MIO 〜輝く季節へ〜
第7話 『降雨』




 ――降りしきる雨の日のことだった。

 朝が訪れたにも関わらず、太陽の陽差しは雲によって遮られていてあたりは薄暗い。
 普段は街にありふれているはずのすべての喧噪は、まるで空が時雨れるようなこの雨音のノイズによって静かにかき消されてゆく。

 そんな有音の静寂に閉ざされた世界。
 街路の片隅にある、長い年月を使われなくなった空き地。
 鬱蒼と草の伸び茂った誰もいないはずのその場所で、ピンク色の傘を広げてただひとり佇む少女。

 里村 茜。
 彼女の立つそこには、降りしきる雨に包まれたこの街並みの中でも、ひときわ別世界のような響きがあった。



「………」
 そこでしばらく瞑じていた目を、ゆっくりと彼女は開ける。

 彼女の開いたその瞳に表情はない。
 どこか虚ろな輝きをはらんだ彼女の瞳。
 けれどただ確かに、彼女はそこにある何かを見つめていた。

 その瞳は何を思い、何を見つめているのか。
 それを伺い知れる者は誰もなく、
 消えないこの雨の響きだけが、彼女のそんな思いをうつし出していた。

 …そう。
 ふとしてここに訪れた、ひとりの少年を除いては。



「こんな所でいったい、何をやっているんだ?」
 通学路の片隅で寂しげに佇む彼女の姿を見たからか、浩平はそう言って茜の立つ空き地の中へと足を踏み入れた。
 唐突に後ろからかけられたその声と足音に、茜はゆっくりと振り向く。
「……」
 が。
 それが誰であるのかが分かると、彼女は何も言わないまま、再び視線をもとに戻すのだった。

「…?」
 浩平はそんな茜の様子を見て、首を傾げる。
 しかし問いかけても何も答えないその少女の姿に何と声をかければいいものかと、彼は思いあぐねていた。

 沈黙が、流れる。
 ざあざあと、空より降り注ぐ雨の雫達がその音を鳴り響かせながら。
 そのしばらくとは、果たしてどれだけの間を続いていたことだろう。

 そして、しばらくが流れて。

「…待っているんです」
 ぽつりと。零れ落ちるような声でたったひとこと。
 彼女はそう言って小さく口に開いた。











 ――学校の校舎。

(…はぁ……)

 とぼとぼと。
 ゆらゆらと。
 その廊下には、がっくりと肩を落としながら力なく歩く澪の姿があった。
 そこからは、天下御免を信条とする澪の普段の元気な面影はどこにも感じられない。
 いつもの威勢がたち消えた彼女のそんな姿は、見ていてかえって痛々しくも感じられる。
 そんな彼女の周りにはうっすらと、どんよりとした雲のようなものが漂っていた。
 窓越しに降りつける雨は、いっこうに止む気配を見せなかった。

「みゅ〜…」
 澪の隣を歩く繭は、そんな澪の様子を心から心配そうにして見る。
「…おねえちゃん、大丈夫?」
(……………)
 繭のそんな呼びかけも耳に届いていないのか。
 澪はただ心の中でぶつぶつと呟きながら、この暗くどんよりとした廊下の中を歩いていた。

(ふふふ。川名みさき…ぶつぶつぶつ……)
 それは、敗北感とよばれるもの。
 この万年ノンストップ暴走娘が未だかつて味わうことのなかった感覚。
 昨日の放課後、屋上でみさきと浩平が仲睦まじく会話をしていたあの光景。
 それが、澪の脳裏から片時も離れてはくれなかった。
 あれから家に戻ったあと、机に向かって彼女は苦しんだ。
 どんなに頭を振って忘れようとしても、けしてその光景は消えてはくれずに、こうして今に至ってもその光景を引きずってしまっていた。



 …ここで我々が澪に向けて送りたい言葉。

 ざまーみろ。

 いやもとい、ここは何というべきか。
 そう。”かけるべき言葉が見つからない”とでもしておこう。








 ――昼休みの食堂。

(…まだ浩平君が来ていないなの)
 いつもは澪より先にここに到着し、購買部での壮絶な激戦から見事勝ち取った菓子パンを自慢げに口中にほおばっている浩平の姿があるはずなのに、今日は珍しくその浩平の姿が見あたらない。
 澪は辺りをきょろきょろと見渡すが浩平の姿はどこにも見つからず、椅子に座って浩平のことをしばらく待ってみるも一向に現れる様子がなかったので、澪は浩平をそれ以上待たずに食事をすることにした。

 そうしてみさきと席を向かい合わせての、三人だけの昼食は始まった。

「ぱくぱく」
 みさきは嬉しそうな表情で、大好物のカレーライスに舌鼓を打っている。
 無理のないマイペースをもってみさきは1枚、また1枚と。
 彼女は完食したカレーライスの白い皿を、テーブルの上に次々と重ねていく。
 今日もみさきは絶好調だった。

