獄の業火のような嫉妬の炎をたぎらせて。
(ふふふふふ。私を怒らせたことの報いを、たっぷりと思い知らせてやるの……)
澪のハートはまさに、リミットブレイクのまっただ中にあった。
こうなってしまった澪を止める方法は、もはやこの世には存在しない。
あまりに一方的で、あまりに理不尽な怒りの炎を纏った彼女の姿。
戦慄の予感は、こんなにも早く訪れた。
キーンコーンカーンコーン……
そして校舎から。
それはまるで死合いの開始を知らせるゴングのように。
始業のチャイムの音が、重々しく辺りに鳴り渡った。
――そうして、授業が行われているはずの時間。
澪はグラウンドに生えた木の枝の陰から、双眼鏡で浩平達のいる教室を覗き見ていた。
その目的はもちろん、折原浩平や長森瑞佳の様子を見るために。
(むむむむむ〜……)
教室内の様子をくまなく観察しては、長森達の一挙一動の様子までもを澪は逐一メモに書き込んでいく。
…一方、澪の教室では。
「みゅ〜っ♪」
澪の姿に変装した繭が、澪の席で嬉しそうに絵を描いていた。
――授業中。
(浩平君の凛々しい横顔もステキなの…あんな表情で見つめられたら、私……)
澪は浩平の授業を受ける風景を、頬を紅く染めながら見つめ。
「…?」
何者かの視線を遠くに感じたか。
浩平は澪のいる木の方へと視線をうつす。
(あぁ、浩平君…そんな……いきなりなんてずるいの……)
と。
振り向いた浩平の視線に、澪はくらくらと恍惚の世界に旅立っていたり。
――休み時間になれば。
(………)
長森が浩平と他愛のない話をする姿。
それを見て呆れる七瀬。
無言のまま、席から一歩も動かずにいる茜の姿などが教室にうつる。
(ええい住井護。浩平君の姿が見えないのっ!!)
住井の顔に隠れて肝心の浩平の姿が見えない、と。その様子を見る澪は地団駄を踏んでいたり。
そんなこんなで。
その日の午前中、授業と休みの時間を問わず、澪による片時も放さぬ偵察は続いた。
――そうして昼休みの時間。
(作戦は、第二段階へ移行なの……)
澪は登っていた木を降りると、浩平の教室に向かうことにした。
(浩平君のクラスの授業風景は良く分かったの。あとは長森瑞佳に直にあって…ふふふふふ)
天使のような可愛らしい姿をした澪の放つ邪悪な笑みは、これからそこで起こるであろう血の惨劇の到来を如実に物語っていた。
澪の周りを、どす黒いオーラがじわじわと包み込みながら。彼女はその標的となった長森のもとへと向かう。
(あれ? いないの)
教室へ辿り着き、澪はきょろきょろと辺りを見回す…が、長森も浩平の姿もどこにも見あたらなかった。
(おかしいの…)
2人ともどこに行ったの? と澪が考えていると。
「おや、澪ちゃんじゃないか」
突然そんな声をかけられる。振り向くと、その声の主は住井だった。
(げっ。住井護なの……)
住井の顔を見て澪は、一歩また一歩と後じさる。
「この教室で会うなんて珍しいね。どうしたんだい?」
そんな澪の心情はお構いなしに、住井が優しい視線を向けて澪のもとへと歩いてくる。
その光景は、澪にとっても恐怖以外の何ものでもない。
長森に向けて殺気をあらわにしている今の澪である。その長森が見つからない今。彼女の殺爪が直ちに住井のもとに向けられないとも限らないからだ。
無意味・無益な殺生は避けるべき、と。
澪はいま、身体中に湧き起こっている殺意の衝動を抑え込むことに必死だった。
『長森瑞佳さんはいませんか? なの』
澪は明るく努めた笑顔でスケッチブックに大きな字でそう書いてから、それを住井に見せる。
書いたところの”さん”の部分にだけ、後から小さく挿入された跡がついていた。
「長森さんなら、折原と一緒に教室の外に出ていっちゃったかな?」
(ちっ…)
住井の返事に誰にも聞こえないように小さく舌打ちを鳴らすと、澪は教室を離れようと身体を翻す。
「もしよかったら、オレが一緒に長森さんを探してあげようか?」
『ありがとうなの』
そこで住井から優しい申し出を受けるが間髪を入れず。
澪は住井のその言葉にお礼だけを述べると、教室を足早に走り去っていった。
――結局。
澪は校舎中のあちこちを探しまわるも、浩平達の姿はどこにも見つからずにいた。
