MIO 〜輝く季節へ〜
第6話 『先輩』




 ――秋風の凪ぐ、あたたかな昼下がり。

 空の上から晴れ晴れとした陽光が差し込む。
 木々の薫りに包まれ、風の流れに寄りそう落葉の景色。
 そうした風景のひとつひとつ。
 それらが人の心にぬくもりを浸透させていく。
 季節のそんな舞姿を見初めた者のゆえに。
 だからこそ人は、秋に向け様々な名前を刻みこみ、それぞれに思い抱いた心をあらわそうとするのかもしれない。
 そんなことを思わせる、ある日のこと。

 学食。そこでは人の想像を絶するような光景が展開されていた。

「もぐもぐもぐ…」
「先輩…よくそんなに食べられるよな…」
「そうかな? これくらい普通だと思うよ?」
「先輩の言う普通って、どれくらいだよ……」

 その手には銀色のスプーンをきらりと光らせて。
 みさきはいつもより「少しだけ」多めの食事をとっていた。
 言葉には、ただそれだけのことなのだが。

「だって、食欲の秋って言うじゃない?」
「食欲の秋にも限度があるだろ…」
 なにせ、彼女が食べているものの量が違うのだ。
 彼女の座るテーブルに積み上げられている皿の数は、すでに10や20ではない。
 カツカレーやスパゲティ、ハヤシライスや炒飯、エトセトラエトセトラ。
 この学食に数多あるバリエーションのメニューを彼女は既に一通り平らげてしまっており、加えて繭が大好きだからとついつい買いすぎてしまったハンバーガーまでをすべて完食してしまう始末。
 なおも彼女の食欲はとどまるところを知らず、みさきの食はただただ進むばかりであった。

「ほら先輩。口もとが汚れているぞ」
「あっ、ありがとう。浩平君」
 みさきの口元に広がる惨状を見てたまりかねた浩平が、そこをハンカチで拭う。
 そしてみさきはその一瞬だけ頬を紅く染めたかと思うと、その次の瞬間にはすでに食事を再開させていた。
 彼女の食べ物を口中に放り込むスピードは尋常ではなく、まるで一皿を一口で食べきってしまっているかのようだった。
 後に「手首のスナップがコツなんだよ」と本人は語るが、もちろん問題はそこではないということは、もはや言うまでもない。

「おかわりっ!」
 屈託なく、ただ純粋に。みさき先輩のおかわりコール。
 まったく翳りを感じさせない笑顔の表情から、彼女にはまだまだかなりの余裕を残していることが見て取れた。

「あ、ああ…いまからおかわりを買ってくるぞ……」
 浩平はみさきから食券を受け取ると、あきれ果てた表情でカウンターへと向かっていく。
(うっ…すごいを通り越して、呆れてしまうなの……)
 澪も唖然とした表情でそれを眺めていた。

 そうしてしばらくのあと。ついにカウンターの方から鍋の中身がすべて空になったという宣言が出され、周囲から遠巻きに見ていた生徒達から一斉に大きな拍手喝采が上がる。

「うー、まだ全然食べたりないのに…」
 恐ろしいことを口にする彼女。
 スプーンの先を軽く口にくわえて心底残念そうにみさきは呟く。
 そんな彼女の座る席の隣では、10枚づつに綴られ輪ゴムでひと括りにされた食券の束があった。
 まさか彼女は、これを全部使い切るつもりだったのだろうか。

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 …そしてみさきのこの大食い無敗伝説は、数十年の後に至るまで神話として多くに語り継がれることになるが、それはまた別の話………





 ――午後の授業が始まる。
 澪は教室の席でひたすらもだえ苦しんでいた。
(はぁはぁ…川名みさき。なんて物を見せてくれるなの……)

 みさきの大食いシーンを見せつけられた直後である。それで平常心で居続けろということこそ無理というものだろう。
 そんな澪のクラスメイト達の中にもあの光景を見た者がいたらしく、彼らも澪と同様にして身もだえている様子だった。
 彼女達は催す吐き気を抑えながら、ただ悶々とした状態で授業を受けていた。

「♪♪〜〜」
 一方繭は、澪のひとつ真後ろの席で、澪から借りたスケッチブックに鉛筆を使って絵を描いていた。
(はぁ、お子さまは楽しそうで良いなの……)
 澪は後ろを振り向きながら、そんなことを心にごちる。



 …繭が今なぜ、この教室の授業の中にいるのか。
 それは繭が「学校の授業を受けてみたい」と澪にせがんだことから始まった。
 澪に負けず劣らずの繭の押しの強さについに負け、澪は繭のために一肌脱ぐことになる。

 しかし本校指定の制服ともなると、そうそう簡単に手に入る物ではない。
 そこで澪は、彼女独自のルートを用いて制服を入手しようと試みた。
 ネットの回線をメインにして、そうした様々な入手経路を当たっていく…が、そんなに簡単に制服が見つかるはずもない。

 もうだめか、と澪が諦めキーボードから手を離しかけたとき。
 澪は住井護という1人の男の名前に行き当たる。
(・・・・・・・・)
 そして彼女は、裏のルートを使っての制服の入手をあっさりと断念するのであった。