(うぅっ……)
 対して昨日の今日である。
 普段を自信に溢れて過ごしている者ほど、いったんその自信を喪失し落ち込んだときの反動が大きいということだろうか。
 澪はすっかり意気消沈し、しかも目の前には自信喪失の原因である張本人が座っている。
 そして浩平の姿が見えないことも手伝って、澪はますます落ち込んでいく一方であった。



「んっ、澪ちゃんどうしたの?」
 箸に手をつけず、ただじっと座っているだけの澪の様子を気にかけてか。
 みさきは澪にそう話しかける。

 …ふるふるふるふる。
 しかし澪はただ首を振るばかりで、みさきの声に耳を貸そうとはしない。
「…?」
 みさきはスプーンを口にくわえながら、きょとんとした目で澪の方を向いていた。

 えぐっ、えぐっ…
 じわじわと。澪の目尻に涙が溜まってゆく。
 澪に浩平を取られたようなショックを与えた人物。川名みさき。
 目の前にいるこの彼女のことが、とても憎いはずなのに…どういうことかそういう気になれない。
 握りしめるその手に力を篭めても、心に伝わるのは虚しさという名の響きのみ。

「澪ちゃん。ちゃんと食べないと、お昼からの元気が出てきてくれないよ?」
(……!!)
 みさきはそんな澪のことが心配になり、そっと言葉をかける。
 が。
 しかし、優しく気遣うその言葉が逆に引き金となって。

 だっっ。
 その場にいることが堪らなくなり、澪はテーブルにおいた自分の弁当をそのままにして、食堂の外へとひとり走り出していった。







(ふん…今の私の気持ちなんて、誰にも分からないの……)

 ――校舎の渡り廊下で。
 澪は校舎の外側で降りつける薄暗い雨の景色を眺めながら、ひとり泣いていた。

 …ひっくひっく。
 涙が、止まらなかった。

 おそらくは、ここまで涙を流したことなど今までになかったのだろう。
 そんな澪の心情に呼応するかのように、片時も止まることなく降り注ぐ雨。
 風にあおられた雨滴の粒が、涙する澪の身体をさらに冷たくぬらしていく。
 それでも澪は校舎の中に入ることなく、雲のかかった空の景色を力なく眺めながら、そこに立ち尽くしていた。

 そして澪の立つ渡り廊下の壁には、澪が打ちつけた拳によって破壊されたものの残骸が拡がっているのだった。



「あら澪ちゃん? そんなところで泣いたりして。どうしたの?」
 ふと聞こえてきたそんな声に澪は振り向くと、そこには驚いたような顔をしながら澪を見る七瀬が立っていた。







「そっか。あの折原のことがねえ」

 …うんうん。
 澪はぐじゅぐじゅと目から溢れる涙を手で擦りながら、七瀬に心のたけを話した。

「ふぅん。あいつもああ見えて、意外といろんな子にもてるのよねぇ」
 あさっての方向に視線を泳がせながら、七瀬はそう呟くように言った。
(…うーっ……)
 だからって、私のこの気持ちがおさまるわけじゃないの。と七瀬に納得のいかない視線を向ける澪。

「…でも、さ」
 しばらく考え込むような仕草をしたあと、七瀬はゆっくりと顔を上げて言った。

「そんな気持ちになった時に効く、魔法のおまじない。澪ちゃんは知ってる?」
(…?)
「辛くなった時、心が挫けそうになったりした時には、自分の心に向かってはっきりとこう言えばいいのよ」
 七瀬はそう言って澪の耳もとにそっと顔を寄せ、こう囁いた。

「『負けるな、がんばれ』ってね」

(………………!)
 その言葉によって。
 澪の心の中にあったわだかまりが、ひとつひとつ解けていく感じがした。
 氷解。という言葉が相応しいか。彼女の心を覆っていた苦しさの壁は、七瀬のそのひとことによって静かに消えていった。

「じゃあね澪ちゃん。また何かあった時も、うじうじと溜め込んでるんじゃないのよ?」
 そう言って七瀬は明るく手を振りながら、澪と別れる。







(ふふふふふ…これで私はもう大丈夫なの。浩平君のハートをつかみ取るために、私はやってやるの〜〜!!!)
 こうして澪は完全に自信を取り戻し、見事に復活を果たした。

 その爆音は強烈な光量を伴って。
 澪の身体からまるでバックドラフトの炎のように激しく燃え上がったオーラが、澪の服をぬらしていた水分を見る見るうちに蒸発させていく。
 その衝撃は大地を激しく揺らし、澪の立つその場所を震源地に高い震度の地震をマークしたと、その日の夕方のニュースで報じられることになる。

 気がつけば、今まで降り続けていた雨はすっかりと止んでいた。
 雲の切れ間からのぞく太陽は、辺りに笑みのような輝きをこぼしだす。
 そして澪は、力強い足取りで校舎の中へと入っていった。



 しかし我々はここでひとこと言いたい。
 …七瀬よ。君は今、世界すら滅ぼしかねないとんでもないことをしてしまったんだぞ?
 と。



【NEXT】

 


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