(はぁはぁ…ふたりとも、どこに行ったのかなの……)
血走った目で辺りを見回しながら澪は、なおも校舎を徘徊し浩平達のことを探し回っていた。
喧噪に満たされた廊下でそれぞれの話に興じる生徒達は、そんな状態の澪がやって来た途端、まるでその歩調に合わせるようにゆっくりと廊下の両脇へと分かれていく。
そうして澪が歩いていった先。そこでようやく彼女は浩平の姿を発見した。
「よぉ澪…って、どうしたんだいったい?」
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……
澪は浩平の目の前まで歩くと、はぁはぁと息を切らせたまま浩平の顔を上目づかいに凝視する。
(長森瑞佳がいないなの…)
そして澪は、ぎょろぎょろと浩平の辺りを見まわすが、長森の姿は見あたらない。
さすがの浩平も、このときばかりは額から冷汗を流しながらたじろいでいた。
…どくん。…どくん。
その心音は自分自身ではっきりと聞き取れるほどに。澪のその異常な様子と視線に、浩平を極度の緊張が襲う。
今の浩平には、1秒の間がどれだけの長さに感じられたのだろうか。
少なくとも彼にとって、この場の空気は酷く重く感じられたに違いない。
キーンコーンカーンコーン……
そして、まるで悪夢から救いの手が差し延べられたかのように。
昼休みの終わりを告げるチャイムの音が辺りに響き渡った。
(せっかく浩平君に会えたのに…悔しいの)
そのチャイムの音を聞いて澪は、がっくりと肩を落とす。
澪は仕方ないと溜め息を吐き、浩平にばいばいと手を振ると、とぼとぼとした足取りで教室へと戻っていった。
いっぽう浩平は冷汗を垂れながらしばらくの間、そこで立ち尽くしていたのだった……
――そして、放課後。
(長森瑞佳め。いつも浩平君の側にいるなの……)
澪は浩平達のいる教室へと向かい、廊下の隅からふたりの様子を覗き見ている。
「浩平っ。明日から始まるテストは大丈夫なの?」
「…ああ、バッチリだぞ」
「いま、微妙に間があいてたよ?」
「そ、そんなことはないぞ」
「はぁっ…。浩平がそんなだから、わたしは心配だよ」
「オレにはオレなりのやり方があるんだからな。別に長森の世話にはならないぞ」
「…わたし、決めたよっ!」
「ん、なにをだ?」
「今から浩平の家で一緒にテスト勉強をするよっ。家は隣同士だから、時間のことは気にしなくてすむしっ!」
「ま、まじかよ…」
「うんうん。解らないところはわたしが教えるし、夕ごはんはわたしが作ってあげるし。浩平にとってすごく大助かりでしょ?」
「勘弁してくれ……」
――そうしてふたりは浩平の家に辿り着くと、さっそく浩平の部屋へと入り、テストに向けての勉強会を始めることになった。
「さあ、テスト範囲で分からないところはどこかな浩平?」
ニコニコとした表情を向けながら、浩平に訊ねる長森。
「ふん。このオレに分からないことなんて何もないぞ」
そう言って得意げな顔で長森に返事を返す浩平。
「そう? じゃあわたしが分からないところをどんどん質問しようかな?」
「げ…それはちょっと……」
長森の追い打ちのひとことに、浩平は身じろぐ。
「…ぐはっ、急に持病の咳がっ」
「浩平に持病なんてなかったでしょ? ばかやってないではやく勉強を始めるよっ!」
「くっ、ばれたか。さすがは長森だな。完敗だぜ…」
「はぁっ…わたし、ときどき浩平のことがわからなくなるよ……」
(…うぬぬぬぬぬ……)
浩平の部屋の扉の前にぴったりと張りついて、ふたりの様子を立ち聞きしている澪。
その手には用意周到にも集音機とボイスレコーダーが握られている。
その様は立派に……
(おのれおのれ長森瑞佳っ。もしも私が浩平君と一緒にお勉強をしているなら……)
…澪はそこでひとり静かに横たわるスタッフを見下ろしながら、自分が浩平と一緒にテスト勉強をしている光景を思い浮かべてみる。
……そうして澪が自分の世界に旅立つこと数十分。
(もう…浩平君ったらそんな。とっても大胆なの……♪)
澪が彼女自身の世界の中でいったい何を見、何をしてきたのか。
その事についてはあえて何も問うまい。
「あっ浩平っ。そこは……」
ふと。浩平の部屋からそんな声がもれてくる。
(…?)