 澪がそうして途方に暮れていると、浩平が「それならひとつ当てがある」と言う。
 それは他でもない。
 先日澪も出会った転校生、七瀬のことだった。

 浩平が七瀬に頼み込んだ末のこと。
 そうして無事に、繭のもとに制服が届けられることになるのだ。

「へえ。似合うじゃないか繭」
「よかったね、繭ちゃん」
(…我が妹分ながら、まぁまぁなの)
「みゅ〜っ♪」
 繭は制服に着替えると、浩平やみさき達の前でくるくるとはしゃぎ回っていた。
 澪も、珍しく妹分のそんな姿に胸をなで下ろす。

「あんたも最初からこの子に着せるために制服を貸してくれって言ってくれれば良かったのに」
「いや、ここは正攻法で行くとかえって逆効果だと思ったからな」
「はぁっ…相変わらずわけが分からないわね。あんたって」
 そんな溜息ムードの七瀬と言葉を交わす浩平の顔や腕には、無数の生傷や痣ができあがっていた。


 肝心の繭の籍については、澪があえて学校のデータベースその他を操作するまでもなかった。
 何故か誰もがそれを気にする風でもなく、繭は自然とクラスの中にとけ込んでしまっていたからだ。

 休み時間になると、クラスメイト達が繭の席の回りに集まったかと思いきや、一斉に質問ぜめがやってくる。
 それに対して繭はフェレットと共に終始みゅーみゅーと唸るばかりであったが、それでもクラスメイトからの評判は良く、繭は瞬く間にクラスの人気者となるのであった。





 ――そんなこんなで、放課後。
 澪が繭を連れながら浩平のいる教室へと向かっていると。

(…!!)
「わっ」
 廊下で澪は、不意に誰かにぶつかってしまう。

「うー、いたいよー」
 見ると、ぶつかって赤くなった口もとを両手で押さえるみさきがそこに立っていた。
(か、川名みさきだったの…)
 ぶつかった相手が他の人物であれば、誰も彼も構わず因縁をふっかける好戦的な澪だったが、相手が知り合いのみさきだと分かると。
(ごめんなの、ごめんなの)
 澪はそう口をパクパクさせながら何度もおじぎをしてみさきに謝る。
 しかし澪の声が出ないことが災いし、目の見えないみさきにうまく言葉を伝えることができない。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 その一方でみさきも、誰なのかも分からない相手に向かってただひたすら謝罪の言葉を繰り返していた。
「みゅ〜…」
「えっ、繭ちゃん?」
 そんなふたりの様子を見かねたのか繭がふと呟いた声によって、なんとか事情をみさきに伝えるきっかけが得られたようだ。
「…おねえちゃん」
 そう言って繭は、澪の制服の裾をぎゅっと掴む。
「えっ?…ということは、今ぶつかったのは澪ちゃんだったんだ」

「ごめんね澪ちゃん。痛かった?」
 相手が澪だと分かるとほっとしたのか、みさきは自分の痛みそっちのけで澪を気遣う言葉をかける。
 …知らぬが仏とはまさにこのこと。
 そう。彼女もまだ、澪の正体を知らないのだ。
 澪の悪魔のような本性を彼女が知ったとき、果たしてみさきはどうなってしまうのだろうか?
 それは、力を知っ………!!

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 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・

 ……若手スタッフの1人が彼女の口封じに遭いもとい、不慮の『事故』による救急車の出動要請と、廊下の一面にわたって広がる凄惨な光景への後始末により、実況が一時中断されてしまったことを深くお詫びしたい。



 気がつけばみさきは、澪に別れを告げ、校舎の屋上へ続く階段を上って行くところだった。
 澪は、そんなみさきに首を傾げ。
(こんな放課後の時間に屋上に行くなんて…いったい何があるのかなの?)
 その疑問に対する答えを知るべく、澪も屋上へと続く階段をかけ上っていくのだった。





 ――屋上に通じる扉の目の前までやってくる。
 みさきは既にこの扉の向こうにいるようだった。

(…………?)
 澪はゆっくりと扉を少しだけ開け、そろりそろりとその隙間からみさきの様子を覗き見る。
 そこには。
「今日は私の負けだね」
 みさきの姿と。そして。
「これでようやく通算初勝利といったところだな」
 その彼女の視線がむかう先に、浩平が立っていた。

(!!! な、な、な、な………)
 澪はその瞬間、血流が逆流したようなショックを受ける。
 しかし澪はすぐに浩平達に襲いかかるようなことはせず、自分を抑えてふたりの様子を静観することにした。

「それにしても、先輩は毎日ここに来ているのか?」
「うん。そうだよ」
「この場所にいったい何があるというんだ?」
「…それが、私にとっての……」
「えっ?」
「…私は目が見えないけど、その分私は心で想うんだ。この空の向こうにあるものって何だろう? わたしが子供の頃に思い描いたあの景色の向こうがわにあるもの…それはなんだろうって……」