突然の中の様子の変わり様に、澪は慌てて聞き耳を立ててみる。すると。
「いいじゃないか長森。そのためにわざわざここに…」
「ち、ちがうよ浩平。わたしはそんな事ひとことも……」
「人間、正直なのが1番だぜ」
「浩平っ……」
…ぶちぶちぶちぶちぶち。
2人のそんな慌ただしい会話を勝手に盗み聞いておいて何を思ったか、澪の身体中の血管という血管が小気味よくぶち切れていく音。
そして。
(こらーっ。2人してそこで何をしているかーなの!!)
勢いよく部屋のドアを開けて、澪は浩平達に向かって怒気を放つ。
が。
「澪? どうしてここに…?」
「…澪ちゃん?」
ふたりとも驚いた目をして澪の方を見る。
そこには、テーブルに向かってプリントを広げる浩平と長森の姿があった。
『2人とも、ここでいったい何をしていたなの?』
きょとんとした目をして、澪がそう浩平達に訊ねる。
「いや、このテスト範囲のプリントがなかなかくせ者でな。分からないって悩むこいつの手助けをしてやってたんだが…」
「違うでしょ浩平。分かってないのは浩平の方で、わたしがじっくりと解き方を教えてあげてたんでしょ?」
…勘違い。しかも極度の。
澪は恥ずかしくなって、顔を赤くしてうつむいてしまった。
そして。
…とすとすっ。
「!!」
「!!」
証拠隠滅のため。澪は浩平と長森の額の中央に、氣を乗せた指拳を打ち込む。
ふたりはそこで意識を失って倒れた。
澪は、2人が目を覚まさないうちに浩平の部屋を離れ、自分の家に向かって一目散に駆けていくのであった。
そしてふたりは。
「…あれ? わたし達、さっきまでここで何をやっていたんだろう?」
「誰かここに来ていたような気がしたけど…?」
「まさかっ。そんなことより勉強の続き! 一緒にがんばろっ!!」
「わかったわかった…」
さっきまで何があったのかをまるで憶えていない様子で、ほどなくしてテスト勉強を再開するのであった。
――翌朝。今日はテストの日だった。
「それではテストを始め…」
(とおぉりゃあぁぁーーーーーーーっっ!!!!!!)
試験用紙を配られテスト開始の合図が行われたと同時に澪は、怒濤の勢いで解答用紙に答えを書き込んでいく。
コンピュータのような速さと正確さでシャープペンシルを走らせるその姿は、修羅の鬼の姿をも思わせる。
いつもは8〜9割ほどの点数になるよう『調整』して解答を書き込んでいる澪だが、今回ばかりは普段の余裕がなかったらしく、これによって全科目満点という学内でも有数の快挙を成し遂げてしまうことになる。
そしてシャープペンシルを机の上に置く音がひとつ。
その間、僅かに5分。
そうして残った時間を、長森をやっつける作戦を練ることに費やすといったペースで、今日の学校での日程は終了することになる。
――そうして半日は過ぎ、放課後の時間になる。
「それじゃ浩平。これからどこに遊びに行こうか?」
「そうだな。ひさびさに商店街なんてどうだ?」
「うんうん、いいね。じゃあ行こっか」
「ああ」
靴を履き替えて、ふたりは校舎をはなれる。
昼下がりの陽光が差し込んだ道の上を、仲睦まじく寄り添うように歩きながら。
浩平の冗談に、笑顔をもって応える瑞佳。
瑞佳の気遣いに照れ隠しなのか、冗談をもってはぐらかす浩平。
そんなふたりの姿。
本当はぴったりと息のあったふたり。
でも本人達は、それに気付いていない様子。
それとも、あえて気がつかないふりをしているのか。
遠いようで近い。でも近いようで遠い。
…友達以上。…恋人未満。
このふたりの幼なじみは、そんな微妙な関係なんだと感じさせる。
それは、このありふれた日々をいつまでも続けていくためにだろうか。
和やかに風のそよぐ、そんな情景のなか。
そんなふたりの跡を、つけていく物影がふたつとひとつ。
(……………)
ふたりの間に広がるイノセントな空間を見事にぶち壊しにしてくれるイレギュラーな少女、澪と。
「みゅー…」
そんな澪の後をついてゆく少女、繭。
繭の掌の上で踊るフェレット、みゅー。
(長森瑞佳…浩平君の隣の場所には、必ず私が立ってみせるの!!)
澪の瞳の奥をめらめらと炎が灯り出す。
そして澪は繭を連れ、浩平達のデートの追跡を開始した。
「昔は好奇心で色々な店に入ったりして商店街を探検していたよなぁ」
「なんだか懐かしいね」
「この店も、あの頃の姿のままか…懐かしいな」
「うんっ」
その景色に子供の頃を過ごしたのノスタルジックな情景を思い重ねながら、商店街をゆっくりと歩いていく浩平と長森。
「あっ、ねぇねぇ浩平。パタポ屋さんだよ?」
「それがどうかしたのか?」
「うん。ここのクレープがすごく美味しいんだよ。浩平も一度食べてみてよ」
長森はそう言って歩く足を止めると、ひとつの店の看板を指さす。
そこは商店街にある甘味処のひとつとして名高い店、パタポ屋。
風味豊かな味わいが自慢という生菓子を中心としたメニューで知られ、開店時間前からシャッターの前に並ぶ客足の姿が、この店の盛況な賑わいぶりを見事にあらわしている。
その中でも特に、生クリームをふんだんに使って作ったという特製のクレープが絶品だと評判であり、長森もこれを一口食べた時からそのクレープの味に魅せられて、いまではすっかりこの店の常連となっている。
「おい長森。オレは甘い物はあまり……」
「美味しいから浩平もきっと気に入ると思うよ。さぁわたしたちも店に入ろっ」
いつになく強引な長森にぐいぐいと背中を押され、浩平はしぶしぶ店の中に入ることになった。
「はむはむ…おいしいね浩平」
「ああ。そうだな」
そうしてふたりは買ったクレープを食べる。
元々甘い物好きではない浩平はクレープの味自体をそんなに気に入った様子はなかったが、その隣で幸せそうに舌鼓を打っている長森のそんな表情を見て、浩平はまぁいいか。と思うことにした。
「おいしそう……」
じゅるりと。
澪の立つ隣から、そんな繭の声がきこえてくる。
浩平達がクレープを食べているところを見て、自分も食べたくなったのか。
もともとの繭の持つ敏感な嗅覚も手伝って、彼女の心は辺りに漂うクレープの甘い匂いによって満たされていた。
そしてゆらりと。
繭の影が妖しく揺らいだ、その次の瞬間。
(…お子様? 待つのっ!)