 風はゆるやかに雲をそよがせて。
 雲はまるでカレイドスコープのように形を変え、見下ろす地上へとその模様を描きつつ。
 地平線に沈む太陽の放つそこはかな微熱は、そこに立つ者の抱いた想いを切なげに照らしてゆく。
 くれないの彩へと染まりゆく夕焼けの世界の境界線。
 屋上よりのぞむ空の彼方へと。
 そのまっすぐな心をもって、決してそらさぬ視線を真摯に向かわせながら。
 みさきはそう、呟くように口を紡いだ。

「…………」
「なんてね。うーん…こんなこと、自分で言ってて恥ずかしいかな」
 言ってみさきは照れくささに赤らめた頬を人差し指でかき、恥ずかしそうにしてうつむいた。
「…そっか。先輩は強いんだな」
「ううん。そんなことないよ」
(…………)
 澪も浩平と同じく、自分の背負ったハンデをものともしないみさきのそんな姿勢に、頭の上がらない思いでいた。



 ひゅうっ、と。
 唐突に屋上を一陣の風が掠めた。

「あっ」
「どうしたんだ先輩?」
「目にゴミが入っちゃった。なかなかとれないよ〜」
「しょうがないな。じゃあオレがとってやるよ。じっとしてな」
「うん…優しくとってね」
「どれどれ…」
 その風のために目にゴミが入ったらしく、ごしごしと目を擦るみさき。
 浩平はみさきの顔に自分の顔をそっと近づけ、涙目になったみさきの目に入ったゴミをゆっくりととってあげる。

(…ええいっ! そこ、私の浩平君になんてことをやらせるのっ!!!)
 怒髪点をつく。とは正にこのこと。
 それを見た澪の周りにオーラのようなものが漂う。
 彼女の髪は引力に反してゆらゆらと揺らめきだす。
 澪の怒りは、もはやレッドゾーンすれすれのところにまでやって来ていた。
 そこで。

「あら上月さん。こんなところで会うなんて珍しいわね」
 ふと澪の後ろから、そんな声が聞こえる。
 澪が振り向くとそこには、彼女が所属する演劇部の部長を務める三年生、深山雪見がいた。
 …間一髪。なんとかこの場の惨劇は免れることになった。

 川名みさき。君は本当に運がいい。





「ねえ上月さん。ここに長い黒髪の女の人が来なかった?」
(………)
「こう、いかにもぼーっとしていそうな感じの女の子なんだけど」
(………)
 雪見は澪に訊ねる。
 しかし澪は先ほど抱いた怒りのオーラを抑え込むために余念がなく、ただ息をはぁはぁと切らせるばかりで、雪見の質問に答えられるだけの余裕はなかった。

 そんな澪の様子を察したか、繭が澪の持つスケッチブックをすっと抜き取り、ぱらぱらとページをめくっていく。
「…このおねえちゃん?」
 そう言って繭は先ほどの授業中に描いたみさきの写生のところでめくる手を止め、それを雪見に見せる。
 その写生の出来映えは、コンテストに出展しても充分に通用するほどリアルに描き込まれていた。
 被写体の見事な構図。繊細さと力強さを併せもったタッチの妙。そして躍動感のある描写。
 そこにはすべてにおいて、一切の無駄や隙などというものは存在しなかった。

「…うんうん。この子」
 雪見はそれを見て、額から流れる冷汗を拭えぬまま、繭に対してただ無機的にこくこくと頷いていた。
「みさきおねえちゃんなら、あっちにいるよ?」
 そうして繭は、みさきのいる屋上の場所を指さす。

「そう、やっぱりここにいたんだ。ありがとう」
 雪見は勢い良く扉を開けて、みさきのいる場所へと向かっていった。





「みさき。そこにいるんでしょうー?」
 澪の覗く扉の向こうで。
 そこから雪見を交えた三人による会話の声が聞こえてくる。

「お願い浩平君。私のことはいないって言ってね…」
「あぁわかった。ここはオレの見事な話術で乗り切って見せるぞ」
 みさきは浩平の背中にぴったりとくっつくようにして、雪見から隠れる体勢になっている。
 そして浩平は自信ありげにそう言ってみさきに返事を返す。
「…あのねみさき。風になびいている髪でそこにいることくらい、ちゃんと分かるんだけど?」
「あっ…」
 みさきと浩平による(自称)パーフェクトな作戦はこうしてあっさりと崩れ落ちた。

「今日は、私と約束があるんじゃなかったの?」
「ごめんね。私うっかり忘れてたよ」
「まったく。そこにいる恋人さんと一緒にいられる時間が過ごせて嬉しいのはわかるけどね…」
「えっ…私と浩平君とはそういう関係じゃないんだよ〜」
「あらどうだか? 少なくともそっちの彼氏の方はまんざらでもないみたいよ?」
「…………」
「えっ、浩平君。どうしたの?」

 あたふたと両手を振りながら慌てるみさきの声に、頭をボリボリと掻きながら顔をわずかに紅潮させる浩平。
 そんな2人の様子に、呆れながらも温かい視線を向ける雪見の姿がそこにあった。

(…………っ!!)
 その三人の楽しげに会話する姿を見て。
 居たたまれなくなった澪は、繭をそのままにおいてひとり、階段を駆け下りていくのだった……



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