澪のそんな制止の言葉も聞かずそのまま。
「みゅ〜〜〜〜っ♪」
繭はふたりの持つクレープを目がけて駆け出していった。
――そして。
「♪〜♪♪〜〜」
近くにある公園で、繭は浩平達におごってもらったクレープを嬉しそうに頬ばっていた。
「ははは。美味いか繭?」
「よかったね。繭ちゃん」
「みゅ〜っ♪」
浩平に頭を撫でられながら、繭は心からご満悦の様子。
一方そんな繭を見て、澪は大きく溜息をつくばかりであった。
「それにしても、商店街で会うなんて珍しいな澪」
(珍しくもなんでもないの。このお子様のせいで、せっかく作戦が台無しなの)
澪はせっかく立てていた作戦が台無しになったと、ひとりしょんぼりしていた。
「あっ、ねこさんだっ」
長森は公園の隅の方に置かれた段ボールの中に一匹の仔猫がいるのを見つけると、その仔猫のいるところに向かって走っていった。
「ねこーねこー」
そして長森は仔猫を両腕で抱きかかえると、そのまま胸元へと抱き寄せてよしよしと撫でてやる。
「お前は昔から猫が好きだったからなぁ」
「うんうんっ」
浩平の言葉に、長森は心から嬉しそうな表情をして答える。
彼女はよほど猫が好きなのだろう。
「よしよし。良い子良い子」
「にゃー…」
(…………)
澪は、そんな仔猫を可愛がる長森の姿を、どこか複雑な面もちで見ていた。
「よしよし…と。あれっ、わわわっ!」
ふと仔猫が長森の腕から無理やり離れようとして身体をのりだしてきた。
そのはずみで。
「きゃっ!?」
「お、おいっ!?」
長森は体のバランスを崩してしまい浩平を巻き込んで、そのままゴロゴロと数回転して。
「いたたたた……」
そうして仰向けに倒れ込んでしまった長森は、そのままじんじんと痛む箇所をゆっくりと手で押さえる。
「いってぇ……」
浩平も転がる直前に腰を打ったらしく、痛む腰を押さえながら満足に起きあがることができないでいた。
「にゃー」
「ひゃっ、くすぐったいよ〜」
そんな長森の顔を、ぺろぺろとなめてくる仔猫。
「…あれっ?」
加えて長森の胸のあたりに何かもぞもぞとした感覚があった。
長森はその部分に視線をのばすと…
「! 浩平っ。手が、手がっ」
「んっ?」
仰向けに倒れる長森の胸のふくらみの上には、浩平の手がこれみよがしに添えられていた。
「わ、悪りぃ長森。すぐに離れるからさ」
「うんっ」
そう言って浩平が手を離し身体を浮かせようとしたとき、痛む腰が軋みをあげ、その弾みで身体がバランスを崩し…
どさっ。
と。
浩平と長森は、さらに身体を密着させた体勢になるのだった。
「こ、浩平……」
「長森……」
制服ごしに伝わる、あたたかな体温と肌の感触。
互いの口もとに直に伝わる息づかい。
上気した顔。その表情。
それらが、いつものふたりであったはずの正常な思考を麻痺させていく。
「長森の心臓…どきどきって音がしてるぞ……」
「浩平の手……なんだかあったかい…かな?」
微かに吐息を洩らすように、浩平と瑞佳はそう言葉に呟く。
自分は何を言っているのだろう? と心に自問するも、しかしその体勢からふたりは離れることはなく、そのまましばらくの間が流れる。
そしてふたりは、互いを見つめあったまま……
(…こらーっ。公衆の面前で若いモンがふたりして何を羨ましいことをしているか〜〜なの!!!)
その様子を目の前で見ていた澪の怒号と共に。
どがああぁあぁあぁぁんんん・・・・・・・・・・・・
公園のそばに、地盤を裂き割るほどの巨大な雷光の一筋が落ちた。
「それじゃあ、またな」
「うんっ」
「みゅ〜っ♪」
『…またなの』
そして時刻は夕方になり、澪は浩平達に手をふって別れた。
さっき見た光景が目に焼き付いて放れないのか。澪は顔を真っ赤にしながら帰路につく。
しかしぶんぶんを首を振って。
(…長森瑞佳っ。やっぱりお前のことは大嫌いなの〜〜〜〜!!!)
沈みゆく夕暮れの空に向かって。
澪は拳を握りしめながら、打倒長森を新たにその胸に誓うのであった。